第214話 ヒロインと主人公とモブ
空は焦げたような橙色に染まり、森の奥から立ち上る黒煙が夕陽を呑み込んでいた。
焦げた風が吹く。硫黄と血の混じった匂いが鼻を刺す。
その混沌の中で、ひとりの少女が立っていた。
──ブリジット・ノエリア。
金糸のような髪を風に靡かせ、瞳には恐れではなく、確かな光を宿している。
その姿を、空に浮かぶ青年が食い入るように見つめていた。
「……っ、あれが……ブリジット……」
ラグナ・ゼタ・エルディナス。
エルディナ王国の第六王子。
彼の胸は高鳴っていた。ようやく会えた。
この世界の“メインヒロイン”。
己が記憶するゲームの中で、幾度も見た少女。
儚く、傷つき、孤独の中で微笑む──そんな姿だったはずだ。
だが今、目の前にいる少女は──違った。
その瞳に、悲しみも、不信もない。
強く、優しく、希望に満ちた光が宿っていた。
ラグナは息を詰め、唇を噛んだ。
(……どうして……そんな顔をしているんだ……?)
ブリジットは、宙に浮いたままのラグナを見上げる。
そして、小首を傾げた。
「……?」
頭の上に、見えるかのような“?”が浮かぶ。
(だれだろ?あの人。)
ラグナの胸に妙な焦燥が生まれる。
“シナリオ”と違う。何かがおかしい。
その時──地鳴りが響いた。
ドドドドド……ッ!!
森の奥から、大地を震わせるような音。
視界の彼方に、黒い影が蠢いている。
巨大な、黒い鱗。
鋭いツノ。
空気を震わせる、黒き咆哮。
「……ブラックドラゴンの群れ……!」
ラグナの脳裏に“チャンス”という言葉が閃く。
(──さっきのは、何かの間違いだ!)
(この数のブラックドラゴンを相手にしたら、ブリジットはピンチに陥るはず!)
(そこを僕が颯爽と助ければ、きっとシナリオ通りの展開に……!)
汗が滲む。
だが、笑みが浮かんだ。
「ふっ……これだ……!」
ドドドド……!
地面を這うような振動が強まる。
ブリジットもそれに気付き、身構えた。
「また来た……!」
彼女は腰を落とし、軽く屈伸を始める。
ラグナは両手を広げ、魔力を指先に集中し始めた。
「ここは僕が──」
「また来た!よーし……!」
ブリジットの元気な声が遮った。
そして──彼女はラグナを振り返り、笑顔で言う。
「危ないから、あなたは下がっててね!」
「──えっ?」
間抜けな声が、ラグナの口から漏れた。
何を言っているんだ、この子は。
次の瞬間、森の木々をなぎ倒しながら、黒い巨体が現れた。
ドドドドドッ!!
5体、いや10体……!
2本のツノを生やした、黒いワニのようなフォルムの竜たち。
地を這う度に、大地が波打ち、砂煙が舞い上がる。
「ふっ……!」
ラグナは即座に指先に魔力を集中させる。
だが、その集中は途中で止まる。
「えいやぁーーーっ!!」
甲高い声と共に、鮮やかなピンク色が視界を横切った。
巨大なピコピコハンマー "ピコ次郎"が、唸りを上げて空を割る。
ピコッ!!
──ボグォォン!!!
ブラックドラゴンの頭に直撃した瞬間、まるで隕石が落ちたかのような衝撃波。
巨体が持ち上がり、そのまま地面にめり込んだ。
土煙と共に、衝撃波が辺り一帯を吹き飛ばす。
「それぇーーーっ!!」
ピコッ!
ピコッ!
ピコッ!
間の抜けた音が次々と響く。
だが、その度にブラックドラゴンが一体、また一体と地に沈む。
「う、うそだろ……!?」
ラグナの口から、言葉が漏れた。
“ピコ”という可愛い音と、“ズドン”という大爆音が、交互に響く。
まるで、体感型ゲーム。
むしろ彼女自身がプレイヤーだ。
ピコッ! ドゴォン!
ピコッ! ガラガラガラッ!
黒煙の中を舞うブリジット。
軽やかに跳び、舞い、回転しながらハンマーを叩き込む。
その動きには一片の迷いもなかった。
(ば……バカな……!?)
ラグナの頭が追いつかない。
(ブラックドラゴンの群れを……そんなワニワニパニックみたいな感じで、撃退するなんて……!?)
空中でただ立ち尽くす彼の頬に、風と砂が叩きつけられた。
視界の中で、ブリジットが最後の一体を叩き落とし、軽やかに着地する。
ピコッ。
その可愛い音と共に、戦場に静寂が訪れた。
ブリジットはハンマーを肩に担ぎ、額の汗を拭って息を吐く。
「ふぅっ……今日も絶好調だね、ピコ次郎。」
ラグナは唖然としたまま、ただその背中を見下ろしていた。
“メインヒロイン”の初登場シーン。
彼の記憶の中では、助けられるはずの少女が、今、誰よりも輝いていた。
ラグナは呟いた。
「……シナリオが、狂ってる……」
◇◆◇
ピコッ、と最後の音が響いた。
地面が揺れる。舞い上がった砂煙の中、黒き竜たちが次々と地面にめり込み、動かなくなっていた。
その中心に立つ少女──ブリジット・ノエリアは、ピコピコハンマー "ピコ次郎" を肩に担ぎ、「ふぅっ」と息をついた。
その頬を汗が一筋、きらりと光りながら流れ落ちる。
「……完了、っと!」
彼女は額の汗を手の甲で拭いながら、周囲の様子を確認する。
砂煙の向こう、宙に浮いたまま硬直している金髪の青年に気づくと、にこっと笑顔を見せた。
「──あ、大丈夫でしたか?」
天使のような声色だった。
だが、その一言は、ラグナにとって致命的な一撃だった。
(──これじゃ、立場が逆じゃないか……!?)
目の前の光景が信じられない。
“助けに来た王子”が、“助けられている”。
しかも相手は、ラグナが「守る」と決めていた、ヒロイン本人。
(僕が……助けられたみたいな感じになってどうする!?)
頭の中で鐘が鳴る。ガンガンとプライドを叩き割る音が。
だが、王族としての顔を崩す訳にはいかない。
ラグナは平静を装い、必死に作り笑いを浮かべた。
「あ、ああ……ありがとう。キミは強いんだね。」
声がわずかに裏返ったが、何とか言葉を絞り出す。
しかし、彼の内心は嵐だった。
(そうだ……この強さ……なんなんだ!?)
(“ブリジット”というキャラクターに、ここまでの戦闘力は備わって無かったはず!)
(なのに、さっきの戦いぶりは……下手したら、兄であるセドリック以上の……!?)
困惑と焦燥が胸の奥で渦を巻く。
自分の知る“ゲームの世界”が、何かとんでもなくズレている。
まるで、見慣れた物語のスクリプトが、誰かに書き換えられたように。
そんなラグナの葛藤など露知らず、ブリジットは小首を傾げた。
「? 大丈夫ですか?どこかケガしたとか?」
そう言いながら、そっと彼の顔を覗き込む。
近い。近すぎる。
ラグナの心臓が、ドクンと跳ねた。
(か……可愛い……!!)
瞳が透き通っている。
微笑むと、頬のあたりに小さなえくぼが浮かぶ。
まるで、陽だまりがそのまま人の形になったような温かさ。
(いや、違う違う!!)
自分で自分にツッコミを入れる。
(僕がドキッとしてどうする!?)
(僕は“主人公”ラグナ・ゼタ・エルディナス……!)
(女性に夢中になる役じゃない。女性を夢中にさせるのが、僕だろう!?)
深呼吸。
王子スマイル、オン。
キラキラと光のエフェクトが出そうな完璧な微笑みを浮かべ、ラグナは言った。
「……ああ、お気遣いありがとう。でも、心配には及ばないよ。」
完璧だった。
完璧なセリフ。完璧な笑顔。
この瞬間、どんな女性も頬を染め、心を撃ち抜かれるはず──
──の、はずだった。
「それならよかった!」
ブリジットはニコッと笑い、あっけらかんと言った。
「ここはまだ危ないかもしれないから、街の方に避難しててくださいね!」
そして、くるりと背を向け、再び森の方へ警戒の目を向けた。
ラグナは固まった。
笑顔がひきつる。
(……ん?)
どこかで何かが根本的に噛み合っていない。
彼女の反応は、“イベント”に入っていない。
恋愛フラグどころか、モブへの気遣いムーブ。
(おかしい。何かおかしいぞ……?)
確かめねばならない。
ラグナは慌てて手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待った!」
ブリジットが「はえ?」と間の抜けた声で振り返る。
ラグナは息を整え、真剣な顔で尋ねた。
「ぼ、僕の顔を見て、何か無いかい?」
「え?」
ブリジットはしばらくポカーンとしたまま、彼の顔をじっと見つめる。
そして──にこっと微笑んだ。
「とってもキレイなお顔ですね!」
「……っ!!」
雷が落ちたような衝撃だった。
(こ……この娘……僕に“興味が無い”……!?)
ラグナの脳内で、何かがパリンと音を立てて割れた。
エルディナ王国第六王子。
稀代の天才魔法使い。
女性週刊誌『ルセリア・ロイヤル』では四年連続“抱かれたい男No.1”。
街ではサイン会を開けば長蛇の列、笑顔を向ければ失神者が出る。
それなのに──。
目の前の少女は、心底自然な笑顔で“無関心”だった。
(本気で、僕のこと知らない……!?)
とぼけてる様子も、取り繕っている様子もない。
この反応は、完全に“知らない人への社交辞令の笑顔”だ。
(な、なぜだ……!?)
(いや、落ち着け。ブリジットが僕に興味を示さない女性……ありえる。可能性は二つ……)
ラグナの脳内で冷静な分析が始まる。
(ひとつ、“恋愛対象が男性ではない”場合。……だが、彼女はそんなキャラ設定ではなかったはずだ!)
(もうひとつ……“すでに他の想い人がいる”。)
思考が止まる。
脳裏に、先ほどの彼女の笑顔が浮かぶ。
ピコ次郎を振り回しながらも、あの無邪気な表情。
誰かを信じて、誰かのために戦う、あの輝き。
(まさか……ブリジット、キミは……)
(僕を差し置いて……誰かを、想っているとでもいうのか……!?)
胸の奥がチリチリと焼ける。
それは嫉妬か、焦燥か、自分の“シナリオ”を奪われた男の怒りか。
いずれにせよ、ラグナ・ゼタ・エルディナスという完璧な王子は──
この瞬間、初めて“現実”という名のバグを目の当たりにしたのだった。
◇◆◇
黒煙が薄れ、焦げた風が静まっていく。
地に沈んだブラックドラゴン達は、まだ呻き声を漏らしていたが、もはや脅威ではなかった。
戦場に、ひとときの静寂が訪れる。
そんな中、ラグナは動揺を悟られまいと、できるだけ優雅な立ち姿を保った。
心臓はやかましいほど鳴っている。だが、顔には余裕の笑みを張り付けた。
「……自己紹介が遅れたね。僕は……ラグナ。」
短く、だが声には誇りが滲む。
彼は意図的に名を省いた。ゼタ・エルディナス──この国の第六王子という称号を。
王族というカードを切るのは、敗北宣言と同じ。
“自分を知らない”相手に、正体を明かして興味を引くなんて、プライドが許さない。
ブリジットはにこりと微笑み、ペコリとお辞儀をした。
「初めまして! あたしはブリジット・ノエリアです!」
その笑顔は、まるで陽の光のように眩しかった。
だが──それだけだった。
特に驚くでもなく、頬を染めるでもなく。
“ああ、初対面の旅人さん”という程度の、穏やかな反応。
ラグナの頬がピクピクと引き攣る。
(な、名乗ってもまだ気付かない……!?)
(まさかとは思うが、“ラグナ”という名前が無名だとでも? そんなはずはない。僕の肖像画は、王都ルセリア中の商店に貼られてるというのに!)
彼は一瞬、唇を噛んだ。
だが、すぐに思考を切り替える。
(……いや、落ち着けラグナ。王子の身分に頼るなど愚の骨頂。僕は今、“主人公”だ。名前や立場ではなく、カリスマで惹きつけるのが主人公だろう?)
ラグナは静かに息を吸い、表情を引き締めた。
(ならば──この話題ならどうだ?)
「実は、僕は旅の魔導士でね。」
ブリジットがぱちぱちと瞬きをし、にこりと微笑む。
「へぇー、そうなんですね!」
素直な反応。だが、軽い。
ラグナの心のどこかで、“想定外”という赤ランプが点滅する。
(反応が……薄い!? “えっ、旅の魔導士様なんですか!?”とか、“かっこいい!”とか来るだろ、普通!?)
気を取り直して、ラグナは軽く笑みを浮かべ、わずかに髪をかき上げた。
「ここ、フォルティア荒野には──"邪悪な魔竜"が住み着いていると聞いてね。退治しに来たんだ。」
声には自信が満ちていた。
完璧な角度の笑顔、完璧な照れ隠し。
陽の光を背に受ける金髪がきらめき、背景にキラキラしたエフェクトが見える気すらした。
(……なんてね。今の僕のレベルじゃ、エンドコンテンツボスの“咆哮竜ザグリュナ”をソロ討伐はまだ確実性が無いからゴメンだ。けど──)
(“憎き咆哮竜を倒しに来た謎の美形魔導士”。これならブリジットも流石に食いつくに決まってるさ……!)
彼は視線をブリジットに向けた。
だが。
ブリジットの表情は、期待していた“きらめき”とは程遠かった。
明るくも、興奮でもない。
むしろ、どこか悲しげで──柔らかく、寂しげな影を帯びていた。
ラグナの胸に、嫌な予感が走る。
(なっ……!? 何だ、その顔は!? 僕の勇姿を前にして、なぜそんな“哀れむような”表情を……!?)
ブリジットは静かに口を開いた。
「──申し訳ありませんけど、ここに……フォルティア荒野に、“邪悪な魔竜”なんてものは、いません。」
言葉は柔らかかった。
だが、その意味はラグナにとって致命的だった。
「ば、バカな……!? だって、ここはフォルティア荒野だろう? 伝説の魔竜、咆哮竜ザグリュナが支配する、魔の土地のはずじゃあ……!?」
声が裏返った。
彼の知る“ゲーム”の世界観が、音を立てて崩れる。
ブリジットは少しの間、沈黙した。
そして、穏やかな笑顔を浮かべた。
「──きっとラグナさんは、力も勇気もある方なんですね。他人のために、そんな怖い相手に立ち向かおうとするなんて。」
その一言が、ラグナの胸を鋭く突いた。
(……そうじゃない。僕は、ただキミに……!)
心の奥で、言葉にならない衝動が渦を巻く。
“救いたい”のではなく、“物語を元に戻したい”。
その違いが、彼の中で痛みとなって跳ね返った。
だが、ブリジットは続けた。
「でも、本当に、この場所に“邪悪な魔竜”なんてものはいないんです。」
彼女の瞳は、真っ直ぐで、曇りがなかった。
「だから、その力は、ここではないどこかで──別の誰かを救うために使ってあげてください!」
微笑みながら、ぺこりと頭を下げる。
その姿には偽りがなかった。
ラグナは言葉を失った。
彼女の笑顔が、まるで自分の“存在理由”を否定しているように思えた。
──シナリオの外。
誰も自分を必要としない世界。
その静かな衝撃の中で、ブリジットはくるりと背を向けた。
その後ろ姿を、ラグナはただ呆然と見つめていた。
風が吹く。
ブリジットの金髪が、光を受けて柔らかく揺れた。
(……なぜだ。なぜ、僕の知っている世界じゃない……!?)
そして彼の胸に、初めて芽生えた。
“焦り”でも“嫉妬”でもない、“不安”という感情。
ラグナは、自分の手を見つめながら呟いた。
「……この世界の脚本、誰が書き換えた……?」
◇◆◇
ブリジットが背を向け、一歩踏み出そうとしたその瞬間だった。
「ちょ、ちょっと待って……!!」
ラグナの声が震えていた。
思わず伸ばした手が、彼女の肩を掴む。
ブリジットは「えっ?」と驚いた声を上げ、少しつんのめる。
その拍子に、彼女の羽織っていたジャケットがずれ、白いタンクトップの肩口から、柔らかな肌がわずかに覗いた。
その一瞬。
ラグナの脳裏に、電流が走った。
(──!?)
見間違えるはずがない。
そこに──“火傷痕”が、無い。
(ブリジットの……背中の……“火傷痕”が……無い!?)
息が詰まる。
喉の奥が焼けるように熱くなった。
(バカな……!? あのブレスの傷は、物語の象徴だろう!? 痛みと過去を背負う少女が、主人公である僕の持つキーアイテム“堕竜の血”によって癒され──そして、恋に落ちる……)
──それが、あのゲームの最も美しいシナリオだった。
だが今、目の前の現実は、その象徴を無情に否定している。
ラグナの呼吸が荒くなり、瞳の焦点が揺らいだ。
「……嘘だ、そんな……!」
次の瞬間、彼は衝動に駆られるようにブリジットの肩を引き寄せ、ジャケットの裾を掴んでベロンと捲り上げた。
「ちょっ……!? ラ、ラグナさんっ!?」
ブリジットの声が裏返る。
それでもラグナは止まらなかった。
タンクトップの裾を掴み、下から勢いよくめくり上げ──
雪のように白い背中が、陽光の下に露わになった。
「なっ……!? ななななな……っ!?!?」
ブリジットの顔が一瞬で真っ赤になる。
肩を抱え、両腕で慌てて胸を隠そうとするが、事態が理解できない。
(な、なにこの人!? いきなり服めくって背中見るとか、どんな種類の変態さんなのっ!?)
驚きと羞恥で顔が真っ赤になったブリジットの額から、銀色の2本のツノがニョキニョキと生えてくる。
「ひゃあっ……!? ちょ、ちょっと、出てきちゃってるぅ!!」
だが、ラグナはそんな彼女の狼狽を一顧だにしなかった。
白く滑らかな肌を凝視しながら、喉の奥から絞り出すように呟く。
「バカな……! ブリジットの背中には、ザグリュナから受けたブレスの火傷痕があるはずだろ……!?」
「そして……僕がキミに贈る“堕竜の血”を飲んで祝福を受け、背中の傷跡が綺麗に消えて、キミは僕に感謝し、恋に落ちる……そういう“シナリオ”のはずだろ!?」
その声には理性がなかった。
“シナリオ”──その言葉を理解できず、ブリジットは呆然とした表情を浮かべる。
(し、シナリオ……? 何の話をしてるの、この人……? っていうか、なんでリュナちゃんのブレスのことまで知ってるの!?)
混乱と羞恥が一気に押し寄せる。
だが、それ以上に──彼の目が怖かった。
狂気の色を帯びて、まるで“自分以外の世界が間違っている”と信じている目だった。
「い、イヤーーーーッ!!!」
叫ぶと同時に、ブリジットは反射的に右手を振り抜いた。
──ビンタ。
だが、その一撃には、真祖竜の加護が宿っていた。
(あっ……やばい……!!)
振り抜いた瞬間に気づく。
(この状態で本気で当たったら、ラグナさん……死んじゃう!!)
だが、止まらない。
勢いはすでに乗っていた。
「やめ──」
ビシィィィッ!!
雷鳴のような音と共に、ブリジットの掌とラグナの顔の間に、眩い光の膜が張り巡らされる。
魔法障壁──。
バチバチッと火花を散らしながら、彼女の腕をぴたりと止めた。
ブリジットが驚愕の目で見開く。
(当たってない……!?)
ラグナは、先ほどまでの柔和な表情を完全に消していた。
目に宿るのは冷たい怒気。
低く、氷のような声で呟く。
「──酷いじゃないか。
こんな色男の顔に、そんな強力な一撃を入れようとするなんてさ。」
その声音には、余裕ではなく“苛立ち”が滲んでいた。
ブリジットは思わず一歩後ずさる。
(よかった、当たってない……でも……)
(この人……“真祖竜の加護”が発動してる状態のあたしのビンタを、何事もなかったみたいに障壁でガードした……!?)
安心と恐怖が入り混じった感情が胸に広がる。
ラグナは左手を持ち上げた。
その指先に、禍々しい魔力が蠢き始める。
空気がざらりと重くなる。
「……ああ、イライラするな。こんな気分は久しぶりだよ。」
「何でこんな事になってるんだ……? 訳がわからない……本当に、訳がわからないよ。」
ブリジットの頬に冷や汗が伝う。
“何か”が崩れ落ちていく気配。
「──ほんのちょっとだけ、キミの心を操れば、本来のシナリオに軌道修正できるのかな……?」
禍々しい魔力を帯びた指先が、ブリジットに向けて伸ばされる。
──その瞬間。
「おい、アンタさ。」
背後から静かな声が響いた。
穏やかで、だが底に煮え立つような怒りを孕んだ声。
ラグナの指が止まる。
ブリジットの目が見開かれ、表情が一瞬で変わった。
ぱぁっと、花が咲いたような笑顔。
「アルドくん!」
その声に、ラグナの眉が跳ね上がる。
(……誰だ? 今の名前は?)
ゆっくりと振り返る。
そこには──銀色の髪をした少年が立っていた。
わずかに乱れた前髪の下、冷たく光る瞳。
薄い唇の端が、怒りで僅かに歪んでいる。
彼は歩み寄りながら、低く問いかけた。
「アンタ……ブリジットちゃんに、何してくれてんの?」
空気が震えた。
彼の声は穏やかだが、言葉の一つひとつに刃が潜んでいる。
ブリジットが、心底安心したような声で再びその名を呼んだ。
「アルドくん……!」
その瞬間、ラグナの胸に黒い炎が燃え上がった。
「アルド……? 誰だ、お前。」
「そんな名前のキャラ、僕は知らないぞ。……でも、そうか。」
ラグナの顔が、ドス黒い怒りに染まる。
「お前が……! お前がブリジットを誑かした元凶か……! モブ野郎が……でしゃばりやがって……!」
アルドの瞳が鋭く細められた。
「……何を訳わかんないこと言ってんのか知らないけどさ。」
肩を回し、指をポキポキと鳴らす。
「ブリジットちゃんに危害を加えるつもりなら──」
金色の王子と、銀色の少年が対峙する。
空気が、静かに凍てついた。
「どこの誰だろうが、俺がぶちのめすよ。」
その一言が放たれた瞬間、戦場に再び火花が散った。




