第181話 完全決着。"見えざる英雄"の勇気
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──轟音が響き渡った。
紅龍の吐き出した紅の閃光が、夜の都市を貫く。
ビルの群れを舐め、飛空挺団を切り裂き、残骸を空へと散らす。
佐川颯太は、その余波に直撃した一機が軌道を外れ、こちらに迫ってくるのを目にした。
巨体がビルの壁面にかすめる。瞬間、上層階が大きく軋み、傾いだ。
「……ッ!」
身体が浮く感覚に思わず息を呑む。
その腕の中に抱えていた、重く冷たいものが、ぐらりと揺れた。
──天野唯の石像。
紅龍よって石へと変えられた、彼女の姿。
颯太は必死に抱きしめていたが、ビルの揺れに耐え切れず、石像の腕が彼の手から滑り落ちた。
「唯ッ!!」
叫びと同時に、彼の心臓が潰れるような感覚に襲われる。
落ちていく。硬質な音を立てて、唯が砕ける姿を想像した瞬間──。
銀光が舞った。
夜の闇を裂き、無数の粒子が風のように押し寄せる。
それはまるで見えない掌で支えるかのように、唯の石像をそっと持ち上げ、颯太の方へ押し戻してきた。
「な……」
呆然と伸ばした腕に、確かに彼女が戻ってくる。
重みが掌に蘇る。ひび一つ入っていない。
それだけではなかった。
崩れかけていたビルの傾きが、銀の粒子に押し戻されていく。
壁の継ぎ目を縫うように、ひと粒ひと粒が滑り込み、壊れた箇所を補修していく。
崩壊の未来が、まるで夢のように塗り替えられていった。
息を詰めたまま、颯太はその光の出どころへと視線を向けた。
──空にあった。
白銀の巨竜が。
翼をはためかせ、夜を埋め尽くすほどの光を撒き散らすその姿。
紅龍をも圧倒する巨体が、神々しさと畏怖を同時に呼び起こす。
「……竜の……神様……?」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく零れ落ちた。
勇者として召喚されたはずの自分が、ただ一人の少女を救うことすらできず。
だが“竜”は、当然のようにそれを救ってのけた。
胸の奥に、ひりつくような無力感と、それでも抗いきれない崇拝の念が混ざり合っていく。
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瓦礫の山を踏みしめながら、フラム・クレイドルは息を荒げていた。
崩れ落ちた飛空挺から、かろうじて脱出したものの、その代償に衣服は裂け、全身は煤と血で汚れている。
それでも彼女は生き延びた。生き延びてしまった。
夜空を仰ぐ。
そこにいたのは、赤黒く燃え盛る紅龍──ではなかった。
翼を広げる白銀の巨影。
無数の粒子が夜空を満たし、街を覆う。
破壊を癒やし、崩壊を繋ぎとめ、あらゆる災厄を飲み込む光の粒。
「……嘘……」
声が震えた。
魔導官として、彼女は知っている。
この膨大な魔力の流れを……いや、魔力と呼んで良いのかも分からない、異質な存在感を。
「この魔力……“重奏構造”……!?」
ありえない、と喉の奥で言葉が途切れる。
複数の旋律が重なり合うように、膨大な層を成して響き合う魔力。
通常の理論では説明できない。
観測塔"トリアデス"でかつて記録された、正体不明の異常値──。
まさか、それが。
「トリアデスで観測されたのは……この竜の……魔力だったというの……!?」
白銀の巨竜はただ羽ばたくだけで、都市の命運を塗り替えていく。
焼け落ちた建物に新たな命を与え、瓦礫を再構築し、人々の希望を繋ぎとめる。
だが、その力の規模はあまりにも大きすぎる。
フラムの膝が、震えた。
自らの意思に反して、地面へ沈み込む。
「私達は……ベルゼリアは……」
空を見上げる。
銀の光に包まれた巨竜は、まるで神話の神そのもののように、遥か遠くにあった。
人の理では決して縛れない。
国の力では制御できない。
「……何を……目覚めさせてしまったの……?」
その呟きは、祈りにも似て、涙に濡れて消えた。
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地面に叩きつけられた衝撃で、紅龍の意識は一瞬飛んでいた。
気づけば仰向けに倒れ、夜空をぼんやりと見上げている。視界の端に、崩れ落ちた瓦礫の山が映る。
耳鳴りが酷く、呼吸をするだけで胸が焼けるように痛んだ。
「……ぐ……う……」
かすれた声を漏らした瞬間、脳裏に閃光が蘇る。
あの白銀の巨竜──アルドラクス。
奴の口から放たれた神々しき光の奔流に、己は押し潰されたのだ。
敗北の記憶がよみがえったとたん、胃の奥から猛烈な吐き気がこみ上げる。
「お……おえええええぇぇッッ!!」
横向きに転がり、喉を震わせる。
その口から吐き出されたのは、血や胆汁ではなかった。
ゴロリと地に転がったのは──ボールほどの大きさの、宝石のような結晶。
深紅、蒼、琥珀、翡翠……それぞれが異なる光を放つ球体が、いくつも、いくつも吐き出されていく。
紅龍は目を剥き、それを凝視した。
「こ……これは……儂が……喰らった……魂の、結晶……?」
掠れた呟きの直後だった。
バシュウウウウウンッ!!
結晶は突如として宙に浮かび、光の尾を引きながら四方八方へと飛び散っていく。
空を切り裂き、夜の彼方へと消え去った。
「た……魂が……!」
「儂が喰らったスキル達が……! 元の場所へと、戻ってしまう……ッ!?」
血走った眼で空を見上げ、紅龍は必死に立ち上がろうとする。
だが脚に力が入らず、膝をついた瞬間、再び吐き気が襲う。
「お……オエエエエェェッッ!!!」
再度、喉から迸る光。
吐き出された結晶は地に散らばり、瞬く間にまた夜空へと吸い込まれるように飛び去っていった。
「あ、あああ……力が……! 儂の、力が……抜け落ちていく……!」
その声は、嗚咽に近かった。
力を糧に生きてきた紅龍にとって、それは己そのものが崩れていくような感覚だった。
だが、彼は諦めなかった。
震える脚に鞭を打ち、瓦礫を伝ってよろよろと立ち上がる。
吐き気で顔を歪めながら、それでも歯を剥き出しにして、己を奮い立たせる。
「……まだだ! 抜け落ちた魂達を……再び喰らい……!」
「そして……あの銀竜を……必ずや討たねば……ッ!!」
血反吐混じりの息を吐きながら、紅龍は闇の街を睨みつけ、ヨロヨロと歩を進めていった。
視界がぐらぐらと揺れる。
吐き出した結晶の光が空へ消えていくのを、紅龍はただ呆然と見上げていた。
その耳に、あり得ぬ声が届く。
『……紅龍ちゃん……もう、やめにしましょう……』
澄んだ、優しい女の声。
耳に残って離れぬ、亡き姉・蒼龍の声だった。
『これ以上、力なんて求めなくていいの……』
あの日と同じ、穏やかな響き。
だが、紅龍の心を抉るには十分すぎた。
紅龍は両手で頭を掻きむしり、地を転げ回る。
「や、やめろ……! 黙れ……ッ!! 幻覚がァッ!!」
だが、今度は男の声が響く。
低く、落ち着いた声音。兄・黄龍の声。
『ああ……この戦い、我々の負けだ……』
『強さだけが……弱肉強食だけが、この世の理では無かったのだ……』
「う、うるさいッ!! 兄者と姉者は……死んだッ!!」
紅龍は爪で自らの頭皮を裂き、血を滲ませながら叫ぶ。
「二人は……儂に、力が無かったから死んだのだッ!!」
瞳が血走り、唇が泡を飛ばす。
紅龍の絶叫は、夜の廃墟に反響した。
「弱肉強食だけが、この世の理では無かった……? そんな訳があるかッ!!」
「ならば……儂の生は何だったのだッ!?」
喉が裂けるように叫びながら、紅龍の意識には過去が次々と閃光のように蘇る。
──幼い頃、戦争で家族を失った夜。
──信じた師に裏切られ、信じた絆を切り裂かれた瞬間。
──兄と姉が血に沈む姿。
──召喚されし異世界で、知らぬ間に心へ植え付けられた洗脳の種。
──操り人形のように、大国の手駒にされてきた屈辱。
「これら全ては……儂の力の無さが招いたもの……!!」
「無力が招いた結果……! そうでなければ……納得がいかんのだッ!!」
紅龍はよろめきながらも立ち上がり、天を仰ぎ、血の涙を流しながら吠える。
「儂に力が無かったから!! 儂の人生は、儂の思うままにならなかった!!」
「他者に食い物にされ、弄ばれただけ!!」
胸を叩き、爪を突き立てる。
その姿は狂気と絶望に染まりながらも、なお必死に自分を保とうとする哀れな戦士のものだった。
「もしもこれが……神とやらの振った賽によって定められた運命だというのなら──」
紅龍の眼に、赤黒い憤怒の炎が宿る。
燃え尽きる命を灯す、最後の焔。
「儂は……神を許さぬッッ!!」
その叫びは天を突き破り、夜空を震わせた。
銀の竜泡すら、その一瞬だけはざわめきを止めたかのようだった。
◇◆◇
崩れかけたビルの壁に、紅龍は背を押し付けるようにして立っていた。
肩で荒く息をつくたびに、焦げ付いた皮膚から黒煙が上がる。
全身の皮膚は擦り切れ、肉は裂け、骨の軋みが胸の奥から響く。それでも、その双眸だけはなお狂気の炎を宿し、ぎらついていた。
(……強欲の魔神器も、結局は魔王の手元へと戻ったか……ッ)
紅龍は血走った眼でこちらに迫ってくる影を睨み、奥歯をギリッと噛み締めた。口の中に広がる血の味が、かえって闘志を煽る。
その時、不意に喉の奥が痙攣する。
「……オエッ……!」
堪えきれず、紅龍は大きく身を折り、胃の底から逆流するものを吐き出した。
ゴロリ――。
瓦礫の上に転がり落ちたのは、直径が拳ほどもある薄紫に透き通った球体。
光を帯びた宝石のように見えるそれは、しかし確かに生々しい気配を放っていた。
紅龍は慌ててそれを掴み取り、背後の壁に押し付けるように構える。
口端から血を滴らせ、狂気に濁った声で叫んだ。
「く……来るなッ!!」
足音が近づく。瓦礫を踏みしめる重い響きと共に、アルドとその仲間たちが姿を現した。
先頭に立つのは、銀色の髪を風に揺らす青年──アルド。その瞳は光を宿さず、ただ静かに紅龍を見据えている。
その隣には、鎖から解放されたばかりのブリジット。
漆黒のマスクを外し、唇に小さな笑みを浮かべるリュナ。
余裕を崩さぬまま髪をかき上げるヴァレン。
鼻を鳴らし、血の匂いを嗅ぎ取るフレキ。
さらに後方には、なお傷だらけの身体で立つマイネやベルザリオン、そして腕を組んで睨み据えるジュラ姉の姿もあった。
──完全な包囲。
退路などどこにもない。
だが、紅龍は握った結晶を高々と掲げ、血に濡れた唇を歪めた。
「これは……最後に喰らった魂……鬼塚玲司の魂よ……!!」
その一言で空気が張り詰めた。
誰もが一瞬、呼吸を忘れる。
紅龍は結晶を握り込み、狂気の眼光を向けて吠える。
「少しでも動いてみよ……!! この童の魂……二度と形を取り戻せぬよう、粉々に砕いてくれるぞッ!!」
その声は瓦礫の街に木霊し、全員の心臓を締め付けた。ブリジットは表情を強張らせ、手を胸に当てて息を呑む。ヴァレンは奥歯を噛みしめ、「クソッ……」と低く唸った。フレキは牙を剥き出しにし、唸り声を喉で殺した。
だが──ただ一人。
リュナだけが、頭の後ろで腕を組み、薄い笑みを浮かべていた。
「コイツ、マジ往生際悪いっすね〜」
その挑発に、紅龍の顔が怒りで紅潮する。
「黙れぇぇッ!!」
咆哮と共に結晶をさらに強く握る。爪先がキリキリと結晶を削り、亀裂が走る音がした。
その一瞬でさえ、場の緊張は張り詰めた糸のように危うく揺らいだ。
──だが。
アルドは一言も発さず、ただじっと紅龍を見つめていた。
焦るでもなく、怒るでもなく。
その瞳は深い湖面のように静かで、しかしどこか別のものへと意識を向けているようだった。
(……な、何だ……?)
紅龍の背に冷たい汗が伝う。
(此奴……儂を見ておらぬ……!? この状況で、儂ではなく……一体何を視ておるのだ……ッ!?)
苛立ちと恐怖が入り混じり、紅龍の手に力がこもる。魂の結晶を握る指先がギリギリと鳴り、今にも砕け散りそうに見えた。
しかし次の瞬間──アルドの視線がふと揺れ、彼は小さく吐息をついた。
張り詰めた空気がわずかに緩み、口元に安堵の笑みすら浮かんだ。
「……マジで凄いね、影山くん。」
「まさに──“見えざる英雄”だ」
その一言と同時に。
紅龍の手のひらにあったはずの結晶が、忽然と消えていた。
「……なッ!?」
紅龍の瞳孔が揺らぎ、慌てて掌を開いた。
しかし、そこには何も無い。空っぽの手が虚しく震えるだけだった。
「ば……バカな……ッ!! 儂に一切気取らせず……魂を奪うなどという芸当……!? あり得ぬ……あり得ぬッッ!!」
狂乱する紅龍の眼差しが上下に彷徨い、理解不能の現実を拒絶しようとする。
だが次の瞬間、視界の正面に──。
アルドの姿があった。
音もなく、影すら揺らさず。いつの間にか目前へ歩み出ていたのだ。
その眼差しは怒りも嘲笑も宿していない。
ただ静かに、確かな結末を告げる者の眼。
「──アンタの負けだよ」
その言葉は、雷鳴よりも重く、鋭く胸を貫いた。
同時に、アルドの拳が閃く。
拳が空を裂いた瞬間、迷いなき重撃が紅龍の鳩尾に突き刺さった。
「……ッガ、ハァァッ……!!」
紅龍の口から空気と血が一気に吐き出され、全身が痙攣する。
足元から力が抜け、膝が砕けるように折れた。
視界は急速に暗く、狭くなっていく。
遠くで誰かが叫んでいるように聞こえるが、もう意味は届かない。
(……ああ……これが……敗北、か……)
(儂の生は……何のためにあった……? 強さを追い求め……それだけで……)
最後に浮かんだのは、血に塗れた記憶の奥で、笑っていた兄と姉の姿。
幼い自分の頭を撫でてくれた、あの懐かしい温もりだった。
(……兄者……姉者……儂は……間違って……)
その思念の途切れと共に、紅龍の意識は完全に途絶えた。
その身体は壁際からずるりと滑り落ち、瓦礫の上に崩れ落ちる。
かつて荒ぶる巨竜だったものは、今や力なく沈み込むただの人の影となっていた。