第177話 アルド vs. 三龍仙④ ──強欲の魔神器、牙を向く──
「──まずい!! 相棒ッ!! そいつを今すぐ気絶させろッッ!!」
戦場に鋭く響き渡ったヴァレンの声。その必死さに、場の空気が一瞬で張り詰める。
アルドは思わず目を丸くし、「えっ?」と間の抜けた声を漏らした。
ヴァレンは、歯を食いしばり血走った目で怒鳴る。
「いいから早くッ!! お前の力なら簡単だろうがッ!?」
しかし、当の本人は頭をかきながら困ったように顔を歪めた。
「いや、そんな事言われてもさぁ…… 力加減がムズいんだって! 殺しちゃったら鬼塚くん達の魂も天に召されちゃうかもしれないじゃん!?」
ヴァレンの顔が更に引きつる。
「はあああ!? 気絶させるだけだぞ、気絶!!? そのくらい出来るだろ、お前なら!!」
「いや、これマジでムズいんだって!!」
アルドは両手をぶんぶん振って、まるで本気で言い訳する子どものように叫ぶ。
「ヴァレンだってさあ! ゴキブリを叩いて潰さずに気絶だけさせろ! とか言われたら激ムズでしょ!? そういう感じなんだって!!」
シーーーン………
その例えに、場が一瞬フリーズする。
遠くでマイネが「……えぇ……」と呟き、ヴァレンは顔を引き攣らせながら「あ、相棒……その喩えは、流石に……」と喉の奥で呻いた。
アルドはしばらく口を閉ざし、少し間を空けた後、ふと
「……あっ、やべっ」
と小さく声を漏らした。
自分の失言に気付いた子どものように口元を押さえ、恐る恐るチラリと紅龍の方を見る。
そこには──立ち上がった紅龍がいた。
顔中に青筋を浮かべ、歯をギリギリと噛みしめ、ビキビキと筋肉を引きつらせながら、鬼神の如き表情でアルドを睨みつけている。
「……」
空気が凍りついた。
紅龍の怒気は目に見えるほどの圧力となって、地面を振動させる。
「ご、ごめんね!?い、今のは……つい、うっかり、っていうか……口が滑った、っていうか……!」
アルドは慌てて両手を前に突き出し、しどろもどろに声を上げた。
「敵とはいえ……い、今のは流石に失礼過ぎたかな!? いや、アンタがゴキブリみたい、って言った訳じゃなくてね……!? ただ、本気で叩いたら死んじゃいそうだけど、弱く叩くと起き上がってくる絶妙なタフさ加減が、俺にゴッキーを連想させてしまったというか……」
必死に言い訳を並べるアルド。その額には冷や汗が滲む。
「ほ、ほら、カサカサ動いてなかなか素早いし?さっきの、空中で静止してた謎飛び蹴りみたいに、こっちの予測出来ない様な飛翔を見せるあたりとかも、何となく台所の黒い悪魔を連想してしまうというか……ね?あ、あるじゃん?そういう事って!!」
──完全に余計な一言だった。
紅龍の顔はさらに歪み、口元がピクピクと痙攣する。
怒りで顔全体が赤黒く染まり、全身が震えている。
遠くからその様子を見ていたヴァレンとマイネは、同時に引きつった表情を浮かべた。
「……相棒、マジで今のは致命傷だぞ……」
「煽リティが高すぎるじゃろ……」
戦場に再び、不穏な空気が濃厚に立ち込めていった。
◇◆◇
「──ああああああ!!! 最早勘弁ならん!!」
紅龍が咆哮し、ダァン!!と地面を踏み抜いた。
破砕音と共にアスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れ、紅の殺気が周囲に奔る。
アルドは小さく肩をすくめ、心の中で
(めっちゃキレてる……それはマジでごめん!)
と冷や汗を流しつつも、軽く身構えるだけだった。
紅龍は憤怒に染まった顔で、緋色の双刀を振り上げる。
「儂や兄者、姉者がこれまで受けたダメージ……そして、今の貴様の暴言……これらに対する賠償を請求するッッ!!」
その言葉と同時に、紅龍の掌に女物の財布が顕現する。金糸の刺繍、禍々しい気配を纏うそれは、魔神器 "我欲制縄"。
「えっ、俺、訴えられるの?」
アルドが思わず素っ頓狂な声を漏らす。
遠くからヴァレンが血相を変えて叫んだ。
「ヤバい!! 相棒、逃げろッッ!!」
続けて、マイネの鋭い悲鳴が重なる。
「“我欲制縄”が……!! 道三郎ッ!! いかんッッ!!」
次の瞬間。
財布の口から、シュルルルルッ!と白紙のようでいて禍々しい光を帯びた長大な領収書が流れ出した。終わりが見えないそれは、空を切り裂く様に揺らめき、紅龍の叫びと共に地面へ突き刺さる。
「“欲望の地雷源”ッッ!!」
地鳴りと共に、地面が裂け、黄金の鎖が蠢くように這い出した。鎖は意思を持つ蛇のようにのたうち、棒立ちのまま「え?」と呟くアルドに狙いを定めて迫る。
「いけない!! いかに道三郎殿といえど……“欲望の地雷源”で全ての力を封じられてしまっては……!!」
ベルザリオンが顔を強張らせる。
「お嬢の力は、どんな格上にでも通用するのよぉ!! 全ての力を差し押さえられちゃったら……いくらアルドきゅんでも……!!!」
ジュラ姉が悲鳴に近い声を上げた。
「そ、そんな……!? アルドくんっ!!」
ブリジットも叫び、
「ウソっしょ……!? 兄さんの力が……封じられる!?」
リュナの瞳も動揺に揺れる。
「アルドさーーん!!」
フレキまでも声を張り上げる。
黄金の鎖が、いままさにアルドを縛ろうとした、その瞬間──。
ピタリ。
まるで時間が止まったように鎖の動きが固まった。場の全員が目を見開く中、虚空に無機質な声が響く。
『──お支払いの完了が確認されました。またのご利用をお待ちしております。』
鎖は力なく地面に引っ込み、跡形もなく消え去った。
……静寂。
風の音すら聞こえない。
紅龍も、マイネも、ヴァレンも、目を剥いて固まっている。
「───えっ」
紅龍が小さく呟いた。
マイネとヴァレンも口を開けたまま、唖然とアルドを見ている。
当のアルドは、頭の上に「?」を浮かべたような顔でキョロキョロと周囲を見回すと、ふぅっと大きなため息をついた。そして──
「何も起きねぇじゃねぇか、バカヤロウ!!」
そう言いながら、紅龍にズバァン!!と遠慮なしのビンタを見舞った。
「ぐっはぁあああッ!?!?」
乾いた音と共に紅龍の頬がねじれ、錐揉み状に吹っ飛んでいく。その姿はまるでコマのように回転しながら、地面を転がっていった。
戦場に再び、信じられない光景を目撃した者たちの息を呑む音だけが響く。
◇◆◇
「バ……バカな……ッ!? そ、そんなハズは……!?」
瓦礫に埋もれていた紅龍がヨロヨロと立ち上がる。頬は腫れ、口元から血を垂らしながらも、その眼光にはまだ執念の炎が宿っていた。
彼は歯を剥き出しにして、怒りと混乱を吐き出すように吼える。
「も、もう一度だッ!!」
振り上げた拳に呼応するように、手の中の女物の財布"我欲制縄"が妖しい光を帯びる。
「“欲望の地雷源”ッッ!! 今、殴られた分の賠償を請求するッッ!!」
ドォン!!と地面を震わせ、再び黄金の鎖がうねり出る。ギラリと輝く鎖は、音もなくアルドの身体へと伸び──。
『──お支払いの完了が確認されました。またのご利用をお待ちしております。』
無機質な声が響いた瞬間、鎖はまるで冗談のようにシュルッと地面に引き込まれ、影も形も残さなかった。
「な……何故だ……!?」
紅龍の膝ががくがくと震え、顔が青ざめていく。
「強欲の魔王の魔神器……“我欲制縄”の前では……強さなど、意味がないのでは無かったのか……ッ!?」
誰よりもそれを信じてきた彼が、今や絶望をにじませていた。
アルドはというと、首を傾げて間の抜けた顔をしている。
「──いや、何が起こってんの、これ?全然分かんないんだけど。」
彼ののんびりした声が、戦場の空気に余計な虚脱感を与えた。
「何故……何故、“我欲制縄”の力が、道三郎には通じんのじゃ!?」
マイネが顔を蒼白にし、思わず叫ぶ。
「……あ、相棒……?」
ヴァレンは冷や汗を垂らしながら、恐る恐る声を掛ける。
「お前……本当に……身体は、何ともないのか……?」
アルドは自分の腕をぐるりと回し、胸や肩を軽く叩きながらキョロキョロと見渡した。
「え?いや、特に何ともないっぽいんだけど……」
その時、彼の視線が自分の右手に落ちた。
「──あ。」
指を広げ、じっと右手の甲を見つめる。そして、眉をひそめて呟いた。
「なんか──人差し指の爪だけ、キレイに切られたみたいに短くなってる。」
……シーン。
誰一人として意味が分からず、空気が固まる。沈黙が広がり、瓦礫の崩れる音すら聞こえない。
その沈黙を破ったのは、リュナだった。
「──あっ!! そっか!! そういう事っすか!!」
場の全員が一斉にリュナを振り返る。ヴァレンが眉を吊り上げて問いただす。
「どういうことだ、リュナ!」
リュナは鎖をガチャガチャと鳴らしながらしながら説明する。
「その地雷女の魔神器……受けたダメージやソンガイ……?……に対して、“カネやカネになるものでの支払い”を強制して、払えない分を“力の差し押さえ”ってカタチで発動するんっしょ?」
「そ……その通りだが……それがどうしたってんだよ?」
ヴァレンは目を見開き、半ば怒鳴るように返す。
リュナは口角を上げ、アルドの方を指さした。
「いや、あのさー……"兄さん"だぞ? “兄さんの爪”だぞ?」
場が再び静まる。
「……人間のカネに換算したら、価値とんでもない事になるんじゃね?」
「………あああっ!?!?」
ヴァレンとマイネが同時に叫んだ。
目を剥き、稲妻に打たれたかの様なリアクション。
二人の表情には、信じがたい真実を悟ってしまった衝撃が浮かんでいた。
紅龍はなおも信じられないという顔で、アルドの右手を凝視する。
その爪ひとつが、強欲の魔王の誇る魔神器の根幹を揺るがしているなど──夢にも思わなかった。
◇◆◇
ヴァレンの脳裏に、鋭い稲妻のような閃きが走った。
(──そうだ! 相棒は真祖竜……! 伝説の存在とかいうレベルじゃない、神域に住まう存在……!)
息を呑む。思考が、理屈を越えて確信へと変わっていく。
(その身体は、爪の破片や髪の一本、血液の一滴ですら……大国の国家予算並みの価値が約束されている……!!)
(どんな額の賠償だって、何百回払っても……お釣りが来るどころじゃあない……!)
彼の口元が引き攣る。
(つまり──“我欲制縄”は、相棒に通用し得る力どころか……ある意味、最も相性の悪い……全く通用しない力……!!)
隣に立つマイネもまた、同じ結論に辿り着いたのだろう。
目を伏せ、肩を落とし、ぐったりと力を抜いている。
「……な、なるほどの……流石は……道三郎じゃな……」
言葉の内容はアルドを褒め称えたものだが、彼女の声は掠れて、己の無力を受け入れるように小さかった。
ヴァレンは横目でそれを見て、心中で小さく溜息をつく。
(……マイネのヤツ。味方とはいえ、自分と相棒の絶望的なまでの相性の悪さに気付いたみたいだな。自信喪失しちまってる……気の毒に……)
だが同時に、ヴァレンは笑みを零す。
(まったく……お前はいつだって、俺の想像の遥か上をいってくれるぜ。相棒……!)
安堵の滲む笑みと共に、彼は強く頷いた。
そのやり取りの向こうで、ブリジットが胸に手を当て、微笑んだ。
「……よく分からないけど、アルドくんなら大丈夫って、信じてたよ!」
その声は、震えながらも確かな信頼に満ちていた。
アルドは少し照れたように後頭部をかき、ブリジットへ視線を向ける。
「……俺もよく分からないけど、期待に応えられたならよかったよ!」
彼の笑顔はあまりに自然で、戦場の緊張をひととき忘れさせるほど穏やかだった。
だが、その光景を見ていた紅龍の胸には、正反対の感情が渦巻いていた。
「ば……馬鹿な……!」
ヨロヨロと数歩、後退する。
全身の血が引いていくように冷たい。
“無敵の切り札”と信じて疑わなかった魔神器も、幾多のスキルも──目の前の男には一切通じない。
(我ら三龍仙の誇りも、分身の力も、どんなスキルすらも……全てが、この男の前では……無意味……!)
彼の足は震え、財布を握る指先が白くなる。
何をしても届かない、圧倒的な存在。
その現実に、紅龍は初めて「絶望」という言葉を己に重ねていた。
ふと、紅龍はいつの間にか自分の右手に何かが握らされている事に気付く。指を開き、静かに視線を落とすと、そこには──
爪切りでキレイに切ったかの様な、アルドの右人差し指の爪が、ちょこんと乗っていた。