第170話 逆転の切り札、嗤う紅龍
──瓦礫の山に、静かな風が吹き抜けていた。
崩落したビルの残骸。
その中に埋もれているはずの紅龍を探しながら、ヴァレンは片翼を軽くはためかせ、瓦礫を一つ、また一つとどかしていく。
「……まさか、死んじゃいないよな」
軽口を叩くように呟きつつも、その声には微かな焦燥が混じっていた。
「影山クンのお友達の魂、取り返さなきゃならないんだか……らっ……!」
彼は掌で押すだけで、自動車ほどもあるコンクリートの塊をヒョイと脇へ退ける。
その動作は力業ではなく、あくまで余裕ある仕草。
だが、その紅の瞳は一点を鋭く探り続けていた。
すると、砂埃の奥から、影が揺らめく。
──紅龍。
全身に切り傷を負い、敗れた軍服の間から血が滴り、息も絶え絶え。
それでも彼はふらふらと歩み出てきた。
「お、生きていたようで何よりだ」
ヴァレンはいつもの調子で笑みを浮かべる。
だが、紅龍はそれに答える代わりに、口元を歪め──
「……ふ……ふっははははは………!」
喉の奥から響く、不気味な高笑いを響かせた。
その笑いはあまりに唐突で、血に濡れた姿には似つかわしくない。
(妙だな……? あの傷で、そんな高笑いしてる余裕があるとは思えないが……)
ヴァレンの笑みは崩れない。だが、心中では確かな疑念が芽生えていた。
紅龍は、額に手を当て、くぐもった笑声を止めると、ヘラヘラと笑いながら言葉を吐き出した。
「……儂の“宝貝”……"緋蛟剪"はな……他者の魂を……スキルを喰らう、顎」
低い、だが確かな響きを持つ声だった。
「魂を喰らい、咀嚼し、我が魂に取り込む……。そうして、その力を……すべて、我が物とするのよ……!」
ヴァレンは目を細め、肩をすくめて軽口を返す。
「……急にどうした? オッサンの自分語りはキツいぜ?」
だが、心の奥では──(やはりな……)と警戒を強めていた。
紅龍は続ける。
「……儂ら仙道は老いぬが、こう見えて、儂もなかなかの歳でのう。喰いでのある獲物は、咀嚼に時間がかかる……」
「喰らってから、力を我が物にするまで──どうしてもタイムラグがあるのよ……!」
その口調は自慢とも、自嘲ともつかない。
だが次の瞬間、紅龍の口元に浮かんだ笑みは、勝者のそれだった。
カッ──と、彼の手に眩い光が宿る。
そこに握られていたのは、五つの環が連なる杖。
「……ッ」
ヴァレンの瞳が見開かれる。
「それは……聖女ちゃんの神器……!?」
紅龍は無言で掲げる。杖──"五輪聖杖"が煌めくと、眩い光が紅龍の全身を包み込む。
その肉体を刻んでいた無数の裂傷が、光に触れるごとに閉じていく。
血で濡れた皮膚が、みるみる健康な色を取り戻す。
折れかけていた双刀の刃先までもが、淡い光により修復されていく。
「くっ……!」
ヴァレンは歯を食いしばり、剣を構え直す。
(聖女の力……自己回復まで出来るようになっちまったか……!)
だが、その胸中に走る焦りの熱を、彼は軽口で塗りつぶす。
「……よくもまあ、若い女の子のもんを無断借用するよな。そのノンデリ具合、引くぜ。」
紅龍はにやりと嗤い返す。その目に宿る光は、確かな闘志と、全てを喰らわんとする飢え。
(だが──分かった。さっきの戦いで……“色欲”状態の俺なら、今の紅龍も敵じゃあない)
(……次は、確実に意識を刈り取る……!)
ヴァレンの剣先が、静かに紅龍を指す。
砂塵舞う瓦礫の中、二人の視線がぶつかり合い、再び戦いの火蓋が切られようとしていた。
◇◆◇
ヴァレンは剣を構えながら、口角をわずかに吊り上げた。
「……それがお前の切り札かい? 残念だが、回復が出来るようになったくらいで、俺とお前の力の差は埋まりはしないぜ」
軽口。しかし瞳の奥は冷たい光を宿している。
今の紅龍に、勝機はない──そう断じる声音だった。
だが、紅龍はその言葉に反応するでもなく、ただ肩を揺らし「くっ、くっ」と笑う。
「早とちりするな。誰が“これ”が切り札だと言った?」
紅龍は掌に握っていた"五輪聖杖"を、煙のように霧散させる。
光は掻き消え、傷が癒えたその肉体だけが残る。
「小娘の神器……なかなか強力な力であったよ。咀嚼に、それなりの時間を要した」
「もっと強大な力であれば、咀嚼するのに更に長い時間を要する」
紅龍の目尻に、禍々しい愉悦が宿る。
「──つい先程まで、だ。およそ十日以上もかかったのは……我が人生においても初めての経験であったがなァ!!」
その声は瓦礫を震わせ、夜の街を嘲笑するかのように反響する。
「……十日以上……?」
ヴァレンの表情から余裕が剥がれ落ちる。
「………まさか……っ……!?」
頭の中で、ひとつの答えが浮かび上がる。だが、それは想像するだけで背筋を凍らせるものだった。
紅龍は、にたりと口の端を歪める。
「認めよう。ヴァレン・グランツ──貴様は、儂より強い」
そう言い切った声には、わずかの揺らぎもない。
だが、その次の一言は、全てを覆す冷酷な宣告だった。
「だが、“強さ”など、今の儂の前では何の意味も持たぬ。──それを、教えてやろう」
紫と緑──二色の異質な魔力が、紅龍の周囲に渦を巻く。
砂塵を巻き上げ、空気を圧迫し、ヴァレンの喉を締め付けるかのように重苦しい。
「……おいおい……嘘だろ……?」
ヴァレンは額に汗を浮かべ、乾いた笑みを漏らす。
笑みの形をしていながら、その奥に潜むのは確かな恐怖。
紅龍の手に収束した二色の魔力は、混じり合い、ねじれ合い、異形の形をとり始める。
やがてそれは、革の感触を持つ小物へと変貌した。
女物の財布。
不釣り合いなまでに小さく、だが禍々しい気配を放つ神器。
紅龍は、まるで秘宝を見せつけるかのように高らかに掲げた。
「"魔神器──我欲制縄"」
その声は静かでありながら、ぞっとするほどの重みを持っていた。
「……噛み砕くのに、苦労したわい」
紅龍は財布をひらひらと弄びながら、ヴァレンに射抜くような視線を向ける。
その眼差しは、獲物を確信した捕食者のものだった。
「さあ、ヴァレン・グランツ──“強欲の魔王”の力。貴様は、抗えるか?」
瓦礫の上、二人を包む空気は張り詰め、息を呑むほどの緊張感に満ちていった。
◇◆◇
瓦礫の中、砂埃を纏いながら紅龍が歩を進める。
先程までのその姿は、血と焦げ跡にまみれ、立っているのも奇跡に思えるほどだった。
だが、今その口から紡がれる声は、むしろ確信に満ちていた。
「──魂を喰われた肉体はな。魔力を納める器を失い、魔力の源を失い、身体を構成する霊素のバランスを崩す。」
紅龍の足取りはゆっくりと、しかし一歩ごとに重圧を増していく。
「結果、身体は緋色の石像のように変質する」
ヴァレンは剣を構えながら、じっと相手を見据える。
その眼差しは笑みを貼り付けていても、瞳孔の奥では冷たい焦燥が広がっていた。
紅龍はさらに続ける。
「……しかし、貴様ら“大罪魔王”は違うな。魂を大きく二分化している。本体と……“魔神器”に」
その一言に、ヴァレンの心臓が大きく跳ねる。
紅龍は唇を歪め、愉悦に濡れた声を吐いた。
「マイネ・アグリッパもそうであった。魔神器を喰らったにも関わらず、力こそ失えど、平気でいられるのはそのせい、という訳か」
「……貴様のその変身を見て、すべて腑に落ちたわ」
ヴァレンの背を、嫌な汗が流れる。
(──最悪だ!!)
彼は心の中で呻いた。
(マイネが神器を紅龍に奪われたと聞いた時……全く想定してなかった訳じゃあ無かった……! だが、可能性は限りなく低いと思って除外しちまってた……!)
(まさか、"魔神器"が……人の手に渡るとはな……!)
紅龍の手にある"我欲制縄"。
その力の性質を、ヴァレンは痛いほど知っている。
("我欲制縄"は……自分が受けたダメージや不利益の対価を、相手に強制的に支払わせる力……! 金銭的に支払う能力が無ければ、どれだけ強大な力であろうと“差し押さえる”事が出来る……!)
ヴァレンの指先が震える。
紅龍の足音が、まるで死刑執行人の合図のように響いていた。
(つまり……この場において、唯一……『相棒』にも通用し得る力……!)
(それを……紅龍が手に入れちまった……ッ!!)
その瞬間、ヴァレンの笑みが崩れる。
口元は笑っているのに、額には冷や汗が浮かび、瞳の奥は打開策を探っていた。
紅龍の歩みは止まらない。
瓦礫を踏みしめながら、じりじりとヴァレンへと近づいていく。
その姿は、敗北寸前に追い込まれた男の姿ではなかった。
捕食者として、ようやく牙を剥いた覇者の姿だった。
◇◆◇
瓦礫の街を震わせるように、ヴァレンは踏み切った。
(こうなれば……ヤツが "我欲制縄" を発動する前に、一撃で意識を奪うしかねぇ……ッ!!)
右手の人差し指と中指を揃え、額へと突き出す。
「──"夢想抱擁"ッッ!!」
声が響き渡ると同時に、赤い魔力の粒子がヴァレンの指先に収束し、紅龍の意識を刈り取る眠りの抱擁が迫る。
だが──届く直前。
紅龍の唇が動いた。
「──"欲望の地雷源"。」
次の瞬間、金色の鎖が空間を裂き、ヴァレンの四肢を縛り上げた。
「なっ……!? ク……ソ……ッ……!!」
指先は紅龍の額まであとわずか。だが、鎖は無情にその動きを固定する。
紅龍の顔に、ゆがんだ笑みが浮かぶ。
彼の手に握られた"我欲制縄"から、無限にも思える長大な領収書が、蛇のようにシュルルルと飛び出した。
光を帯びた紙片は宙を舞い、果てしなく延び続けていく。
紅龍はその端を人差し指と中指で掴み取り、嗤った。
「ヴァレン・グランツ……ここに、“強制徴収”および“差し押さえ”を宣告するッッ!!」
鎖が収縮する。
「ぐああああッ……!!!」
ヴァレンの身体が軋み、魔力の装束が砕け散っていく。
金光が迸り、次の瞬間──魔神器との合体による変身は解け、彼はただの伊達男の姿へと戻ってしまった。
紅龍の笑い声が、崩れたビル群に反響する。
「ふふふ……ハハハハハ!!」
「最早──誰も儂を止められぬ……! 貴様ら“大罪魔王”も!! 儂を謀ったベルゼリアも!! フォルティアの魔竜とやらも!!」
「全て、この儂が喰らい尽くしてくれるわァ!!!」
その高笑いは狂気そのものであり、夜を震わせた。
しかし──突如、空から声が降る。
「そうはさせませんっ!!」
エコーを帯びた声。その響きは大地を駆け抜け、紅龍の耳を撃った。
「むっ……!?」と紅龍が顔を上げる。
そこにあったのは、神獣化したフレキの姿。
超胴長の巨大なダックスフンドが、ビルの狭間を縫うように飛翔していた。
その体から光が溢れ、神獣特有の荘厳な気配が街を覆う。
そして、その背から──二つの影が舞い降りる。
一人は、ブリジット。
背には気を失った蒼龍を縛り付け、必死にバランスを取りながら飛び降りてくる。
「ヴァレンさーーん!! 大丈夫っ!?」
彼女の声は戦場にそぐわない程、仲間を心配する思いやりに満ちていた。
もう一人は、リュナ。
スカートを片手で押さえながら、軽やかに飛び降り、ヴァレンに視線を突き刺す。
「うわ、ヴァレン……なんか負けてるっぽくね!? ダッサ!!」
毒舌交じりの声が夜風に響く。
鎖に囚われたヴァレンは、苦しげに二人を見上げる。
「ブリジットさん……リュナ……!」
弱々しい声の奥に、彼の安堵と焦りが滲んでいた。
紅龍の瞳がぎらりと光り、二人の少女へと向けられる。
「小娘ども……ッ!?」
炎と欲望の気配が交錯する中──新たな戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。
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