第182話 銀色の癒し、銀色の怒り
崩れたビルの上階。
ガラスが砕け散った窓から、夜風が冷たく吹き抜ける。
その中で、佐川颯太は息を殺し、瓦礫に囲まれた空間で膝をついていた。
腕の中に抱えているのは──緋色の石像。
天野唯の、固まった姿だった。
その顔を見つめながら、颯太は喉の奥で何かがつっかえたように声を失っていた。
指先で頬に触れる。
冷たい。硬い。
けれど──それでも、彼はその身体を抱きしめて離せなかった。
「……唯……」
呼びかけても、返事はない。
ビルの外では、轟音と光が交錯している。
遠くの夜空に、銀白の巨竜の姿が一瞬だけ映り、闇を裂いた。
颯太の目にはそれが、夢の中の光景のように映った。
次の瞬間だった。
──ズバーンッ!!
眩い閃光が、遠くから一直線に飛来した。
反射的に目を細めた颯太の腕の中、唯の石像が淡く光を放つ。
光はゆっくりと彼女の胸元に吸い込まれ──やがて全身へと広がった。
「……え?」
頬をかすめた冷たさが、ほんのりと温かく変わっていく。
石の肌が、生きた人間の柔らかさへと戻っていく。
そして──
唯の睫毛が、微かに震えた。
「……あれ? ……あたし……」
細く息を吐き、唯はゆっくりと目を開けた。
ぼんやりとした視界の中で、最初に見えたのは──
涙で滲んだ佐川颯太の顔だった。
「……颯太くん……?」
その一言で、颯太の張り詰めていた心が音を立てて崩れた。
「ああ……唯……ッ!」
彼は何の迷いもなく、彼女を強く抱きしめた。
震える腕、止まらない涙。
押し寄せる感情を抑えきれず、嗚咽混じりに言葉が漏れる。
「よかった……本当に……よかった……!」
唯はその胸の中で瞬きを繰り返し、頬を寄せる。
その表情はまだ状況を理解しきれていないようだったが、
颯太の温もりだけは、確かに感じ取っていた。
──ふわり。
彼らの周囲に、銀色の粒子が舞い降りていた。
静かに、柔らかく、夜の闇を照らすように。
瓦礫に反射してきらめく光は、まるで天から降る星屑のようだった。
唯はその光を見上げながら、かすかに微笑んだ。
「……綺麗……」
颯太は涙を拭い、彼女の髪を撫でる。
「ああ。……あの人達が……やってくれたんだ」
遠く、夜空を覆う銀の光。
その光が、街を包み込み、傷を癒やし、人々を還していく。
二人は、静かにその光景を見つめた。
もう二度と離れないように──互いの手を、強く握りしめながら。
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──耳を打つのは、風の音だけだった。
アグリッパ・スパイラル十階。
高層ビルの上空に浮かぶ空中庭園は、紅龍との戦いの余波で無惨に荒れていた。
折れた樹木、割れたガラス、散乱した魔導灯の残骸。
だがその廃墟の中で、ひとりの「石像」が静かに光を帯び始める。
それは、緋色に染まった一条雷人だった。
時間が止まっていたかのようなその身体に、金色の光球がシュンと飛び込んでいく。
まるで夜空から降る星のように、優しく──けれど確かな力で、石を溶かしていく。
パキ……パキ……。
髪の先から、音を立てて石が剥がれ落ちる。
次の瞬間、雷人の指がぴくりと動いた。
「……っ、は……」
喉に息が戻る。
膝をついたまま、雷人は大きく息を吸い込んだ。
硬直していた身体が熱を取り戻し、色が戻っていく。
彼は、自分の手のひらをゆっくりと見つめた。
血が通っている。温かい。
その感覚を確かめるように、握りしめる。
「……元に……戻った……?」
小さく呟いた声は、夜風に溶けていった。
雷人は立ち上がり、周囲を見渡す。
風が吹き抜け、空中庭園の瓦礫の上に銀の光が散る。
見上げた夜空では、白銀の粒子がゆっくりと、夜空を覆うように漂っていた
圧倒的な存在。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
そこにあったのは、畏敬と──静かな感謝。
「そうか……彼が……」
雷人は目を細め、胸の前で手を組むようにして、深く頭を下げた。
誰に見られることもない、ただ一人の礼。
科学と魔法の理を超えた“奇跡”を、確かに感じていた。
「……ありがとうございました」
その一言を夜に託し、雷人は再び顔を上げる。
視線の先には、ビル群の間を漂う銀の残光。
街のあちこちで、銀の粒子が建物の倒壊を防いでいるのが見えた。
「……皆も、元の姿に戻っているかもしれないな」
独り言のように呟き、雷人は片手で帽子のつばを押し上げる。
疲労を隠すように軽く息を吐き、破れた軍服の裾を翻すと──
静かな決意を瞳に宿して、アグリッパ・スパイラルの内部へと駆け出した。
その背中に、夜風が吹き抜ける。
残滓となった銀の粒子が、彼の髪をかすめ、流星のように尾を引いて消えていった。
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──重い音を立てて、石が崩れ落ちた。
割れたガラスの破片と瓦礫の散らばる中庭。
かつて黄龍との死闘が繰り広げられたその場所に、ひとつの“石像”があった。
銀の粒子が、夜空から静かに降り注いでいる。
それはまるで、荒れ果てた戦場に舞い降りる雪のように優しく、冷たく──そして、確かに命を運んでいた。
緋色に固まっていた鬼塚玲司の胸に、紫色の光球が飛び込む。
石の表面に細かなひびが走り、そこから温もりが漏れ出すように、色が戻り始めた。
パキ……パキ……ッ。
硬質な音が連鎖し、腕、胸、脚――そして瞳がゆっくりと動き出す。
鬼塚の視界に、夜の光景が戻ってきた。
「……ぅ……あ……?」
掠れた声を漏らしながら、鬼塚は上体を起こした。
息を吸うと、肺が痛い。
でも、その痛みが──生きている証だった。
「……生きてんな。……俺。」
ぼそりと呟く。
その声には驚きも興奮もなかった。ただ、疲労と実感だけが滲んでいた。
肩をぐるぐる回して、ぎしぎしと鳴る関節を確かめる。
全身が鉛のように重い。だが、意識ははっきりしていた。
鬼塚はフーッと長く息を吐き、崩れた床にゴロンと仰向けに転がった。
夜風が頬を撫で、空から銀色の光の粒が降り注ぐ。
──見上げた空には、星よりも眩い銀の粒子が、ゆっくりと漂っていた。
「……すげぇな。」
口元に小さな笑みを浮かべ、ぼんやりと呟く。
あの戦い。あの光。あの“少年”の姿。
「……いるんだな。ほんとに。……本物のヒーローってやつがよ。」
その言葉には、僅かな照れと羨望が混じっていた。
鬼塚は両手を枕代わりに頭の下へ組み、静かに目を細める。
舞い降りる銀の粒子が、まるで星空のように広がっていく。
ふと、三人で並んで見上げた夜の団地の公園を思い出した。
あの時も、天野が言っていた──
“ねぇ玲司くん、星って、地球の外からも見えるのかな”って。
その記憶に、口元が緩む。
「……綺麗だな。星空みてぇだ……」
鬼塚はそのまま、まぶたを閉じた。
痛みも、疲れも、すべて銀の光が包み込むように溶かしていく。
戦いの夜が、ようやく静けさを取り戻していった
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──崩れかけた壁の前。
夜の静寂の中に、かすかな呻き声が混じった。
紅龍は、ビルの壁にもたれかかるように座っていた。
焼け焦げた肌はひび割れ、指先には自分の血がこびりついている。
体の芯から抜け落ちるような倦怠感。
それでも、その瞳だけは――まだ死んでいなかった。
ゆっくりと顔を上げた瞬間、目の前に立つ白銀の少年の姿を見て、思わず息を呑む。
真祖竜・アルドラクス。
人の姿へと戻ってなお、あの竜の面影を宿した光を纏っていた。
紅龍の背筋に、反射的な恐怖が走る。
だが次の瞬間には、力の抜けた瞳でかすれ声を漏らした。
「……終わりだ。殺せ。」
その言葉には、もはや戦意も誇りもなかった。
ただ、敗者としての“けじめ”だけが残っていた。
後方に立つ仲間たちは、沈痛な面持ちで見つめている。
ブリジットは唇を噛み、リュナは腕を組んだまま無言。
ヴァレンは眉をひそめ、呆れたようにため息をつく。
「お前な……もうちょい、反省ってもんを覚えろよ。」
マイネは一歩前へ出て、冷ややかな声で吐き捨てた。
「貴様……他に言うことは無いのか?」
紅龍はゆっくりと顔を上げた。
その瞳の奥に宿るのは、もはや理性ではなく──狂気。
「儂は……敗北した。」
乾いた唇が開き、呟きが漏れる。
「そこの小僧の力の前にな。……だが、それでいい。」
紅龍は嗤う。
血を吐きながら、声を震わせ、狂気を振りまくように。
「弱者は強者の食い物になるのが、必然……ッ!!」
「生あるもの、皆そうだ!! 食らい、奪い、生き残る者こそが正義!! それが、理!!」
アルドはその言葉を黙って聞いていた。
眉をわずかに下げ、何かを考えているような顔。
「……いや、あのさ――」
アルドが静かに口を開く。
紅龍の熱に対して、まるで氷のような声色だった。
だが、その言葉を最後まで言わせまいと、紅龍が吠える。
「どうした!? 何故殺さない!? 貴様には……足りぬのだ!!」
紅龍の叫びが、瓦礫の街に反響する。
その顔は汗と血でぐちゃぐちゃになり、目だけが爛々と光っていた。
「強者としての自覚がなッ!!」
「弱者を喰らい、踏み躙り、勝ち残る覚悟が足りぬのだッ!!」
「その甘さが……その迷いが……いつか、貴様の命を奪うぞッ!!!」
紅龍は唾を飛ばしながら、喉が裂けるほどに叫んだ。
彼の叫びには怒りではなく──恐れがあった。
“弱さを受け入れる”という考え方を理解できない、恐怖の叫びだった。
アルドはその場に立ったまま、静かに息を吐く。
夜風が彼の銀髪を揺らし、淡い粒子がその頬を撫でる。
紅龍の狂気じみた叫びが止むころ、
その正面に立つアルドは──笑みを浮かべていた。
だが、その笑みは決して穏やかではなかった。
頬の筋肉がピクピクと痙攣し、こめかみにはビキビキと青筋が走っていく。
笑っているのに、空気がひどく冷たい。
夜風すら息を潜め、周囲の誰もが無意識に距離を取った。
「……あ……あれ?」
最初に異変に気づいたのはヴァレンだった。
彼の目がギョッと見開かれ、額から一筋の汗が伝う。
(やべぇ……この顔は……ガチで怒ってるやつ……)
ヴァレンはそろりとブリジットとリュナの肩を叩き、引きつった笑顔を浮かべる。
「ぶ、ブリジットさん? リュナ? ちょ、ちょっとさぁ……あっちの方、行ってよっか?」
ブリジットとリュナが怪訝な顔で首を傾げる。
「えっと……ヴァレンさん?」
「へ? 何すかヴァレン、急に……」
「いいからいいから!! あっち! ほら! あっち行こ!!」
有無を言わさず、二人の背を押しながら遠ざけていく。
フレキも事情が分からないまま、尻尾を揺らしながらトコトコとついていった。
残されたマイネたちも、アルドの雰囲気に気づき、息を呑む。
ベルザリオンが「こ……これは……」と汗をかいて目を細め、ジュラ姉がそっと距離を取る。
影山に至っては、既にさりげなく物陰に隠れていた。
そんな中、アルドは静かに口を開く。
「マイネさーん。」
その声には感情がなく、無機質な響きがあった。
「ちょっとだけ建物壊しちゃうかもだけど、いい? 後で直すからー。」
マイネは青ざめた顔で一歩引きながら、引きつった笑みを浮かべる。
「あ、ああ……す、好きにしてくれて良いぞ……」
紅龍はその異様な空気を理解できず、まだ吠えていた。
「さあ! 殺せ!! どうした!? 早く儂を殺してみろ!! ははははははは!!!」
──次の瞬間。
アルドは、静かに右足を上げた。
紅龍の笑いが途中で途切れる。
「ははは……は?」
何が起こるのか理解できないまま、彼はその動作を凝視した。
ドガァァァンッ!!
アルドの足が、紅龍の顔スレスレを通過し、背後のビルの壁を粉砕した。
コンクリートが音を立てて弾け飛び、壁面に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
紅龍の頬に、一筋の浅い切り傷が走った。
血の雫が頬を伝い、床にポタリと落ちる。
紅龍は、引き攣った顔でゆっくりと目を動かした。
すぐ隣には、まだ壁にめり込んだアルドの足。
空気が震えるほどの威圧感。
「……」
アルドは無言のまま、ゆっくりと足を引き抜いた。
壁の破片がパラパラと音を立てて崩れ落ちる。
そのまま無表情のまま、紅龍の目前に立ち再び脚を振り下ろす。
ダァァァーーンッ!!
今度は、紅龍の脚と脚の間。
アスファルトが爆ぜ、亀裂が地面を走り抜ける。
紅龍は条件反射で体をすくませ、だくだくと汗を流す。
アルドはゆっくりと息を吐き、低い声で呟いた。
「──俺さ。」
顔面に青筋を浮かべながら、静かに続ける。
「前々から思ってたことがあるんだよね。」
紅龍は息を飲み、動けない。
「アンタみたいな“武人系”のキャラがさぁ……負けた時に、『殺せ!!』とか、『貴様は武人としての誇りまで奪うつもりか!?』とか……トドメ刺さない主人公に文句言ったりするじゃん?」
低い声が、夜気を震わせた。
紅龍の喉がごくりと鳴る。
「そういうシーン見るたび、思うんだよね。」
アルドは、壁から足を離し、紅龍の目前でしゃがみこむ。
その双眸は、怒りと冷静の境界で燃えていた。
「『何、負けた方が偉そうに命令してくれてんの?』ってね。」
紅龍の背中を冷や汗が伝う。
アルドは静かに、しかし確実に圧を高めながら、最後の一言を吐き捨てた。
「なあ……アンタも、そう思わない……?」
その声は、囁きに近い。
しかし、地鳴りのように響いた。
紅龍の口がパクパクと動く。
理屈も誇りも吹き飛び、ただ本能だけが答えを導き出す。
「は……はい……そ……そう、思います……」
思わず、敬語だった。
その瞬間、静寂が戻った。
だがその場にいた全員──誰一人として、息をすることすらできなかった。