第153話 化血の舞い、現れる巨人
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──血の味が、口の中に広がっていた。
全身を刻まれ、鮮血に濡れた蒼龍の身体は、いまや喰竜の巨腕に鷲掴みにされ、空へと吊り上げられていた。
振り払う力も残っていない。ただ、骨が軋む痛みに顔を歪めながら、必死にその瞳を見上げるしかできなかった。
「お……師匠……様……」
掠れた声が、喉から漏れる。
「アタシには……どうしても、思えないの……」
「アナタが今まで……アタシに向けてくれた、あの笑顔が……全部嘘だったなんて……」
喰竜は、ぎらつく牙の奥で乾いた笑いを漏らした。
その眼光は鋭く、声は重く、何より冷たい。
「何を言うかと思えば……この期に及んで命乞いか、蒼龍よ」
「ワシは竜ぞ。人に向ける笑みなど、獲物を油断させるための方便に過ぎぬ。何の意味があるというのだ」
そう言いながら、喰竜は左目を細く閉じて笑った。
その仕草を見て、蒼龍は血を吐きながらも、小さく笑みを浮かべる。
「ふふ……そんな姿になっても……嘘を吐くとき、左目を閉じる癖は……消えないのね……」
「今だって……そんな姿になっても、まだ……」
彼女の視線が、喰竜の細い前脚へと向けられる。
そこには場違いなほど小さな、銀色のブレスレット。
かつて、彼女が震える手で差し出したものだった。
「アタシがあげた腕輪……今も、身につけてくれてるじゃない……」
その言葉に、喰竜はピタリと笑いを止めた。
竜の瞳に一瞬、微かな迷いが揺らいだのを、蒼龍は見逃さなかった。
「……ねぇ、お師匠様……」
「アナタが……本当にアタシ達を喰べるつもりで、ここまで育ててきたんだとしても……」
その声は敵意のかけらもなく、むしろ慈しむように穏やかだった。
「黙れ……それ以上、喋るな」
喰竜の声は低く、しかし確かな震えを孕んでいた。
「アナタが……アタシ達に与えてくれた、たくさんのもの……」
「そしてアタシが……お師匠様に抱いた想い……」
「そのどれも……偽物なんかじゃなかったわ」
寂しげに呟く蒼龍に、喰竜は眉を寄せ、わずかに苛立ったように声を荒げる。
「黙れと言っている」
それでも彼女は、血に濡れた唇を震わせ、最後の力を振り絞る。
「だから……お師匠様が……アタシを喰うつもりだとしても……」
その続きを告げる前に──
「黙れッ!!」
轟音のような咆哮が闇を裂いた。
喰竜の瞳が激しく揺れ、彼自身の心を誤魔化すかのように叫ぶ。
「ワシは竜! 貴様らは人! 捕食者と被捕食者……! 交わることなど、決して許されぬのだ!!」
その怒声と共に、蒼龍の身体は喰竜の顎の奥へと持ち上げられる。
牙の檻が迫り、冷たい息が肌を撫でた。
「……お師匠様……アタシは……」
掠れた声が最後に零れる。
喰竜の口腔の闇へと身体が落ちていく刹那──遠くから紅龍の叫びが聞こえた。
(ほんと……バカな女ね……)
(兄を喰われ……弟を傷つけられ……自分も今から命を奪われようとしてるのに……)
(……それでも、まだ──)
その思考が途切れ、蒼龍の意識は深い闇に沈んでいった。
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──ズキリ、と胸が痛んだ。
蒼龍は観覧車の頂に立ち、下界を見下ろしていた。
夜の遊園地。ジェットコースターのレールを必死に駆け抜けるブリジットと、群がる魔物を風で薙ぎ払いながら必死に思考を巡らせるリュナ。
その光景を目にした瞬間、彼女の頭の奥に、さっきの記憶が差し込んできた。
(な……何なの……今の記憶は……!?)
目の奥がじんじんと熱い。
今の自分は「紅龍の記憶を元に作られた幻影の蒼龍」に過ぎないはず。
なのに──先ほど見た光景は、紅龍の記憶にあるはずのない、まるで“本物の蒼龍”が息絶える間際の記憶のようだった。
(……馬鹿な……あり得ない……! そんなこと……)
彼女は勢いよく首を振る。
「そんな事、あるわけないじゃない……!」
声に出し、自らの迷いを振り払った。
その刹那──
「姉さんっ! すんませんっ!!」
リュナの叫びが広場に響き渡る。
魔物の群れをかわしながら、必死にブリジットへと声を張り上げる。
「五分……いや、三分でいいんで! その間だけ、時間稼いで欲しいっす!!」
ブリジットはレールの上で一瞬驚いた顔をしたが、すぐに大きな笑みを咲かせる。
「うん!! 任せてっ!!」
その声と同時に、彼女は力強く足を蹴り、レールから弧を描くように宙へ跳んだ。
「えいやぁーーっ!」
軽やかな声が夜空に響き、ブリジットはリュナの元へ駆け寄る。
リュナはその姿を見て、ふっと口元を吊り上げた。
「……じゃ、ちぃーっとだけ、オナシャス!」
そう言うと、竜の翼を大きく広げ──やがて自らを包むように丸め、繭のような姿勢になった。
光を遮断する殻の内側で、何かが静かに始まろうとしている。
「……そういうことなら、もう逃げるだけなのはおしまいっ!」
ブリジットの声が強く弾む。
彼女は両腕で大きなピコピコハンマー“ピコ次郎”をクルクルと回し、その勢いのまま、ドンッと地面へ柄を突き立てた。
砂塵が舞い、瞳が力強く輝く。
「ここから先は──リュナちゃんには、指一本触れさせないからねっ!!」
宣言は澄み切った夜空を突き抜け、観覧車の上にいる蒼龍の耳にも鋭く届く。
「……バカな……っ!」
歯噛みする。
人間風情が、竜を“守る”などと──!
「人が……竜を守るなんて……っ!!」
胸の奥に焦燥と苛立ちが渦巻く。
両手に握った二枚の扇をギラリと広げ、蒼龍は観覧車の上で舞うように構えを取った。
「……その虚勢が、いつまで続くか……見せてもらうわよ、ブリジットちゃん……!」
夜の遊園地に、決戦の気配が一層濃く張り詰めていった。
◇◆◇
「それぇーっ!!」
ブリジットの声は夜の遊園地に明るく響き渡った。
彼女の手に握られた巨大なピコピコハンマー"ピコ次郎"が振り下ろされるたび、地面がドゴン!と震え、魔物たちが次々と宙を舞う。
「ピコッ」
間の抜けた音。
それなのに、オーガの分厚い肉体が軽々と吹き飛ばされ、ゴブリンの群れがピンボールのように地面へ弾き返される。
骨が砕けることも、血が飛び散ることもない。
ただ衝撃を奪い、無力化するだけの──不思議な“優しい暴力”。
「ひゃーっ! どんどん来るね! でも負けないよっ!」
頬に汗を光らせながらも笑みを絶やさないブリジット。
その姿は遊園地の光に照らされて、まるで無邪気な少女が遊んでいるかのようにすら見える。
観覧車の上。
そこから一部始終を見下ろしていた蒼龍の喉が、カチリと鳴った。
歯を噛み締め、血走った瞳が彼女を睨み据える。
(な、何なのよ……ッ!? その意味の分からない武器は……!)
(当たった瞬間に……兵隊たちの力が、みるみる削がれていく……!)
(……まるで、子どもの遊びの相手にされてるみたいじゃないッ!!)
怒りが胸を焼く。
蒼龍は深く息を吸い込み、五火七風扇を両手で掲げた。
月光が扇面に反射し、ぎらりと妖しい赤を放つ。
「"化血の舞い"ッ!!」
刹那。
ブリジットを取り囲んでいた魔物たちが、ピタリと動きを止めた。
不気味な沈黙。
そして次の瞬間──
バチバチッ!
空気が弾けるような音と共に、魔物たちは磁石に吸い寄せられる鉄片のように互いへと走り出す。
腕が絡み、脚が組み合い、背骨が重なり……肉と肉が強引に組み合わされていく。
そして、蒼龍の魔力が、その肉体に血液として流れ込む様に伝播していく。
「な、なに……これ……っ!?」
ブリジットは思わず数歩退き、ピコ次郎を抱きかかえる。
──ゴゴゴゴゴッ!!
地鳴りが広場を揺らした。
無数の魔物が結合した塊が、観覧車を見下ろすほどの巨体へと姿を変えていく。
それは人型を模してはいるが、形容するなら“巨人”という言葉が最も相応しい。
百を超える虚ろな目がぎらつき、何十体もの魔物が合わさって巨大な両腕を形成する。
夜空を覆うほどの影が、ブリジットの小さな身体を覆い隠した。
「えええええっ!? な、なにコレぇぇっ!?」
声を裏返しながらも後退る彼女。
だがその眼差しには怯えではなく、驚きと気合が混じっていた。
観覧車の頂上から飛び降りた蒼龍は、巨人の肩に軽やかに着地する。
背後に浮かぶ満月を背負い、両の扇を広げて不敵に笑った。
「これなら──どうかしらッ!」
その声は、遊園地の廃墟じみた広場に鋭く木霊し、
巨人の腕がゆっくりと持ち上げられていった。
──ドゥオオオォォォン!!!
蒼龍の扇の合図と共に、巨人が轟音を上げて拳を振り下ろした。
空気が裂ける。風圧が渦を巻き、レールを軋ませ、夜の遊園地を雷鳴のごとき衝撃が覆う。
「わわわわっ!!」
ブリジットは小さな悲鳴を上げながらも、必死にピコ次郎を振りかざした。
恐怖に足が竦みそうになる。それでも瞳は決して逸らさず、全身の力を込めてハンマーを掲げる。
──バゴォォォン!!!
激突の瞬間、空気が爆ぜた。
巨人の拳は確かに大地を砕かんとする質量を誇っていたはずだった。だが次の瞬間、まるで中身を抜かれた人形のように、拳から力が抜け落ちる。
ズゥゥン……!
その勢いを失った拳は虚しく地面を叩きつけ、土煙を巻き上げただけだった。
ピコ次郎の“衝撃吸収”が、拳の殺意を根こそぎ奪ったのだ。
「はぁっ、はぁっ……!」
荒い息を吐きながらも、ブリジットは必死に立ち続ける。
だが──彼女はすぐに気づいた。
「う、うぅ……! ダメだ……攻められないっ!」
巨人を構成するのは、ただの魔物じゃない。
スレヴェルドの街で暮らす人々──オーガも、コボルトも、子どもだっている。
蒼龍に操られた哀れな住人たち。だから、壊すわけにはいかない。
「いい加減にしなさいッ!」
巨人の肩の上から、蒼龍の怒声が響き渡った。
五火七風扇を振るい、彼女の怒りが烈風を生む。
「魔物を傷つけずに戦いを終わらせるなんて……そんな夢、バカみたいよ!」
「そんな甘さ、アンタ自身を殺すことになるのよッ!!」
彼女の声は鋭い刃となり、夜空を切り裂く。
氷の刃が巨人の右腕に纏わりつき、左腕に竜巻が渦を巻き始める。
次の一撃は、さきほどとは比べものにならない。殺意を凝縮した暴力が、今まさに解き放たれようとしていた。
だが──
「ううん! 死なないよ!!」
ブリジットの声が響いた。
息は荒く、額には汗。だがその瞳は真っ直ぐに蒼龍を射抜いていた。
「だって……もうすぐ、リュナちゃんが何とかしてくれるって、信じてるからっ!!」
無邪気で、けれど揺るぎないその叫び。
蒼龍の胸に、かすかな痛みのようなものが走る。
(……どうして……どうして、"竜"をそこまで信じられるの……!?)
怒りにも似た感情に駆られ、蒼龍は奥歯を噛みしめた。
「そう……なら、終わりにしてあげるわッ!!」
彼女の宣告と同時に、巨人の両腕が氷の刃と竜巻に覆われる。
それはまさに暴力の権化。雷鳴をも凌ぐ勢いで振り下ろされる──その刹那。
「……『動くな』。」
低く、しかし確固たる声が空気を貫いた。
ブリジットの背後。
繭のように翼を閉ざしていたリュナが、バサァッと翼を広げる。
月光に照らされたその瞳は青白く輝き、巨人の両腕は空中でピタリと止まった。
「リュナちゃん!」
振り返ったブリジットの顔が、ぱぁっと明るくなる。
「……何をしていたかは知らないけど……」
蒼龍は睨みつけ、唇を吊り上げる。
「二人まとめて、ここで葬ってあげるわッ!!」
再び巨人が唸り声を上げ、動きを取り戻し始める。
だが──
リュナは不敵に笑い、黒マスクの奥で呟いた。
「おーおー、やれるもんならやってみろや」
翼を大きく広げ、瞳をギラリと輝かせる。
「見せてやるっすよ……あーしの、あーしだけの"神器"ってヤツを。」
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