第205話 平和の夜明け、微睡みの街で
うっすら白んだ空を見上げて、俺は思わず息を漏らした。
「うわ……もう夜が明けてるじゃん……」
気づけば、東の空が淡い金色に染まりはじめていた。
冷たい夜気の中に、かすかにパンの香りが混じる。どうやら屋台のフェンリルの誰かが、朝食の仕込みを始めたらしい。
テーブルの向かいでは、佐川くん、天野さん、鬼塚くんの三人が寄り添うように突っ伏して寝息を立てている。
影山くんだけはまだ座ったまま、コクリコクリと船を漕いでいた。
……まあ、そりゃそうだよね。
俺が前世のことを話した勢いで日本のこと、この世界のこと、夜通し語り合ってしまったんだ。
俺は睡眠が必要ない体だからいいけど、彼らは普通の高校生だもんね。
付き合わせちゃって、ごめんね!
ふと、周囲を見渡す。
焚き火の明かりがまだそこかしこに揺れていて、起きているのはほんの数人(数匹)。ほとんどの人はもう夢の中だ。
召喚された高校生たちの多くは、巨大なフェンリルたちに寄りかかるようにして眠っていた。
柔らかな毛並みに顔をうずめるようにして、無防備に。
──リュナちゃんは、黒いマスクを付けたままグェルくんに体を預けて寝ていた。
そのグェルくんはというと、さらに巨大なジュラ姉の腹に寄りかかって寝息を立てている。
そして、そのリュナちゃんの膝の上では、フレキくんが小型犬モードのまま丸くなっていた。
なんだ、この幸せな寝相リレー。
思わず、クスッと笑みがこぼれる。
こんな平和な光景を見られる日が来るなんて、ほんの少し前までは思いもしなかった。
その時、広場の奥──まだ朝靄の残るテーブルの方から、二つの影がゆっくりと近づいてきた。
「……あ、アルドくん! アルドくんもまだ起きてたんだねぇ!」
明るい声が響く。ブリジットちゃんだった。
両手でスカートの裾を軽くつまみながら、ふわりと小走りで駆けてくる。
朝日に照らされた金色の髪が、柔らかく揺れてきらめいていた。
かわいい。……素直にそう思った。
その隣を歩く一条くんは、対照的に完全にゾンビモード。目の下にはくっきりクマ、足取りはふらふらだ。
「……あ、アルドさん。起きてらしたんですね……お疲れ様です……」
力なく会釈する姿に、思わず苦笑してしまう。
「う、うん。俺、睡眠取らなくても平気な体質だからね。一条くんこそ大丈夫? なんか顔が……すごいことになってるけど」
「……今後の我々召喚者の身の振り方について、ブリジットさんと打ち合わせが……長引いてしまいまして……。恥ずかしい話ですが、猛烈な睡魔が……」
言葉の途中で目が半分落ちかけている。
ブリジットちゃんが、少し申し訳なさそうに両手を合わせた。
「ごめんねぇ、一条くん! エルディナ本国に報告書出さなきゃだから、確認事項が多くって!」
「いえ、とんでもない……。僕らを快く受け入れてくださったブリジットさん達には、感謝しかありません……」
「で、では……僕は少し、仮眠を取らせていただきます……。」
そう言って、彼はポメちゃん(5メートル級ポメラニアン)の方へヨロヨロと歩いていき──
ぽすっ。
そのまま倒れ込むように身を預け、気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
……最初に会った時は、彼ら召喚者たちはグェルやポメちゃんを「倒すべきモンスター」だと思って剣を構えていたのに。
今はこうして、互いに体を預けて眠っている。
その変化が、なんだか嬉しかった。
「ふふっ」
小さく笑うと、隣でブリジットちゃんも同じタイミングで笑った。
「えへへっ」
その声が重なって、俺たちは顔を見合わせた。
一瞬だけ視線が合い、どちらともなく、もう一度笑う。
夜明けの光が、彼女の頬を淡く照らした。
──こんな穏やかな朝が、ずっと続けばいいね。
◇◆◇
静かな風が吹いていた。
夜が終わり、朝が世界を満たしていく。
薄い雲を透かして差す光が、石畳の広場を金色に染めていた。
俺とブリジットちゃんは、取り残されたようにその景色を眺めていた。
焚き火はほとんど消えかけ、パチリと木片がはぜる音だけが響いている。
「……お疲れ様。眠くない?」
俺がそう尋ねると、ブリジットちゃんは小さく笑って首を振った。
その笑みは夜明けよりも柔らかい。
「“真祖竜の加護”のスキルを身につけてからね、眠らなくても平気になったんだ。もちろん、眠ることも出来るし、寝たら気持ちいいんだけどね!」
彼女はそう言いながら、空を見上げた。
頬を撫でる朝の風が、金色の髪をそっと揺らす。
その横顔が美しすぎて、息を呑む。
俺は微笑んで頷いた。
「そっか。」
ほんの短い会話なのに、不思議と心が満たされていく。
だが、ブリジットちゃんは次の瞬間、少しだけ真面目な顔になって俺の方を見た。
「──ねぇ、この“真祖竜”ってさ……アルドくんのこと、でしょ?」
その問いに、胸が少しだけ跳ねた。
……まあ、そろそろバレるよね。
俺は静かに頷いた。
「……うん。そうだよ。」
ブリジットちゃんは一瞬、驚いたように目を瞬かせたあと──ふっと、笑った。
「嬉しい!」
その言葉に、俺は思わず聞き返してしまう。
「……嬉しい?」
「うん!」
ブリジットちゃんは、太陽に向かって笑うように言った。
「だって、“真祖竜の加護”って──アルドくんが、あたしのことを守ってくれてるってことでしょ?」
「強いスキルをもらえたとか、そういうことより……あたし、このスキルがアルドくんとの“繋がり”だって思えるのが、一番嬉しいんだ。」
彼女の声は風に乗って、やさしく響く。
朝の光が瞳に反射して、小さな星みたいに輝いていた。
胸が痛いほどに鼓動が高鳴る。
「ブリジットちゃん……」
思わずその名前を呼ぶと、彼女は少しだけ頬を染めて──すっと俺の肩に頭を乗せた。
「初めて会った時から、ずっとずっと、あたしのことを守ってくれて……ありがとね。」
「──大好き。」
静かに、けれど確かに届くその言葉。
世界の音がすべて消えて、胸の奥だけが熱を帯びた。
視線を向けると、ブリジットちゃんもこちらを見ていた。
まっすぐに。
そのまま、二人の顔がゆっくりと近づいていく。
呼吸が重なる。
距離がなくなっていく。
あと、数センチ。
──その時だった。
クンクン……。
鼻が反応した。
……スパイシー? カレー?
いや、まさか。
ブリジットちゃん、カレー食べた?
違う。
この匂い、かなり近い。
俺は反射的に目を開き、横を向いた。
そこにいた。
皿を片手に、カレーをスプーンですくいながら、こちらを凝視しているマイネさん。
その隣では、同じく皿を持ち、顔色を真っ青にして口元を押さえながら震えているベルザリオンくん。
しかも、めちゃくちゃ近い。
1メートルも離れてない。
「オワーーーーッ!?!?」
俺は真っ赤になって尻餅をついた。
ブリジットちゃんも、目を閉じたままキス顔で固まっていたが、気配に気づいてゆっくり目を開け──
「は、はわわっ!?!? マ、マイネさんっ!?!? ベルザリオンさんもっ!?!?」
顔が一瞬で真っ赤になり、ぴょんっと飛び退いた。
マイネさんは、スプーンを口に運ぶ手を止めないまま、頬をわずかに赤らめて言った。
「す、すまぬ……邪魔するつもりは無かったのじゃが……何というか、見入ってしもうたのじゃ……」
ベルザリオンくんはというと、顔を青白くしながらも律儀に姿勢を正し、両手でカレー皿を掲げながら言った。
「も、申し訳ありません! 道三郎殿、ブリジット殿! お、お気になさらず、どうか続きを……!」
「出来るか!!!」
二人同時にツッコミを入れた俺たちの声が、朝の静寂を破るように響き渡った。
マイネさんは「む、むぅ……」と肩をすくめ、ベルザリオンくんは胃を押さえてふらりと揺れる。
どっちも何してんの!?
……ほんと、お願いだからこの世界、もう少しだけ空気を読んでほしい!
◇◆◇
俺とブリジットちゃんは、頬を真っ赤に染めたまま互いに視線を逸らした。
さっきまでの空気が甘すぎたせいで、息をするのも気恥ずかしい。
咳払いを一つ。
「えーっと……ま、マイネさん達、起きるの早いね? 朝からカレー? 好きだねー」
ブリジットちゃんも慌てて同調するように笑った。
「そ、そうだよねっ! ま、まさか徹夜で……とかじゃないよね!?」
──が、マイネさんは不思議そうに首を傾げた。
「何を言っておる? 妾は寝てなどおらぬぞ?」
「……え?」
俺とブリジットちゃんは顔を見合わせた。
マイネさんの銀色の瞳はキラキラしている。全く眠気の欠片もない。流石は大罪魔王。
その言葉の意味を確かめるように、チラリとベルザリオンくんに視線を向けると──
「ウプッ……」
ベルザリオンくんが口を押さえ、青い顔でよろめいていた。
「……お嬢様は、このめでたき夜に寝るなど勿体ないと申され……一晩中、カレーを……食べ明かしておいでです……」
いや、何言ってんの?
“カレーを食べ明かす”って、そんな言葉聞いたことないんだけど。
“酒を飲み明かす”のカレーバージョンかな?
満腹中枢とか、無いんか?
ブリジットちゃんが困ったように笑う。
「マイネさん……もしかして本当に徹夜で食べてたの?」
「うむ。妾は強欲じゃからのう!」
マイネさんは空になった皿をコトリとテーブルに置き、堂々と胸を張る。
「気に入った物は、とことん味わい尽くさねば気が済まぬのじゃ。これぞ妾の流儀じゃ!」
誇らしげに胸を張る姿は、まるで勝利宣言。
いや、それ“強欲”っていうより“暴食”では?
ちらりと横を見ると、ベルザリオンくんが虚ろな目で皿を見つめていた。
忠義心が限界突破してる。
ほんと律儀すぎる。
というか、一緒に起きてるのはまだわかるけど、付き合ってカレーまで一緒に食べる必要無くない?
マイネさんはそんな彼に気づき、少しだけ頬を染めた。
そして、ふいに真面目な表情に変わる。
「……ブリジット、そして道三郎よ」
呼ばれた俺とブリジットちゃんは同時に背筋を伸ばした。
「お主たちが居なければ、スレヴェルドはベルゼリアの手に落ち、妾の命も無かったじゃろう」
「それだけではない。道三郎がいなければ──このカレーが無ければ、妾は本当のベルと会う事すら出来なんだやも知れぬ」
“ベル”。
それは、マイネさんが再会を果たした、もう一人の「ベルザリオン」。
──時間を超えて結ばれた、奇妙で強固な絆。
マイネさんはその名を口にすると、深く息を吸い込んで、静かに頭を下げた。
「……心からの礼を」
その声はいつもの尊大さとは違って、澄んでいた。
胸の奥に直接響いてくるような、まっすぐな感謝の音だった。
ベルザリオンくんも、フラつきながらも膝をつき、苦しげな表情を無理やり引き締めた。
「道三郎殿は、一度ならず二度、三度と、私を救ってくださいました……」
「我ら強欲魔王軍は、今後──万が一、新ノエリア領が危機に瀕した際には、何を差し置いても助太刀に参ります……」
「本当に……ありがとうございました……」
言葉の最後に小さく“ウッ”とえずく声が混じったが、それでも気持ちは痛いほど伝わった。
ブリジットちゃんは慌てて手を振る。
「そ、そんな! 困った時はお互い様だよ! ねっ、アルドくん!」
「うん、そうだね。マイネさんたちがいてくれたおかげで、召喚された子達を無事に保護出来たってのもあるし!」
ブリジットちゃんの笑顔は、夜明けの光みたいに優しかった。
マイネさんは一瞬だけ目を細め、少し照れくさそうにそっぽを向いた。
「──やはり、底抜けのお人好しじゃな、お主らは。」
そう言いながらも、皿の上のカレーをスプーンでそっと掬い──
最後の一口を、静かに口へ運んだ。
その仕草が、どこか祈りのように見えた。
思わず、俺は笑ってしまう。
滑稽で、真面目で、そして少し泣ける。
戦いの果てにあるこの朝は、きっと忘れられない一幕になるだろう。
◇◆◇
マイネさんは、空になった皿を静かにテーブルへ置いた。
金色の髪が朝日を受けて光り、その横顔にはどこか満ち足りた表情が浮かんでいる。
「お主ら二人には、本当に感謝しておるのじゃ」
その声には、いつもの誇り高き魔王の響きと、ほんの少しの照れくささが混じっていた。
彼女はチラリと後方へ目を向ける。そこでは、リュナちゃんとフレキくんが寄り添うように寝息を立てていた。
その光景を見て、マイネさんはふっと口元を緩める。
「無論、咆哮竜やフェンリル王……それに、あの“色欲”のうつけ者にも、な。一応、じゃが」
皮肉っぽく笑いながらも、その声には憎めない温かみがあった。
朝の空気に溶けるような、柔らかな笑み。
──だが、次の瞬間。
「おいおい、マイネ。お前が俺に感謝するなんて、どういう風の吹き回しだ?」
背後から、聞き慣れた軽い声がした。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、サングラス越しに薄く笑みを浮かべた色欲の魔王、我らがヴァレン・グランツ。
陽の光を背に受け、まるで登場シーンを心得ているかのようなポーズで。ロム兄さんの如く。
……いつの間に!?
ブリジットちゃんが思わず口にするより早く、マイネさんの顔が見る見るうちに赤くなっていく。
「ヴァ、ヴァレン・グランツ!! き、貴様……いつからそこにおった!?」
「そんなことはいいじゃないの」
ヴァレンは肩をすくめ、ニヤリと口角を上げた。
「ほらほら、本人がここにいるんだ。感謝の言葉を“直接”伝えるチャンスだぜ?」
「やかましい!! 死ねっ!!」
マイネさんは顔を真っ赤にしながら怒鳴り、ドカドカと足音を立てて去っていった。
その背中からは、羞恥と怒りが入り混じった湯気が立ち上っているように見えた。
ヴァレンはというと、ククク……と愉快そうに笑いながらその背を見送る。
「クク……可愛いじゃないの、あのツンデレ魔王様は」
「ヴァレンさん!」
ブリジットちゃんがぱっと笑顔を向ける。
「お帰りなさい!」
俺も苦笑しながら言った。
「も〜……マイネさんを煽るのやめなよ、ヴァレン」
ヴァレンは両手を軽く広げて言い訳するように笑う。
「悪い悪い。でも見たか? あの顔。あんな赤面するマイネ、なかなか見られねぇだろ?」
イタズラ少年のような笑みを浮かべるヴァレン。
ほんとこの男、どこまでもマイペースだな。
だがその時だった。
ベルザリオンくんを従えてスタスタと去っていく途中だったマイネさんが、ピタリと足を止めた。
朝の静けさが、すっと張り詰める。
「……あ、そうじゃ」
嫌な予感しかしない。
マイネさんはゆっくりと振り返り、胸を張って高らかに言い放った。
「ヴァレン・グランツよ!! 道三郎とブリジット、キスしようとしておったぞ!!」
「はぁぁぁぁぁっ!?!?」
ブリジットちゃんの悲鳴が炸裂した。
俺も全身の血が逆流する感覚に襲われる。
「なっ……なななな何言ってくれてんのマイネさんっ!?!?」
ヴァレンは一瞬、固まった。
そして小さく呟く。
「……えっ」
顔から音がする勢いで血の気が引いていく。
マイネさんはさらに畳み掛けるように、煽るような笑みを浮かべた。
「いやぁ、実にロマンチックな雰囲気じゃったのお!! お主は現場におらなんだから、見れんくて残念じゃったのお!! 妾は最前席で観覧させてもらったがな!! いやはや、眼福眼福!!!」
なんでそんな大声で実況するのこの人!?!?
俺とブリジットちゃんは、もはや逃げ場のない戦場に立たされていた。
全身が熱くて、頭から湯気出そう。
「マ、マイネさん!?!?」
「き、急に何言い出しちゃってんの!?!?」
だがマイネさんは涼しい顔で「妾は真実を述べただけじゃ」と言い残し、颯爽と去っていった。
残されたのは、魂の抜けかけたヴァレン。
「ど……どうして……俺はそんな重要イベントを見逃してしまったんだ……」
ガクン、と膝から崩れ落ちる。
地面に両手をつき、肩を震わせながら呟く。
「俺は、いつも間に合わない……。大切なものは、いつだって……指の間からこぼれ落ちていく……」
故郷の危機に駆けつけたけど間に合わず家族を失った男の様なリアクション。
落ち込み過ぎでしょ。どんだけ見たかったのよ。
ヴァレンは涙を一筋流し、顔を上げた。
その視線が、俺とブリジットちゃんに向く。
「相棒……ブリジットさん……今からでもいい。ここで、チュッチュッと――」
「出来るか!!!」
「お、お断りしますっっ!!」
俺とブリジットちゃんのツッコミが同時に炸裂した。
ヴァレンは撃沈。地面に突っ伏したまま、しばらく動かない。
静寂。
空を見上げると、朝日はもう完全に昇っていた。
笑い声、寝息、カレーの匂い、そして馬鹿げたやり取り。
それらが全部混ざり合って、確かに“平和”と呼べる時間がそこにあった。
──こうして、ベルゼリアとの戦いは幕を閉じ、俺たちに、また楽しくもカオスな日常が戻ってきたのだった。




