第24話 黒き翼!リュナ、怒りの大変身
──静寂だった。
地鳴りも、咆哮もない。
だが、緊張だけが肌を刺すように漂っていた。
フェンリルの里の地下施設"試練の闘技場"。天井の見えぬ空洞の中、地鳴りのように広がる獣の気配。
円形の広場の中心に、ひとりの少女が立つ。
黒マスクに、褐色の肌。金茶色の長髪が、地下から吹き上げる風にふわりと舞う。
リュナ。
かつて“咆哮竜ザグリュナ”として恐れられた存在は、今やただの黒ギャル姿で、フェンリル百の牙と対峙していた。
戦場は、スキル効果を封じるフェンリル達の地下"試練の闘技場(ドッグラン風)"。
──咆哮は、使えない。
"ザグリュナ"として爪牙を振るえば、フェンリル達を引き裂く事など容易いだろう。
──でも、自分が貰った優しさを、少しでも真似てみたかった。
「……さて。どう《《手ぇ抜くか》》、っすね」
誰にも聞こえぬよう、マスクの下で呟いた。
吠えることなく、獣たちは一斉に跳んだ。
黒、白、灰、茶。四足の獣(犬)たちが地を蹴り、牙を剥いて迫る。
その全てが、巨大な犬型のフェンリル。
だが、その姿の可愛さなど一切関係ない。五メートルを超える巨体に、生まれつきの戦闘本能。
「——っふ」
リュナが、微かに息を吐いた。
そのまま、最初の一体の鼻面めがけて足を振る。
カッ!
回し蹴り。右脚がしなるように振り抜かれ、フェンリルの鼻面にクリーンヒット。
「キャインッ!!」
重厚な肉体が地を転がり、尻尾を巻いて仰向けに倒れる。
即座に、二体目が斜め後方から飛びかかる。
リュナは振り返らない。むしろその場で膝を折り、低い体勢からの後ろ回し蹴り。
「キャンッ!!」
獣は横に弾かれ、転がり、岩壁にぶつかってずるりと崩れた。
三体目。四体目。五体目——
蹴り。蹴り。また蹴り。
全て鼻面。全て急所を外し、しかし痛みは最大限。
涙目になったフェンリルたちは、鼻を押さえながらごろごろと転がり、口々に「ひゃいぃ」「にゃいぃぃ」と呻く。
リュナの足は、風のように軽やかで。
それでいて、山をも砕くほどに鋭く。
そして、何より——誰も、死んでいなかった。
「……っし。次、ラスト一周っすよ〜」
軽く腕を回しながら、リュナは走り出す。
地面を蹴って、壁に。垂直に登る。天井へ向かうかと思わせて、そこから円を描くように壁面を疾走。
——地下闘技場の“円”を使った高速移動。
フェンリルたちの意識が、走るリュナに集中する。
「追え!逃がすな!」
グェルの号令と共に、残った90匹以上のフェンリル達が、一斉に跳ぶ。走る。吠える。
壁の上に、多数の足音が響く。
フェンリル達がリュナを追い、闘技場の壁沿いに輪を作る。
そしてそのすべてを引きつけきった瞬間——
リュナは、跳んだ。
高く。深く。軽やかに。
まるで舞う蝶のように。
「中央だ!逃すな!」
司令塔であるグェルの号令で、フェンリル達が一斉に闘技場中央のリュナ向けて飛びかかる。
「——あいよっと」
両手を地面につけて、カポエラのような回転姿勢。
その脚が、回る。回る。回る!
竜巻のように広がる蹴撃の嵐。
空中にいたフェンリルたちが、次々と巻き込まれ、鼻面を蹴られ、宙を舞い、地面に落ち、転がる。
「キャインッ!!」「ふぎゃんっ!」「ひぃぃいいぃっ!!」
嵐が過ぎたあと——
地に倒れた数十のフェンリルが、全員鼻を押さえ、目に涙を浮かべ、腹を見せていた。
——生きている。
だが、誰ひとりリュナに近づけない。
(……はー、“咆哮”無しでこの数とか、マジめんど……)
呟きの温度は低いが、確かな疲労感が滲んでいた。
殺さず倒す。
痛みだけを与え、心を折る。
それがどれほど面倒な行為か、本人だけが知っている。
リュナは、無表情のまま、じっと立ち尽くしていた。
そしてこの時点で、グェルもまた悟っていた。
——「ただの人間」ではない。
◇◆◇
鼻を押さえて転がるフェンリルたちを横目に、リュナはひとつ、長く息を吐いた。
「はー……手加減って、マジメンディーっすね……」
地面に手をついて、スッと立ち上がる。
蹴り飛ばしたフェンリルは全員、気絶もせずに地面を転げまわっている程度。
いわゆる“ノックアウト寸前”の見事な手加減だった。
(……このあーしが、ほんとにこんな戦い方するようになるとは、ね。)
肩をすくめながら、ふと目を伏せた。
脳裏に、アルドの姿がよぎる。神にも近しい圧倒的な力を持ちながらも、穏やかで、優しい笑顔。
『なるべく、フェンリルたちを殺さないであげて』
そう言った彼の声が、確かに、胸の奥に残っていた。
思い出すのは、ブリジットの瞳。自分のブレスで瀕死になりかけた少女が、それでも笑って、こう言った。
『ありがとう、リュナちゃん』
敵だったはずの自分を“ちゃん”付けで呼び、無条件で受け入れてくれた人。
かつて、自分が世界の敵としてしか扱われなかったあの時代とは——あまりに違っていた。
(……やっぱ、変わってきてんのかもな、あーしも)
優しさなんて、爪も牙もない“弱さ”だと思っていた。
だが今は——そうじゃないと思う。
優しさは、誇れる“強さ”だ。少なくとも、あの二人に出会って、そう信じたくなった。
リュナは静かに顔を上げ、グェルに向けて足を踏み出す。
「なー、もうわかったっしょ?
あんたらじゃ、あーしには勝てないって」
その言葉は、傲慢でも威圧でもなく、ただ“事実”として放たれた。
大気が静まり返る中、リュナの言葉はまっすぐに響いた。
◇◆◇
「ぐ、ぐぬぅ……!」
獣のような低い唸り声が、グェルの喉から漏れた。
唇の端が引き攣り、しわくちゃの額がさらに倍に寄る。
全身から「くやしさ」が滲み出ている。だが、フェンリル王族たる彼のプライドが、まだ言葉を吐かせた。
「確かに……確かに貴様、ただのアバズレではないようだな……!」
「そーそー、あーしはただのアバズレじゃなくて……って……………あ?」
一瞬、リュナの返しも自然だった。
だが、その語尾が消える寸前——彼女の顔が、ピクリと動いた。
マスクの奥で、何かがカチリと音を立てて切り替わる。
「……あば……あば……?
──テメ、今、なんつった?」
ぞわり、と空気が揺れた。
冗談のような空気が、一瞬で冷気に変わっていく。
だが、グェルはそれに気づかない。
気高く胸を張り、語気を強めながら——むしろ、誇らしげに言葉を続けた。
「なに、知らんのか?アバズレとはだな、貴様のように……厚かましくも、やたら布面積が小さすぎる衣装を着て、肌を無駄に露出し、恥知らずにも外をフラフラと徘徊する女子のことを言う!」
鼻息は荒く、目は輝き、態度はどこまでも堂々。
「我々の“ペット”になるからには、
そのような頭も貞操観念もユルそうな装いは、
断じて認められん!(注:グェルの偏見です)」
黒マスクの下のリュナの口元が、怒りでピクピクと痙攣していた。
それでもグェルは構わず続ける。
「よろしいか! 我らフェンリルが求めるペット像とは——白いワンピースに麦わら帽子、そして肩からは麻のトートバッグ!」
「家庭菜園で収穫したラディッシュを持って、犬の散歩を楽しみながら、清楚に微笑む“癒し系日常ヒロイン”なのだ!!」
言い終えた瞬間、グェルはドヤ顔で胸を張る。
だが、その周囲では——
「……また始まったぞ、グェル隊長の“癖”が……」
「この前も言ってたよな、『ペットにする女子なら、花柄のエプロンこそ至高』って……」
「『あざといロングスカート系女子』が理想とか、戦闘会議で語ってたよな……」
「いや、普通に引くわ……」
ざわ……ざわ……
明らかに空気が引いている。
いや、正確には、フェンリルたちの大半が“そっと心の距離を置いている”。
そんな周囲の空気に気づくはずもなく、グェルはまだ自分のペースに酔いしれていた。
その中で——唯一、完全に違う“沈黙”に包まれていた存在があった。
リュナである。
その金茶の瞳が、じわじわと見開かれていく。
瞳孔が細り、爬虫類の様な鋭さが増していく。
こめかみが震え、空気がびりっと裂けたように感じられる。
ピキ……ピキピキ……!
背景に、『!?』というマークが浮かびそうなほど、リュナは無言のままキレていた。
やがて、言葉にならない吐息とともに——
「……おい、もう一回言ってみろコラ」
その一言で、場の空気が完全に凍った。
全身を緩やかに緊張させながらも、その身体は微動だにせず。
黒マスクの奥の口元、表情は仮面のように固く、読み取れない。
だが。
……ほんの僅かに、動いた。
ギギギ……と、機械の軋むような、いや、怒りが無理やり口元を引き上げたような、そんな笑み。
黒マスクの奥。口角が、ゆっくりと、だが確実に吊り上がっていく。
それは——笑顔ではなかった。
明らかに“怒り”の中で浮かぶ、沈黙の牙。
そしてその時、リュナの胸の奥に、ある言葉が灯のようにともる。
アルドの声だった。
『いいと思う!そのままの君でいて!』
——あの時、自分のこの姿を否定せず、まっすぐに肯定してくれた、あの声。
『その姿、すごく……可愛いと思う、うん……』
恥ずかしいほどストレートな言葉なのに、それが胸の奥にすっと入ってきて、あたたかかった。
……それが、自分にとって、どれだけ救いだったか。
——それを、今、この場で踏みにじったやつがいる。
平然と、勝手な理想像を押し付けて、“あたし”を否定して。
その思いが、臨界点を超えた。
「……あーしの、この格好の“布面積が小さすぎる”って……?」
声は、低い。静か。
だが、その中には刃のような怒気がひそんでいた。
「……じゃあ、お望み通り——“デカく”してやんよ」
その瞬間。
空気が、震えた。
地面が、ほんの少し、低く唸った。
リュナが纏っていた、鱗ラメのミニスカボディスーツ。
それが、音もなく——変質し始める。
まるで生き物のように、背中の鱗が波打ち、せり上がり、膨張する。
それは“服”ではなかった。
肉体でもない、魔力でもない。
あらゆる要素の境界を曖昧にした、“変身する鱗”。
魔と竜と少女の意思が重なった、唯一無二の変貌。
——ばさっ。
音が遅れて空間に響いた。
暗く黒い翼が、闇を切り裂くように展開される。
滑らかに広がったその羽ばたきは、風の衝撃を伴い、辺りの砂を一斉に巻き上げた。
そして、更にスーツの背面から——
重く、力強い、2本の巨大な黒竜の腕が滑るように突き出す。
鱗に覆われ、しなやかで、圧倒的な存在感を放つ“魔竜の六肢”の残り二つ。
人と竜の形を持ち合わせた、異形の姿。
そのシルエットは、まさに——“黒の竜人”。
「…………」
沈黙の中、フェンリルたちが、一斉に言葉を失った。
誰も、咆哮を上げない。
誰も、飛びかかろうとしない。
目にしたのは、“ただの人間”ではなかった。
闘技場の中央に立つ少女の身体が、黒い風と鱗とともに変貌するその様は、
支配と暴威を司る“竜の支配者”のそれだった。
「……な、なんだ……?」
「……え、あれ……やばいやつじゃないか?」
「…あ、あの翼と腕、何か見覚え無いか……?」
ごくりと喉を鳴らす音が、いくつも重なった。
誰もが、気づき始める。
——自分たちは、取り返しのつかない存在を怒らせてしまったのではないか、と。
震える足元。こわばる耳。鼻先から流れる冷や汗が、砂に吸い込まれていく。
そして、リュナの瞳が。
その黒マスクの奥で、ひときわ鋭く、淡く輝いた。
「……ブッ殺。」
静かなる竜が、今——“本気”を、その翼で告げようとしていた。