第23話 至高の剣、香りに導かれ
──世界には、理がある。
一歩進めば地は沈み、一言発せば空気が波打つ。
剣は空を裂き、魔は命を断つ。
だがその理のすべてを無視して、静かに、確かに“届いてくる”ものがあった。
それは、香りだった。
重く、乾いた土を踏みしめながら、一人の男が森を歩いていた。
漆黒の外套。その内側に収められた、一本の無骨な剣。
痩せた頬。血の気の薄い白い肌。琥珀のような色の瞳は、焦点を定めずぼんやりと前方を見据えている。
"至高剣・ベルザリオン"。
とある"大罪魔王"に仕える四天王の一角であり、かの魔王が抱える“欲”の理を剣に宿した、最も静かな死。
だが今、その男の眉間には、わずかな皺が寄っていた。
「……秘宝の反応が消失したのは、およそこの辺りですね。」
呟きは誰に届くでもなく、空気に溶けた。
「おおかた、隠蔽魔法でも使われたのでしょう」
だが、その声音は冷たい微笑を帯びていた。
「——浅知恵、ですね。あまりに不自然に消えた。逆に位置を確定できました」
目を細め、霧に煙る木立の先を見つめる。
遠く、鳥の声すら聞こえぬ静寂の中。
ゆるやかな風が、ふと、吹き抜けた。
その瞬間——
「………………?」
ベルザリオンの足が、止まる。
空気の中に、ある種の“異物”が混じっていた。
霧でもなく、毒でもなく、魔力の揺らぎでもない。
香りだった。
強く、けれど優しく。
獣の肉に似た、焦げた香ばしさと、鼻孔をくすぐる複雑なスパイスの混合。
けれど不快ではない。むしろ、どこか……温かく、落ち着く香り。
「これは……?」
無表情の仮面の奥で、ベルザリオンは眉を僅かに動かした。
「フェンリルの……秘宝の影響でしょうか?」
そう言いながらも、声には確信がなかった。
こんな香りは嗅いだことがない。
なのに、脳が、それを「良いものだ」と断じている。
「……妙ですね」
視線の先。森の奥。
香りの濃度が、そこへ向かうほどに増していた。
ただの風ではない。導いている。
まるで、何かが彼を“誘っている”かのように。
そしてベルザリオンは、無言のまま、その香りを追い歩き始めた。
ゆっくりと。
だが、確かに足を速めながら——。
森の奥へと進むにつれ、香りはますます濃くなっていく。
それはもはや、空気の中にとろみが混じったかのような、異様な感覚だった。
「……この空間の密度。どうやら”魔力”ではないようですね」
ベルザリオンはゆっくりと立ち止まり、目を細めた。
彼の前には、木々の合間にぽつりと浮かぶ、奇妙な建築物。
直線で構成された、幾何学的な造形。
屋根も、壁も、窓枠すら角張っている。自然の中にあるべき形ではなかった。
「……建築美の概念が、あまりにも異質ですね。まるで、すべてを“直線”という檻に封じたかのような……」
ベルザリオンの目が、冷たい好奇心で光る。
そして一歩、また一歩と、カクカクハウスへと近づいていった。
目に見える結界はない。
しかし、この建物がただの家でないことは直感で理解できた。
「……まさか、このような建物を、フォルティア荒野の奥に隠していたとは」
白く細い指が、カクカクハウスの取っ手に触れる。
何の抵抗もなく、扉は静かに開いた。
内部から溢れ出る、熱と香りと、生活の気配。
「……招かれざる客のようですね。だが、構わずともいいでしょう……」
「さて、中で待ち受けるは何者か……。何者であれ、秘宝の在処は教えていただきますよ」
「──力づくでも、ね。」
黒衣の裾を揺らしながら、ベルザリオンは無音の足取りで家の中へと歩み入った。
廊下を抜け、広間を通り、やがて……
その香りの源へと、辿り着く。
その部屋の奥で、ひとりの少年がいた。
背中越しに見えるのは、銀色の髪。
鍋に向かい、静かに何かをかき混ぜている。
やがて、その少年は、振り返ることなく、ふっと優しい声を上げた。
「おかえり〜。早かったね。」
そして、ゆっくりと振り返る。
その手には、木製のスプーン。
その唇には、あたたかな笑み。
だが——目が、ベルザリオンの姿を捉えた瞬間。
その表情が、一瞬にして凍りついた。
まるで空気が変わったかのように、沈黙が落ちる。
銀髪の少年——アルドは、微かに目を見開いたまま、ほんの数秒固まったのち……
無表情のまま、ぽつりと呟いた。
「……やあ。ここは、カクカクハウスだよ」
外では鳥が鳴き、鍋の中では琥珀色の料理がぐつぐつと音を立てる。
しかし、部屋の空気は、不思議な静寂に包まれていた。
ベリザリオンは、薄く笑みを浮かべ、少年を見据える。
至高剣と、銀の少年。
運命の邂逅は、呆気なく、そして妙に間の抜けた一言で幕を開けた——。
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(アルド視点)
……私の記憶が確かならば!
今夜の献立は"カレー"だ!
という訳で、パプリカをひと齧りした俺の手には木べら。胸にはフリルのエプロン。背後にはグツグツと音を立てる黄金の鍋。
そして目の前の敵——いや、素材は、焦げかけ寸前の玉ねぎと、調味料たちだ。
「……まだだ、まだ甘さが足りない……!」
そう呟きながら、俺は木べらを握り直した。
玉ねぎを弱火でじっくり炒め続け、飴色に近づいたその瞬間——
「あぶねっ、油跳ねっ!」
右手を引っ込めながら、左手でバターを投入。追いバターでコクを深めるのが、今日のテーマだ。
そう、俺は今、この真祖竜人生で最も“戦っている”。
相手は、味。素材。香り。舌の記憶。
全てを極め、勝利を掴むために……今日も俺は、エプロンを着る!
「ふっ……今の俺は真祖竜じゃない。テイマーでもない。ただの、料理人だ……料理の竜人だ!」
……いやまあ、真祖竜なんだけど。
でも、今日は違う。今日の俺は、“帰りを待つ家族のために、魂を込めた究極のカレーを作る男”なのだ!
だから——
「ブリジットちゃんとリュナちゃん、大丈夫かなあ……」
鍋をかき混ぜながら、ふと独り言が漏れた。
ふたりとも、今頃フェンリルの里で頑張ってる。
具体的に何をどう頑張ってるのかは全然想像つかないけど、とにかく頑張ってるはずだ。
俺がついて行ってあげられなかった代わりに、せめて戻ってきた時くらい、あったかく迎えてあげたい。
そのために、俺は“究極の一皿”を用意するのだ!
「よし、ここで星降りの宝庫からパクってきた“陽焔トマト”のペーストを……どばっ!」
ぐつぐつと音を立てる鍋から、カレーの芳香が立ち上る。
バターで炒めた玉ねぎ、にんじんのすりおろし、ヨーグルト、特製スパイスに加えて、星降りの宝庫で“勝手に摘んできた”伝説級の食材たち。
地元の森で捕まえた鶏型モンスターの骨付き肉も、コトコト煮込んでホロホロの極み。
ああもう、これ絶対うまいやつ。
「ふふ……やってやったぜ」
鍋に顔を近づけてスーハーしてから、ひとさじすくって口に運ぶ。
うん、熱い。でも超うまい。すっごい幸せ。
この瞬間のために生きてるって気がする。真祖竜?知らんな。今の俺は完全に、料理の竜人。
「さて、あとは盛り付けて……サラダも添えて……デザートは、あとでリュナちゃんのぶんまで……」
と、そこまで考えた時だった。
——ぴくり、と背中に気配を感じる。
「……ん?」
誰かの視線。
お、ブリジットちゃん達、もう帰ってきたのかな?
「おかえり〜。早かったね。ちょうどカレーできてるよ〜」
鍋に目を落としたままそう言い、振り返る俺。
でもそこにいたのは、リュナでも、ブリジットでもなかった。
……痩せてて、顔色が悪くて、無表情で、ものすごく目力のある、厨二心をくすぐるかっこいい黒い剣を腰に下げた黒ずくめの男。
というかオジサン。
……えっ。誰?
っていうか、何で勝手に入ってきてるの?
あれ?玄関、施錠してなかったっけ?
違う、そもそもまだ鍵を作ってなかったんだった。
えぇー……だからって、勝手に入ってくる?普通。
でも、ドラ◯エの勇者も民家に勝手に入ってツボ割ったりしてるし、ひょっとして、異世界の文化ってそういうものなのかな?
玄関が開いてる家は、自由に入ってヨシ!的な。
と、とりあえず何か言わなきゃ……。
「……やあ。ここはカクカクハウスだよ」
口からぽろりと出たその言葉。
しまった、ドラ◯エに引っ張られ過ぎて、村人Aみたいなセリフになってしまった。
自分でも、どうしてそんなテンプレセリフを言ってしまったのか分からない。不思議だね。
……でも、男は黙ったまま、微かに笑ったような気がした。……ウケた?
妙に静かな室内に、カレーの香りだけが、ふわりと立ちこめていた。