第207話 side ???②──攻略済みの未来──
紫色の霧が、空間の奥底から蠢くように溢れ出していた。
蜘蛛の巣を幾重にも重ねたような天井──そこから垂れた一本の光糸が揺れるたびに、毒気を帯びた魔素がパチパチと火花を散らす。
"覇空塔"二十階層。
この塔に挑んだ歴戦の冒険者たちが誰一人として辿り着けなかった、静寂の地。
その中心に立つ女は、長い脚を優雅に組み替えながら、四人の侵入者を睨みつけていた。
上半身は絹のような肌を持つ美女。だが腰から下は、黒鉄色の八脚を持つ巨大な蜘蛛。
"禍蜘蛛のアラクネルラ"。
「……そのニヤけ面、いつまで続くか見ものだねぇ!」
彼女の口元が、獰猛な笑みに歪んだ。
次の瞬間、彼女の全身から紫の魔力が奔り出す。空気が悲鳴を上げ、空間が歪む。
蜘蛛脚の先端が石床を砕き、毒の光線がじわりと床に染み込んでいく。
「はああぁぁぁッ!!」
叫びと同時に、フロアの魔力密度が爆発的に上昇した。
紫の魔力が螺旋を描き、天井から流星のように光が落ちる。
彼女が詠唱するのは──"毒撃衝波"。
かつてこの塔に挑んだ者たちを、瞬く間に塵に変えた大地殲滅の魔法。
だが。
「やっぱり、開幕は全体攻撃だよね。……想定通り。」
金髪の青年──ラグナ・ゼタ・エルディナスは、肩をすくめて微笑んだ。
その仕草には緊張も焦りもない。ただ、自分の見ている世界が“既に知っているステージ”であるかのような確信があった。
ラグナの指先が軽く弾かれる。
詠唱はない。
魔力の流れだけで幾何学的な陣形が広がり、彼の仲間たち──セディ、リゼリア、ルシア──の周囲に、ハニカム状の六角形が組み合わされた半透明の球体が展開された。
五層の結界。
それはまるで蜂の巣が光で形を成したような、完璧な防御陣だった。
「“毒撃衝波”!!」
アラクネルラの咆哮が轟く。
地鳴りと共に放たれた紫の衝撃波が、四人を飲み込む──
爆音。閃光。世界が揺れた。
蜘蛛糸のように細かな毒の粒子が空中を舞い、視界を覆う。
が、その中心で光る球体はびくともしない。
衝撃が収まった時、アラクネルラは見た。
無傷の侵入者たちと、彼らを包む美しい結界の光を。
「な、何だって……!? アタシの、"毒撃衝波"が……!?」
驚愕に満ちた瞳が揺らぐ。
その中で、ラグナは楽しそうに微笑んでいた。
「“毒撃衝波”だろ? 開幕で撃ってくる回避不能の全体攻撃。喰らうと持続毒のデバフ付きだから、初見殺しにはちょうどいいんだよね。」
「な……んだと……!?」
アラクネルラは思考が止まる。
(馬鹿な……!? コイツは、この技を見るのは初めてのはず……! なのに……何故、技の性質まで見抜いてやがるのさ……!?)
「ラグナ様〜っ! さっすがですぅ〜!」
リゼリアが両手をぱんっと合わせ、目を輝かせる。
その横で、セディが淡々と呟いた。
「殿下……やはり、常識外れにも程があります。」
ルシアはというと、ボーッと上を見上げていた。
「……蜘蛛、でかい。」
アラクネルラの頬がぴくりと引き攣る。
──完全に、馬鹿にされている。
「クソッ……! 初手を防いだくらいで、調子に乗らないことだねッ!!」
怒号と共に、彼女の背中の魔法紋が光る。
ピィィィィィィ――!
金属の悲鳴のような高音が、フロア全体に鳴り響いた。
ラグナの瞳がすっと細められる。
「来るぞ。湧きフェイズだ。」
次の瞬間、フロアの壁に無数の亀裂が走り、
そこから蜘蛛の巣のような黒い穴が開く。
穴の中から、巨大な鬼蜘蛛が何十、何百と這い出してきた。
床を埋め尽くす無数の脚音が、地鳴りのように響く。
「みんな! ここからは雑魚湧きフェイズね!リゼリアとルシアは左右に分かれて群れの処理! セディは僕の前面で糸攻撃を防いで!」
リゼリアは「了解ですぅ〜!」と元気よく返事をし、
ルシアは眠たそうに「……分かった」と呟いて左右に散開した。
セディは一礼して「仰せのままに」と短く答え、前へ出る。
ラグナの背を守るように、セディが構える。
片手に握るのは、歯車を連結した異形の剣──チェインブレードのような武器。
もう一方の腕には、円形の盾が光を反射していた。
周囲の縁には微細な刃が連なり、まるで機械仕掛けの円環。
アラクネルラはその様子に目を細めた。
(こっちの戦法が……完全に読まれてる……!? このガキ、一体何者なんだい……!?)
蜘蛛の女王が牙をむく。
そして、ラグナの唇が笑みを刻む。
「──さあ、“攻略済みの未来”を、もう一度再現しようか。」
◇◆◇
紫に染まった大空洞が、轟音と共に震えた。
壁面の魔紋が蠢き、黒い穴がいくつも開いていく。
そこから、無数の脚と牙が一斉に這い出した。
「──こっちの動きが読めたからって、何だって言うんだい!!」
アラクネルラの咆哮が響く。
「圧倒的物量で押し潰しちまえば、先読みなんて意味ないさね!!」
黒い穴から次々と這い出す鬼蜘蛛。
その数、百を超える。
八脚が石床を叩くたび、地鳴りのような低音が響き渡り、毒気を含んだ息が一斉に漏れ出す。
アラクネルラの瞳には確かな確信があった。
──数の暴力。
この塔を挑む者たちが何度も屈した現実的な“壁”。
どれほど知恵を巡らせようとも、押し寄せる群れには勝てない。
それこそが、覇空塔の掟だった。
だが。
「それはどうかな?」
ラグナの口元が、静かに吊り上がる。
その声は穏やかで、どこか楽しそうですらあった。
“想定済み”──彼の眼差しがそう語っている。
そして、彼の背後で柔らかな声が響いた。
「アルド様のご命令、完璧に遂行してみせます〜!」
リゼリア・ノワール。
亜麻色の髪を揺らしながら、どこか呑気にスカートの裾を持ち上げる。
白い太腿に装着された黒のガーター。
そこに固定されていた二本の金属筒を取り外すと、
両手でくるくると回して前に構えた。
カチッ。
金属が噛み合う音が響いた瞬間、筒が伸び、光が走る。
両端に刃が飛び出し、数秒のうちに長柄武器へと変形した。
「メイド式万能武装──展開完了っ☆」
彼女が微笑みながら軽く構えを取ると、
ハルバートの刃が紫の光を反射してきらめいた。
その姿は、戦場の女神と家政婦が奇妙に同居した存在だった。
「え〜〜いっ!」
掛け声と共に、彼女はハルバートを振り上げた。
回転。風が唸る。
大地を踏みしめ、渾身の一撃を放つ。
金属の軌跡が円弧を描き、
刃が鬼蜘蛛の群れを一掃する。
甲殻が砕け、脚が飛び、毒液が霧状に散る。
斬撃の余波だけで数体が弾き飛ばされ、
リゼリアのスカートがひるがえった。
彼女は軽く息を吐き、
「ふぅ〜、お掃除完了、っと♪」
と満足げに言った。
だが、フロアの反対側──。
迫りくるもう一方の群れの前で、
黒マントを羽織った少女が、面倒くさそうに息を吐いていた。
「……めんどくさい。」
ルシア・グレモルド。
その表情は、まるで昼寝を邪魔された猫のようだった。
だが、瞳の奥の光だけは──冷たい銀の輝きを宿している。
彼女はマントの隙間から、両手をだらりと前に出した。
指先には、淡く白い糸が四本。
それぞれの糸の先に、小さな人形がぶら下がっている。
無機質な顔、木の関節。まるで絵描きが使うデッサン人形のようだった。
「……任せた。ルーク、ビショップ。」
名を呼んだ瞬間、糸に走る魔力が閃光のように駆け抜けた。
人形たちの体が膨張し、
木材の質感が白い金属のように変化していく。
ギィィィ……ンッ!
ルーク──斧を持つ白い重戦士。
ビショップ──メイスを掲げる白い僧兵。
二体の傀儡が、無音のまま立ち上がった。
ルシアが淡々と呟く。
「"傀儡演舞"。」
その瞬間、彼女の両腕が交差する。
指先の糸が光り、二体の傀儡が同時に跳躍した。
ドン──!
床が割れ、轟音が響く。
ルークの斧が弧を描き、前方の鬼蜘蛛を三体まとめて薙ぎ倒す。
遅れてビショップのメイスが振り下ろされ、
蜘蛛たちの頭蓋を砕いた。
圧倒的な制圧。
だが、それは技巧でも先読みでもなく──ただ“力”そのものの暴力だった。
ルシアの糸がぴん、と鳴るたび、空気が軋む。
ルークが振るう斧の衝撃で、鬼蜘蛛の群れがまとめて吹き飛ぶ。
岩壁が砕け、蜘蛛の脚が空中でねじ切れた。
その一撃一撃は、まるで重戦車。
力任せのようでいて、どの一撃も無駄がない。
ルークの腕が振るわれるたび、衝撃波が地を走り、数十体が一瞬で押し潰された。
同時に、ビショップのメイスが淡い光を纏い、地を叩く。
波紋のような魔力の震動が広がり、残った蜘蛛たちの甲殻が砕け散った。
次の瞬間、糸が巻き取られるようにルシアの指先に戻ると──彼女の魔力が一気に跳ね上がる。
「……めんどくさい。」
その一言。
わずかに眉を寄せ、糸を弾く。
たったそれだけで、空間の魔力が共鳴し、音速を超える爆風が生じた。
目にも止まらぬ速度でルークとビショップが突進する。
蜘蛛の群れが、まるで紙細工のように吹き飛び、壁に叩きつけられ、跡形もなく崩れ落ちた。
アラクネルラが息を呑む。
「な、なんだい……あの力は……!? 動きが荒いくせに、全部が致命打じゃないか……!?」
ルシアは表情を変えず、淡々と糸を巻き取った。
「……うん。静かになった。」
言葉と共に、最後の一体が崩れ落ちる。
床に響くのは、蜘蛛の脚が砕け散る音だけ。
彼女の背後に立つルークとビショップが、まるで騎士のように跪く。
ルシアはその姿を見ようともせず、ただ淡々と糸を指に絡め直す。
彼女にとって敵の群れなど、ただ“掃除”に過ぎなかった。
リゼリアの斬撃が鮮やかな弧を描き、
ルシアの傀儡が無表情に敵を粉砕する。
その光景を、ラグナは一歩下がった位置から見ていた。
金色の瞳がわずかに細められ、
「やっぱり……これが最高のメンバー構成だ」
と呟く。
周囲では、アラクネルラの怒号が再び響いた。
「バカな……アタシの鬼蜘蛛たちが……!?」
だがラグナは一切動じない。
結界に手を触れながら、冷静に笑った。
「君が誇る“数”は、僕たちにとって“経験値”なんだよ。」
アラクネルラの美貌が憤怒に染まる。
──だがその怒りすら、ラグナの掌の上にあった。
◇◆◇
鬼蜘蛛の群れが全滅した瞬間、空気が一転した。
静寂──いや、静かすぎる。
アラクネルラの姿が霞に溶け、毒々しい魔力だけがそこに残る。
次の刹那、蜘蛛の女王が咆哮した。
「バカな……アタシの鬼蜘蛛たちが……!? ガキどもに蹴散らされるなんて、そんな……!」
怒りと焦燥が入り混じった声。だが、その瞳の奥にはまだ炎があった。
彼女は低く笑う。
「……まだだ! まだ終わっちゃいないさね!!」
蜘蛛脚を大地に突き刺し、下半身の黒光りする腹部が震える。
「喰らいなッッ!!」
轟音。
次の瞬間、床が割れ、蜘蛛の腹から放たれた無数の白銀の糸が弾丸のように噴き出した。
それは単なる糸ではない。鋼鉄の鞭にも等しい速度と硬度。
一本で岩壁を貫き、束になれば鋼鉄すら粉砕する──そんな破壊の奔流が、一直線にラグナたちへ迫った。
「あわわわっ……!」
リゼリアが思わず身をすくめる。
だが、ラグナは動じない。
彼の目はすでに隣の青年へと向けられていた。
「セディ。」
その一言で十分だった。
セドリック・ノエリア──
黄金の髪を揺らし、冷ややかな瞳で前方を見据える。
無言のまま一歩前に出ると、彼はラウンドシールドを掲げた。
光沢を帯びた銀の盾。その縁には細かく刻まれた刃、真円形の美しいフォルム。
アラクネルラは哂う。
「ハハハハ!! そんな大盾なんかで、アタシの糸が防げるもんかい!!お前たちごと絡め取って、ミイラにしてやるさ!!」
数百、数千本の糸がセディとラグナを包み込もうとした瞬間──
キィィィィィン……。
空気が震える。
耳をつんざくような高音が、盾の中心から発せられた。
アラクネルラの顔が一瞬、苦痛に歪む。
「……な、何だい、この音……!? あの盾から鳴ってる……!?」
糸が盾に触れた瞬間、パァンッ!!
凄まじい破裂音。
それまで一直線に伸びていた糸が、渦を巻くようにねじれた。
次の瞬間、糸は自身の張力に耐えきれず、バチンバチンと音を立てて切断されていく。
絡み合い、千切れ、床に落ちた糸はまるで焼けたように黒く焦げた。
「──なっ!?」
アラクネルラが目を見開いた。
その表情は、初めて“恐怖”を含んでいた。
盾の縁を覆う光が一瞬走る。
セディの唇が、わずかに動いた。
「無駄だ。そんな攻撃は、殿下には届きはしない」
次の瞬間、再びキィィィン……と金属を擦るような高音が鳴り響く。
アラクネルラが警戒して身を引くより早く、セディの姿が掻き消えた。
床に響く、わずかな“滑走音”。
彼の体が、まるで風そのものになったように滑る。
ラグナの前方にいた青年が、気づけばすでに十数メートル先──
アラクネルラの目前まで迫っていた。
「なっ……!? いつの間に……!」
ラグナはその背を見送りながら、口の端を上げる。
「いいぞ、セディ。見せてやれ、ノエリア家の誇りを。」
アラクネルラが二本の蜘蛛脚を前に突き出す。
「舐めんじゃないよッ!!」
鉤爪が金属音を響かせながらセディの剣を受け止めた──その瞬間。
ギャギャギャギャギャギャギャ――ッ!!
轟音。火花。
セディの異形の片手剣が、内部の歯車を唸らせて回転を始めた。
チェンソーのように、刃の表面の歯が連続して走る。
金属と甲殻がぶつかり合い、空気を裂く悲鳴が響く。
「……!」
火花の中、セディは無言だ。
その瞳には一片の感情もなく、ただ“守るべき者”の姿だけが映っている。
彼にとってこの攻撃は、怒りでも復讐でもない。
使命の一部にすぎなかった。
甲高い音を立て、蜘蛛脚の一本が――折れた。
続けざまに、二本目が粉砕され、地面に叩きつけられる。
黒い体液が飛び散り、アラクネルラが絶叫した。
「ぎ……ギャアアアアアッ!!」
蜘蛛脚を失い、よろめく魔女。
セディは一歩も引かない。
盾を左腕に戻し、血の雫がかかるのも構わず、ラグナの前に立つ。
ラグナは指先に魔力を集めながら、微笑んだ。
「流石はセディ。ノエリア家の秘蔵っ子。
学生の身でありながら、エルディナ王国の盾である"神聖騎士団"の一人に選ばれた天才。うん、強キャラ強キャラ。」
その軽口を聞きながらも、セディの横顔には一切の笑みがない。
彼の紺青の瞳には、ただ冷たく燃える誇りの光があった。
「殿下の護衛に、言葉は不要です。」
ラグナはそんなセディを見て、肩を竦めて笑った。
「相変わらず真面目だねぇ。ま、そこが君の良いところだけど。」
焦げた糸の臭いが漂い、紫の魔力の残滓が宙に舞う。
アラクネルラの苦悶の呻きが、遠くで微かに響く中──
セディの盾からは、まだ低く、キィィィン……という金属音が鳴り続けていた。
まるで、その余韻が“勝利”そのものを刻んでいるかのように。




