第163話 アルド vs. 黄龍 ──圧倒的格上 ──
吹き抜けの中庭を覆う、重苦しい沈黙。
銀色の少年アルドは、仲間たちを一瞥すると、すぐに背後の巨影へと視線を投げた。
「ジュラ姉。みんなのこと、守ってあげてくれる?」
声は落ち着いていたが、その響きには揺るぎない信頼が込められている。
振り向けば、巨大なティラノサウルスの頭部──ジュラシエルが、2階天井すれすれに影を落とす。
彼女はキラリと金色の瞳を細め、牙を覗かせて笑った。
「ええ……ギャタシに任せて、ダーリン!」
中庭の空気が、一瞬で崩れ落ちるようにざわついた。アルドの眉がピクリと動き、口元が引きつる。
「だ……ダーリンはやめて……」
小さくため息をつき、視線を逸らしながら肩を落とす。
「……せめて、アルドきゅんでお願いします……」
ジュラ姉はわざとらしく首をかしげ、嬉々とした声を返した。
「ふふ……そう呼ばれたいのね? やっぱり可愛いわ、アルドきゅん♡」
場違いな軽口。
それでもアルドはもう返さない。
次の瞬間には、その瞳が鋭さを取り戻し、上空へと射抜く。
吹き抜けの頂──無数の震黄珠を足場に、雷蛟鞭を構えて立つ黄龍。
アルドはそこへ冷徹な怒りを込め、静かに言葉を落とした。
「……さて。じゃあ、やろうか」
言葉の刃が、空気を震わせた。
──その時。
ジュラ姉はふと足元へと鼻先を向け、中庭にうずくまる二人へ声をかけた。
「お嬢! ベルちゃん! 無事かしら!?」
迫力満点の巨体が影を落とすのに、声色はどこか母性的で温かい。
マイネはハッと顔を上げ、見開いた瞳に驚きと安堵を宿す。
「ジュラシエル……! お主、洗脳が解けたのか……!」
その声音には、長年の忠誠に応える主従の絆がにじむ。
ベルザリオンも震える声で応じた。
「ジュラ姉も……! 道三郎殿に救われたのですね……!」
ジュラ姉は鼻を鳴らし、大きく顎を持ち上げた。
「ええ……ダーリンの熱い吐息で、ギャタシ、バッチリ目が覚めたわッ!」
「彼は……本当に、凄い男子よ。このギャタシが……夢中になっちゃうくらい!」
その熱を帯びた視線が、まっすぐアルドへ突き刺さる。
マイネは一歩引いた顔で呟いた。
「え……えぇー……お主……」
眉をひそめ、冷や汗が滲み出る。
だがベルザリオンは、まるで電撃を受けたかのように強く頷いた。
「……分かります……!」
拳を握り締め、力強く言葉を吐く。
「道三郎殿の御力……我らをも魅了する……!」
ジュラ姉とベルザリオンが感情を昂らせる一方、マイネは頭を抱え、アルドは相変わらず静かに黄龍を睨み続けていた。
◇◆◇
吹き抜けの上空に浮かぶ黄龍は、銀色の少年を見下ろしていた。
中庭の中央に立つアルドは、まるで何も知らぬ素人のように棒立ちしている。
防御の構えも取らず、両腕をだらりと下げて、ただ視線だけを真っ直ぐに向けている。
(……ハッタリだ。泡のスキルは封じられた。あの場から一歩も動かずに俺を倒す? そんな戯言……)
黄龍は自らを納得させるように心中で呟いた。
(俺を動揺させ、油断を誘う為のブラフ……そうに決まっている……!)
だが──その「はず」が、揺らぐ。
少年から放たれる、言葉にできぬ圧力。
一瞬でも目を逸らせば、即座に食い破られる。
そんな猛獣の気配を纏い、棒立ちのままこちらを見据えていた。
黄龍の額を、一筋の汗が流れる。
その沈黙を破るように、アルドが口を開いた。
「どうしたの? そっちからは、かかってこない感じ?」
挑発のような声色。しかし感情は揺れず、ただ静かに響く。
そして次の言葉には、明確な侮りが混ざっていた。
「そんなにビビらなくてもさぁ、大人気なく本気出したりしないから」
「適当に手加減しつつ、死なない程度にぶちのめしてやるから、さっさとかかってきなよ」
嘲笑にも似た声音。
黄龍のこめかみに、青筋が浮かんだ。
「──は?」
怒気を孕んだ声が漏れる。
「舐めるのも……大概にしろッ!!」
雷蛟鞭を振り下ろすと同時に、八つの震黄珠が弾丸のように放たれた。
光を帯びて一直線に走る軌跡が、アルドの胸元を狙い撃つ。
「道三郎殿ッ!! その球は危険です!!」
ベルザリオンが叫ぶ。
だがアルドは振り返らない。視線を黄龍から一切逸らさぬまま、ヒラヒラと片手を振った。
「大丈夫、大丈夫。……安心して見ててよ、ベルザリオンくん」
直後、八つの震黄珠が着弾──したかに思われた。
──ババババッ!!
瞬きの間にアルドの手元が弾けるように動いた。指先が閃光を描き、空気が震えた。
気付けば震黄珠は消えていた。
「な……ッ!? 震黄珠は、どこに……!?」
黄龍の声が震える。
アルドはゆっくりと両手を掲げ、上空の敵へ見せつけるように広げた。
「これ、なーんだ?」
指と指の間に──八つの震黄珠。
電撃を帯びたまま、完全に動きを封じられて挟まれている。
まるでガラス玉のように弄ばれ、ピタリと捕らえられていた。
「バカな……ッ!?」
黄龍の瞳が見開かれる。
下で見守るマイネも、ベルザリオンも、ジュラ姉も、そして影山すらも言葉を失っていた。
目の前の現象が理解できない。ただ、常識の外にある光景を呆然と見つめるしかなかった。
アルドは肩をすくめ、軽く笑った。
「……あまりにもスローだったからさ。ついキャッチしちゃった」
「キャッチボールの相手をしてもらいたいのかなー? って思ってね」
言いながら、指の間で転がしていた震黄珠を軽く投げ返す。
まるで何でもない遊びのように、黄龍へと放り投げた。
「ほい」
弾道は緩やかだった。だがその仕草の全てが、嘲弄だった。
「こんなボール遊びじゃなくてさぁ」
アルドの目が細められる。
「ちゃんとした“攻撃”ってやつを、見せてくれない?」
言葉の棘が突き刺さり、黄龍の顔に激しい怒りが浮かぶ。
「……俺の“震黄珠”が……ボール遊びだと……!?」
歯を食いしばり、怒気を込めた声を吐き出す。
「ならば……貴様の望み通り……真の“攻撃”というものを、味わわせてやろう!!」
雷蛟鞭を大きく振り抜く。
その一振りで、周囲の震黄珠が一斉に集合し、光の渦を描きながら彼の周囲に集結していった。
アルドの笑みが、すっと消える。
代わりに現れたのは、冷たい眼光。
「──やってみろよ」
低く、鋭く。氷の刃のような声だった。
◇◆◇
黄龍が低く呟いた。
「“加速度操作”……“衝撃増幅”……ッ!!」
その瞬間、周囲に浮遊する震黄珠が不気味な唸りを上げる。
キィィィィン……と鋭い音を立て、無数の光球が共鳴するかのように震えだした。
圧縮された魔力が迸り、空気が震え、ビルの吹き抜け全体に緊張が走る。
「疾ッ!!」
黄龍の咆哮と共に、数十の震黄珠が一斉に弾けた。
音速を超えた速度で放たれたそれらは、ビルの内壁を砕き、鋭い破片と共に跳ね返り、弾丸よりも速く、稲妻よりも鋭く、あらゆる角度からアルドを襲う。
壁面が爆ぜ、鉄骨が悲鳴を上げ、轟音が吹き抜けを満たす。
その破壊の奔流に、マイネが顔を強張らせた。
「なっ!? 今までの攻撃とは速度も威力も桁違いじゃっ!!」
ベルザリオンは本能的にマイネを庇い、影山は腕の中の石像と化した鬼塚を抱き締め、歯を食いしばる。
だが──その中心に立つアルドの顔には、一片の動揺も浮かんでいなかった。
彼は静かに右手を上げ、掌を広げる。
「──"竜渦"。」
ただ一言。
次の瞬間、アルドの周囲に黒い渦が咲き乱れた。
虚空に穿たれた歪みが、迫る震黄珠を次々と呑み込んでいく。
轟音は唐突に掻き消えた。
数十の震黄珠は着弾する寸前、目の前で吸い込まれ、影も形もなく消え去ったのだ。
「───は?」
黄龍の口から間の抜けた声が漏れる。
(ヤツは……今、何をした……!? あの泡のスキルは封じていたはず……! 別のスキル……? いや、バカな……ッ……!?)
理解が追いつかない。
否、理解したくなかった。
額を汗が伝い、心臓が早鐘のように鳴る。
見ていたマイネもベルザリオンも、呆然と立ち尽くすしかなかった。
影山もまた目を見開き、鬼塚の石像を抱えたまま言葉を失っている。
ただ一人、ジュラ姉だけが低く呟いた。
「あれは……ギャタシの“暴竜咆哮波”を吸い込んだ渦……!」
アルドの声が響いた。
「"竜渦"は、空間も時間も飛び越えて、二つの場所を繋ぐスキル」
彼はパチンと軽く指を鳴らす。
ギュイン──と音を立て、黄龍の周囲に数十の黒い渦が同時に発生した。
「こんな風に……ね」
「な、何だと!? まさか──ッ!!?」
叫ぶより早く。
黒い渦から飛び出したのは、つい先ほど自分が放った震黄珠。
しかも至近距離から、避ける間もなく一斉に黄龍へ殺到する。
「ぐ……は……ッ……!」
ドドドドッ!!
全身に直撃を受け、黄龍の身体が空中で上下左右に叩き飛ばされる。
骨が軋み、血が弾け、苦悶の声が何度も迸った。
吹き飛ばされながらも、黄龍は必死に震黄珠を操り、何とか衝撃の合間に体勢を立て直す。
ボロボロに血に濡れた身体で棍を構え、眼下のアルドを睨みつけた。
その様子を見て、アルドは肩を竦めて呟いた。
「おお、頑丈頑丈。……流石に自分の攻撃じゃあ倒れないか」
黄龍の息は荒い。肺が焼けるように痛み、視界が滲む。
「き……貴様……何者だ……ッ……!」
アルドは首を傾げ、まるで世間話のように答えた。
「俺? 俺はフォルティア荒野、新ノエリア領の……炊事・洗濯・犬の散歩係だよ」
その声音は軽やかで、残酷なほどに冷たい。
◇◆◇
黄龍は怒声を迸らせた。
「巫山戯るな!! 貴様の様な飯炊きがいるかッ!!」
その言葉は虚勢に過ぎなかった。
内心では、既に恐怖と焦燥が渦巻いていたのだ。
(この小僧のスキルは脅威だ……! 一つ封じただけでは、どうにもならん……!)
(遠距離戦では分が悪い……かくなる上は、接近戦で仕留めるッ!!)
決断と共に、黄龍の足が震黄珠を蹴り裂いた。
「破ッッ!!」
爆音と共に彼の身体は一気に加速し、落雷のような残光を引いて中庭へと突っ込んでいく。
「"金棍撃"ッ!!」
雷撃を纏った棍の穂先が、音を置き去りにしてアルドの胸元を貫かんと迫った──。
しかし。
衝撃は、訪れない。
カシン、と乾いた音。
アルドの右手が、何事もなかったかのように棍の穂先を片手で掴み、完全に止めていた。
「な……ッ!?」
黄龍の瞳が大きく見開かれる。
自らの全力の突きを、あまりに容易く片手で受け止められた現実に、言葉が出ない。
アルドは目を伏せ、低く呟いた。
「ひょっとして……遠距離戦は分が悪いから、近距離戦ならワンチャンいけるかも……とか思った?」
そして顔を上げ、冷たく言い放つ。
「──んな訳ねぇだろ」
その一言に、黄龍の背筋が総毛立つ。
恐怖に突き動かされるように、彼は叫んだ。
「うおおおおっ!!」
棍が蛇のようにうねり、九節鞭──雷蛟鞭へと変形する。
「"雷蛇咬"ッッ!!」
振るわれた瞬間、ビルの壁面が高熱で焼け爛れる。
雷蛇と化した鞭が猛り狂い、電撃の奔流を纏ってアルドに襲いかかる。
しかしアルドは──やはり、一歩も動かない。
両腕を伸ばし、鞭をガシリと両手で掴み止めたのだ。
「な……にィ……!? 雷撃も……効かないというのかッ!?」
驚愕に目を剥く黄龍。
しかしアルドは平然とした口調で言った。
「っていうか、電圧低すぎ。俺を痺れさせたいなら……この五十倍は強くしないと」
言い終えるや否や、アルドの腕に力がこもる。
グッと雷蛟鞭を引くと、その勢いに引き摺られるように黄龍の身体が空から引き寄せられた。
「なッ……!?」
抵抗する暇すら与えられない。
視界に迫る銀色の少年の姿。
アルドの瞳が静かに光り、口が開いた。
「腹に力入れろよ」
──ドッゴォ!!
次の瞬間、凄まじい衝撃音と共に、アルドのアッパーが黄龍の鳩尾を正確に撃ち抜いた。
「グ……ハァ……ッ……!?!?」
全身の呼吸が強制的に断たれ、肺が潰れたような激痛が走る。
黄龍の身体は凄まじい勢いで吹き飛び、ビルの吹き抜けを真上へと突き抜けていった。
血飛沫が尾を引き、彼の悲鳴は声にならないまま掻き消される。
アルドが静かに片腕を上げた。
「──"竜渦"。」
掌の前に、黒い渦が歪みを生んで開く。
そこへ迷いなく横蹴りを叩き込むと、鋭い衝撃が渦の彼方へと消え──
次の瞬間、黄龍の上空──進行方向先に同じ渦が開いた。
そこから飛び出したのは、アルドの蹴り脚。
──ズドォッッ!
「ぐはッ……!?」
黄龍の腹部に、再びの直撃。
衝撃で胃液が逆流し、喉奥から血飛沫が噴き出した。
(な……何だ……!? 俺は今……何をされている……!?)
(攻撃の正体すら掴めぬ……ッ……!? このままでは……!)
混乱と痛みに翻弄されながら、彼の身体は中庭へ向かって墜落していく。
しかし──落下地点にも既に、黒い渦が待ち構えていた。
「ひ、ひぃ……ッ!? う、うわああああっ!!?」
恐怖に引き攣った悲鳴が響く。
必死に震黄珠を自らの身体へ叩きつけ、爆発的な衝撃を逆利用して空中でブレーキをかけた。
ギギギと歯を食いしばり、何とか渦への直撃を回避する。
震黄珠の上に辛うじて着地した黄龍は、全身を震わせながら荒く息を吐いた。
「ゼェ……ゼェ……ッ……」
額を汗が伝う。視線を下へ落とすと──。
そこには、中庭の中心で棒立ちするアルド。
無表情で、ただじっとこちらを見上げていた。
「おっと……抜けられちゃったか」
銀の少年は、肩を竦める。
「……あのまま、死ぬギリギリまで無限コンボ決めてやろうかと思ったのに」
その声音は冷たい氷刃のようで、黄龍の背筋を凍らせた。
「ひ、ひィ……ッ……!?」
これまで味わったことのない恐怖に呑まれ、黄龍は本能のままに逃げ出そうとする。
「う、うわああああああぁぁぁッッ!!!!」
悲鳴を上げ、震黄珠を操って全速力で吹き抜けの上空へ駆け上がった。
だが──
「いや、逃げられると思ってんの?」
アルドが呟き、目の前の黒い渦へ手を突っ込む。
次の瞬間、黄龍の背後に渦が開き、その中から銀色の腕が伸びた。
「なっ……!?」
首筋を後ろからガシリと掴まれる。
抗う間もなく、全身が渦に引きずり込まれ──
気づけば、再び中庭。
アルドは一歩も動かぬまま、片手で黄龍の首根っこを掴み、宙吊りにしていた。
「ひ……ヒィ……ッ……!?」
黄龍の口から、情けない悲鳴が漏れる。
歯がガチガチと鳴り、瞳は恐怖に支配されていた。
アルドの瞳は怒りに燃えていた。
「……鬼塚くんは、格上のお前相手に……最後まで挑み続けたんだろ?」
指に力がこもり、黄龍の呼吸が詰まる。
「お前も……最後まで、挑んでみろよ」
「──"圧倒的な格上"相手にさ……!」
その声音には激情が宿りながらも、氷のような冷たさがあった。
見守る者たち──マイネ、ベルザリオン、影山、そしてジュラ姉。
四人は互いに身を寄せ合い、恐怖に震えていた。
マイネが蒼ざめた顔で小さく呟く。
「こ……怖すぎじゃろ……マジギレした道三郎……」
その声に誰一人として反論できなかった。