第168話 スレヴェルドの決戦 ── 魔王vs. 仙道 ──
ヴァレンの身体に奔る赤い魔紋は、まるで彼の血管そのものが発光しているかのように脈動し、肌の下を妖しく走っていた。
黒髪に差し込まれていた赤のメッシュは逆転し、燃え盛る焔のような赤髪の中に、墨のような黒が細い稲妻のごとく走る。
その姿は、先程までの軽薄な伊達男の影を失い──魔王という存在の深淵を垣間見せるものだった。
肩に無造作に掛けていた赤茶のロングコートが、突如としてギュルルと音を立て捩れ、裂け、そして形を変える。
布地は一枚の巨大な羽根となり、夜の闇に浮かぶ真紅の天使の片翼が顕現する。
血を吸ったように赤黒く輝き、羽ばたくたびに空気を焼き切る音が響く。
紅龍は空中に留まりながら、思わず言葉を零した。
「……なんだ、その姿は……?」
炎の中で戦いを楽しむ猛者の声音に、わずかな動揺が混じっていた。
離れたビルの窓からその光景を目にした佐川颯太も、抱えた天野唯の石像を支えたまま、言葉を失う。
瞳に映るのは、夜空に浮かぶ「悪魔」と「天使」の混ざり合ったような姿だった。
ヴァレンは口の端を吊り上げ、赤い瞳を細める。
「ククク……さぁな。何だと思う?」
挑発めいた笑みと共に、彼は軽く指を鳴らした。
──パチン。
その瞬間、街を包んでいた灼熱の炎が逆巻くように集まり、風を切って天へと昇っていく。
ビルの窓を舐める火災、道路を焦がす業火……それらすべてが渦を巻きながら吸い上げられ、夜空へと突き抜けた。
そして──。
パァーン! パパァーン!!
轟音と共に、炎は次々と打ち上げ花火へと姿を変え、スレヴェルドの夜空を彩った。
真紅、黄金、翠、紫……大輪の花が夜天に咲き乱れ、戦場は一瞬だけ幻想の祭りへと変わる。
その光景を見た佐川が、思わず息を呑む。
「……花火……?」
だが、華やかさに呑まれる余裕は紅龍にはなかった。
「なに……ッ!? 封じたはずのスキルを……!?」
憤りと驚きが混ざった声を上げ、赤い双眸をギラリと光らせる。
ヴァレンは答えず、今度は指を横に払った。
「──"電飾冥王獣"」
言葉と同時に、紅龍が浮かぶ周囲のビル群の屋上に、不気味に輝く影が現れる。
それは──眩い電飾に覆われたファンシーな獣たち。
光を放つウサギ、クマ、ライオン、ゾウ……まるで遊園地の夜を飾るフロートのように並び立ち、その存在自体が悪夢的な違和感を孕んでいた。
紅龍の眉間に怒りの皺が寄る。
「……ふざけおって……!」
次の瞬間、冥王獣たちは一斉にカパリと口を開き、頭を持ち上げ、夜空にいる紅龍を狙う。
ギュイイイイイイン……!!
空気が震えるほどの魔力の収束音。光が収束し、怪しくきらめく。
「撃て」
ヴァレンの一言を合図に、電飾冥王獣たちは虹色の奔流を吐き出した。
真紅のビーム、蒼のレーザー、緑の閃光、紫の槍──色とりどりの魔力砲が夜空を切り裂き、紅龍を呑み込まんとする。
紅龍は即座に双刀を組み合わせ、双刃刀へと変形させる。
その刃を頭上で唸らせ、絶叫した。
「"炎龍圏ッッ!!」
ギュイィィン!!
回転する双刃刀の軌跡から炎の結界が展開され、襲い来る魔力砲を次々と弾き返していく。
レーザーと炎がぶつかり合い、夜空は火花と爆発音で満ちた。
ファンシーな冥王獣の光と、紅龍が纏う業火の赤。
対照的な光がスレヴェルドの上空で交錯し、戦場はもはや地獄か楽園か分からぬ混沌の舞台と化していた。
◇◆◇
紅龍が "炎龍圏" で冥王獣たちの砲撃を弾き切った、その刹那だった。
夜空に煌めく赤い片翼が、ドン、と一度だけ空気を震わせる。
次の瞬間、ヴァレンの姿は掻き消えていた。
「──ッ!?」
紅龍の背に悪寒が走る。
振り返る間もなく、背後から奔る殺気。
闇を裂くように伸びた銀の閃光、それは魔剣 "最愛の花束"の突きだった。
ギャギィィィン!!
咄嗟に交差させた緋蛟剪が火花を散らし、剣と剣がぶつかり合う。
だが──。
「ぬうううッ……!!?」
紅龍の全身を、信じがたい圧力が貫いた。
剣を受け止めたはずなのに、腕ごと押し潰されるような衝撃。
ズガァァァァァァン!!!
紅龍の巨躯は弾丸のように吹き飛び、背後のビルに突っ込んだ。
コンクリートの壁が砕け、ガラスが粉雪のように宙を舞う。
一棟目を突き破り、さらに二棟目をも貫通し──三棟目のビル一階フロアでようやく動きを止め、地鳴りのような轟音と共に叩きつけられた。
瓦礫と粉塵が夜の街に降り注ぎ、火薬臭が漂う。
スレヴェルドの繁華街は、もはや戦場以外の何物でもなかった。
その光景を目の当たりにした佐川颯太は、抱えた天野唯の石像を落とさぬよう必死に支えながら、呆然とした声を漏らす。
「……そ……その姿は……?」
ビルの窓から見下ろす彼の瞳に映るのは、赤髪に黒の稲光を走らせ、背に血染めの天使の片翼を広げたヴァレン。
まるで悪魔と天使が融合したかのような、異様にして荘厳な姿だった。
ヴァレンは片目の奥で赤い光をきらめかせ、割れたサングラスをかけると、ずらすように指で押し上げ、ニッと笑う。
「ククク……魔王が第二形態に変身するのは──お約束だろ?」
ウインクと共に投げられた軽口に、佐川は口を半開きにしたまま硬直する。
やがて、引き攣った笑みが零れた。
「なんで……異世界の魔王が、そんな事知ってんだよ……」
呆れとも安堵ともつかぬ声音。
だがその胸の奥で、彼は確かに安堵していた。人格まで塗り替わったわけではない──そう感じ取れたからだ。
ヴァレンは片翼を大きく広げ、炎を孕んだ夜風を切り裂く。
瓦礫に埋もれた紅龍の気配に鋭く目を向けると、羽ばたきと共に一直線に飛び出した。
赤黒い閃光となった魔王が、再び獲物を狩る獣のように紅龍を追う。
その後ろ姿は、恐ろしくも、なぜか心を奪うほどに輝いて見えた。
◇◆◇
轟音と共に、三棟目のビルが崩れ落ちる。
だが、瓦礫を突き破り、灼熱の風を纏った影が再び姿を現した。
紅龍だ。
その身体は瓦礫の衝撃であちこち裂傷を負い、赤黒い血が滴っていた。
だが、その瞳はまだ爛々と燃えている。
「……ぐっ……ぬうう……」
唸り声を上げ、両腕で瓦礫を薙ぎ払う。
粉塵を吹き飛ばした紅龍の姿に、周囲の残骸がざわりと揺れるような圧が走った。
だが、その胸中には戸惑いが渦巻いていた。
(なんなのだ……あの姿……!? ヴァレン・グランツの……あの変貌は……!?)
(大罪魔王の伝承にすら……記されていなかった……あんなものは……知らぬぞ……!?)
その思考を断ち切るように、赤い片翼が羽ばたいた。
瓦礫の前にスタッと着地する影。
ヴァレンだった。
赤黒に変わった髪を揺らし、不敵な笑みを浮かべて紅龍を見据える。
左手の "ときめきグリモワル" は既に体内に同化し、その身からは脈動する赤い魔紋が光を放っている。
「──"星蹴撃"」
低く囁いた瞬間、ヴァレンの周囲に眩い光球がいくつも浮かび上がる。
サッカーボールほどの大きさの光の玉が、夜の街に星座のように瞬いた。
「この……ッ!?」
紅龍が目を見開く。すぐさま印を組み、"封印呪法" を発動させる。
だが──光球は、消えない。
「馬鹿な……封じたはずのスキルが……!」
焦燥をにじませる紅龍に、ヴァレンはクククと喉を鳴らして笑った。
「そうそう、何度も同じ手は食わないさ」
そのまま、ヴァレンの片翼が赤い光を散らして羽ばたく。
彼の身体はふわりと宙へ舞い上がり──次の瞬間、空中で鮮やかに足を振り抜いた。
バシュッ!!
光球の一つがボレーシュートのように蹴り出され、唸りを上げて紅龍へ迫る。
さらにオーバーヘッド、サイドボレー、次々と華麗なフォームで光球を蹴り抜き、流星の雨のように紅龍へと放つ。
その光景はまるで、夜空にサッカーグラウンドを描き出すかのようだった。
「ぐっ……!」
紅龍は双刀を閃かせ、迫る光球を叩き斬る。爆ぜる光。
幾つかは身を捻ってかわすが、数は膨大で、間断なく襲いかかる。
「何故だ!? スキルは封印したはず……!?」
必死の咆哮。だが、ヴァレンは片足を蹴り出しながら、静かに言葉を紡ぐ。
「──たとえば、スプーンでカレーを掬う……」
バシュッ、と光球を蹴る。
「お気に入りの漫画のページを、指で捲る……」
ゴォン、と紅龍の前に光弾が炸裂する。
赤く輝く瞳が、射抜くように紅龍を見据える。
「そんな当たり前の所作を……『スキル』と呼ぶと思うか?」
「な……に……?」
紅龍は斬撃の手を止めぬまま、目だけで問い返す。
ヴァレンは宙で片翼を揺らし、薄く笑った。
「今の俺にとって、"心花" を顕現するのは……『当たり前に出来ること』だ。──”スキル封じ”じゃあ、封じられないさ」
「そんな馬鹿な話があるかッ!!」
紅龍は怒号と共に双刀を振り下ろす。
魔力が奔り、紅蓮の炎がうねりを上げる。
刹那、紅龍の背後から二匹の炎龍が咆哮を上げて飛び出した。
赤熱の顎を開き、ヴァレンを飲み込まんと迫る。
「ハッ……!」
だが、ヴァレンの口元は崩れぬ。
むしろ愉快そうに、指を鳴らし──。
「──"極光天幕」
瞬間、極彩色のオーロラが彼の周囲に広がった。
緑と紫の光の幕が、天から降り注ぐように展開する。
炎龍が突っ込む。だが、触れた瞬間、炎はオーロラのカーテンに吸い込まれるように消滅していった。
「なっ……!?」
紅龍の瞳が驚愕に見開かれる。
その隙を、ヴァレンが逃すはずもない。
片翼をはためかせ、一気に紅龍との距離を詰める。
鋭い踏み込み。
大地を蹴り、回転を加えた強烈な蹴りが紅龍の腹部に直撃する。
「──ッガァァッ!?」
紅龍の口から血が飛沫となって散った。
巨体が折れ曲がり、スレヴェルドの道路に沿って真っ直ぐに吹き飛ばされる。
アスファルトが抉れ、火花を散らす。
轟音を立てて街路灯がなぎ倒され、瓦礫の波が夜の街を駆け抜けていった。
──赤い片翼を広げた魔王の姿を残して。
◇◆◇
轟音と共に地面に叩きつけられた紅龍の巨体は、アスファルトを深々と抉り、周囲の街路灯をなぎ倒して静止した。
口元から赤黒い血を零しながらも、その双眸はなお獰猛な光を失ってはいない。
(凄まじい力……! ヴァレン・グランツ……これほどの奥の手を隠し持っておったとは……!)
(だが、魔神器を体内に取り込み、あの異形へと変貌する……普段からその姿でおらぬのは、その変身に何らかの代償がある証左……!)
(──儂の“奥の手”も、あと少しで完成する……! 時間との勝負よ、大罪魔王……!)
紅龍は倒れたままの体勢から、突如バネのようにドンッ!と跳ね上がった。
宙で回転し、地面に鮮やかに着地。瓦礫の煙を背に、両の双刀を構える。
「……見くびっておったわ」
紅龍は裂けた唇を吊り上げ、血の混じる歯を剥き出す。
「“大罪魔王”の名は、伊達ではないという事か……!」
対するヴァレンは、ビルの谷間をゆっくりと歩み寄る。
サングラス越しの赤い瞳が、薄く笑っている。
「まだまだ、こんなもんじゃないぜ?」
肩をすくめて、余裕の色を滲ませた。
紅龍は鼻を鳴らす。
「だが……その姿、いつまで保てるかな?」
唇の端に、猛獣のような笑みが広がった。
ヴァレンは小さく舌打ちするように心中で呟く。
(制限付きの変身だって事、見抜かれてるな……。ま、そりゃそうか)
それでも口元は歪め、不敵に言い放つ。
「少なくとも──お前が動けなくなるまでは、もつさ」
紅龍の両眼が細められる。
(確かに……この出力で畳み掛けられれば、多少危ういか。だが──!)
(かくなる上は……負担は大きいが、今まで喰らった数多のスキルを総動員し、全力で迎え撃つのみ!)
(“アレ”を咀嚼し終えるまで、時間を稼ぎ切れれば……勝つのは儂よ、ヴァレン・グランツ!)
ゴウッ、と紅蓮の魔力が紅龍の周囲に渦を巻く。
彼は両腕を大きく広げ、叫ぶように詠じた。
「──"炎神禅鎧"!」
次の瞬間、紅龍の全身が炎に包まれる。
赤い髪は燃え上がるように揺らめき、その姿はまるで炎の神仏の化身。
双刀をヒュンヒュンと振るえば、空に炎の線が幾重にも描かれ、周囲の建物がレーザーで焼き切られたように斜めの断面を晒す。
ヴァレンは一歩下がり、その光景を見据えた。
「……そちらさんも、いよいよ本気ってわけか」
赤い片翼を広げ、不敵に笑う。
「ならば──俺も、一気に終わらせるつもりでいこう」
その言葉と共に、右手を高く掲げた。
ビル群の上空に広がる夜空。
満月が煌々と光を放っていた。
そこへ、ヴァレンの身体から立ち上がる魔力の柱が一直線に伸びる。
月が、震えた。
「──"月姫得恋"」
囁きと共に、月はぐにゃりと歪む。
渦を巻くように形を変え、やがて黄金の光を放つ女神の姿へと変貌した。
女神はゆっくりと降りてくる。
街を埋め尽くすビルの谷間に、その巨体を聳え立たせる。
ヴァレンの背後に立つその姿は、まさしく天より遣わされた神話の化身。
「面白い……!」
紅龍が嗤った。炎に包まれた双刀を振りかざし、猛り狂う声で叫ぶ。
「──放馬過來(かかって来い)ッ!」
「決着の時だ──ヴァレン・グランツ!!」
黄金の女神と、炎神を纏う龍将。
夜のスレヴェルドが、その激突を待ち構えるかのように息を潜めていた。