第25話 咆哮竜ザグリュナ
生まれたのは、灼熱の火山の中だった。
地の底でうごめく紅蓮のマグマ。
空を裂く雷。
そして、崖を揺るがすほどの風。
それらすべてを孕んだ、竜の営巣地。
種としての竜が、自らの子孫を産み落とす“聖域”にて——
ひときわ異質な卵が、殻を割った。
黒。
そして、銀。
その鱗は、他の竜のいずれにも似ていなかった。
六本の脚。
鈍くうなる、喉の奥から這い出るような咆哮。
幼い竜たちが、ぷくりと産声を上げて空に手を伸ばす中——
たった一匹。
その“異形”だけが、周囲から明確に「異なる」と感じさせていた。
ザグリュナ。
後にそう名づけられるこの竜は、誕生の瞬間から"拒絶"を宿していた。
『……あれ、何?』
『なんか、ちがくない……?』
『足、六本……? きもちわるい……』
母竜は、何も言わなかった。
ただ黙って、視線を逸らした。
兄弟竜たちは、ぎこちない尾の動きで距離を取りながら、
その存在を“本能的に”避け始めていた。
だが、幼きザグリュナは、それを理解できなかった。
理解できるはずがなかった。
ただ寂しかった。
ただ、誰かに近づきたかった。
『まって、いかないで……』
心の中に浮かんだその願いが、咆哮となって洩れ出る。
ふわり。
兄弟竜たちの動きが、止まった。
母竜の羽ばたきも、ぴたりと止まった。
ザグリュナが鳴いた途端、全ての竜が、一切の表情を失ったかのように——
無言で、その言葉通りに振る舞い始めた。
兄弟が、引き返してくる。
母竜が、近くへ降り立つ。
嬉しかった。
心が温かくなった。
けれど——その笑顔が、目に入った瞬間。
ザグリュナは、ようやく気づいた。
誰も、“自分の意志”では動いていないということに。
目は虚ろで。
表情はない。
まるで、糸で操られた人形。
自分が欲しかったものは、こんなものじゃなかった。
温かさでも、優しさでもない。
“心”がほしかった。
ただ、自分の声で、相手の心が動いてほしかった。
『……もう、いいよ』
小さな声で、ザグリュナは言った。
『自由にしていいよ。──ばいばい』
その言葉と共に、咆哮が消えた。
糸が切れたように、兄弟たちは一斉に空へと飛び立った。
母竜も、言葉を交わすことなく、遠くへと姿を消した。
……残されたのは、ひとりきりのザグリュナ。
その目から、大粒の涙がこぼれていた。
“ああ、あたしはきっと、家族といてはいけないんだ”
その時、確かにそう思った。
この力が、世界をゆがめるのなら——
自分が、去るしかない。
そして、幼き竜は、翼を広げた。
誰もいない空へ。誰も待たない場所へ。
長き孤独の始まりを告げる、最初の旅だった。
——それが、千年前。
咆哮竜ザグリュナの始まりの物語。
◇◆◇
砂が、風に流れていく。
地平線の果てまで、何もない大地。
ただ吹き荒ぶ風と、焼けつくような陽光と、夜になれば凍てつく冷気だけが支配する世界。
そこに、たったひとつの影があった。
黒と銀の鱗に覆われた、異形の竜。
六本の足で大地を踏みしめ、その姿は大地の女王たる威厳と孤独を背負っていた。
ザグリュナ。
竜の名を持つ、孤独な存在。
フォルティア荒野。
あまりにも何もないこの地は、誰も近寄らず、誰も求めず、誰も支配できなかった。
ザグリュナがこの地を選んだのは——他でもない。
ここには、“誰もいない”からだ。
誰かと共にあろうとすれば、“咆哮”がすべてを壊す。
ただ一言、鳴くだけで。
他者の意思が消える。
他者の心が、命が、自分の言葉に従ってしまう。
それは、命令を聞いてくれる優しさではない。
抗えない、支配だった。
だから、彼女は誰にも近づかなかった。
望まなかった。
それが、自分の罪だと思ったから。
鳴かず。笑わず。
ただ、黙って、空を見上げていた。
夜空の星たちは、何も言わずに瞬いていた。
何も求めず、何も与えない存在。
——ああ、自分も、ああなれたら。
そんな風に思いながら、何百年も……彼女は、眠って、起きて、空を見て、また眠った。
季節が巡り、世界が変わり、帝国が現れ、王国が生まれ、そして滅びていっても。
ザグリュナの孤独だけは、変わらなかった。
——それは、予想していなかった季節のことだった。
ザグリュナは人間の姿をとっていた。
金茶の長い髪、褐色の肌に小柄な肢体、
変身術を覚えてから、何度か人間の町を巡ったことはあった。
……寂しかったのだ。
獣たちは彼女の気配に恐れ、草木すら風のように遠ざかっていく。
ならばせめて——人の言葉が飛び交う町の空気を、少しだけ吸ってみたくなった。
けれど、長くは居られない。
不用意に言葉を交わせば、彼らの目が濁る。笑顔が消える。意思が消える。
それは、もう何度も味わってきたことだった。
「どうせ、また同じ……」
そう呟いて、去ろうとした——そのときだった。
「お前、独り?」
声がした。
なぜか、真正面から。
気づかぬうちに近寄られたことに驚いた。
けれど、もっと驚いたのは——その男の顔だった。
……怖れていない。
むしろ、どこか楽しげに、彼女の目を覗きこんでいた。
その瞳の中に、支配される気配はなかった。
誰にも見せなかった“咆哮”を、彼は……完全に受け流していた。
「なんで……?」
不意に、声が漏れた。
「近寄らない方がいいよ。……あたし、そういう存在だから」
彼は、肩をすくめて笑った。
「ふーん。じゃあ、近寄らなきゃいいのか。……でも、話すだけなら、いいだろ?」
その軽さに、少しだけ、心が揺れた。
初めてだった。
自分の“言葉”が、誰かを壊さなかった瞬間。
初めは鬱陶しかった。
いくら冷たくあしらっても、しつこく話しかけてくるその男。
彼は、聞いてもいないのに、いろんなことを喋っていた。
料理のこと、町のこと、魔法の話、好きな色、好きな音。
自分の"趣味"を理解してくれる友達がいない。
仕事仲間も、自分が声をかけても誰も返事してくれない。俺、嫌われてるのかな?
そんな自虐を交えながら。
意味も脈絡もなかったけど、それがなんだか——楽しかった。
そして、別れ際。
彼は、小さな袋を渡してきた。
袋の中には、小さな黒いマスクが入っていた。
それは、彼女の“咆哮”を封じる魔具。
「自分の力を、過度に恐れるな」
「いつか、お前を優しく抱きしめてくれるヤツが、空からでも降ってくるさ。俺には分かる。」
そう言って、彼は笑って、手を振って、去っていった。
ザグリュナは、しばらくその場を動けなかった。
喉が熱かった。
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられるようだった。
怖かった。
そいつに甘えてしまいそうな自分が、怖かった。
生まれて初めて、
『友だちになれたかもしれない相手』。
「……バイバイ。ありがと」
その言葉を、彼には聞こえないように呟いて。
彼女は再び、荒野へと帰っていった。
——それが、彼女のたったひとつの、“黒歴史”。
誰にも言えない後悔。
もう少し、大人だったら。
もう少し、素直だったら。
あいつに、ちゃんと「ありがとう」って言えたのに。
◇◆◇
——フォルティア荒野。
その名を聞けば、周辺のどの国の者も、まず顔を曇らせる。
かの地に潜む“咆哮竜ザグリュナ”の存在を知らぬ者などいなかった。
だが、その竜を見たことがある者は、ごくわずか。
なぜなら、彼女が“咆えれば”、誰も戦うことすらできずに帰されるからだ。
『帰れ』
ただ、その一言。
それだけで、数万の軍勢が踵を返す。
その咆哮は、心を縛り、魂の自由を奪う。
名将たちは「まるで夢を見ていたようだった」と語り、誰も彼女と刃を交えた者はいなかった。
だが——それは、“勝利”ではなかった。
ザグリュナは、戦いたかったわけではない。
守りたかったわけでもない。
ただ——独りで居たかった。
誰とも関わらずに、誰の声も聞かずに、自分を見失わずに生きていたかった。
だが皮肉なことに、力とは、孤独を連れてくる。
誰も近づかない。誰も、自分を“対等な存在”として扱わない。
言葉を交わせば、皆、自分の命令に従ってしまう。
誰も、自分の意志で側にいてくれない。
だから——ザグリュナは、吠えた。
それが、拒絶であると同時に、助けを求める声だと、誰にも気づかれないまま。
千年の孤独は、冷たい風よりも凍みた。
竜の身体は老いずとも、心だけが擦り切れていった。
だから、あのとき。
フォルティア荒野の奥深く。
風と砂の舞う峡谷の中で。
“それ”と、出会った。
ザグリュナは、最初、あの少女のことを“よくいる侵略者”だと思った。
周辺国の貴族だろう。追放されたか、あるいは野心を持ったか。
新たに“領土”を得ようと、この地にやってきたのだろう。
ふん——いつものことだ。
ならば、脅して帰らせる。それで済む。
ただ一言——咆えれば、それで終わる。
『我を恐れよ。帰れ。』
谷間に響いたその咆哮が、少女と従者の耳に届いた。
その瞬間。
少女の従者達は一目散に逃げ出していく。
少女の瞳が、震えた。
身体がわなわなと震えていた。
だが——逃げなかった。
崩れそうな足元を、必死に踏ん張りながら。
唇を噛み締め、涙をこらえながら。
それでも、彼女はザグリュナを見上げていた。
「あたしは……この土地の領主になるんだから……!」
かすれた声で、それでも。
ザグリュナに負けじと声を張った、金髪の少女。
……何も持っていなかった。
剣も、魔法も、軍も、名誉も、力も——
ただ一つ、“毒無効”という、役に立たない祝福だけ。
だがその少女は、立ち止まらなかった。
力ではないものを信じて、進もうとしていた。
ザグリュナの心に、小さなひびが入った。
この少女には、自分の“咆哮”が、効いていない。
(……なんで……?)
それは、咆哮による洗脳効果を、少女の肉体が"毒"と認識した事による、小さな奇跡だった。
困惑のなかで、胸がざわついた。
久しく感じたことのなかった、ざわめき。
でも、それだけなら、まだよかった。
そのあと、もっと衝撃的な出来事が——文字通り、空から落ちてきたのだった。
ゴゴゴ……ッと、空気が震えた次の瞬間。
空から、白銀の閃光が降ってきた。
地面を割り、砂を巻き上げ、轟音を響かせて。
……銀色の髪を持つ少年が、空から落ちてきたのだ。
ただ者ではない。魔力の揺らぎは全く感じないのに、地面に突き刺さる程の落下に対し、彼は無傷だった。
ザグリュナは一歩後ずさり、反射的に小さなブレスを吐いた。
……警告のつもりだった。
吹き飛ばす気も、焼き払う気もなかった。
だが——
そのブレスを、少女が庇った。
「……っ!」
焼け焦げた衣。吹き飛び、倒れ込む少女。
あまりにも脆く、あまりにも小さい命。
(あ……)
しまった、と。思った。
その瞬間——
銀髪の少年が、顔を上げた。
目が、合った。
——見ただけでわかった。
その存在は、1000年の時を生きる竜である自分すら圧する、“なにか”だった。
少年の瞳の奥で、何かが揺らいだ。
その瞬間、世界が揺らいだ。
生まれて1000年、感じた事のない、圧倒的な力。
その力の主の怒りが、自分に向いている。
ザグリュナは心の底から震え上がった。
自分の命はここで終わるのだ。
孤独で、何の価値も無い、この一生が。
しかし、彼は——鉾を収めた。
「そもそも悪いのは俺か。ナワバリに落っこちてきて、ビビらせて、怒らせて……ほんと、ごめんな」
優しい声だった。
あまりにも、優しすぎて。
そのあと——ザグリュナは見ていた。
自分の血を、自らの腕に流し、それを少女に分け与える少年の姿を。
その血が、光った瞬間。
ザグリュナは、確信した。
(この人……“真祖竜”だ……!)
何百年と伝承にしかなかった存在。
世界の理を覆す、神にも等しき竜の始祖。
その少年が、自分の“敵”ではなかった。
むしろ、初めて——“自分を受け入れてくれそうな存在”に見えた。
だから、ザグリュナは、勇気を振り絞った。
この時、千年の孤独を破って。
ほんの、ひとことを——彼に、話しかけてみたのだった。
その時から、世界は、少しずつ——優しく、変わっていった。
◇◆◇
——それは、ただの一言だった。
ザグリュナが人の姿へと変化した姿を見て、銀髪の少年——アルドは、ちょっと照れた様な顔で言ったのだ。
「その姿、すごく……可愛いと思う、うん……」
その言葉に、咄嗟に返す言葉は出なかった。
ザグリュナの心に、ひゅるりと冷たい風が通り抜けるような、不思議な沈黙。
だがその直後、ぶわっと全身が熱くなった。
……今まで、「怖い」とか「気味悪い」とか、そんな風に見られてばかりだった。
でもこの少年は、驚きもせず、怯えもせず——少しだけ照れながら、笑ってくれた。
ザグリュナ——いや、今の名前である“リュナ”にとって、それは生まれて初めての感覚だった。
力に屈して命乞いをされるでもなく、恐れられて避けられるでもない。
ただ、言葉を交わすという行為。
それが、どれだけ温かくて、どれだけ……満たされるものなのか。
ブリジットの傷が癒え、再び立ち上がった日。
リュナは、いつの間にか当たり前のようにその隣に立っていた。
「リュナちゃん、その髪の色すごくきれい!」
「……へっ、ありがとっす!」
あの時、命を奪いかけたはずの少女が。
自分の姿を見てもなお、笑ってくれた。
その眼差しには、恐れも警戒もなかった。
アルドはと言えば、毎日自分にご飯を作ってくれるし、時々ワガママを言っても「しょうがないなあ」と笑ってくれる。
何を言っても、何をしても、怒らない。
いや……きっと、本気で怒らせたらこの世界の誰よりも怖い。
でも、ちゃんと話せばきっと許してくれる。
——それが、どれだけ救いだったか。
(……これが、きっと“家族”ってやつなんかな)
孤独に生きて、支配者として恐れられて。
でも今、自分は誰かと一緒に笑えている。
咆哮も、牙も、翼も、腕も使わずに——ただ、ここにいていいと、思える。
それが、何よりの宝物だった。
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闘技場の空気は、変わっていた。
黒い翼を広げ、竜の腕を背に立つ少女——リュナ。
怒りと、決意と、覚悟をその身に宿しながら、彼女は戦場の中心に立っていた。
(あーしは、もう誰かを“従わせる”だけの存在じゃない)
(あーしは、あの二人みたいに……誰かと“並んで歩ける”存在になりたいんすよ)
静かに、足を踏み出す。
地面を揺らさぬ一歩だった。
けれど、その一歩に宿るものは——千年の孤独を超えて、たどり着いた“選択”だった。
──だったのだが。
「………だけど!!それはそれとして!!」
「……兄さんと姉さんが"可愛い"っつってくれた、あーしのこの姿を……言うに事欠いて"アバズレ"呼ばわりした、そこの平面顔のイヌっコロ……!!」
「─── テメーは……ガチでブチのめす!!」
リュナのマスク越しの"咆哮"が、地下の闘技場に響き渡った。