第141話 "凶竜"のジュラシエル
息を潜めながら、俺は瓦礫の影から顔を出した。
そこに鎮座していたのは──ビルの壁に背を預け、巨大な身体を折り畳むように眠るティラノサウルス。
図鑑や映画で見たのより俄然デカい。二倍はある。
そいつは口を半開きにして「シュ〜ル……ピピピピピ……」と間の抜けた寝息を立てていた。
そして──その歯の隙間に。
「……か、影山くん……!?」
半透明の影山が、片脚を奥歯に引っかけるように挟まれ、ぐったりと舌の上に横たわっている。
(やっべえ……! なんであんな位置に!? もしこのティラノが寝返り打ったり、唾を飲み込みでもしたら──そのままごっくんじゃない!?)
冷や汗が背筋を伝う。
下手に刺激すれば、飲み込まれるのは一瞬だ。
俺は歯を食いしばり、そろそろと歩を進める。
夜気に混じって、ふわりと漂ってきたのは――
(……え? なんか……めっちゃいい匂いするんだけど……?)
花束を鼻先に押し付けられたみたいな、フローラルな香り。
巨大な恐竜から出ている匂いじゃない。
泥臭さとか、爬虫類の匂いとか、そういうのを想像していたのに。
(……いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない! 影山くんを助けるのが先だ!)
俺は腹を括り、ついにティラノの顔の真正面に立った。
暗い口腔の手前、口先に赤黒い何かがへばりついているのが見える。
(……血……? うわ……マジでグロいやつ……)
だが怯んでいられない。
俺はゆっくりと、伸ばした指先をその巨大な口へ──
──パチリ。
「……っ!」
瞼が開いた。
黄金色の瞳がギラリと光り、真正面から俺を捉える。
(やっば……! 吠える!? 噛みついてくる!? どっちにしろまずいだろコレ……!)
背筋に氷柱を突き立てられたみたいに固まった瞬間。
「キャーーーーー!! 痴漢よーーーーーッ!!」
……え?
野太いオッサン声と、乙女じみた悲鳴が合体したような声が、夜の広場に響き渡った。
鼓膜を突き破るような声量。俺の銀髪は一瞬でオールバックになり、コートの裾までひるがえった。
(えええええええええええええええええ!? 思ってた反応と違う!?)
内心で絶叫しながら、俺はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
◇◆◇
耳を劈くような悲鳴が、夜の街に轟いた。
反射的に肩を竦めた俺は、そのまま呆然と立ち尽くしてしまう。
「信じられない!!」
──ズシン。
地鳴りのような音とともに、ティラノサウルスが立ち上がった。
ビルの谷間がミシミシと悲鳴を上げ、ガラス窓に蜘蛛の巣状のひびが走る。
黄金の瞳が爛々と燃え、巨大な顎が開かれる。
そして、吐き出されたのは、野太いオッサン声──けれど口調は乙女そのもの。
「レディが寝てる間に……勝手にキスしようとするなんてっ!」
「えっ!? ご、ご誤解です!!」
なぜか敬語で謝ってしまう。
だがその度に、ティラノの奥歯に挟まった影山くんがグラグラと揺れる。
(ああああああ!? か、影山くんがギリギリだ……!?)
胃の底まで冷えるような冷や汗が背中を流れ落ちる。
この状況、ビジュアル的には笑えるはずなのに、笑えない。影山くんがシャレにならん。
ところが次の瞬間、ティラノは俺をまじまじと凝視し……ハッ、と息を呑んだ。
「あらっ……!! よく見たら……可愛らしい、シルバーブロンド男子じゃないっ!!」
──は?
まさかの反応に、思わず一歩下がる俺。
ティラノは頬をポッと赤らめた……いや、鱗のどこがどうなって赤くなってんの!?
さらに、どこからともなくコンパクトを取り出し、器用に前足で構える。
「やだ〜! ギャタシったら、昨日お化粧落とさないで寝ちゃってる〜! 超おブス〜!」
野太い声で嘆きながら、小さな前足で器用に口紅をススッと塗り直していく。
その動作の妙な細かさに、俺は思わず目を細めた。
つーか、口の周りの赤いのって血じゃなくて、口紅だったの!?
さっきまでの緊迫感が、一瞬で崩壊した。
化粧直しを終えたティラノは、再び俺に顔を近づけてきた。
鼻先から吹き出す息は熱風そのもの。髪が乱れて、額に張り付く。
「どこから来たの〜? ギャタシ好みの可愛い僕ちゃん〜!」
「ヤダもぅ〜! ホント可愛すぎ〜! 食べちゃいたくなるわ〜!」
ど……どっちの意味だとしても怖ぇー!!
でっかい顎が「パカッ」と開くたびに、影山くんの体がゆらゆら揺れる。
俺は直立不動、ただ祈るように見守るしかない。
喉は乾いてカラカラ。心臓はドラムみたいにバクバク。
額の汗が、夜風に冷やされて妙にひんやりとした。
お姉ティラノはウィンクをひとつ寄越し、さらに言葉を畳み掛けてくる。
「ギャタシって、こう見えても……タイプの男子の前だと、結構“肉食系”なとこあるのよね〜♡」
でしょうね!!どう見ても!!
心の中で全力のツッコミを入れる。
笑うべきか、怖がるべきか、判断に困る。
──ただひとつだけ確かなのは。
この状況、影山くんの命がかかったコントだってことだ。
◇◆◇
ティラノサウルスは、奥歯に影山をひっかけたまま、ふと我に返ったように声を張った。
「あらヤダ、自己紹介がまだだったわね〜! キュート男子!」
ズズンと地響きみたいに胸を張り、巨大な尾をバサッと振る。夜の広場に風が巻き起こる。
「ギャタシは、“強欲四天王”の『可愛い』担当。
──“凶竜”のジュラシエルよ〜!」
黄金の瞳をきらきら輝かせながら、ティラノはバチーン!とド派手にウィンクした。
野太い声で、しかしやたら可愛く締めくくる。
「愛を込めて“ジュラ姉”って呼んでね♡」
……。
「えっ!? “強欲四天王”!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
内心ではさらに大騒ぎだ。
いや、これもベルザリオンくんの同僚なの!?
え、マジで!? ハトとティラノサウルスと一緒の職場って、どういう環境!?
未来型動物園かな?
マイネさん、どういう基準で採用してんの?
ぐるぐると思考が渦巻くが、とりあえず自己紹介されたら、こちらも最低限の礼儀は尽くすしかない。
「は、初めまして。アルド・ラクシズと申します。……はい」
深く頭を下げる俺。
ティラノ──いや、ジュラ姉は満足そうに頷くと、器用に前足をひょいと持ち上げ、爪を見せた。
「それで、アルドきゅんは何の用事でこんな所にいるのかしら〜?」
前足の爪に、赤く光る液体が塗られていた。
それを器用にちょんちょん塗り直すジュラ姉。
爪に付いてた赤いのも、マニキュアだったの!?
さっきまでの不気味さが、謎の女子力で一気に崩壊する。
俺は喉を鳴らしつつ、正直に切り出すことにした。
「いや、実はですね……今、貴女の……」
「“貴女”なんて他人行儀な呼び方はよしてぇ!」
ビシッと前足で俺を指さすジュラ姉。
黄金の瞳が爛々と光り、声がひときわ高くなる。
「ジュラ姉って呼んでっ!」
「ひ、ひえっ!? じゅ……ジュラ姉の奥歯にですね……そのー……」
冷や汗が首筋を伝う。俺は引きつった笑みを浮かべ、勇気を振り絞る。
「……僕の仲間っていうか……友達? が、挟まってるんじゃないかなー……って思ってまして……」
おそるおそる言葉をつむぐと、ジュラ姉は「あらぁ!?」と目を丸くした。
「えっ……!? どこ? 寝惚けてあくびした時に、何か落ちてきたものでも挟まっちゃったのかしら? ギャタシったら、おっちょこちょい!」
またもやどこから取り出したのか、コンパクトの鏡を器用に前足で掲げる。
大きな口をガバァと開け、角度を変えながら口内を覗き込むジュラ姉。
だが──。
「……あら!? おかしいわね〜……?」
眉をひそめるジュラ姉。
鏡の中には、影山の姿は映っていない。
「アルドきゅんの言うように、歯に何か挟まってる感覚はあるんだけど……何も見えないわぁ?」
そう言いながら、長い舌をぬるりと伸ばす。
「んん〜〜……ここかしらぁ〜?」
ぬちょり。
「ひぃ……!!」
影山くんの顔面を舌先がコロコロと転がす。
半透明な彼の頭が、ベットベトの唾液でテカテカに濡れていくのが見えて……。
(うわぁ……!)
いや、きっつ。
思わず内心で声を漏らしてしまった。
影山くんの姿が見えるのは、俺だけ。
その影山くんはと言えば、あらゆる意味でとんでもない事になっている。
彼の顔が唾液でぐっしょり光っているのを見て、俺の背筋に寒気が走った。
◇◆◇
「……あ、あの! よかったら、俺取りますよ!」
思わず手を挙げてしまった俺に、ティラノ──いや、ジュラ姉の黄金の瞳がカッと見開かれ、ぎらりと光を帯びる。
巨大な顔面が近づくたびに、風圧で前髪が揺れる。心臓が耳の奥でドクドク鳴った。
「ええっ!? アルドきゅんがぁ!? でもぉ〜……口の中じっくり見られるのって、恥ずかしいっていうか〜……♡」
クネクネと身体を揺らすジュラ姉。
可愛い仕草のつもりなんだろうけど、その度に地面がミシミシと軋み、ビルの窓ガラスがカタカタと震えてる。
照れの仕草一つが地震規模だ。
俺の足元までガクガクしてるんだけど。
「じゃ、じゃあ! 目ぇつぶって取りますから! ね? それなら恥ずかしくなーい! でしょ!?」
冷や汗を垂らしながら必死でフォロー。自分でも何言ってるか分からない。
ジュラ姉は一瞬ぽかんとした後、口角をぐにゃりと緩め、鱗の頬をポッと赤く染めた(どうやって赤面してんのか、謎すぎる)。
「それじゃあ〜……お願いしちゃおっかな♡」
ガパァァァァッ!!
いや、怖っわ。
夜空を切り裂くように巨大な顎が開かれる。
闇の奥、奥歯の間に──ぐったりとした影山くんが引っ掛かっているのが見えた。
半透明の身体が口内の唾液で煌めいている。
(……うわっ……近くで見ると、ティラノの口腔内、迫力ハンパないな……)
俺は思わず喉を鳴らす。
覚悟していた血や肉の臭いはなく、代わりにふわりと甘いフローラルなシトラスの香りが鼻をくすぐった。
(……なんかいい匂いする……? ジュラ姉、ブレスケアまでしっかりしてる!? 何なの、その謎の女子力……)
頭の中で必死にツッコミを入れながらも、足は止まらない。
俺は一歩、また一歩とジュラ姉の口の中へと足を踏み入れる。
舌が床のように広がり、べっとりと濡れていて、足音が「ぺちゃ、ぺちゃ」といやに生々しく響いた。
吐息が熱風のように頬を撫で、鼓動が加速する。
「……よしっ」
奥歯まで辿り着き、両腕で影山くんを抱え上げる。
ぬるりとした唾液が肌を伝ったが、背中に背負った瞬間、胸の奥から安堵の息が漏れた。
「はぁぁぁ……助かった……」
張り詰めていた息をようやく解放した、その時──。
──バフンッ!
「わっ!?!?」
世界が真っ暗になった。
ジュラ姉の巨大な顎が音を立てて閉じ、俺は影山を背負ったまま完全に暗闇へ閉じ込められる。
湿った熱気が肌を包み、口腔の中の空気が一気に重くなる。
「ちょ、ちょっと!? ジュラ姉!?」
慌てて声を上げる俺。
しかし返ってきたのは耳からではなく──頭の中へ直接響く声だった。
《……ごめんなさい、アルドきゅん。 ギャタシ、分かってたの。アルドきゅんが、紅龍サマ達の……敵だって》
ぞわりと背筋を這い上がる感覚。
脳髄を掴まれるような圧迫感を伴った念話が、容赦なく押し込まれてくる。
《今のギャタシは“強欲四天王”じゃなくて、紅龍サマ達の僕……つまり、アルドきゅんの敵なの……!》
舌がぬるりと蠢き、俺と影山くんをゆっくりと喉奥へ押しやろうとする。
唾液が服にまとわりつき、ぞっとするほど生々しい感触が背筋を伝った。
《貴方の事、忘れない……! アルドきゅんは、ギャタシの血肉となり、共に生きていくのよ……!》
「うわっ!? いやいや、それはちょっと困るんだよねぇ」
俺は冷静を装い、わざと軽口を返した。
舌が迫る直前に、足元を蹴ってふわりと跳び上がる。
──ヒュッ。
滑らかな舌の動きをヒラリとかわし、一瞬で前歯の方へ移動。
右手を上顎に添えた。
「……ほいっ」
グイッ、と押し上げる。
バギギギギィ!!
ティラノサウルスの咬合力が、あっさりと俺の片手でこじ開けられていく。
目の前にオレンジの光が差し込み、街灯の輝きが闇を裂いた。
俺は影山くんを背負ったまま、身軽に口の中から飛び出す。
──ドンッ。
地面に着地。足に伝わる衝撃と共に、張り詰めていた呼吸を吐き出した。
「よっと……っと」
背中の影山くんを支え直す俺の耳に、背後から震え上がるような悲鳴が響いた。
「えっ!? ……鋼鉄の戦闘艇すら一噛みで食い千切る、ギャタシの咬合力を、片手で軽々と……!?」
ジュラ姉の目が、驚愕で見開かれる。
「アルドきゅん……貴方……ギャタシが思うより、遥かにパワフル系男子だったのね……!」
黄金の瞳が見開かれ、巨体がガクガクと震える。
その姿は畏怖と興奮が混ざり合った奇妙な熱に包まれていた。
俺は振り返り、敢えて口元に薄い笑みを浮かべる。
「そうだね。 まあ、見た目よりは……二億倍くらいはパワフルだと思うよ」
シルバーブロンドの髪を揺らし、冗談めかして言う。
だが、その一言が──ジュラ姉の内奥を直撃したようだった。
「……男子相手に、こんなに本気になるなんて、生まれて初めてよ……アルドきゅん!!」
ドォンッ!
大地を抉る一歩。
ジュラ姉は前傾姿勢で踏み込み、肉食獣そのものの構えを取った。
爪先がコンクリートを削り、地面が砕ける音が耳をつんざく。
黄金の瞳が俺を射抜き、獲物を逃さぬ捕食者の気配を放つ。
俺は影山くんを背負ったまま、ゆっくりと瞳を細めた。
(……やっぱりかぁ。マイネさんの部下達は、高校生の子達とはまた別のスキルで操られてるんだよな)
(時間もそうかけられないし……さて、どうするかね)
ジュラ姉を正面から見据えながら、心の中だけは妙に呑気に考えていた。
第109話でピッジョーネのセリフで出てきた『ジュラ姉』初登場です。




