第149話 人と竜の間にあるもの
「べ、別に……そんなんじゃ……!」
リュナは唇を噛み、鋭い声で否定した。
しかしその瞳には、わずかな揺らぎが浮かんでいた。
蒼龍はそのわずかな隙を逃さない。扇を押し返しながら、意地悪な笑みを深めた。
「アナタの内包する魔力量は──凄まじいわ」
「でも、その“人の皮”を被り……大き過ぎる魔力量を無理矢理包み込む事に、どれだけ無駄な力を使っているのかしらぁ?」
低く甘やかでありながら、氷柱のような言葉がリュナの心臓を突き刺した。
「ッ……」
リュナの背筋を冷たい汗が伝う。
(……確かに、変身魔法で人間の姿になってる間は……体躯に合わせて“魂の器”の大きさも小さくなってるっす……)
(器から溢れそうになる魔力を、魔力で抑える……っていう、無駄な行程がある事……見抜いてやがるっすね……!)
(兄さんくらい無尽蔵な魔力でもありゃ、話は別っすけど……)
内心で歯噛みするが、その動揺は隠しきれなかった。
蒼龍はさらに一歩、踏み込む。
「ホラホラ!」
「醜い真の姿に戻って……伝説の魔竜の本気をアタシにぶつけてくればいいじゃない!」
扇をひらりと振るい、リュナの目を挑発するように細める。
「──あの子。ブリジットちゃんが、ここで本当の姿に戻ったアナタを見たら……どんな顔をするのかしらぁ。見てみたいわぁ……」
その言葉に、リュナの動きが止まった。
心臓が大きく跳ね、喉が音を立てて詰まる。
(……ッ!)
視界の端に、無意識のうちにブリジットの笑顔が浮かぶ。
その瞬間、胸の奥底に沈んでいた記憶が、まざまざと蘇った。
──初めて出会った日のこと。
深い森の中。
霧が漂い、湿った土の匂いが重く沈んでいた。
木々の間から自分を見つけたブリジットは、今にも泣き出しそうに震えながら、それでも必死に短剣を構えていた。
小さな肩はガタガタと揺れ、膝は折れそうになりながらも、青ざめた顔でこちらを睨んでいた。
弱々しいのに、どこか必死で──その眼差しだけは、折れていなかった。
(……そんな目で、あーしを見てたっすね……)
だが、あの時の自分は愚かだった。
軽い威嚇のつもりで吐いたブレス。
けれど、その一撃は人間にとっては致命的なもの。
衝撃に煽られた少女の体は悲鳴を上げ、地面に倒れ込んだ。
次の瞬間。
兄さん──アルドが烈火の如く怒り、冷たい殺気で自分を睨みつけた。
あの目。あの怒り。
ほんの一瞬で“死”が背後に立ったと悟り、全身の鱗が逆立った。
冷たい恐怖が喉を締め付け、息すら出来なかった。
(あの時は……ホントに、死ぬと思ったっす)
だが──死ななかった。
アルドも、ブリジットも、自分を拒絶するどころか……。
むしろその後、何事もなかったかのように傍にいてくれた。
食卓を囲み、同じ布団で眠り、笑い合う日々を過ごさせてくれた。
その温もりは、千年の孤独で凍えた自分の心を、じわりと溶かしていった。
だからこそ──。
だからこそ、一度たりとも本来の姿には戻れなかった。
分かっていた。アルドもブリジットも、自分を忌避したり、恐れたりする人間じゃないってことくらい。
それでも……。
(……怖かったんすよ。そんな事、2人は絶対しないって頭ではわかってても──)
(元の姿に戻ったら──また、孤独だったあの頃に戻っちゃうんじゃねーかって……)
理解してくれるはずだと頭で分かっていても。
胸の奥に焼きついたあの永遠にも思える孤独への“恐怖”は、今もなお消えないまま。
それは心に深く刺さった棘のように、ずっと抜けずに残っていた。
リュナの瞳に迷いが浮かんだその刹那。
「“金光の舞い”ッ!!」
蒼龍の声が空気を裂いた。
両の扇がぱっと交差した瞬間──。
バシュウウウウッッ!!
眩い閃光が炸裂し、ジェットコースターの軌道全体を白金の光が呑み込んだ。
「しまっ……!」
リュナは慌てて目を閉じるが、遅かった。
瞼の裏を突き破るように閃光が突き刺さり、世界が一瞬で真っ白に染まる。
「……ッ!!」
視界が、奪われた。
立っている足場の感覚すら遠のき、空気の流れだけが敵の気配を伝える。
蒼龍の声が、氷の針のように耳を刺した。
「……その首を落とせば」
スッと扇に生えた氷刃が光を反射する。
「死体は元の醜い姿に戻るのかしらぁ?」
甘美に囁きながら、蒼龍は一閃。
氷刃が白銀の弧を描き、無防備なリュナの首元へ迫った。
(マズった……! あーしとした事が……っ!)
リュナは目を閉じたまま、必死に龍腕を振るう。
だが迫る気配は速すぎる。
背筋を撫でる死の気配が、肌を焼くように近づいてきた──。
──その時だった。
「えいやぁーーっ!!」
どこか間の抜けた叫び声が、進行方向から響いてきた。
「……え?」
蒼龍が眉をひそめ、視線を前へと向ける。
次の瞬間、視界に飛び込んできたのは──レールのカーブに立ち塞がるひとりの少女。
ブリジット。
全身を振り絞るように、巨大なピコピコハンマー"ピコ次郎"をフルスイングしていた。
赤と黄色のハンマーが弧を描き、夜の光を反射する。
「う、嘘でしょぉぉぉぉ!?」
蒼龍が悲鳴を上げるよりも早く──。
ボシュゥンッ!!!
間抜けな「ピコッ」という音が響いた瞬間。
ジェットコースターの運動エネルギーがゼロになったかのように、ぴたりと停止した。
「ちょっ……えええええぇぇぇええ!?」
慣性に耐えきれず、蒼龍の身体は宙に投げ出される。
青いドレスの裾をひらひらさせながら、彼女は遊園地の中央広場へと吹っ飛んでいった。
「うわっ──!」
リュナも同じく前方へ投げ出されそうになる。
宙に浮いた瞬間、心臓が喉まで競り上がる。
だが。
「それぇーーっ!!」
ブリジットの声が飛ぶ。
少女の腕が大きく伸び──リュナの体をしっかりと抱き留めた。
カッ、と夜空を裂く軌道。
ブリジットはリュナをお姫様抱っこのまま、石畳の上にスタッと軽やかに着地する。
足元から衝撃が広がり、砂塵が舞った。
「……へ?」
リュナの瞳が大きく揺れた。
自分の体がブリジットの腕に収まっているという現実に、理解が追いつかない。
「ね、姉さん! あーし、重いっすよ!」
慌てて言葉を吐き出す。
黒マスクの下で耳まで真っ赤になっていた。
ブリジットは穏やかに首を振り、にこっと笑った。
「そう? 全然重くないよ」
一瞬。
リュナの胸が、理由もなくズキリと痛んだ。
その笑顔は、あまりにも真っ直ぐで、温かくて。
だからこそ──痛いほど眩しかった。
◇◆◇
「そうよぉ、ブリジットちゃん!」
蒼龍は足を大きく広げ、腰を反らせ、舞台女優のように両腕を大げさに掲げた。
その青い扇が夜空の月光と観覧車のネオンを同時に反射し、ギラリと怪しい光を放つ。
唇は艶やかに吊り上がり、芝居がかった冷笑が顔全体を支配していた。
「その“トカゲちゃん”はねぇ──人に化けてるだけで、本当は大っきくて恐ぁ〜い、魔竜なのよぉ!」
語尾を引き伸ばす声は、観客席のない舞台で観衆を幻視しているかのよう。
リュナを指差す指先まで演技がかっており、背後の観覧車の光輪を背景にして、まるで舞台美術の一部と化していた。
「きっと人に化けてる理由も……アナタを騙して、いつか食べるために決まってるわ!」
「人と竜が仲良くなんて──出来るはず、無いんだからっ!!」
最後の叫びは、夜の遊園地に反響して木馬の残骸を震わせる。
艶やかさの中に怒号めいた圧が混ざり、聞く者の心臓を無理やり掴み上げるかのようだった。
リュナの胸が、ズキンと痛んだ。
理性では跳ね返せる挑発のはずなのに、心の奥底の柔らかい場所を突かれてしまったような痛み。
(……やっぱ、そう見えるんすかね)
無意識に視線が揺れた。
恐る恐る横目でブリジットを窺う。
ほんの一瞬でいい。怯えていないか、拒絶の色を浮かべていないか、それだけ確かめたくて。
──だが。
ブリジットは、ぽかんと口を開けていた。
怯えるでも、怒るでもなく、まるで目の前の蒼龍の芝居に呆気を取られた子どものように。
「え?」
小さな吐息のように、その声が漏れた。
ただそれだけ。
その素っ気なさが、逆にリュナの心を強く揺さぶった。
そして──。
「……出来るよっ!! 仲良く!!」
次の瞬間だった。
ブリジットは一歩踏み出し、勢いそのままにリュナの身体をギュッと抱きしめた。
小柄な腕なのに、不思議と強くて、決して離さないと告げるような力がこもっている。
胸元に押し寄せてくる体温。肩越しに伝わる鼓動。
それらがリュナの心臓を直撃し、胸の奥に熱を広げていく。
「だって……人と竜の違いがあったって……見た目もあたしの方が子供っぽいかもだけど……どんなに歳上だって……!」
ブリジットの声は震えていなかった。
むしろ夜の遊園地のざわめきを突き抜けるほどに真っ直ぐで、曇りのない瞳が蒼龍を射抜く。
「リュナちゃんは、もうあたしの──“妹”なんだからっ!!」
その宣言は、彼女の全身からほとばしる確信だった。
家族として、決して切り離さないという強い意志が、その言葉に宿っていた。
「っ……」
リュナの胸が一瞬で熱くなった。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
視界の端がじわりと滲み、今にも涙がこぼれそうになる。
(……っバカ、あーし……そんなこと言われたら………また泣いちまうじゃねーか……)
奥歯を噛み締める。唇を強く結ぶ。
何度も泣いてきた。ブリジットの前で。
だけど、これ以上は──甘えてばかりじゃいられない。
拳を握りしめ、必死に堪えるリュナ。
胸の奥で渦巻く熱と涙を押し込みながら、ただその温もりを全身で受け止め続けていた。
◇◆◇
呆気に取られたのは──蒼龍の方だった。
妖艶な微笑を浮かべていた唇がわずかに緩み、長い睫毛の奥の瞳が、ほんの一瞬だが虚を突かれたように揺らぐ。
ブリジットはきゅっと眉を寄せ、子どもがむくれるように頬を膨らませる。
しかしその声音は真剣で、胸の奥からほとばしる熱を隠そうとしなかった。
「それに! リュナちゃんがこの姿でいる理由なんて、一つしかないに決まってるじゃない!」
小さな足で一歩前に出る。
ネオンがきらめく石畳を踏みしめ、ぷりぷりとした怒りをぶつけるように声を張る。
「蒼龍さん、女の子なのに、そんなことも分からないの!?」
蒼龍はわずかに目を細め、低い声を洩らした。
「……じゃあ、何が目的だっていうの?」
冷たく鋭い響きが広場を貫く。
だがブリジットは怯まず、むしろ胸を張ってさらに一歩前に出た。
その瞳は迷いなく輝き、ピンと背筋を伸ばす。
そして──右手を大きく振り上げ、ビシィッと蒼龍を指差した。
「決まってるよっ!!」
ネオンの光が彼女の頬を染める。
宣言の瞬間、空気がピンと張りつめ、観覧車の明滅ですら鼓動を止めたかのように感じられた。
「アルドくん──“好きな人の前”で、ちょっとでも可愛くいたい! それだけに決まってるじゃないっ!!」
夜風に声が響き渡る。
その真っ直ぐな断言は、どんな魔法よりも鋭く、どんな刃よりも強靭に広場を震わせた。
──しぃん。
観覧車の回転音も、カルーセルの残響も、一瞬だけ凍りついた。
世界が呼吸を忘れたような静寂。
「……ッ!?」
その静寂を破ったのは、リュナの全身を走り抜ける衝撃だった。
顔がボンッと赤く染まり、耳まで真っ赤に燃え上がる。
胸の奥で心臓がドカドカと暴れ、毛穴という毛穴が一気に開く感覚。
「はああぁぁっ!?!?!?」
咆哮竜のその喉から、遊園地の夜空を震わせる大絶叫が放たれた。
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