第259話 人類最強の大賢者
迷宮の通路に、規則正しい足音が響いていた。
石畳を踏みしめるその音は、慌てるでもなく、急ぐでもなく、ただ一定の間隔で続いている。
周囲に漂う湿った空気や、壁に刻まれた古い魔術紋様など、ラグナ・ゼタ・エルディナスの意識にはほとんど入っていなかった。
彼は、一人で迷宮を進んでいた。
深度ボーナス狙い。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……」
歩きながら、ラグナはふと足を止める。
耳に、かすかな違和感が引っかかった。
遠い。
だが、確かに聞こえた。
「……ワッッ……!」
迷宮の奥、遥か彼方から、空気を震わせるような大声。
叫びというには長く、咆哮というには間抜けな、しかし異様な音量を伴った声だった。
ラグナは眉をひそめ、視線を天井へと向ける。
「──誰だ? このバカデカい声は……?」
吐き捨てるような呟き。
声の主に対する関心は、驚くほど薄かった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、思考の端に何かが引っかかる。
だが、それはすぐに切り捨てられる。
「まあ、いい」
ラグナは小さく肩をすくめる。
「他の連中にかかずらっている場合じゃないからね」
その言葉どおり、彼の関心は再び迷宮へと戻る。
正確には──自分が、どれだけ効率的にこの迷宮を支配するかへと。
ラグナは静かに息を吐き、右手を胸の前に掲げた。
細く、しなやかな指。
その中指と親指に、魔力が集束していく。
空気が、微かに震えた。
「……”第二・第五の魔杖指”……」
低く、淡々とした詠唱。
そこに高揚も、躊躇もない。
「──"スナップ"。」
次の瞬間。
パチィィン、と乾いた音が迷宮に弾けた。
それはただの指鳴らしではなかった。
中指に込められた音波魔法が、不可聴域にまで達する超音波となって解き放たれる。
目には見えない衝撃が、迷宮の通路を、壁を、天井を、柱を、曲がり角を──
あらゆる構造物を舐めるように走り抜けていった。
同時に、親指に宿る魔力探知が起動する。
反響。歪み。戻ってくる魔力の波形。
それらが、瞬時に解析され、統合される。
ラグナの視界が、僅かに揺らいだ。
次の瞬間、彼の脳裏に──
迷宮のフロア構造が、立体的な像となって浮かび上がる。
曲がりくねった通路。
隠された広間。
行き止まりと、分岐。
そして──下層へと続く、最短の経路。
ラグナは、口元にわずかな笑みを浮かべた。
(──マリーダ教授の”迷宮組曲“は、領域内での迷宮探査系魔法をすべて封じる)
その思考は、冷静で、論理的だった。
(だが……音波魔法や、魔力探知魔法は違う)
直接「迷宮を探る」ための魔法ではない。
だからこそ、封じられない。
(複数の魔法を組み合わせれば、いくらでも"それっぽいもの"は作れる)
ラグナは、自分の才覚に酔うことなく、それを当然の帰結として受け止めていた。
(僕の"魔杖五指"なら、同時展開も、精密制御も可能)
脳裏の立体図をなぞるように、視線が動く。
(音波魔法で形を取り、探知魔法で補完する。擬似的な迷宮探索……)
小さく、鼻で笑う。
(こんな方法があるなんて、流石のマリーダ教授も想定外だろうね)
ラグナは再び歩き出した。
迷いのない足取りで、最短経路をなぞるように。
奇しくもその方法が、
彼が見下し、嫌悪し、「モブ」と断じた存在──
アルド・ラクシズが、ほぼ同時に辿り着いた解法と酷似していることを。
この時のラグナは、まだ知らない。
そして知った時、
それが彼の誇りを、どれほど深く傷つけることになるのかも。
◇◆◇
迷宮の通路を、ラグナ・ゼタ・エルディナスは軽い足取りで進んでいた。
石畳に響く靴音は規則正しく、焦りは一切ない。
その歩みは、まるでこの迷宮の構造すら掌握しきっているかのようだった。
「さーて……」
ラグナは、独り言のように口を開く。
だが、その声音には、はっきりとした余裕と、他者を見下す響きがあった。
「時間はまだまだ余裕はあるけど……とりあえず、予選はぶっちぎっておこうかな」
口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「──あのモブ野郎に、格の違いを教えてやらなきゃならないし」
思い浮かべるだけで、不快そうに眉が寄る。
アルド・ラクシズ。
名を思い出すだけで、胸の奥がざわつく存在。
「それに……」
ラグナは歩きながら、指先で顎をなぞる。
「颯太と天野さんも見ている事だし、かっこ悪い所は見せられないからね」
自分を見ている、友の視線。
期待。評価。称賛されるべき舞台。
それらを裏切るなど、"彼の世界"ではあり得ない。
「それに、この"ダンジョン・サバイバル"には……」
視線が、前方の暗がりを射抜く。
「モブ野郎以外にも、ルセ大生の中から、それなりの強敵も参加してる」
軽く肩をすくめる。
「面倒なのは……やはり、ザイード・ジュナザーンか」
その名を口にした瞬間、嘲るような笑みが浮かんだ。
「アイツは自分を特別な人間だと信じきっている、典型的な選民思想の持ち主……」
懐かしむように、鼻で笑う。
「"ラグヒス6"でも、多くのプレイヤーのヘイトを買った、嫌われキャラだからなぁ」
言葉だけ聞けば、冷静な分析のようにも聞こえる。
だが、その実──
自分自身もまた、同じ穴の狢であることには、微塵も気づいていない。
「──だが」
ラグナの表情が、わずかに引き締まる。
「ヤツの"豊穣神の加護"は、なかなかに厄介だ」
歩みは止めない。
だが、思考は確実に深くなる。
「この“ダンジョン・サバイバル”のイベントにおける……いわば“中ボス”的な存在だしね」
記憶の中のシナリオが、鮮明に蘇る。
「セディ達なら、万が一戦闘になったとしても、負けはしないとは思うが……」
一瞬、間を置き、顎に手を当てる。
「ザイードは、自分が負けそうになると"神林牙獣"を使って逃げてしまう」
面倒そうに、ため息をつく。
「予選会では完全に倒す事は出来ない敵キャラだから……本当に厄介なんだよね」
だが、次の瞬間。
その口調は、冷酷な確信へと変わる。
「ま、本戦で当たれば……僕が直々に叩き潰してやるさ」
その言葉に、迷いはなかった。
それが“当然の未来”であるかのように。
ラグナは、顎に手を当てたまま迷宮を進んでいく。
──その時だった。
音波感知によって拡張された知覚の奥。
遠くのフロアから、無機質な声が、はっきりと届く。
『ネームプレート破壊、クリア。ブリジット・チーム、10×2=20pt獲得』
一瞬、ラグナは意識を向けるだけだった。
だが──
『──ザイード・チーム、四名脱落。失格』
その言葉が届いた瞬間。
ラグナの足が、ピタリと止まった。
「──何ッ!?」
思わず、顔を上げる。
視線が、宙を泳ぐ。
「……バカな……ッ!?」
声が、僅かに震える。
「予選会の時点で……ザイードを……倒しただと……!?」
そして、理解が追いついた瞬間。
「しかも……ブリジットのチームが……!?」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
あり得ない。
あり得るはずがない。
自分の知っている“前世のゲームの知識”では、
ザイードは予選で脱落する存在ではない。
中ボスとして、何度も立ちはだかる存在のはずだった。
「……またか……」
歯を食いしばる。
「また、だ……ッ!!」
次の瞬間。
「間違いない……あのモブ野郎……」
拳が、震える。
「いや……"バグ野郎"……アルド・ラクシズの仕業だ……ッ!!」
怒りが、抑えきれず噴き出す。
「何故だ……!?何故、アイツは……!」
ラグナは、迷宮通路の壁に向かって拳の側面を叩きつけた。
ガンッ!!
鈍い音が、迷宮に反響する。
「何故、僕の知るシナリオを……悉く壊していく……!?」
肩が、小さく上下する。
怒りと焦燥が、入り混じる。
ラグナは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、もはや余裕はない。
あるのは、冷たく研ぎ澄まされた殺意、そして──
自覚すらしていない"嫉妬"だけだった。
「アルド・ラクシズ……」
名を呼ぶ声は、低く、粘つく。
「今に見ていろ……!」
拳を、強く握りしめる。
「貴様は……僕が排除してやる……ッ!!」
迷宮の先、深い暗がりを、睨み据える。
「この世界からなッ!!」
その宣言は、誓いであり、呪いだった。
ラグナの身体から、僅かに黒いモヤの様な魔力が立ち上る。
ラグナ・ゼタ・エルディナスは、知らない。
その憎悪こそが、彼自身を“破滅”へと導く最大のトリガーになることを。
◇◆◇
大理石の大広間は、異様なほど静まり返っていた。
天井は高く、円蓋の内側には古代神話を思わせる浮き彫りが刻まれている。
白亜の柱が等間隔に並び、その一本一本が人の背丈の何倍もある。
床も壁も、すべてが磨き抜かれた大理石で構成され、足音ひとつで反響が広がる空間だった。
コツ、コツ、コツ──。
その静寂を破るのは、ラグナ・ゼタ・エルディナスの足音だけ。
彼は無防備なほど自然な歩調で、広間の中央へと進んでいく。
その表情は、先程までの怒りを完全に押し殺した、冷え切った無表情だった。
(……来るな)
そう思った瞬間。
柱の影から、音もなく人影が現れる。
一人、二人、三人──
やがて、二十名ほどの挑戦者が、四方から広間を囲む形で姿を現した。
剣士、槍使い、重装戦士、術師。
いずれも、学内で名の知られた実力者ばかり。
軽口を叩く者はいない。
全員が、ラグナだけを見据えている。
張り詰めた空気の中、
一人の術師風の青年が、静かに口を開いた。
「……ラグナ・ゼタ・エルディナス」
その声は、震えてはいなかった。
「“統覇戦”を勝ち抜き、自分達の願いを叶えるために……」
周囲の仲間達が、武器を構え直す。
「最大の障害となるのは、貴方だ」
別の男が、強い語調で続けた。
「命の危険の無い予選会……“ダンジョン・サバイバル”の段階で……」
「全力で、貴方を打ち取らせてもらう!」
その宣言と共に、魔力が一斉に立ち上る。
詠唱が始まり、刃が鳴り、床に陣が描かれていく。
ラグナは、その光景を、ただ静かに眺めていた。
まるで、期待外れの舞台装置を見せられているかのように。
「……どうだ?」
挑戦者の一人が、強がるように声を張り上げる。
「いかに“大賢者王子”とはいえ……」
「これだけの人数に一斉にかかられては、ひとたまりもあるまいッ!!」
次の瞬間。
魔法が、矢のように放たれる。
剣士達が、同時に踏み込む。
だが──
ラグナは、微動だにしなかった。
ただ、氷のように冷たい声で、呟く。
「──退け。」
その一言に、感情は無い。
「僕は今……機嫌が悪いんだ。」
胸の前で、ラグナは両手を持ち上げた。
左右の五指と五指を、静かに合わせる。
その仕草は、あまりにも簡潔で、祈りにも似て。
あまりにも美しかった。
「“魔杖指”……」
空間が、軋む。
「“十戒”。」
次の瞬間。
十指に込められた魔力が、寸分違わず同時に炸裂する。
───カッッッ!!!
光が──爆発した。
眩い、白でも黒でもない、
“概念そのもの”を焼き付けるような光。
魔法陣が意味を失い、剣が砕け、声が掻き消える。
何が起きているのか、誰にも分からない。
ただ、分かるのは──
“抗うという選択肢が、この場から消えた”という事実だけだった。
光に飲まれる直前、
ある挑戦者の脳裏に、絶望的な理解が走る。
(……違う)
(俺達は、勘違いをしていた)
(“命の危険が無いから、安心して挑める”?)
(違う……)
(この怪物に敗れるという事は……)
(死よりも……深い“恐怖”を刻まれるという事だ……)
叫ぶ暇もない。
光が収まり──
広間には、沈黙が戻った。
そこに残っていたのは、二十名分の、黒い“染み”。
大理石の壁に、床に、人の形をした、焼き付いた痕跡。
『ネームプレート破壊、クリア。ラグナ・チーム、10×20=200pt獲得』
『──アレイン・チーム、四名脱落。失格』
『──ヴァルド・チーム、四名脱落。失格』
『──……』
無機質なアナウンスが流れる。
黒い染みは、バシュウウウン……と音を立て、消えていった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
ラグナは、アナウンスに一瞥もくれない。
ただ、袖を軽く払うような仕草で、歩き出す。
「……さて」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「憂さ晴らしも済んだことだし……行くとしようか」
コツ、コツ、と足音が響く。
彼の背中は、王子のそれではない。
英雄でもない。
ただ──
“世界をゲームとして見下ろす者”の、孤独な背中だった。
その先に待つのが、
破滅か、勝利か、あるいは──
自分より"理不尽な存在"との邂逅であることも知らずに。
ラグナ・ゼタ・エルディナスは、迷宮の奥へと消えていった。




