第164話 怒りと恐怖と混乱の果てに
吹き抜けの中庭を、恐怖にも似た静寂が満たしていた。
その中心で、銀色の少年──アルド・ラクシズが黄龍の首根っこを片手で掴み、まるで玩具のように宙吊りにしている。
その光景を見た瞬間、マイネの胸を冷たい戦慄が貫いた。喉がひゅ、と細く鳴り、指先にまで震えが走る。
(……道三郎……いや、アルド・ラクシズ……これ程のものとは……!)
彼女は内心で呟く。
規格外──その言葉すら追いつかぬ力。
目の前で繰り広げられたのは、ただの力の誇示ではない。圧倒的な次元の差を、理不尽なまでの暴力として見せつける光景だった。
(この強さ……なるほど、ヴァレン・グランツや咆哮竜ザグリュナが惚れ込むのも無理はないというものよ……)
マイネの脳裏に、自分と同じ存在──大罪魔王たちの顔が浮かぶ。
誰一人として、この少年に対して「勝てる」と胸を張って言える者はないだろう。いや──
(我ら“大罪魔王”ですら、この強さに太刀打ちできる可能性があるものなど……“あやつ”一人だけであろうな……)
その「一人」が誰かは、口には出さない。
しかし、それすら確信とは言えぬ。今のアルドを目にしてしまえば。
マイネは唇を噛んだ。
アルドが味方であることは承知している。けれど、魔王の性は拭えない。
もし──ほんの仮定に過ぎぬが──この男と敵対した場合、自分の力は通じるのだろうか、と。
"我欲制縄"。
金銭や価値のやり取りを強制する、己の誇りと共に歩んできた魔神器。
(妾の“我欲制縄”で、道三郎の力を『差し押さえる』ことができれば……或いは勝機はあるかも知れぬな)
僅かな希望を探すように、計算する。
だが直後、脳裏に最悪の光景がよぎり、マイネは頭を振った。
(……ま、初手で一撃で消し飛ばされれば、なす術もないが……)
想像するだけで背中に冷たい汗が流れ落ちる。
その「もしも」があまりに現実味を帯びてしまい、恐怖を煽るのだ。
(物騒な考えは止すとするか……。この男と敵対するなど……たとえ想像の中だとしても、ごめんじゃな)
マイネは息を呑み、視線を上げた。
そこには──黄龍を片手で吊るし、氷のような眼差しで睨み据えるアルドの姿。
ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。
あまりの光景に、心臓が強く跳ね、身震いを抑えられなかった。
◇◆◇
──恐怖。
それ以外の言葉が、黄龍の胸を埋め尽くすには不足だった。
首を掴まれ、宙吊りにされたまま目の前の少年を見下ろす。
否──見下ろしているつもりで、実際は底知れぬ奈落を覗き込んでいるような錯覚に襲われていた。
(馬鹿な……俺は、紅龍の分身……!)
(修行を重ね、この世界の最強の一角にまで登り詰めた、あの紅龍と同等の力を宿しているはず……だ……!)
心の中で必死に言い訳を重ねる。
だが、その現実は目の前で呆気なく崩れ去っていた。
(なのに……ッ……こいつは……ッ!)
(次元が……違いすぎる……ッ……!)
ガタガタと、全身が震える。
アルドの瞳と視線が合った瞬間、脳裏に焼き付いたのは恐怖ではなく、もっと深い──記憶だった。
見たこともないはずの光景。
紅龍の記憶には存在しない、だが「自分のもの」としか思えない記憶が流れ込んでくる。
かつて暮らしていた三龍仙の時代。
竜退治に赴いた都で、自分の師の正体が“人喰いの竜”だったと知ったあの絶望。
妹・蒼龍が竜の牙に倒れ、血に染まる光景。
そして自分自身もまた、竜の圧倒的な力の前になす術なく打ち倒されたあの瞬間。
(な……なんだ……この記憶は……!?)
(俺は……紅龍の残滓を元に作られた、幻に過ぎない存在のはず……!)
(だが……これは……まるで“本物の黄龍”の……記憶……!?)
混乱と恐怖が入り乱れ、目の前のアルドを見据えたその時。
直感が、答えを告げていた。
「……そうか……ッ!」
黄龍の喉から、掠れた叫びが飛び出す。
「貴様も……人に化けた、竜なのだな……ッ……!?」
怒りと恐怖が混じり合った声。
しかし返ってきたのは、呆れたような少年の声だった。
「はあ? 急に何言い出しちゃってんの?」
アルドは、握る手に僅かに力を込める。
「今の自分の状況、理解してる?」
ゴキリと骨が鳴り、首筋に鋭い痛みが走った。
黄龍は、苦悶と怒りに顔を歪める。
「貴様は……ッ! 貴様達は……また、俺から……全てを奪おうというのかッ……!!」
宙吊りのまま、血走った瞳で怒鳴る。
その姿にマイネは目を見開いた。
(……道三郎が、人に化けた竜……じゃと……!?)
(いや、それより……なんじゃ、黄龍とやらのあの変わり身は……!?)
理解を超えた光景に、魔王としての直感が告げる。
(詳細は分からぬ……だが、あの者の怒りと憎しみは本物じゃ……。道三郎よ……お主はヤツに、どんな裁きを与えるつもりじゃ……?)
ごくり、と喉が鳴った。
黄龍は、なおも叫ぶ。
「この世は弱肉強食……さあ!! 再び、俺を喰らうがいい……!!」
「人に化けて人を喰らう、化け物め……ッッ!!!」
狂気じみた憎悪が、声に宿る。
その様子を、マイネも、ベルザリオンも、影山も、ジュラシエルも固唾を飲んで見守るしかなかった。
その刹那──
アルドは静かに目を閉じ、フーッと息を吐いた。
そして。
「急に何の話してんだ、バカヤロウ!!」
怒声と同時に、黄龍の頬を──バチィィン!!と、豪快な音を立てて張り飛ばした。
「ブヘェッ!?!?」
間抜けな悲鳴と共に頭部がガクンと揺れる。
黄龍は呆然とし、ジンジンと痛む頬を押さえながらアルドを凝視した。
アルドは胸ぐらを更に引き寄せ、怒鳴りつける。
「俺と!! お前は!! 初対面!! じゃろがい!!!」
空気が凍り付く。
マイネ達は唖然とし、黄龍は歯をガチガチ鳴らしながら、恐怖と混乱の果てに──
「……はい。……仰る……通りです……」
力なく、そう呟くしかなかった。
◇◆◇
「──あー! もーっ!!」
アルドがいきなり天を仰ぎ、半ばヤケクソの叫び声を上げた。
「俺、なんとなく分かっちゃったーーー!!!」
黄龍は宙吊りにされたまま、ぽかんと口を開ける。
「……?……」
恐怖で歯をガチガチと鳴らしながら、意味が理解できず目を白黒させる。
「俺さー!」
アルドは胸ぐらを掴んだまま顔を近づける。
「そういう系の漫画とか小説とか、めっちゃ読んでるんだわ!?」
目は据わり、口元は半笑い。怒っているのか呆れているのか、判断不能なテンションだ。
「で! さっきのお前のセリフだけで、なんとなーくバックボーン察しちゃったわけ!!」
黄龍は「え?」と情けない声を漏らす。
アルドは間髪入れず怒鳴った。
「要はあれだろ!? お前は過去に『人に化けた竜』に酷いことされて、それ以来『人に化けた竜』って存在を恨んでる、的な!? そういうアレだろ!?!?」
「…………」
黄龍は理解が追いつかず呆然とする。
するとアルドは胸ぐらを更に揺さぶり、キレ気味に叫んだ。
「返事しろやァァ!!!」
「俺の予想──あってるのかい!? あってないのかい!? どっちなんだいッ!!!?」
「ひぃっ……!」
黄龍はびくりと肩を震わせ、必死に頷いた。
「あ、あってます……! 大体、そんな感じです……ッ……!」
その瞬間──
「パワーーーーッ!!!」
アルドの右手が炸裂。
バチイィン!!ともう一度、豪快なビンタが黄龍の頬を打ち抜いた。
「ブヘェッ!?!?」
黄龍の顔が歪み、間抜けな悲鳴が反響する。
「"俺"じゃないだろうが!!」
アルドは更に怒声を叩き込む。
「“そいつ”は!!!」
黄龍は情けない呻き声を漏らすしかなかった。
アルドは鼻息荒く続ける。
「あー……よく考えたら、俺も(前世で)お前みたいな金髪の大男に、コンビニ前で絡まれたことあったわー!」
「思い出したらムカついてきた。この金髪、全部むしっていい?」
ガシッ!
アルドの手が黄龍の黄金の髪をわし掴みにする。
「えっ!?!? ちょ、ちょっと……!?」
黄龍が慌てふためくと、アルドは怒鳴った。
「今、『俺、関係無くない!?』って思ったよなぁ!? お前がやってんの、こういう事だからな!?!?」
「ひぃぃぃ……ッ!」
黄龍は髪を掴まれガタガタ震えながら、必死に声を絞り出す。
「分かりました! 分かりました! 全面的に私が間違ってましたッッ!!!」
その様子を見ていたマイネが、思わず顔を引き攣らせる。
「こっわ……。フォルティア荒野の連中、よくあの男を給餌係の様にコキ使っておるな……」
ベルザリオンは逆に感心しきりだった。
「流石は道三郎殿…… 身体のみならず、敵の心までキッチリ折ろうとしてらっしゃる……」
ジュラ姉は両頬を赤らめ、うっとりと短い両手を合わせる。
「ああん、普段のキュートさからの、このワイルドな一面……! ギャタシ、ギャップにやられちゃうッ!!」
影山は石像になった鬼塚を抱きながら、引き攣った笑みを浮かべて呟いた。
「鬼塚……お前、本格的にあの人にケンカ売ってなくて良かったな……」
──ビルの中庭には、恐怖と呆れと、妙な感嘆と、そしてちょっとした恋心まで入り混じった、混沌とした沈黙が広がっていた。
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(アルド視点)
しばらく金髪豚野郎にキレ散らかしたあと、ようやく俺は息を整えた。
気がつくと、ビルの中庭は静寂に包まれていた。
誰一人、何も喋らない。
……あれ?もしかして、ちょっとやりすぎた感じ?
チラッと横目でマイネさんたちを見ると、二組に分かれてるのが一目で分かった。
マイネさんと影山くんは、ドン引きってやつの目。思いっきり心の距離を置かれてるのが分かる。
一方、ベルザリオンくんとジュラ姉は──いや、あれはもう信者か何かだろ。
熱烈な厄介オタみたいな視線をこっちに送ってきている。握手会で引き剥がされるタイプの。
(やっべ……この場の空気、割と取り返しつかなくなってる気がする。)
心の中で冷や汗を流しつつ、わざと咳払いした。
「コホン……」
目の前でガタガタ震えながら正座している金髪大男に、俺は声をかける。
「おい、あんた……名前、何だっけ?」
金髪の肩がビクッと跳ねる。
「は、はいっ! 黄龍と申します……!」
(ホァンロン……? あれ? ヴァレンから聞いた名前とちょっと違う気がするんだけど……まあ、細けぇことはいいか。)
「俺はアルド。でさ──黄龍さん?」
言葉を区切って、真正面から見据える。
「鬼塚くんの魂、返してくれない?」
黄龍の顔がひきつり、唇が震えた。
「た、魂を、返す……!? そ、そんなこと、出来るわけが無い……です……!」
(ああ……やっぱそうか。真祖竜の力でもなきゃ、魂を切ったり貼ったりなんて芸当はできないんだな。じゃあ今こいつに頼んでも意味ないか……)
諦め混じりに息を吐くと、今度は少し問い方を変える。
「それじゃさ。なんであんたが『人に化けた竜』をそんなに恨んでんのか──教えてくれない?」
「そ……それは……」
黄龍が口ごもる。
俺はわざと指をポキポキ鳴らしてみせた。
両手の関節を順番に鳴らしながら、ゆっくりと黄龍の方へ体を傾ける。
「──あ?」
低く声を落とす。
「さっきさぁ……初対面の俺に向かって『人喰いの化け物が!』とか罵倒してくれちゃったよね?」
「それについての説明が欲しい、っつってんだけど」
黄龍の喉がゴクリと鳴る。汗が滝みたいに首筋を流れ落ちていく。
「情状酌量の余地があるかどうか、判断したいからさ……」
俺はフッと笑い、さらに関節を鳴らした。
「話すよね……?」
「は、話します!! 話しますッッ!!」
黄龍が悲鳴のような声を上げ、額を床に擦りつける勢いで頭を下げる。
そのまま震え声で、三龍仙の過去を──彼自身の根にある因縁を、俺に語り始めた。
◇◆◇
き……聞かなきゃよかった……。
話を聞き終えた瞬間、俺は頭の中で「ガビーン!」って効果音が鳴った気がした。
いや、マジで。
自分たちを育ててくれた親代わりの師匠が、実は自分たちを“食べるため”に育ててた悪い竜でしたー、とかさ……。
しかも、その師匠に恋してた妹さんが、正体表した師匠に喰われて亡くなりましたー、とかさ……。
重すぎるでしょ、その悲劇。
正直、不憫過ぎて引いちゃうよね。
俺だって鬼じゃあございません。
こんなん聞かされたら、これ以上ボコるとか無理じゃん?
この空気、どうすんのこれ。
ちらっと黄龍を見る。
正座の姿勢でプルプル震えて、目を泳がせ、汗で床に水たまり作ってる。
俺……すでに結構、めちゃくちゃやっちゃったよね……?
手加減していたとはいえ、後々PTSDが発症するくらいにはボコってしまった気はする。
なるほど。これがいま流行りの『悪役に悲しい過去』ってやつだね。
いや、現実で遭遇すると相当気まずいな、これ。
ただの根っからの極悪人でいてくれた方がよっぽど気が楽だったんですけど。殴って終わりだから。
俺は深くため息をついた。
でも──だからって許すわけにもいかない。
鬼塚くん、あんなカッチカチになっちゃってるし。 魂はキッチリ返してもらわなきゃね。
けど、本人も返し方分からないみたいだし、俺だってヴァレンの補助無しじゃどうすんのが正解なのか、正直全然分からない。
あれ?これ、マジでここからどうするのが正解なの?本気で分からないんだけど。
視線を横に流す。
マイネさん達は固唾を呑んで俺を見てる。
ベルザリオンくんもジュラ姉も、キラッキラの目で期待して見上げてるし、影山くんは引きつった顔でカッチカチの鬼塚くんを抱え込んでる。
いやぁ、プレッシャーがヤバいね。
さっきのバトルを見て、みんな俺を過大評価してる気がする。
『それでもアルドなら……アルドならきっと何とかしてくれる……!!』みたいな空気になってるけどさ。
見た目は子ども、力は神級、メンタリティは一般人。
それが俺、アルド・ラクシズなのだよ、諸君。
(ああああああああああッ!!)
内心で頭を抱えつつも、俺は顔に出さないようにして、とりあえず行動した。
人差し指と親指で、黄龍の首筋の頸動脈をキュッと軽くつまむ。
「──っ!?」
黄龍は目を白黒させたかと思うと、そのまま正座の姿勢でバターンと横に倒れ、見事に気絶。
俺はゆっくりと立ち上がり、周囲に聞かせるように低い声で言った。
「……お前の処遇は後ほど決める。今は眠ってろ。」
ドッ……と場の緊張が一気に解けた。
マイネさんと影山くんは同時に「ふぅっ」と息を吐いて額の汗をぬぐう。
ベルザリオンくんは両手を打ち合わせて、パチパチと拍手を送った。
「流石は道三郎殿!! 処断の威厳まで完璧です!!」
ジュラ姉は頬を赤く染めて、地面を尻尾でビターンビターン叩いてる。
「アルドきゅん……素敵ッ!! ああん、ギャタシ、惚れ直しちゃう……!」
勘弁してください。
(な、なんとか誤魔化せた……気がする……)
胸を撫で下ろしつつ、眠りについた黄龍を見下ろす。
その顔は苦悶と恐怖を混ぜ合わせたような表情のまま固まっていた。
(しっかし……実際問題、どうするのがベストなんだろうな、これ……)
俺は心の中で重い溜息を吐き、頭を悩ませ続けた。