第206話 side ???① ── "覇空塔" 第20階層──
──その塔は、世界の果てからでも見える。
エルディナ王国の南方、地平を突き破るようにしてそびえ立つ超巨大建造物。
古の時代に“神々の試練”として築かれたと伝わるその塔は、誰もその全貌を見たことがない。
名を、"覇空塔"。
高さは千丈、階層は百。
頂上──第百層には、「傲慢の魔王」が玉座を構えていると言われていた。
だが、これまでにその姿を拝んだ者は一人もいない。
歴戦の冒険者たちが挑み、命を散らし、その最高到達記録は“十八階”。
塔は静かに、そして永遠のように、人間たちの奢りと欲を見下ろしてきた。
……その二十階層。
深紅の絨毯が敷かれた広間の中央で、一人の魔人が、退屈そうにため息をついていた。
下半身は黒曜石のような光沢を放つ巨大な蜘蛛の脚。
上半身は、人間の美女──いや、妖艶な悪魔そのもの。
名を、"禍蜘蛛のアラクネルラ"。
彼女はゆるやかに玉座に腰をかけ、金糸の櫛で自らの長髪をとかしていた。
「ふぅ……今日も挑戦者ゼロ、ねぇ。何十年、何百年……“守護者”の座を任されるのも考えものさねぇ……」
艶やかな唇が不満げに歪む。
“傲慢の魔王”直々に与えられたこの役職は、名誉であり、権威の象徴。
だが同時に──恐ろしく退屈な“監視の檻”でもあった。
「たまには……ちょっとした刺激が欲しいところだよねぇ……」
赤い舌先で唇を舐めながら、長い指で爪を磨く。
彼女の周囲には、大小さまざまな鬼蜘蛛たち──蜘蛛の魔獣が群がり、沈黙の中で女王の機嫌を伺っている。
と、そのときだった。
「ア、アラクネルラ様っっ!!」
「緊急事態です!!」
部下の鬼蜘蛛たちが慌てふためきながら部屋へ駆け込んできた。
突然の慌てように、アラクネルラは細い眉をひそめる。
「……うるさいねぇ。何の騒ぎだい? まさか、下層の魔物どもがまた寝返ったとか言うんじゃないだろうねぇ?」
「い、いえっ! そ、そうではなく……! 一時間ほど前に、“十八階層”で新たな攻略者が現れまして!」
「お、おそらくこのまま十九階層を越えて……二十階層に到達するかと!」
アラクネルラの瞳が、驚きに揺れた。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
「へぇ……? ついに来たのかい、挑戦者が。」
長い脚が床を這い、カツ、カツ、と妖しく響く。
蜘蛛の糸を編むように指を滑らせながら、彼女は笑みを浮かべた。
「面白いじゃないかい……♪」
その声は甘く、しかし冷たく響いた。
「それで……その冒険者たちが十九階層を突破するのに、どれくらいかかりそうなんだい? 二日? 三日? それとも、一週間?」
しかし、部下たちはお互いに顔を見合わせ、震える声で答えた。
「そ、それが……!」
「──ま、間もなく十九階層も……突破されそうです!!」
アラクネルラの動きが止まった。
「……は?」
空気が、一瞬で凍る。
長いまつげの下で、金の瞳が大きく見開かれた。
(……そんな、馬鹿な……!?)
(十九階層は、広大な迷宮フロア。幾重にも張り巡らされた幻影の回廊と、属性トラップの巣。)
(そこに配備された魔物たちは、それぞれ“弱点を突かねば倒せぬ”特殊種ばかり……!)
(それを、たったの一時間で、攻略だと……?)
彼女の胸中に、ざらりとした不安が走る。
(そんなこと、あるわけがない……。──“あらかじめ正解のルートを知ってる”のでもなければ……!)
その瞬間だった。
ボガァァァァァン!!!
轟音とともに、二十階層の巨大な黒鉄の扉が爆ぜた。
魔力障壁が粉々に砕け、風圧が荒々しく吹き抜ける。
鬼蜘蛛たちが「ひぃっ!!」と悲鳴を上げ、壁際に吹き飛ばされた。
「な、何事だいっ!? 防壁は……っ!」
アラクネルラが振り返る。
吹き荒れる煙と粉塵の向こう──そこには、光を背にした四つの人影が立っていた。
先頭の男は、陽光を浴びて輝く金髪の青年。
その顔は整いすぎていて、まるで“物語の主人公”そのもの。
軽装ながら、腰の剣には宝石のような魔石が嵌め込まれている。
どこか高貴で、しかし軽薄な笑みを浮かべながら、彼は口を開いた。
「──うーわ、懐かしいな。二十階層のボスって、アラクネルラだったっけ? やっば!まんまのやつ出てきたじゃん。」
その声は、まるで再会を楽しむ少年のようだった。
アラクネルラは眉をひそめる。
……何だい、この小僧。
そして背後から、軽い足音と共にもう一つの声。
「ラ、ラグナ様〜っ!! またそんな強引な扉の開け方をなさってぇ〜っ!」
──ラグナ。
どうやら、あの青年がその名らしい。
アラクネルラは、金の瞳を細めた。
その口元には、これまでにないほどの笑みが浮かんでいた。
「……ふふ。ようやく退屈が終わるみたいだねぇ。」
そして彼女は、八本の脚をしならせながら、ゆっくりと立ち上がった。
広間全体に、紫色の魔力の霧が漂い始める。
覇空塔二十階層、久方ぶりの来訪者。
この日、塔の静寂が初めて破られた。
◇◆◇
爆ぜた扉の向こう。
立ち上る煙と熱の中から、黄金の髪が光をはね返した。
先頭に立つ青年は、日光を纏うかのような金の長髪を後ろに流し、額の横で軽く結んでいる。
冒険者風の軽装だが、肩から掛けたマントの仕立てや腰の装飾、革の質一つとっても、凡俗とは一線を画していた。
高貴──だが、それを意識していない者だけが持つ、自然体の気品。
青年は、破壊された扉の残骸を軽くまたぎながら、口角をゆるりと上げた。
「……うーわ、出た。二十階層のボスって、アラクネルラだったよな。懐かしっ。」
その軽すぎる口調に、場の空気が一瞬、妙な温度を帯びた。
アラクネルラは、蜘蛛の足先で床を叩きながら、無意識に眉間に皺を寄せる。
(……“懐かしい”? 何を言ってやがる、この小僧……)
青年の瞳は、陽光のように明るい金色。
まるで全てを見透かしているような、だがその実どこか夢見がちな光。
その異様な存在感に、鬼蜘蛛たちは一歩も動けず、息を潜めていた。
「ら、ラグナ様ぁ〜!!」
間延びした声が、慌てて彼の背後から響いた。
明るい茶髪のセミロングをゆるく巻き、白と黒のメイド服に身を包んだ少女が、パタパタと駆けてくる。
ふわふわと揺れるスカートの裾が、戦場の空気には似つかわしくない柔らかさを運んでいた。
「もう〜っ! またそんなド派手な登場をしてぇ! 扉、直す人の身にもなってくださいよ〜!」
ラグナと呼ばれた青年は、ヘラリと笑って振り返る。
どこか少年のような、悪戯っぽい笑顔だった。
「大丈夫大丈夫。どうせ扉も“リスポーン”するんだし。」
「知ってた? オブジェクト破壊でも、ちょっとだけ経験値入るんだよ。」
「け、けいけんち……?」
メイドの少女──リゼリアは、首を傾げながら困り顔を浮かべた。
彼女の瞳は琥珀色で、怯えよりも“理解できない不安”が滲んでいる。
「……リゼリア。」
その後ろから、低く落ち着いた声が響いた。
長身の青年が一歩前に出る。
オレンジがかった金髪を後ろでまとめ、重厚な剣と盾を装備したその姿は、王国の騎士そのものだった。
声は冷静で、どこか諭すようでもある。
「殿下の行動に、いちいち驚いていてはキリが無い。敵を注視しろ。……そして、俺は殿下を守る。」
「うん、頼りにしてるよ、セディ。」
ラグナは軽く笑って、親しげに肩を叩いた。
「流石は僕の“盾”だね。」
その笑顔には信頼と、ほんの少しの悪戯が混ざっていた。
セドリック──彼は一瞬だけ、表情を緩めたが、すぐに真剣な眼差しに戻る。
「……殿下の“軽口”も、昔より切れ味を増したようですね。」
「それ、褒めてる?」
「……解釈はお任せします。」
軽い冗談の応酬。だがその空気は、不思議と温かかった。
この四人が“ただのパーティ”ではないことを、誰もが直感的に悟る。
そんな中、さらに奥の闇から、ひときわ静かな気配が歩み出た。
マントと一体化したウサギ耳付きのフード。
水色の髪がフードの下から少し覗き、長いマフラーが口元を隠している。
少女の歩みは遅く、静かで、眠っているように淡い。
ラグナがくるりと振り返り、軽く片手を挙げる。
「おーい、大丈夫かい? 転校生。なんか、いつもより眠そうだね。」
「……大丈夫。」
彼女は一拍置いて、淡々とした声で答えた。
「……あんまり、動きたくないだけ。」
その無表情な言葉に、リゼリアが慌てて口を挟む。
「ルシアさ〜ん! もう少し、やる気出してくださいよぉ〜!」
「そう。私はやる気がない。」
まるで、眠りながら喋っているかのような淡々としたトーン。
その声は不思議と柔らかく、しかし空気の温度を一度下げるような冷たさを持っていた。
セディがため息をつく。
「……実力はあるが、やる気がないのが玉に瑕だな。」
ラグナは苦笑いを浮かべ、手を頭の後ろで組む。
「まぁまぁ、やる気だけあって実力が無いよりは、遥かにマシさ。」
ルシアは視線を上げることもなく、ただ「……うん」と小さく返した。
その声が、なぜかやけに響いた。
アラクネルラは、その一連のやり取りを沈黙のまま眺めていた。
──何だ、この連中は。
目の前に“階層守護者”が立ちはだかっているというのに、緊張の欠片もない。
自分の縄張りに入ってきて、まるで観光でもしているような態度。
(ふざけた小僧どもめ……。だが……奇妙だねぇ。)
(さっきまで、このフロアには何の気配もなかった。それが今、異様なほど濃い魔力が渦巻いている……。)
アラクネルラはゆっくりと、艶やかな唇を吊り上げた。
蜘蛛の脚がカツ、カツ、と床を鳴らすたび、紫の魔力が滴のように広がる。
「よくぞ、ここまで辿り着いたねぇ、坊やたち。」
声は甘く、だが底冷えするような毒を孕んでいる。
「その若さで、覇空塔の二十階層に到達するなんて……さぞや高名な冒険者なんだろうねぇ。」
ラグナたちは一瞬だけ顔を見合わせた。
その呑気な空気が、アラクネルラの苛立ちをさらに煽る。
「ふふふ……楽しみだよ。」
艶やかな舌が唇をなぞる。
「アンタたちみたいな若輩の冒険者が、このアタシ──"禍蜘蛛のアラクネルラ"を相手に、どこまで抗えるかねぇ。」
彼女が舌なめずりをする音が、空気の中で艶めかしく響いた。
それは獲物を前にした捕食者の音。
だが──。
ラグナの瞳には、恐怖の色は欠片もなかった。
むしろ、ほんの少しの懐かしさと、軽い期待すら滲んでいた。
「ふーん……やっぱ、戦闘前の口上も、そのまんまなんだね。」
「……は?」
アラクネルラが眉をひそめた瞬間、
ラグナの背後で、三人の仲間がそれぞれ構えを取る。
空気が、一変する。
蜘蛛の糸が張り詰める音と、心臓の鼓動が重なった。
世界の空気が凍りつくような沈黙──
それが、“覇空塔二十階層の開戦の狼煙”だった。
◇◆◇
空気が揺れた。
ラグナがひらりと手を振ると、その仕草に合わせるように、彼の背後で吹き荒れていた魔力の風が一瞬だけ止む。
「違う違う。」
少年のような無邪気な笑みを浮かべ、ラグナは軽く首を振った。
「僕たちは、冒険者じゃないよ。」
その言葉に、アラクネルラのまぶたがぴくりと跳ねた。
「……何だって?」
低く、湿った声。
魔力の糸が空中で震え、微細な蜘蛛糸の粒子が光を反射して揺らめく。
ラグナは肩をすくめると、何気なく自分の二の腕を指でトントンと叩く。
そこには銀の留め具で固定された青い腕章が巻かれていた。
「ほら、見てみなよ。僕ら、ほら……これの所属。」
彼が見せるのに合わせて、後ろの三人も静かに腕章を掲げた。
竜が剣に絡みつき、王冠の紋章の下で炎を噴く──それは、エルディナ王国の王家直属機関を示す象徴。
アラクネルラの目が鋭く細まる。
その瞳の奥に、青い怒りの火が宿る。
「──その紋章……まさか、あんた達……!」
唇を噛み、蜘蛛の脚がギチギチと鳴った。
その表情の変化を面白がるように、ラグナはてへっと舌を出し、軽い調子で返す。
「そ。僕たち、ルセリア中央大学の学生で〜す。」
片手を頭の後ろに回し、もう片方でピースサインを作る。
その軽さに、アラクネルラの額の青筋が一際濃く浮かび上がった。
「な……何を言ってるんだい、アンタ……」
アラクネルラの声が震える。
「ここが……どこだと思っている……? “覇空塔”だぞ!? 学生風情が戯れに登って良い場所じゃない!」
ラグナはニッと笑って肩をすくめた。
「いやぁ、君の言う通り、ここは危険なダンジョンだよ。でもさ──」
彼は視線を天井に向ける。
その目はどこか懐かしげで、同時に愉悦を含んでいた。
「この“覇空塔”ってさぁ。10階ごとに守護者を倒すと、レアアイテムがもらえる“仕様”になってるんだよね。」
「だから、二学期に起こる“イベント”に備えて、ちょっと先取り周回しておこうかな〜って。」
リゼリアが「あわわ……また始まったぁ……」と頬を押さえ、セディは深くため息をつく。
「殿下、また訳の分からない言葉を……」
「ま、要するに“サブクエスト消化”ってやつさ。」
ラグナは軽く指を鳴らす。
その笑顔には、微塵も冗談の色がない。
アラクネルラは、言葉を失っていた。
眉間に皺を寄せ、頬を引き攣らせながら低く呟く。
「……冒険者ですらない学生風情が、訳の分からないことをベラベラと……」
その肩から、どろりと紫の毒気が滲み出す。
「“傲慢の魔王”様から守護者の座を賜ったこのアタシを……相手にできるとでも思ってるのかいッ!?」
叫びと共に魔力が炸裂した。
紫電が床を走り、蜘蛛糸が空中で絡み合って刃と化す。
リゼリアが悲鳴を上げそうになるのを、セディがすかさず庇う。
ルシアは無表情のまま一歩も動かず、指先で糸を触れるように空気を探った。
だが、ラグナは微動だにしなかった。
むしろ、その光景に微笑みすら浮かべていた。
「相手にできるも何も、君のことは何十回も倒してるんだよね。」
「──なに……?」
アラクネルラが目を細める。
「“ダンジョン周回”でさ。もう攻略法はバッチリ。ほら、ここに全部刻まれてる。」
ラグナはこめかみを指でトントンと叩いた。
笑みは明るいのに、どこか底知れない狂気があった。
(“攻略法”? “周回”……?)
(何を言ってやがる……? それに、この異様なまでの余裕は……!)
アラクネルラの心臓が、ほんのわずかに脈を速めた。
それは、怒りではなく──恐怖の感情に近い。
その瞬間、ラグナが「あ」と思い出したように声を上げ、軽く手を叩いた。
「そうだ、自己紹介、まだだったね!」
「これは“ゲーム”じゃなくて“現実”なんだし、ちゃんと名乗らなきゃ。」
彼は胸を張り、まるで演説でもするかのように笑う。
「僕の名は──ラグナ・ゼタ・エルディナス。」
その名を告げると同時に、塔全体にわずかな振動が走った。
名に宿る“王の血”が、空気を震わせる。
「──エルディナ王国、第六王子さ。」
アラクネルラの瞳が大きく見開かれた。
「な……に、今……なんて……?」
声が掠れる。
ラグナはそんな彼女の反応を面白がるように、愉快そうに笑う。
「んで、こっちの堅っ苦しいのが僕の親友、セドリック・ノエリア。」
セディは静かに一礼した。
「……殿下。紹介の仕方、もう少し考えてください。」
「次に、この可愛いメイドちゃんが――リゼリア・ノワール。」
「は、はいっ!? わ、わたし!? か、可愛いだなんて……そ、そんなぁ……!」
顔を真っ赤にし、袖をモジモジと握る姿に、アラクネルラのこめかみがまたピキリと鳴る。
「で、そっちの不思議ちゃんが──ルシア・グレモルド。……で、合ってるよね?」
ルシアは眠たげな瞳でラグナを見上げた。
「……うん。いいよ。」
「だそうです。」
ラグナは笑顔を保ったまま、アラクネルラに視線を戻す。
アラクネルラの表情は、もはや呆然を通り越していた。
「え……エルディナ王国の、第六王子……? まさか……お前が……“大賢者王子”……!?」
その名を口にした瞬間、空気が変わった。
彼女の背筋に、ぞわりと悪寒が走る。
“傲慢の魔王”でさえ一目置く、天才王子──その噂を、彼女も聞いたことがあった。
だが、まさか……この軽薄な笑みを浮かべる青年が、あの存在だというのか。
ラグナは片目を細め、唇をゆるく上げる。
「ご明察。」
「僕こそが、その“大賢者王子”。」
そして──ゆっくりと手を胸に当て、言葉を続けた。
「そして、この──"世界"の、主人公さ。」
その瞬間、彼の瞳に宿る金色が、異様な輝きを放った。
それはまるで、未来を見通す者の光。
──そのスキルの片鱗が、アラクネルラの背を震わせた。
「な、何を……言って……」
アラクネルラは後ずさりながら、己の中の“恐怖”を認めまいとする。
だが、確かに感じていた。
目の前の青年は──己の死を、すでに知っている。
ラグナ・ゼタ・エルディナス。
その笑顔は、狂気にも似た自信と、絶対的な優越を混ぜ合わせたようなものだった。
「……じゃ、始めよっか。サブクエスト、"覇空塔"攻略戦・二十階層ボス:アラクネルラ戦。」
その宣告に、紫の魔力が爆ぜた。
塔が唸りを上げる。
“覇空塔”20階層が、戦場となる──。




