第199話 アルド vs. 魔導帝国ベルゼリア② ──竜のカウントダウン、帝国降伏──
ベルゼリア帝都、"黒曜の円卓"。
漆黒の大理石で造られた円卓の上には、いくつもの金の燭台が整然と並び、火は消されて久しい。
代わりに、魔導光が白く冷たい影を落としていた。
誰も口を開かない。
皇帝アウストリアスは、円卓の正面に腰を下ろしていた。
その両脇には宰相ルクレイン、そして軍務卿・ヴァルシュタイン将軍。
向かい側の椅子には、銀髪の少年──アルドが、何食わぬ顔で座っている。
ヴァルシュタインはまだ震えていた。
数刻前まで、己の四肢はこの少年の“竜渦”に捕らわれ、血の気を奪われていた。
今も幻肢のように、手足の感覚が曖昧だ。
戦意など、とうに霧散している。
彼の目に映るアルドは──まるで、死そのものの化身のように思えた。
ルクレインは、口元に薄く笑みを浮かべながらも、机の下で握った拳が震えているのを悟られぬよう、慎重に呼吸を整えた。
老獪な政治家として、彼はあらゆる場面で修羅場をくぐってきた。だが、目の前の少年には“経験”で対処できる気がしない。
そんな中、皇帝アウストリアスが口を開いた。
「……つまり、貴殿の要求は大まかに三つということか。」
皇帝の低い声が、会談室に重く響く。
手元の羊皮紙──アルドが書いた要求書を見下ろし、彼は眉間に深い皺を刻んだ。
「一つ、スレヴェルド侵攻への補償、謝罪、及び四天王ベルザリオンへの不可侵の確約。
二つ、召喚された者達への補償及び不可侵の確約。
三つ、ルセリア王国並びに新ノエリア領への侵攻に対する補償、謝罪、及び不可侵の確約。……以上。」
読み上げたあと、アウストリアスは書面をゆっくりと置き、息を吐いた。
「これらを……我が帝国に一方的に飲め、というのか。」
アルドは、机に肘をつきながら首を傾げた。
どこまでも無表情で、少年らしい軽さで言う。
「そりゃそうでしょ。だって、そっちが悪いんだし。」
静かな一言だった。
だが、その瞬間──ルクレインの背筋に冷たいものが走った。
この少年には“上下”という概念が存在しない。
皇帝を前にしても、まるで学校の先生に意見を言う生徒のような軽さだ。
「ふぅん……」
ルクレインは笑みを作った。
「ずいぶん無茶を言うじゃねえか。大国ベルゼリアが、たかが辺境の領地の小僧の言葉を鵜呑みにするなんざ、前代未聞だぜ?」
アルドは首を傾げたまま、にこりともしない。
「“辺境”って言葉、便利だね。都合の悪い相手を見下す時だけ使うやつでしょ。」
ルクレインの頬がわずかに引きつる。
それでも彼は、皮肉を込めて肩をすくめた。
「……まったく、ガキみたいな成りのくせに理屈ばかり達者だ。──だがな、あんたが言ってることは戦争の火種にもなりかねねえ。軽く口にしていい話じゃねえんだ。」
アルドの目が、わずかに細められる。
その瞳は、氷のように澄んでいた。
「火種?」
彼は小さく呟き、椅子の背に体を預けた。
「へぇ……じゃあ、やる? 戦争。」
その瞬間、空気が凍りつく。
ルクレインは思わず椅子の背に手をかけた。
アウストリアスの眉がぴくりと動き、ヴァルシュタインが椅子をきしませて立ち上がりかける。
「……戦争の備えがあると?」
ルクレインは、声を震わせぬよう努めながら言った。
内心では、自分の声がかすれて聞こえていた。
「いや、逆だよ。」
アルドは、あっさりとした口調で言う。
「あんたらこそ、本気で『俺』を相手に戦争する……いや、出来るつもりなの?」
淡々と、静かに。
しかし、その声には圧倒的な現実味が宿っていた。
その言葉の“軽さ”こそが、彼の力を物語っている。
──この少年にとって、“戦争”とはただの選択肢のひとつに過ぎないのだ。
ルクレインは口角を引きつらせて笑う。
「ハッ……ずいぶん強気じゃねえか。言葉の重みってやつを知らねえんだな。」
「言葉の重み?」
アルドは目を細め、指先で机を“トン、トン”と軽く叩いた。
「それ、あんたらが人の命を駒みたいに動かす時にも使ってるの? “国のため”とか言って。」
その問いかけに、ルクレインの顔が凍る。
笑っているようで、笑えていない。
無言のまま、彼は顎を引いた。
皇帝アウストリアスは沈黙していた。
長い年月、数えきれぬ戦争を見てきた彼でさえ、
この少年を前にすると、言葉を選ぶことすらためらわれる。
アルドは小さく息を吐き、視線をテーブルの中央に落とす。
「俺さ。あんた達がどんな理屈で戦争してきたのかは知らないけど……」
「“正義”とか“領土”とか、そんなのどうでもいい。」
「俺の大切な人を殺そうとした。
若者達を駒の様に扱って弄んだ。
それだけで、十分すぎる理由になるんだよ。」
その言葉に、三人の心臓が一斉に強く脈打つ。
アルドの声は、静かで穏やかだった。
だが、その背後に渦巻く“竜の気配”が、確かに存在していた。
誰も返せない。
誰も、笑えない。
──この時、三人は理解した。
この会談は交渉ではない。
“裁定”だ。
◇◆◇
重い沈黙を断ち切るように、アルドがゆっくりと立ち上がった。
その仕草に、宰相ルクレインの喉が、カラリと音を立てる。
何かが始まる──そんな直感が、誰の心にも同時に走った。
アルドは軽く手を叩いた。
パン、と小気味の良い音が、黒曜の円卓に響く。
そして──何の前触れもなく、言った。
「よーし、分かった。それじゃあ……今から十数えたら、『俺 vs. 魔導帝国ベルゼリア』の戦争開始ね。」
笑い声は一つも上がらなかった。
誰も冗談だと思わなかった。
「……なに?」
ルクレインが低く、息を漏らすように言った。
アルドは目を伏せたまま、淡々と声を重ねていく。
「十……九……八……」
キィィィィィィィン……!
耳鳴りのような金属音が、会談室全体を満たしていく。
床の紋章が光を帯び、空気が震える。
見えない“力の渦”が、アルドを中心に螺旋を描き始めた。
「な……っ!? お、お前……何を……!」
ルクレインの声が裏返る。
手元の水差しが勝手に震え、銀の器がガチャリと鳴った。
「七……六……五……」
魔力の奔流が、まるで帝都全体を飲み込むように広がっていく。
黒曜石の壁に刻まれた魔紋が次々と点灯し、暴走しかけた魔導防壁が起動する。
会議室の天井から細かい砂粒がパラパラと落ちた。
「と、とんでもない魔力量だ……!」
ヴァルシュタインが蒼白な顔で叫ぶ。
「こ、こんな圧、帝都防壁が耐えられるわけが……! 爆ぜたら、帝都が丸ごと吹き飛ぶぞ!!」
アウストリアスは微動だにしなかった。
だが、両の拳がわずかに震えているのを誰も見逃さなかった。
頬に一筋の汗が伝う。
彼は──皇帝である前に、一人の人間として“恐怖”を感じていた。
アルドの声が続く。
「四……三……二……」
時間が凍りついたように遅く感じる。
心臓の音が大地の鼓動と混ざり、耳鳴りが世界を埋め尽くす。
ルクレインは──ようやく、限界を悟った。
理性が告げている。
(こいつは、“脅している”んじゃない。 本気で……やる気だ……!)
老宰相は椅子を蹴って立ち上がり、深く頭を下げた。
「──参った!! 悪かった、止めてくれ!!」
「我らの非を認める! だから、それ以上は……!!」
その瞬間、渦が止まった。
まるで時間の糸が断ち切られたように、音が消える。
空気が静まり返り、光が収束していく。
アルドは片手を下ろし、ため息をついた。
「ふぅ……」
静かに息を吐きながら、アルドはルクレインの方へ視線を向けた。
その瞳には、怒りも憎悪もない。
ただ、圧倒的な“冷たさ”だけが宿っている。
「……あんた、切れ者キャラっぽいけどさ。」
少年の声が低く響いた。
「チェックメイトかかってるのに、その状況で『この一局でケリ付けようぜ!』って提案してくるのは、さすがにお粗末すぎない?」
ルクレインの肩がびくりと跳ねる。
冷や汗が首筋を伝い、背中を濡らす。
何も返せない。何も思いつかない。
理屈も、権威も、経験も──この少年の前では、何の意味も持たない。
「……ぐ……っ……!」
彼は拳を握りしめ、歯を食いしばる。
その姿に、アルドは一瞥もくれず、皇帝の方へゆっくりと顔を向けた。
アウストリアスは、深く息を吸い込んでいた。
目の前の少年の姿が、ぼんやりと揺らいで見える。
恐怖ではない。──“理解”だ。
この瞬間、彼は悟っていた。
(我が帝国は……すでに敗北している。)
力の差ではない。
支配と被支配、その構造そのものが、目の前の少年の存在によって否定されている。
ベルゼリアという“国”が、初めて“理不尽”の前に立たされたのだ。
アウストリアスは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がる。
そして、誰も予想しなかった動作をとった。
──頭を、垂れた。
「……降伏する。」
低い声が響いた。
「先の条件、すべて呑もう。アルド殿──我が国の無礼を、心より詫びる。」
ルクレインが息を呑む。
ヴァルシュタインは、ただ目を見開いたまま動けない。
その光景は、帝国史のどの戦記にも記されていない“屈服”の形だった。
アルドは黙ってそれを見つめ、やがて静かに言った。
「……正直、無駄な血を流さなくて済んで、ほっとしたよ。」
「でも、覚えといて。 俺が今、あんたらを許したのは──“理性がまだある”と判断したからだ。」
アウストリアスは顔を上げ、真っすぐにアルドを見据えた。
その瞳には、もはや敵意も、恐怖もなかった。
ただ、王としての誇りだけが残っていた。
「理解した。……そして、肝に銘じよう。」
「貴殿のような存在が、我が国の過ちを正すというのなら、それもまた──神の裁定だ。」
アルドは小さく肩をすくめた。
「いや、そういうのじゃないから。あんたらが悪い事してるから、『そんな事しちゃダメでしょ!!』って叱りに来ただけ。」
そう言って、少年は少し冗談っぽく笑った。
──だが、その笑顔を見てなお、帝国の三人は思った。
ああ……この者こそ、神が遣わした“我ら帝国への罰”そのものなのだ、と。
静寂が戻る。
そして、アルドは左手をゆっくりと上げた。
その手のひらに、黒い風が集まり始める。
「さて──じゃあ、次の話に移ろうか。」
その一言で、再び空間がざわめき始める。
“竜渦”が、静かに世界を裂いた。
◇◆◇
空気が──揺れた。
アルドの掌を中心に、黒い風が渦を巻き始める。
それは魔力ではない。
“空間そのもの”が、ねじれ、音を失い、吸い込まれていく。
皇帝アウストリアスが息を呑む。
「……な、何だ、この現象は……?」
ルクレインは咄嗟に魔力視を発動するが、視界が真っ暗に塗り潰された。
見えるものすべてが、異なる次元へと吸い込まれている。
「転移魔法……? いや、違う……空間が、別座標に接続されてる……!」
渦の中心から、ひとり、またひとりと影が現れる。
最初に現れたのは、金のポニーテールを靡かせた少女──ブリジット。
続いて、黒のボディコンスーツ身を包んだリュナが軽やかに着地し、周囲を見渡す。
ゴスロリドレスを翻して降り立つのは、マイネ・アグリッパ。
その背後に、執事服姿のベルザリオンが静かに控える。
さらに、サングラスを指で押し上げる男──ヴァレン・グランツ。
紅い軍装を纏った弁髪の武人──紅龍。
そして、足元にちょこんと姿を現したのは、小型の犬──フレキ。
空間の歪みが収まると同時に、七つの存在が静かに立っていた。
その場の空気が一瞬にして変わる。
まるで、神話が現実に降り立ったかのようだった。
「転移……ではない……」
アウストリアスが震える声で呟いた。
「空間の境界が……破られた……!」
ヴァルシュタインが顔を上げ、その中の一人──紅龍を見つけ、目を見開く。
「紅龍……! 貴様、本当に……敵に降ったのか……!?」
紅龍はゆっくりとアルドの背後へ歩み寄り、静かに膝をついた。
その動作に一切の迷いはない。
「……貴様らが儂に植えた"染魂の種"を取り除いた今、儂は力ある者に従うのみ。」
「この御方の前では、儂の牙など、塵芥に等しい。それだけの事よ。」
ヴァルシュタインは愕然とした。
(紅龍が……皇帝陛下にさえ、敬語を使わなかったあの紅龍が……!)
アルドへの忠誠の形は、恐怖ではなく“敬意”だった。
それが、かえって帝国三人の胸に、底知れぬ恐れを植え付ける。
ルクレインは冷や汗を拭いながら苦笑した。
「おいおい……まさか、強欲と色欲まで揃ってんのかよ……。これじゃあまるで、"大罪会議"じゃねえか。」
ヴァレンが片手を上げ、サングラスをクイッと持ち上げる。
「ククク……何十年ぶりじゃあないの、ルクレイン。」
「……にしても、老けたな。ナノマシンとやらでも、完全に老化は止められないらしい。皺の数だけ策を練る顔してるぜ。」
「そりゃどーも。お前さんは相変わらず女たらしの面だな。」
「だが、友の1人もいなかったお前さんが大勢で御来訪とは……どういう風の吹き回しだい、こりゃ。」
ヴァレンは苦笑し、「女誑しとは心外だな。俺の恋は"見る専"だ。」と肩をすくめた。
その軽口が、場の空気をわずかに和らげる。
リュナは周囲をきょろきょろと見回して言った。
「へ〜、ここがベルゼリアの城っすか。なんか思ったより地味っすね。会議室みたい。」
ブリジットが苦笑してリュナの肩に手を置く。
「リュナちゃんリュナちゃん、ここ、ほんとに会議室なんじゃないかな。」
フレキが床をくんくんと嗅ぎながら言った。
「うーん、なんだか不思議な匂いがしますねっ。フェンリルの里の“試練の闘技場”に似てるような……。」
マイネはそんなやり取りを背に、ゆっくりと前へ進み出た。
紫紺の瞳が、皇帝アウストリアスをまっすぐに捉える。
その一歩ごとに、空気が重くなった。
「……久しいのう、アウストリアス。」
その声は柔らかく、それでいて、刃のように鋭かった。
アウストリアスの胸に、一瞬で古い記憶が蘇る。
──まだ自分が“若き皇子”だった頃。
先代王に引き連れられ、魔都スレヴェルドを訪れた際に、自分と遊んでくれた美しき女魔王。
アウストリアスは低く答えた。
「……ああ。いく年月ぶりであろうな、マイネ・アグリッパ。」
マイネはフッと口元を緩めた。
「呼び捨てとは悲しいのう。昔のように、“マイネお姉ちゃん”とは呼んでくれんのか?」
アウストリアスは苦い笑みを浮かべ、首を横に振った。
「……あの頃とは違う。私は帝を継ぎ、貴様の魔都……スレヴェルドを攻めた。」
「その様に呼ぶ資格など、今の私にあろう筈も無い。」
沈黙が落ちる。
アルドは一歩下がり、彼らのやり取りを見守っていた。
表情は淡々としているが、その眼差しには、どこか人間味のある温かさがあった。
ルクレインは椅子に身を沈め、長く息を吐いた。
「……まったく、とんでもねぇ連中が勢揃いだな。」
「ベルゼリア創国以来の顔ぶれだぜ。まるで、歴史そのものが立ってやがる。」
ヴァルシュタインは、紅龍とマイネ、そしてアルドを交互に見つめながら呟いた。
「……なるほど。どちらが"弱者"なのかは、一目瞭然という訳か……。」
その本音に、誰も否定の言葉を返せなかった。
──それが、帝国が現実として突きつけられた“敗北”の証だった。
やがて、アルドがゆっくりと前に出る。
その足取りは軽く、それでいて確かな威圧を纏っていた。
「さ、これでメンツは揃ったね。」
「……次は、“未来の話”をしようか。」
その言葉に、アウストリアスは目を細めた。
マイネはわずかに笑みを浮かべる。
ヴァレンはニヤリと口角を上げ、ルクレインは再び深いため息を吐いた。
──帝国と魔王、そして竜。
かつて相容れなかった存在たちが、いま一堂に会している。
世界の秩序が、静かに、形を変えようとしていた




