第22話 懲罰の天蓋
──山の風が、悲鳴を運んでいた。
ごうごうと鳴る突風が、険しい岩肌を削りながら駆け抜けていく。
空は曇りに包まれ、陽は隠れ、まるでこの地に降り立つ者を拒むかのような空気が漂っていた。
その山の頂。岩盤が張り出した広場に、少女がたどり着く。
砂ぼこりを蹴立てて駆け込んだのは、ブリジット。
耳に届いたのは、苦しげな叫び声だった。
「うわぁぁぁあああああーーっっ!!」
絶叫。いや、それはもはや、魂の悲鳴に近かった。
「フレキくん!」
ブリジットは叫びながら、視界の先へと目を向けた。
そこに広がっていたのは——あまりにも異様、あまりにもシュールな“懲罰”の光景。
銀に光る巨大な狼、フェンリル族の王、マナガルム。
その偉容はまさに王の風格そのものだったが……その行動は、あまりにも真剣で、あまりにも滑稽だった。
「第三工程、開始。“尻尾の根元、毛根引き締め仕上げ”だ」
ゴリゴリゴリゴリッッ!!!
「ヒィイイィィ!! や、やめてくださァァい!!」
フレキが叫ぶ。
体を激しく捩り、前足をばたつかせ、肉球で地面をばしばしと叩く。
その鼻の頭と尻尾の付け根に、容赦なく押し付けられていたのは——硬質な金属ブラシだった。
耳の裏、尻尾の付け根、鼻筋の真ん中。
あらゆる“犬が触られるのを嫌がるポイント”を的確に突いてくる、極めて戦略的なブラッシング。
——これは、あまりにも計算された“犬への責苦”である。
(注:彼らは犬ではなくフェンリルです)
フレキの巨体が震える。
垂れた耳がびくんびくんと跳ねる。
「ふむ、手入れが足りぬ証拠だな。これでは誇り高き牙など名乗れぬ」
王の声はあくまで真剣だった。
そこに迷いもためらいもなく、ただ「罪を犯した愚かな息子に懲罰を与える」という確信しかなかった。
そしてその横には——
“第四工程”と書かれた札を下げたフェンリル兵(コリー型)が一頭。何故か犬の顔に合う形のガスマスクを装着している。
その足元には、巨大なレモンのような鮮やかな果実が、ゴロンと並んでいた。
いや、レモンではない。だが、レモンよりも“酸っぱそうな”未知の果実。
「第四工程、実行。“嗅覚覚醒による罪の認識”」
ぎゅぎゅうぅぅぅ……
手袋越しの肉球が、果実を無慈悲に搾る。
そして飛び出した透明な汁が、的確に——
フレキの鼻先に降り注ぐ。
ブシャッ!!!
「うわぁぁぁあああああっ!!! すっぱいですううぅぅうううう!!!」
しゅばっ、と目が閉じ、鼻をぎゅうぎゅうと擦るフレキ。
そのもふもふの顔がしわくちゃにゆがみ、鼻を突く酸味が彼の神経を直接貫いた。
犬の嗅覚は人間の凡そ100万倍。刺激臭に関しては、1億倍とまで言われている。
鼻先にレモン汁を吹きかけられたフレキが地獄の苦しみを受けている事は、想像に難くない。
「ふむ、感覚への反応良好。まだ順応しておらんな。よし、続行だ」
マナガルムは犬用ガスマスクと黒光りするゴーグルを完璧に装着し、真顔でうなずいた。
彼は本気だった。誤った道に進む息子を、罰を与え罪を濯ぎ導こうという、王として、親としての本気だった。
……だが、その方法があまりにも間違っていた。
山の頂上、懲罰の天蓋。
そこには、力による躾が、風に乗ってこだましていた。
柑橘の香りと共に。
「な、何……これ……」
あまりの衝撃に立ち止まり、ブリジットの口元から、震える声がこぼれる。
息を整える間もなく、マナガルムの瞳がゆっくりとこちらを向いた。
「……来たか、人間よ。哀れな“息子”を追って」
その瞳は冷たく、何の感情も映していないように見えた。
「どうして……! 自分の子どもに、そんな酷いことができるの!?」
ブリジットは一歩踏み出し、両手を握りしめて叫んだ。
「フレキくんはあなたの息子なんでしょう!? なんで……どうしてそんな、苦しめるようなことばっかり……!」
マナガルムは、ぴくりとも動かず、ただ言葉を返す。
「“親”などという甘ったれた言葉に意味はない。強き者こそが生き、弱き者は淘汰される。それがこの世の真理だ」
マナルガムはくぐもった声で静かに語る。その表情は、ゴーグルとガスマスクに隠れ見る事は出来ない。
「ザグリュナ無きこの荒野を統べるのは、我らフェンリル族でなくてはならぬ。たとえ、"大罪魔王"の一角と手を組む事になろうとも……!」
そして——
「フレキは、我が牙を持たぬ“出来損ない”。秘宝を持ち出し、あまつさえ人間に助けを求めるとは……我が子としての誇りも、王族としての責務も捨て去った愚か者よ」
フレキは、地面にうずくまりながら、鼻先を柑橘の汁で濡らし、しょんぼりと耳を伏せる。
「……そ、そんな……ボクは、皆と仲良くなりたかっただけなのに……」
その姿に、ブリジットの胸がぎゅっと締めつけられた。
ぎこちなく耐えようとして、しかし短い足をばたつかせ、情けない声を上げて泣いているフレキ。
誇り高きフェンリル族の王子であるはずの彼が、苦しみ、責められ、居場所を失っていた。
それは、まるで——かつての自分だった。
“毒無効”。
女神から与えられた、たった一つのスキル。
でもそれは、戦えない。治せない。守れない。
誰の役にも立たない。
そんなもの、何の意味があるの?
あの時、父が呟いた。
——「これでは家の名に泥を塗るだけだ」
母は目を逸らした。
——「あなたには、きっと別の場所があるわ」
つまりは、いらないということだった。
居場所を失い、心も言葉も、置き去りにされたまま——
でも。
それでも、自分を拾い上げてくれた人がいた。
泥だらけで、情けなくて、泣いていた自分の手を。
あの銀色の髪の少年は、まっすぐに——まるで、それが当たり前であるかのように握り返してくれた。
あの時のぬくもりは、まだ覚えている。
その瞳の優しさは、今でも胸に残っている。
『違うよ、キミが俺を助けてくれたんだよ』
たった一言で、心の奥の深い孤独に、灯がともった。
今もずっと、消えることはない。
——だから。
「フレキくんは……間違ってなんかない!」
ブリジットの声が、風を切った。
その瞳はまっすぐに王狼・マナガルムを見据え、その胸には一片の迷いもなかった。
「皆と仲良くなりたいって思うのは、恥ずかしいことなんかじゃない!」
「誰かと分かり合いたいって願うのは、弱さじゃない!」
「それは……誰よりも強くて、優しい、“意志”の証なんだよ!」
マナガルムの蒼い瞳が、わずかに細まった。
その巨躯が、ずしり、と地を踏み鳴らして立ち上がる。
それだけで、広場の空気が引き締まる。突風が周囲の草を揺らし、柑橘の香りすら吹き飛ばしかけた。
王狼が、ゆっくりと口を開く。
「ほう……ならば、その“意志”とやらで、我が牙に晒された息子を救ってみせよ、弱き人間!」
そう言いながら、黒光りするゴーグルをクイッと直し、犬用ガスマスクのフィルターを確認すると——
巨大なレモンのような果実を、前足に挟み、容赦なく、ぎゅうぅぅぅぅぅっと搾った。
ブシャアァアアアアアアアアアア!!!
凄まじい勢いで噴き出した果汁が、フレキの鼻先を直撃する。
「ぐえぇぇぇえええぇええっ!!」
短い前足で鼻をぎゅうっとつまみ、顔をこすりながら地面に転がるフレキ。
耳がしゅんと垂れ、目尻には涙が浮かび、舌をべろべろと出して悶絶していた。
全身の毛は逆立ち、前足は微かに痙攣していた。
王族としての誇りを持つ彼が、それでも逃げようとせず、耐えている。
だが、それがどれほどの苦痛であるかは、容易に想像がついた。
硬毛ブラッシング、巨大な柑橘系果実による強制的な嗅覚刺激、さらには“逆撫で仕上げ”。
一般的な犬であれば、間違いなく三日は犬小屋から出てこなくなるであろう責苦の数々。
フェンリル王家に伝わる“戒め”は、まさに精神的にも嗅覚的にも最大級の地獄だった。(※犬目線)
それを目前に見せつけられて——
ブリジットの瞳に、静かな光が灯る。
深く、熱く、優しく、しかし確かに怒りを孕んだ光が。
「……あたし、ちょっと……怒ったんだから」
その足元に、風が集まり始めた。
大地の奥から湧き上がるような、圧倒的な気配。
風が揺れる。
髪が舞う。
その身体を包むように、銀色のオーラがふわりと立ち上がった。
“真祖竜の加護”——
今、静かなる少女の中で、眠れる竜が目を覚まそうとしていた。