第183話 生殺与奪の権利
紅龍の喉がひくりと鳴った。
全身の筋肉が硬直し、肩が小刻みに震える。
──自分が震えている。その事実に、本人が一番驚いていた。
(な……なんだこれは……? 儂が……恐怖しておる? この儂が……!?)
目の前には、静かに笑みを浮かべたまま――いや、笑っているのに、笑っていない男がいた。
真祖竜、アルドラクス。
その笑顔は、どこかのどかなようで、しかし肌を刺すような圧を伴っていた。
紅龍はその目に射抜かれたまま、息を呑む。喉の奥がカラカラに乾いて、言葉が出ない。
(……敬語……? 儂、今……敬語を……?)
思わず零した言葉が、己の耳に届いた瞬間、背筋が凍った。
前の世界にいた頃ですら、王であろうと師であろうと、敬意を込めて言葉を発したことなどなかった。
──おそらく、およそ二百年ぶりだ。
その口から「です」「ます」が漏れたのは。
紅龍は震える拳を握りしめる。
死ぬ覚悟は、出来ていたはずだった。
それでも今、目の前の男が怒りを露わにし始めると
──なぜか、足が竦む。心臓が早鐘を打つ。
「……あのさぁ」
低く、抑えた声が空気を震わせた。
アルドの顔が、ゆっくりと紅龍に近づいてくる。瞳の奥が、まるで黒い炎のように揺らめいていた。
「こんだけ滅茶苦茶やっといて、喧嘩負けたら『殺せよ!』じゃねーのよ」
「……ッ!」
「壊した建物直すとか、弁償するとか、あと鬼塚くん達にごめんなさいするとか……いろいろあんだろーが。まだやることがさぁ……!」
声は穏やかだった。
だがその「穏やかさ」が逆に恐ろしい。
紅龍の頬に冷たい汗が伝い落ちた。
「そもそもさ──何で勝った俺が、負けたアンタの言うこと聞いて、気分悪い思いしてまでトドメ刺してやんなきゃならないわけ?」
アルドの顔が、ぐいっと距離を詰めた。
息が触れそうなほど近い。紅龍は反射的に首を引く。だが、逃げられない。目が離せない。
「どうしても死にたいってんなら、勝手に自分で死ねばよくない?」
その言葉に、紅龍の理性がぷつりと切れた。
怒りでも絶望でもない。ただ──混乱。
(そ……そうだ……! 自死だ……! 敗者である儂が……自ら命を断てば、理に適う!!)
紅龍は突如として右手を構え、鋭く手刀を振り上げた。
次の瞬間、自らの首筋へと手を走らせる──が。
パシッ!!
乾いた音が響き、手首が宙で止められた。
アルドの指が、鋼のような力で紅龍の腕を掴んでいた。
「……!? な、何を──」
混乱。次の瞬間、紅龍は自ら舌を噛み切ろうと顎に力を入れる。
だが、紅龍が歯を噛み合わせるより早く、アルドのもう一方の手がスッと動いた。
何かが視界をかすめ──気づけば、彼の人差し指と中指が、紅龍の上と下の歯の間に差し込まれていた。
「んぐっ……!? んんんッ!?」
顎に力を入れようとするも、動かない。
どれだけ力を込めても、顎は開かされたままだ。
紅龍は混乱したまま、目を白黒させる。
(な……なにをしておるのだ!? 此奴、何を考えて……!?)
アルドはぐいっと紅龍の顔を引き寄せた。
ギン、と光る瞳。張りつめた空気が肌を刺す。
「──なに本当に自分で死のうとしてんの?」
その声は低く、怒りを押し殺したようで──それでいて、鋭利な刃のようだった。
「ぶちのめすよ?」
ビキィッと青筋が走った。
紅龍の背中が一瞬で凍りつく。心臓がキュッと縮む。
(え……えぇぇーーー!?)
内心、ツッコミどころしかない。
だが声に出すこともできず、ただ「恐怖と困惑」という新しい感情に押しつぶされそうだった。
(な……何なのだ、この男は……!?どうしろと言うのだ!?)
紅龍は息を荒げ、汗をだらだら流しながら──
ただただ、目の前の真祖竜の「正気じみた圧」に飲まれていた。
◇◆◇
紅龍は、ひたすらに混乱していた。
視界の端がぐらぐらと揺れ、思考がまとまらない。
(な、何なのだ……此奴は……!? 儂に……どうしろと……!?)
アルドの指がまだ口元に軽く触れている。
ただそれだけなのに、紅龍の背筋は凍りついたままだ。指を離してもらった今ですら、喉の奥に残る感触が生々しい。
アルドの表情は──薄ら笑っていた。
だが、笑みの奥にある“圧”は、まるで世界そのものが彼の手の中にあるようだった。
怒りというより、「怒りすらコントロールしている人間」特有の恐ろしさがそこにあった。
「マジでさ……」
アルドが、呆れと怒りを混ぜた声で口を開いた。
紅龍は反射的に背筋を伸ばす。完全に“説教される側の子ども”の姿勢だ。
「なに本当に死のうとしてんの? あんた、子どもの頃さ──先生に『やる気が無いなら帰れ!』って言われたら、ほんとにランドセル背負って下校しちゃってたタイプ?」
紅龍は目をパチクリと瞬かせた。
言っている意味がまるで分からない。
だが──怒っている、ということだけは理解できた。
「し、しかし……! 今のは、貴様が──」
「……貴様?」
その一言だけで、空気が凍った。
風も止まり、瓦礫が落ちる音さえ消える。
アルドの笑顔が、ぴたりと動きを止める。
その静寂の中、紅龍はゆっくりと悟った。──今の一言は、決して口にしてはならなかったのだと。
「あっ……い、今のは……! 貴方が!! その……勝手に自分で死ねと……! そう仰ったのではございませんか!!」
紅龍は慌てて敬語に切り替える。
声が裏返り、語尾が震える。
大国の将軍の誇りも、仙道としての威厳も、いまや跡形もない。
だがアルドは、一歩踏み出した。
足音が──やけに重く響いた。
「は? 俺のせいで自殺しそうになったってこと?自殺幇助したって? ……え? 今のって、俺が悪いの?」
「い、いえ! そのような意味ではなく──!」
アルドの顔がぐいっと近づく。
目と目の距離が数センチ。
紅龍は思わず息を止めた。
「ねえ。……俺が悪いのかなぁ!? 今のって!?」
その声音は、氷のように冷たく──
それでいて、尋常じゃないほど“人間味のある怒り”に満ちていた。
まるで、正義感の塊が理不尽にブチギレているような感覚。
その熱量に、紅龍の心が完全に焼かれていく。
「いやいやいや!! そ、そういう意味ではありませぬぅぅ!!」
紅龍は両手をぶんぶん振り、全力で否定する。
顔は蒼白、汗は滝のように流れ、もはや全身が小刻みに震えていた。
(だ、ダメだ……ッ!! この男には……どう足掻いても、逆らえぬ……!)
紅龍は己の心の底で悟る。
“生きるか死ぬか”ではない──“逆らえるか否か”の次元で、既に負けていたのだ。
(こ、これが……真の意味での『生殺与奪の権利』を握られる、という事……ッ!!)
真祖竜。
その存在は、力だけでなく“理屈”までも支配する。
紅龍がこの世界で何百年と信じてきた「強さの定義」が、今、音を立てて崩れ落ちていく。
(儂は……死すら選べぬ。……生きるも、死ぬも、この男の意志次第……)
呼吸が荒くなり、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
だが紅龍は、声を上げることもできず──ただその場に膝をついた。
アルドはそんな彼を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
怒りが完全に抜け切ったわけではないが、少しだけ目の色が柔らいだ。
「……いかんいかん。大人気なさすぎたかも。落ち着け、俺。」
その何気ない一言が、紅龍の胸をさらに締めつけた。
“怒りよりも怖いのは、呆れだ”と、彼は初めて知った。
◇◆◇
紅龍は、もはや逆らう気力を失っていた。
全身から力が抜け、首を垂れたまま、ただ息だけをしている。
その震えは恐怖の名残か、それとも──虚無の余韻か。
「……頼む。……儂の生を、ここで終わらせてくれ。」
掠れた声。
それは、獣の咆哮ではなかった。
長い戦いに疲れ果てた老人の吐息のようだった。
ほんの数分前まで、神をも呪った戦士の声とは思えないほどに、弱々しい。
アルドは紅龍をじっと見下ろしていた。
拳はまだ熱を帯びていたが、その瞳からは怒気が消えている。
ただ、静かに──ひとりの命の結末を見届けるように。
紅龍はゆっくりと息を吸い込み、震える唇を開いた。
「──兄者と姉者を失った日から……儂は、“力こそが絶対”という理だけを信じて生きてきた……」
低く、乾いた声が、瓦礫に囲まれた路地に響いた。
血に濡れた地面に、ぽたりと涙が落ちる。
それが、自分のものだと気づくまでに、紅龍はしばらく時間を要した。
「大切なものを……己の無力ゆえに守れなかった。
しかし、それがこの世の理……"弱肉強食"であり、仕方のないことだと……そう信じていたかった。」
「……そう信じなくては……世界は、儂が生きるには……あまりにも、辛すぎた。」
俯いたまま、嗚咽が漏れる。
涙の音が地面を叩くたび、彼の中の何かが崩れていく。
「この世界に呼ばれてからも、儂は変われなかった……。洗脳など、関係無い。力なき者を喰らい、踏み潰し……ただ、強者として生きることだけを支えにしてきた。」
アルドは何も言わなかった。
ただ静かに聞いていた。
紅龍の言葉が、懺悔というよりも──“人生そのもの”の吐露であることを、感じ取っていた。
「そんな儂が、全身全霊をもって挑み……完膚なきまでに、お主に敗れた。……なれば、死をもって我が生に幕を下ろすのが、道理というものであろうよ……」
紅龍の声が震える。
その目にはもう、憎しみも誇りも残っていなかった。
「強き者よ……敗者である儂に、こんなことを頼む資格などないことは、分かっておる。だが……後生だ。
お主の手で……兄者と姉者のもとへ……送ってはくれぬか……」
そう言い終えると、紅龍は目を閉じ、頭を垂れた。
その姿は、まるで罪人が処刑を待つようだった。
いや、それ以上に──救いを求める子供のようでもあった。
アルドは、ゆっくりと膝をつき、紅龍の前に立った。その表情は柔らかく、それでいて、どこか哀しげだった。
彼の瞳に映る紅龍の姿は、もはや“敵”ではなかった。
そのときだった。
「──ぐ……!? お……オエェェェッ!?」
突如、紅龍の喉が痙攣し、身体が大きく震えた。
アルドは驚いて身を引く。
「えっ!? だ……大丈夫!? どうしたの!?」
反射的に背中を支えるアルド。
紅龍は苦悶の表情で喉を押さえ、再び嘔吐した。
口から飛び出したのは──
金色に輝く球体と、淡い青色の結晶だった。
それは、息を呑むほど美しかった。
まるで魂そのものが、光に還ろうとしているような、そんな神聖さがあった。
(な……何だ……!? 喰らった魂は、全て吐き出したはず……!これ以上、儂の中に残っているはずが……!)
紅龍が驚愕の表情で見つめる中、
その二つの結晶は──ゆっくりと宙に浮き上がった。
光が、やわらかく広がる。
金色の結晶は、温かな太陽のように輝き、
青色の結晶は、静かな月光のように澄んでいた。
やがて、それぞれの光の中に──“人影”が浮かび上がる。
「──なっ……!? あ……兄者……姉者……!?」
紅龍が震える声で呟く。
その目には、忘れもしない二つの姿があった。
優しく微笑む蒼龍。
穏やかで誇り高い黄龍。
ふたりは薄く透けており、まるで霧のように儚い。
「……兄者……姉者……分身では、ない……本当に……」
紅龍は手を伸ばす。
けれど、その指先は光をすり抜けた。
冷たい空気だけが、そこに残る。
アルドは静かにそれを見つめていた。
まるで、誰にも邪魔させないというように──
ただ、ひとりの弟が、失われた家族と再び出会う、その瞬間を見届けていた。