第156話 ベルザリオン vs. 黄龍、開幕。
遊園地の広場には、まだ戦いの余韻が残っていた。
折れた支柱、砕けたアスファルト、風に舞う砂塵。その中心で──ブリジットの腕の中には、涙に濡れた顔で静かに眠る蒼龍が抱かれていた。
その寝顔は、戦場においてあれほどの凄烈な気配を放っていた者と同じとは思えないほど、あどけなく、無防備で。
その姿を見下ろしながら、リュナは顎に手を当て、片眉を上げる。
「コイツ……結局、何だったんっすかね?」
気の抜けた調子の声だったが、瞳の奥には真剣な色が宿っていた。
「紅龍とかいうオッさんが、スキルで変身してるだけだと思ってたんすよ」
肩をすくめて、寝息を立てる蒼龍を指さす。
「けど……感情がリアル過ぎるっつーか……」
リュナは小さく鼻を鳴らす。
茶化すような言葉とは裏腹に、その表情にはかすかな困惑が滲んでいた。
「演技とか、自己暗示とか、そんなレベルじゃないっしょ。……倒したのに、変身も解けないし?」
そう言いながら、彼女の黒銀の鎧がふっと光にほどける。
翼も、四本の竜腕も消え去り──いつもの、黒ギャル姿のリュナへと戻っていく。
戦場に似つかわしくないほど明るい髪色と、軽やかな仕草。しかしその瞳は、眠る蒼龍から離れなかった。
ブリジットはそっと蒼龍の頬にかかる髪を払った。
血と涙に濡れた顔を見つめ、その表情には、戦いの最中とは違う優しさが浮かんでいる。
「……分からない」
彼女は小さく首を振る。
「でも……蒼龍さんの言葉には、確かに気持ちがこもってたって、あたし思うんだ」
その声音は、驚きと戸惑いを孕みながらも、まっすぐだった。
戦いの最中、激しい怒りや悲しみを滲ませた蒼龍の叫び。
あれが幻や虚構だったと片付けることは、ブリジットにはどうしてもできなかった。
リュナは無言でブリジットの横顔を見つめた。
夜風が彼女の髪を揺らす。
普段は楽天的で明るい彼女が、こんな風に真剣な目で敵の心情を思いやる──その姿に、リュナはほんの一瞬、言葉を失う。
「……姉さんは、ほんと甘ぇっすね」
やがて吐き出した声は、呆れと照れくささを混ぜたものだった。
けれど、その胸の奥底では、リュナもまた同じ疑問を抱いていた。
──蒼龍は、一体何者なのか。
◇◆◇
静まり返った遊園地の広場に、不意に轟音が響き渡った。
ドオオオォォォン……ッ!!
ビルの合間を切り裂くように、巨大な白い影が現れる。
それは──まるで空を泳ぐように軌跡を描いたかと思えば、そのまま制御を失ったように急降下し──。
「な、なにっ!?」
「うわっ、ちょ……!?」
リュナとブリジットが声を上げる間もなく。
白鯨が広場のど真ん中に胴体着陸した。
ズザザザザザァァァーーッ!!
アスファルトは剥がれ、観覧車の照明が一斉に明滅し、鉄骨遊具がガタガタと揺れる。
巨体は砂煙を巻き上げながら滑走し、ようやく広場の中央で横たわった。
痙攣するようにピクンピクンと身体を震わせ、白目を剥きながら泡を吹くその姿。
強欲四天王──“白鯨”ヴァルフィスだった。
リュナは眉をひそめ、ため息をつく。
「コイツ……フレキっちが相手してた、白クジラ……だよな?」
恐る恐る、その巨大な顔の方へと回り込む。
そして──ふと目に入ったものに、思わず声を裏返した。
「おわっ!?!? ……な、何だコレ!?」
慌てて駆け寄るブリジットが、眠る蒼龍を背負い直しながら問いかける。
「ど、どうしたの!? リュナちゃん!?」
ブリジットもヴァルフィスの顔の横に回り込んだ──そこで、息を呑む。
白鯨の巨大な口の奥から、もう一つの巨大な顔が……。
ヒョコッと覗いていたのは、神獣化して巨大化したダックスフンドの顔だった。
「ふ……フレキくん……?」
思わず震える声で呼びかけるブリジット。
まるで着ぐるみを着ているかの様に、鯨に丸呑みにされたままのフレキは、しかし凛々しい表情を浮かべ──声だけは妙に堂々としていた。
「はいっ! ただいま戻りましたっ!」
エコーのかかった声が、鯨の体内から響く。
リュナは額にじんわり汗を浮かべながら、白鯨とフレキを交互に見た。
「……フレキっち……勝負はついた……ってコトでいいんすか? それ」
フレキは胸を張るように口の中から答える。
「ええ、ご覧の通りです!」
「いや、『ご覧の通り』って言われても……」
リュナは静かにツッコむ。
「ご覧になった上で、勝ってんのか負けてんのか、よく分かんねーんすけど。その状況」
と、そのとき。
ヴァルフィスの全身が痙攣し、涙目になりながら必死に声を絞り出した。
「オ……オエッ……」
「ま……負けです……私の……ええ……」
「ど……どうか、ご容赦を……死んで、しまいます……このままでは……ええ……」
まるで今にも吐き戻しそうな呻き声。
リュナは顔をしかめ、心の中で戦法を察する。
(……小型化して口の中に入り込んで、中で巨大化した……ってコトっすね。……えっぐ……)
正直、ちょっと引いた。
一方で、ブリジットは心の底から安堵の笑みを浮かべる。
「……あはっ。フレキくん、無事でよかったっ!」
その言葉に、フレキは得意げに口角を上げ、大きく吠えた。
「ワンッ!」
まるで「任務完了!」とでも言うかのように。
◇◆◇
広場の真ん中で、白目を剥いてピクンピクン痙攣している白鯨ヴァルフィス。
その巨体はもはや動く気配もなく、口からはまだ微かにフレキの毛がはみ出していたが──リュナとブリジットは、もうそちらに関心を払っていなかった。
リュナの視線は、ブリジットの背中に寄り添うように眠る蒼龍へと向けられている。
涙に濡れたその寝顔は、戦闘の最中に見せた凄烈さが嘘のように、ただ静かで、弱々しかった。
「……にしても、コイツなかなか手強かったっすね」
リュナは口を尖らせ、気怠げに言葉をこぼした。
「ま、あーしら二人の敵じゃなかったっすけど」
軽口を叩きながらも、瞳の奥には僅かな緊張が残っている。
ブリジットは蒼龍の頬をそっと見つめ、唇を結んだ。
「うん……なんか、鬼気迫る感じがしたもんね」
その声には、ただ勝利を喜ぶだけではない、複雑な響きが宿っていた。
リュナは少しだけ黙り、やがて遠くのビル群へと視線を移す。
「……コイツと同レベルのヤツがあと二人いるとなると……」
夜風に髪を揺らしながら、目を細める。
「ヴァレンのヤツはともかく……あの地雷女と執事のコンビは、ちょい危ないかもしんないっすね」
ブリジットの顔に影が差した。
「マイネさん……ベルザリオンさん……二人とも、大丈夫かな……」
不安の色を隠せない声音だった。
そんな姉の横顔に、リュナはニィッと笑ってみせる。
「ま! 兄さんが合流できれば、ワンパンで片付くと思うんで、そこまで心配しないでも大丈夫っしょ!」
その軽さは、意識的なものだった。
ブリジットを安心させるために。
蒼龍の寝顔に残る涙を、これ以上重たくしないために。
「ですねっ!」
間の抜けたほど快活な声が響いた。
白鯨の口から飛び出したフレキが、ボワンと神獣化し、巨大な超胴長ダックスフンドの姿に戻る。
四肢を堂々と地面に広げ、胸を張って言い放った。
「さ! 乗ってください!」
だが、リュナはあからさまに眉をひそめ、鼻をひくつかせた。
「……いや、でもフレキっち、さっきまであのクジラの腹ん中にミチミチに詰まってたっしょ?」
「なんか、変な匂いするっすよ? 乗るのちょい躊躇うわー」
フレキはガーンッと効果音が付きそうな勢いでショックを受け、耳と尻尾を同時にしょんぼりと垂らした。
「なっ……!? そ、そんなバカな!」
必死に身を捻って匂いを確かめようとするが、答えは出ない。
観覧車のライトに照らされながら、彼は再びボワンとミニチュアダックスの姿に戻ると、決意を固めた顔で吠える。
「ちょっと身体洗ってきますっ!」
スタタタッ──と、小さな足音を立てて、遊園地のトイレ目掛けて走っていった。
取り残された二人は顔を見合わせ、ブリジットが思わず吹き出す。
「……あはは……」
その笑みは、ほんのひとときの安らぎの証だった。
けれどブリジットは、すぐに遠くのビル群へと目を上げる。
夜空に浮かぶ光の街を見つめ、胸の奥で小さく祈る。
「……アルドくん……マイネさん達を、守ってあげてね……」
その声は、夜風に溶けて消えていった。
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スレヴェルド中心部、高層ビルの十二階。
吹き抜けの構造が広がるショッピングフロアは、夜の揺らぐ光に包まれていた。
壊れたガラス片と、軋む床材が足音に合わせて小さく鳴る。
その中を、執事服の男が疾走していた。
背には地雷系少女のような装いの少女──”強欲の
魔王”マイネ・アグリッパ。
彼女の細い指は必死にベルザリオンの背に縋りつき、その声音は切迫していた。
「ベル……! 妾を置いて逃げよ!」
その声には、命令というよりも懇願が混じっていた。
だが、ベルザリオンの足取りは一切揺らがない。
「聞けません……!」
鋭い呼吸の合間に、短く、しかし揺るぎなく言葉を返す。
「私は、貴女を守るためにある……!」
その瞬間──
天井がべゴォッと、鈍い悲鳴を上げて凹んだ。
砕けたコンクリート片と鉄骨の破片が雨のように降り注ぐ。
「来るぞっ!!」
マイネが背中で叫んだ。
次の瞬間、巨大な棍が天井を突き破り、雷鳴のごとき音を轟かせながら床を砕いた。
瓦礫の中から姿を現したのは、金髪の巨躯──黄色い中華風戦闘装束に身を包む大男。
「貴様……!」
ベルザリオンの眼差しが細められる。
190センチを超える長身。
振り下ろされた棍は雷を帯び、その威力だけで床を抉り、吹き抜けの空間全体に緊張を走らせた。
「“強欲の魔王”マイネ・アグリッパ……」
黄龍の声は、地響きのように低く、しかし明瞭に響く。
「貴様の魂、完全に貰い受ける」
マイネは歯を食いしばり、背中でギリィと音を立てるほど拳を握りしめた。
「お嬢様!! しっかり捕まっていてくださいっ!!」
ベルザリオンは叫ぶと、鞘に納められた剣をわずかに抜き放った。
──キィィィィン!!
棍と刀身がぶつかり合い、黄色と銀色の雷がぶつかり合ったような火花が散る。
火花は弾丸のように四方八方へ飛び、ガラス張りのテナントのウィンドウを派手に砕いた。
互いに力を込めた一瞬の鍔迫り合い。
その圧力だけで、周囲の空気がビリビリと震えた。
「させません……!」
ベルザリオンの声は鋼のように固く、凛としていた。
「私の目が黒いうちは……!」
黄龍は棍を力強く振り抜き、ベルザリオンを押し返す。
ベルザリオンも一歩退き、背にある命を守るように膝を沈める。
やがて二人はバッと距離を取り、互いに睨み合った。
瓦礫と煙の向こう、マイネの顔には恐れと怒りが入り混じっている。
「お嬢様は、下がっていてください」
ベルザリオンは短く告げると、優しく彼女を下ろした。
「ベル……!」
マイネはまだ何かを言いかけたが、その声を遮るように、彼の眼差しが柔らかく細められる。
「ご安心を」
その一言に、彼女は唇を噛み、タタタタッと小さく駆けて近くのテナントの陰に隠れる。
その背中に、ベルザリオンはわずかに頭を垂れた。
黄龍は棍をヒュンヒュンと回し、棒術特有の鋭い音を鳴らす。
体躯に似合わぬ俊敏さを見せつけ、やがてビシィッと棒術の構えを決めた。
「……貴様を消してから、為すべきを為すとしよう」
ベルザリオンは静かに腰を落とし、居合の型を取る。
その手は腰の剣──真竜剣アポクリフィスへ。
鞘の中で銀の光が小さく脈動する。
「哭け……真竜……!」
低く呟いた声音は、魂を震わせるような静かな威圧を帯びていた。




