第20話 王狼の断罪と地下の戦場
──谷が、吠えていた。
山と山に挟まれた狭間。
切り立った崖の間に伸びる一本の道。
そこが、フェンリルの里へと続く唯一の関門だった。
谷の奥から吹き抜ける風は、どこか生ぬるく、湿った血と獣の匂いを孕んでいた。
ごくりと、喉が鳴る。
「——はぁ、はぁ……ぜ、ぜぇ……」
フレキが、荒い息をつきながら地面に伏せた。
五メートルの巨体。毛は乱れ、舌が垂れ下がっている。
「ご、ご無礼を……リュナさん、ブリジットさん……ボク、あまり……持久力が……」
「ううん、ありがとねフレキくん!すごく頑張ってくれたよ!」
背から飛び降りたブリジットがにこりと笑い、フレキの背中を優しく撫でる。
「りゅ、リュナさんも……健脚、ですね……」
ちら、と横を見れば、リュナは一人だけ涼しい顔で立っていた。息ひとつ乱していない。
長い金茶の髪を風に流し、黒マスク越しに「ふう」と息を吐く。
「ま、兄さんの食事のあとにこれくらいの運動ってのは……ちょうどいいっすね」
手で顔をパタパタと仰ぎながら、肩を回しているその姿は、完全にピクニック帰り。
「リュナちゃんはすごいんだよ〜!」とブリジットが得意げに言うのも無理はない。
だが、その時だった。
リュナの目が、細く細く細められた。
口元の笑みを崩さぬまま、瞳だけが鋭く動いて、崖の上へと向けられる。
「……お出迎え、来てるみたいっすよ」
その呟きの直後、岩の影から、木々の陰から。
ざわっ、と気配が広がった。
崖の上。左右の岩壁。
無数の瞳が、こちらを見下ろしていた。
黒、茶、白、灰。
色も大きさも、全て異なる“フェンリル族”たち。
アルドが前世暮らした世界で言う、チワワ、ボストンテリア、セントバーナード、ブルドッグ。
どこか既視感のある容姿だが、すべてが人の背丈を遥かに超えるサイズ。
どいつもこいつも、牙を光らせてこちらを睨んでいた。
その数、およそ——百。
百の牙を携えた、王国の守りの軍勢。
そして。
「……来たか。我が“出来損ない”の息子よ」
最も高い崖の上に、そびえるように立つ一頭の狼。
八メートルを超える巨体。
銀に輝く毛並み、蒼の瞳。
威厳と狂気を併せ持つ、その存在感。
それこそが、フェンリル族の王——
"王狼・マナガルム"。
その目は、冷たく、どこまでも深い蒼。
見下ろす先に、フレキが居る。
「父上……!」
フレキが体を起こし、叫ぶように言う。
「どうか……話を聞いてほしいんです! フェンリル族は、この荒野の他の種族と争うべきではない!」
「……愚か者が」
低く、唸るような声。
王の言葉は、断罪のように鋭かった。
「そのような甘言に惑わされ、秘宝を持ち出し……さらには、か弱き人間に縋るか」
マナガルムの目が、フレキの背後のブリジットに向く。
彼女は少し緊張した面持ちで、まっすぐに王狼の瞳を見返していた。
「人間よ。名を名乗れ」
「……あたしは、ブリジット・ノエリア。このフォルティア荒野の、新しい領主です!」
ブリジットが凛と声を張った瞬間——
谷に、笑い声が響いた。
それは、獣たちの笑い。
マナガルムの嗤い。
「人間が、この地の主を自称するとは……笑止千万」
その言葉と同時に。
王狼が姿を消した。
……いや、正確には“消えたように見えた”。
一瞬のうちに、その巨体が谷底へと跳躍していたのだ。
「フレキくん!!」
ブリジットの叫びが響くより早く。
フレキの首元を、マナガルムの牙が捕らえていた。
驚愕。硬直。反応できなかった。
マナガルムは、抵抗を許さぬ速さでフレキを咥え、そのまま谷の奥へと姿を消す。
まるで、それが予定された運命の一幕だったかのように——。
「フレキくん……!?」
声が、風に飲まれていった。
そして、静かに。
獣たちの足音が、ブリジットとリュナを包囲し始める。
咆哮は、まだ始まっていない。
だが、嵐の兆しはすでに足元に広がっていた。
◇◆◇
「フレキくん……!!」
ブリジットの声が、谷に響いた。
その叫びは、怒りでも悲しみでもない。
ただ、まっすぐで、切実な——“想い”だった。
視線の先には、すでに姿を消した銀狼の背中。
その顎にぶら下げられた、ぐったりとしたフレキの姿が脳裏から離れない。
(……一瞬だった。あたし、反応できなかった……!)
ぎゅっと、拳を握りしめる。
その隣で、フェンリルたちが一斉に姿勢を低くし、喉を唸らせ始めた。
まるで王の意志を受けた牙たちが、今まさに動き出そうとしている。
それでも、ブリジットは一歩、踏み出した。
「ごめん、リュナちゃん!」
突然の言葉に、リュナが振り返る。
その黒マスクの奥で、金茶の瞳が緩やかに揺れていた。
「あたし、フレキくんを助けなきゃ……!」
声は震えていた。だが、瞳は揺るがなかった。
「だって……フレキくん、あたしに“命にかえても守る”って言ってくれたんだよ? だったら、あたしも……“自分の命をかけてでも”応えなきゃ、いけない!」
まるで何かを振り切るように、ブリジットは後ろを見ないまま走り出そうとする——
その背中に、ぽん、と軽く叩くような音がした。
リュナが、拳でブリジットの背をやさしく叩いたのだった。
「りょっす」
その一言だけで、すべてを察しているような笑顔だった。
「ここはあーしが引き受けるっす。姉さんは、姉さんのやりたいように、やっちゃってくださいっす」
「リュナちゃん……」
振り返ったブリジットに、リュナが指を一本立てる。
「つーか、こっちも結構楽しめそうっすよ?」
そう言って、リュナが前を向いた瞬間だった。
フェンリルの一頭(セントバーナード型)が、地を蹴ってブリジット目掛けて飛びかかってきた。
巨体。咆哮。土煙を巻き上げながらの猛突進。
「ブリジットさん!」
フレキの叫びが、遠く聞こえた気がした。
だが——
「ほいっと」
リュナの軽い足音が、空を裂いた。
ひと蹴りで跳躍し、空中から伸びた足が、フェンリルの鼻先に的確にヒット。
ドゴォッ!!
音が遅れて谷に反響し、フェンリルがその場で派手に横転した。
「キャインッッ!!」
転がったフェンリルが、地面に爪を突き立てながら呻く。
鼻を押さえてごろごろ転がり、他のフェンリルたちが一瞬だけ息を呑んだ。
「へーきへーき。兄さんの言いつけ通り、《《殺さないでやる》》から、安心しな〜?」
リュナが、ひらりと髪を翻しながら地面に着地する。
その動きは、美しく、そして異様に軽やかだった。
その様子を見ていたブリジットが、もう一度拳を握った。
「……ありがとう。あたし、行ってくる!」
「行ってらっす、姉さん」
リュナの声に背中を押されるように、ブリジットは岩場を駆け上がっていく。
王狼の背を追って。
断罪の広場へと続く、谷の奥へ——。
そして、リュナがひとり残る。
黒マスクの下で、にぃ、と笑った。
「さて。こっから先は……あーしのターンっすね」
その言葉を合図に。
獣たちが、一斉に牙を剥いた。
咆哮はまだ始まっていない。
だが、嵐は、今にも吹き荒れようとしていた——。
◇◆◇
地を踏みしめる足音が、ひとつ。
それだけで、周囲のフェンリルたちの緊張が一段階、強まった。
――音の主は、群れの中央からゆっくりと前へ出てきた。
他のどのフェンリルとも異なる風格をまとったその一匹は、全身を漆黒の毛並みで包まれながらも、体躯はひときわ小さい。
その顔立ちは、どこか愛嬌のある“パグ”そのものだったのだが。
だが——
その小さな口元から吐き出される空気には、全てのフェンリルを従えるような冷たさがあった。
「……やるな、人間の女」
低く、ねっとりとした声。
だが、響くものは確かにあった。
「おぉっと……しゃべった」
リュナが片眉を上げて言う。
倒したフェンリルを踏み越えて、ゆるりと立つその姿の前で、パグ型フェンリル――グェルは目を細めた。
「ボクの兄、フレキをここまで心配して動いてくれるとは……良識ある人間も、いるものだな」
「んー、なんか思ってたより話せそうな感じ?」
リュナが気を抜いたように言いながら、マスクを少し上げ直す。
だが——
その直後。
グェルの前足が地を叩くと同時に、リュナの足元が突然、崩れた。
ズドン!
「……っとぉ!?」
地面に空いた巨大な穴。
足場がすとんと抜け、リュナの身体が重力に従って落ちていく。
すぐに土の壁が上から塞がり、光が遮断された。
落ちていく最中、リュナは一瞬だけ目を見開いたが——
「まーた雑なやり方っすね、ほんと……!」
ぼやくように、空気中で体をくるりと回転させ、膝を抱えた姿勢で暗闇に消えていった。
その数瞬後。
谷の崖沿いにいたフェンリルたちが、次々とその大穴に飛び込んでいく。
跳躍、跳躍、跳躍——
百の牙が、次々に地下へと消えていった。
その様子を、地上に残ったグェルは静かに見下ろしていた。
「さあ、我が“試練の闘技場”へようこそ……勇気ある人間よ」
そして、彼は最後に一言、リュナの消えた穴に向かって囁いた。
「“この地に牙を剥く者”が、どれほどの覚悟を持っているのか……見せてもらおうか」
漆黒の毛をなびかせて、グェルもまた、穴の中へと飛び込んだ。