第158話 "ベルゼリアの子"
吹き抜けの高層フロア。
割れたガラス窓から吹き込む夜風が、戦場の空気を冷たく震わせていた。
対峙する二人の男の間には、一歩も退けぬ静かな殺気が張りつめている。
ベルザリオンは血の滴る唇を拭うことなく、冷ややかな視線を黄龍へと向けた。
その瞳には、激情ではなく氷のような理性が宿っている。
「……意外ですね。その様な、姑息な揺さぶりを仕掛けるタイプとは、思いませんでした」
声音は低く、だが一切の感情を押し殺した鋼鉄のような響き。
黄龍はそれを受けても顔色ひとつ変えず、持つ棍をドンと床に突き立てた。
ビルの床がわずかに震え、響き渡る音が広大な吹き抜けに反響する。
「“強欲の魔王”マイネ・アグリッパは、この世の全てを欲している」
「金、不動産、人材……珍しければ珍しいほど、それを求める欲望は肥大する」
淡々とした口調。
それは怒号でも威圧でもなく、事実を突きつける冷たい宣告。
金色の瞳がベルザリオンを射抜き、さらに続けた。
「ベルザリオン。貴様のような数奇な生まれの者を欲しがるのも当然だ」
その言葉に、ベルザリオンの眉が僅かに動く。
だが口元は崩さず、静かに返す。
「……何を言っているのか、分かりませんね」
心中では、鋭い棘のような違和感が胸を刺していた。
(私が──"数奇な生まれの者"……? “魂の呪い”の事か……?)
記憶の奥に沈んだ暗い過去が、不意に掘り起こされそうになる。
ベルザリオンはその感情を振り払うように、スッと腰を沈め、居合の構えを取った。
「……動揺を誘っているのであれば、無駄です」
黄龍は静かに目を閉じ息を吐くと、棍を持ち上げる。
バチリと空気が焦げるような音を立て、雷の火花が走った。
「……まあいい」
「ベルゼリア本国は、貴様を“生かして捕らえる”よう紅龍へ指示を出していたようだが……」
棍の先端をベルザリオンに向け、淡々と告げる。
「最早、彼の国に義理立てする必要も無い。──我らが元に下らぬというのなら……死んでもらう」
金色の瞳が鋭く光を放つ。その殺意は容赦なく剣士を呑み込もうとしていた。
ベルザリオンは剣の柄にかけた指先に力を込め、冷ややかに見返す。
(ベルゼリア……私を、生け捕りに……? マイネ様ならまだしも……なぜ、四天王の一角に過ぎない私を……帝国が欲しがる……!?)
答えの出ぬ疑問が胸を渦巻く。だが、剣士の瞳には一片の迷いも浮かばなかった。
ただ、守るべき主のために。
ベルザリオンは沈黙のまま、刀身を引き抜く寸前の構えを崩さなかった。
◇◆◇
黄龍の口が静かに開いた。
「──"震黄珠"」
その言葉と同時に、空間がビリビリと震える。
フロアの空気が一瞬にして重く沈み込み、次の瞬間、黄金色の閃光が弾けた。
天井近くの虚空に、直径二十センチほどの光球が十数個、音もなく現れる。
「……ッ!」
ベルザリオンの目が細められる。
一つ一つの球体が脈動するように明滅し、周囲を雷鳴のような唸りで満たしていた。
その不気味な光の群れは、ただそこに浮かんでいるだけで戦場を異様な圧迫感で支配していく。
「行くぞ」
黄龍は低く呟き、床を蹴った。
その動きはまるで稲妻の走る瞬間のように速い。
棍が唸りを上げ、ベルザリオンに迫る。
「くっ……!」
居合の構えから瞬時に剣を抜き、ベルザリオンは棍を受け止める。
火花が散り、空気を裂く轟音がフロアを揺らした。
次の瞬間、さらにもう一撃。続く三撃。四撃。
黄龍の棍撃は止まることなく襲い掛かり、ベルザリオンの剣は必死にそれを受け流す。
「──貴様には“封印呪法”が効いていない。それが何を意味するのか」
棍が唸りを上げるたびに、黄龍の冷たい声が響く。
「貴様の強さは、スキルに依るものではない。その身を支えるのは、血肉と経験に裏打ちされた技術」
「仙道にも、そこまで練り上げた剣技を使う者はいなかった。……見事と言うほかない」
ベルザリオンは奥歯を噛み締め、必死に剣を動かした。
「……くッ!」
全てを紙一重で防いでいたが、黄龍の瞳には余裕が漂っていた。
「──だが」
その声が低く呟かれた瞬間。
ベルザリオンの背後で、光球の一つが眩く閃いた。
「!?」
振り返る間もなく、黄金の球体が弾丸のように飛来し──
ドゴォンッ!!
轟音と共に、背中に衝撃が叩き込まれた。
「ぐッ……ああああッ!?」
全身に電撃が走り、呼吸が一瞬止まる。
その隙を、黄龍は逃さなかった。
棍が鋭く突き出され、ベルザリオンの腹部を深々と打ち据える。
「がッ……!?」
衝撃で身体が浮き上がり、そのままフロアの壁に叩きつけられる。
石壁が砕け、彼の身体はめり込み、口から鮮血が飛び散った。
「……ハァ、ハァ……ッ」
苦痛に顔を歪めながらも、ベルザリオンは剣を杖代わりに立ち上がる。
視線は鋭く黄龍を睨み据えていた。
(ヤツの周りを漂う、あの球……! ただの魔力弾ではない……)
(壁、床、天井を利用して……予測不可能な軌道で迫ってくる……! しかも複数同時に……ッ!)
(接近戦に組み合わされたら……マズい……!)
その思考を嘲笑うかのように、震黄珠は次々と跳ね回る。
壁に当たれば爆音と閃光を撒き散らし、まるで無数の流星が閉ざされた空間を暴れ狂っているかのようだった。
予測不能なその動きは、ベルザリオンの神経を限界まで削り取っていく。
さらに黄龍が棍を振るうと、カシュカシュと金属音が鳴り響き、棍が九つの節に分かれた。
鎖で繋がったそれはうねる龍のように姿を変え、雷を纏って暴れ出す。
バチバチッ!!
空気そのものが焦げ、焦げ臭さが鼻腔を刺した。
「“仙術”……」
黄龍の声が冷たく響く。
「貴様らの世界で言う“スキル”の深淵……その身に刻み、死ね」
黄金の珠と雷蛟鞭。
二重の脅威が、今まさにベルザリオンへ牙を剥いた。
◇◆◇
黄金の光球──"震黄珠"が、フロアを縦横無尽に跳ね回る。
壁にぶつかれば爆ぜるような轟音と閃光を撒き散らし、天井や床に反射するたびに軌道を変えて襲い来る。
ベルザリオンは必死に剣を振るい、飛来する光球を弾き払うが──
ドゴォ、ボガァッ!!
「がッ……! ぐあぁッ!?」
一つ、二つ……避けきれなかった震黄珠が背や肩に直撃する。
衝撃は鈍器で殴られたような重さに雷撃が加わり、全身を痺れさせた。
身体が左右に大きく弾かれ、石柱や什器に叩きつけられるたびに血が飛び散る。
その隙を、黄龍の雷蛟鞭が襲う。
バチバチと雷を纏いながら、不規則にうねる九節鞭が蛇のように走り──
「ぐっ……おおッ!」
咄嗟に真竜剣アポクリフィスを差し出し、ギィィン!と火花を散らして受け止める。
だが腕に痺れが走り、膝が沈む。致命傷こそ避けたものの、確実に削られていた。
(……私が、マイネ様に騙されている……? 黄龍は、そう言った……)
(馬鹿な……そんなはずが……! あのお方は……私に居場所を与えてくださった。……私にとって、かけがえのない……方……!)
心を揺さぶる囁きを、ベルザリオンは必死に握り潰す。
だが次の瞬間――。
「……ッ!?」
四方の壁、床、天井から跳ね返った震黄珠が、一斉に彼の腹部を狙い殺到した。
ドゴォォンッ!!
「ゴフッ……!!」
血が喉を突き破り、赤黒い飛沫が宙に散った。
黄龍の目が細められる。
「──そろそろ、幕だ」
雷鳴のような声と共に、棍が再び一本に収束する。
黄金の光を纏い、黄龍は構えた。
「"金棍撃"ッ!!」
稲妻の突きが、ベルザリオンを貫かんと走る。
「……ッぐああああぁぁぁッ!!」
直撃。
凄まじい勢いで吹き飛ばされ、壁を突き破り、ガラスと鉄骨を砕きながら転がり落ちる。
テナントの什器を粉砕し、ようやく道に転がった。
石畳に膝をつき、荒く息を吐く。
「……ガハッ……ッ……つ……強い……ッ……!」
視界が滲む。身体は鉛のように重い。
それでも、彼の両眼はまだ炎を失っていなかった。
黄龍は、ツカツカと冷静な足取りで近付いてくる。
棍を逆手に持ち替え、ベルザリオンの喉元へ突きつけた。
「終わりだ」
雷を纏う棍先に、再び圧倒的な魔力が込められていく。
地面がビリビリと震え、火花が走る。
ベルザリオンは、膝をつきながらも剣を構え直した。
その顔に浮かぶのは、恐怖ではなく──
「──ベルッ!!」
鋭い叫び声が戦場に響いた。
振り返ったベルザリオンの視界に、スカートの裾を翻しながら駆け寄る小柄な影──マイネの姿が映る。
「お嬢様……!? いけません!!」
声が裏返る。血を流しながらも、彼女の身を案じる心だけは揺るがなかった。
だが、マイネは怯むどころかスカートの中から黒鉄の輝きを取り出し、一直線に黄龍へと突き付けた。
拳銃型の魔導具が、乾いた破裂音とともに閃光を放つ。
だが──
「……無駄だ」
冷ややかな一言。棍が振り下ろされ、稲妻が走った。
直後、マイネの身体は吹き飛び、石畳をゴロゴロと転がる。
「うッ……!」
苦悶の声に、ベルザリオンの血の気が一瞬で引く。
「お嬢様!! ……貴様ァッ!!」
殺意すら滲む声で黄龍を睨みつける。
しかし、マイネはヨロヨロと立ち上がり、乱れた髪を振り払った。
膝を震わせながらもベルザリオンの前に立ちはだかる。
「これ以上……ベルには……手出しはさせぬッ!」
その小さな背中が、必死に盾となろうとする。
ベルザリオンは歯を食いしばり、剣を握る手に血が滲む。
だが黄龍は、まるで舞台の芝居を眺める観客のように冷ややかな目を向けた。
「白々しい芝居はよせ」
声は低く、鋭い。
「貴様が欲しているのは、この男自身ではない……この男に流れる“血”なのだろう?」
「っ……!」
マイネの顔が引き攣る。心臓を鷲掴みにされたような焦りが走り、唇が震える。
「ち、違う!! 妾は……!」
ベルザリオンの瞳が大きく揺れる。
「……私に流れる……血……?」
問い返す声は掠れ、己でも気付かぬ不安が混じる。
その様子を見下ろし、黄龍はわずかに口角を歪めた。
「なんだ……己の生まれすら、聞かされていなかったのか」
稲光に照らされた横顔が、氷のように冷たく光る。
「ベルザリオン──“ベルゼリアの子”よ」
その言葉は雷鳴より鋭く、深く、ベルザリオンの胸を抉った。
◇◆◇
「……!? どういう……意味ですか……!?」
ベルザリオンの声は普段の冷徹さを欠き、動揺に濁っていた。
胸の奥に、冷たい杭を打ち込まれたかのような感覚。
だが、その揺らぎを断ち切るようにマイネが鋭く叫ぶ。
「ベルッ!! こやつの言葉に耳を貸すなッ!!」
小さな手が懐から閃光弾型の魔導具を取り出す。
次の瞬間、床に叩きつけられたそれが破裂し――フロア全体が白亜の光に包まれた。
「……ムッ……!」
黄龍が眉をひそめ、瞼を閉じる。
その一瞬を逃さず、マイネはベルザリオンの手を強く握りしめる。
「こっちじゃッ!!」
スカートの裾を翻し、必死に引っ張る。
二人は止まったままのエスカレーターを駆け下り、暗い下層フロアへ飛び込んでいく。
「まずはヤツと距離を取り、時間を稼ぐッ! 道三郎と合流さえ出来れば……!」
荒い息を吐きながら走るマイネの横顔には、必死さと焦燥が入り混じっていた。
だが──ふと、後ろを走っていたベルザリオンの足が止まる。
「ベル!? どうしたのじゃ!? 早く逃げねば……!」
振り返ったマイネの声には焦りが滲む。
しかしベルザリオンは、静かに問いを投げた。
「お嬢様……私に流れる“血”とは……一体、何の事なのですか……?」
短い問いだった。だが、鋼鉄より重く、マイネの心を抉った。
「そ、それは……!」
マイネの唇が震える。視線が泳ぐ。
「い、今はそれどころではないのじゃ! まずはこの場から離れねば……!」
必死に誤魔化すような声。だが、ベルザリオンは首を振った。
「私は、生まれつき“魂の呪い”に蝕まれ……それが原因で、幼い頃に親に捨てられた……」
低く絞り出す声。胸に沈め続けてきた過去を、自ら掘り起こすように。
「そして、アポクリフィスと出会い、必死で生き抜いているうちに、貴女に拾われ、救われた……」
血に濡れた顔に、寂しげな微笑みが浮かぶ。
「今まで、そう信じてきました」
マイネの心臓が、痛みを伴って跳ねる。
「違う……違うのじゃ、ベル……! 妾は……!」
何かを吐き出そうとする。
だが──
「……っ!!」
空気が震えた。背後から冷気のような殺気。
振り返る間もなく、黄龍の巨体が迫り、マイネの首を片手で掴み上げた。
「ぐ……ハァ……ッ!」
小柄な身体が宙に持ち上げられ、足が虚空を掻く。
白い喉が圧迫され、マイネの顔が苦悶に歪む。
「お嬢様っ!!」
ベルザリオンの叫びは悲鳴に近かった。
(しまった……っ!! 集中力を欠いて、接近に気付くのが遅れてしまった……!)
黄龍の瞳は氷のように冷たい。
「……余計なことを言ったかもしれんな」
声は低く抑えられ、残酷な静けさを帯びていた。
「安心しろ。殺しはせん。魂を完全に我らがものとし、緋色の像になってもらうだけだ」
ごりごりと骨が軋む音。
マイネの喉からか細い声が漏れる。
「……く……ぅ……っ……!」
「貴様ァッ!! お嬢様から手を離せッ!!」
ベルザリオンは立ち上がろうとするが、傷ついた脚が言うことを聞かない。
黄龍は振り向きもせず、掴んだ首にさらに力を込める。
「──どれだけ喚こうが、力の無い者には……何も守れはしない」
「止めろおおおおッ!!」
ベルザリオンの絶叫がフロアに響き渡る。
マイネは苦痛に顔を歪めながらも、ぎゅっと目を瞑った。
それは、覚悟を決めた者の表情だった。
突如、耳をつんざく破砕音がフロアを揺るがした。
ガシャァァァンッ!!
高層ビルのガラス壁が爆ぜるように割れ、無数の破片が宙を舞う。
紫電を引く残光が一筋、夜の闇を切り裂いて飛び込んでくる。
ガラス片は閃光を反射し、きらめく雨のように散り落ちた。
「オラアアァァァッッ!!」
怒号が空気を震わせる。
紫色の全身アーマーに身を包んだ鬼塚玲司が、流星の如く黄龍へ突進する。
次の瞬間、その鋭い飛び蹴りが黄龍の横っ面に炸裂した。
「……ッ!?」
黄龍の首がわずかに仰け反り、思わず掴んでいたマイネを手放す。
マイネの身体が宙に投げ出される刹那、鬼塚は空中で彼女を右腕で抱き寄せ、流れる動作でベルザリオンの方へと放り投げた。
「受け取れッ!!」
鋭い声が轟く。
ベルザリオンは反射的に両腕を広げ、その小さな身体をしっかりと抱き止めた。
「お嬢様……!」
胸に温もりを抱きながら、ベルザリオンの目に驚愕が走る。
「……お前は……! 何故、お前がここに……!?」
だが鬼塚は振り返らず、短く吐き捨てる。
「話は後だッ!」
彼はゆっくりと立ち上がり、ベルザリオンとマイネを背に庇うようにして黄龍の正面に立つ。
アーマーの紫が照明を弾き、残光が床を這うように伸びた。
「さっきはよくも……高えとこから落としてくれやがったなァ……」
低く抑えた声は怒りを噛み殺したようで、かえって凄みがあった。
鬼塚は拳を突き出し、挑発的に黄龍を指し示す。
「ここからは、俺が相手だッ!!」
黄龍は口の端を拭い、僅かに血の味を噛みしめる。
その仕草に動揺はなく、むしろ静謐な冷酷さが漂う。
「……無理だ。貴様ごときではな。」
淡々と告げる声は、雷鳴の前触れのように重く響いた。