第139話 試される絆、証明される最強
宙を裂いて現れたのは、夜空を悠然と泳ぐ巨大な白鯨だった。
漆黒の渓谷の空を背景に、その鱗は月光と街の灯りを反射して不気味な光を放つ。
その背に立つ三つの影――紅龍、黄龍、蒼龍。圧倒的な存在感が空気を支配していた。
鬼塚玲司は、吹き飛ばされた瓦礫の中で宙を舞っていた。
「……くッ!?」
咄嗟に身体を捻り、崩れていないハイエスト・ウェイの端に手を伸ばす。
指先が届きそうで届かない。わずか数十センチの差が、命運を分けていた。
眼下には、数百メートル下に広がるスレヴェルドの街。
煌めく光がまるで冥府への招き灯のように瞬いている。
落ちれば確実に、命はない――。
「クソッ……!」
鬼塚の目に、死の恐怖が宿ったその瞬間。
バシィッ、と衝撃。
誰かの手が、空中の彼の腕を掴んだ。
「……!?」
鬼塚の瞳が大きく見開かれる。
そこには何者の姿も見えない──だが確かに、強く温かい手の感触があった。
掴んでいたのは影山だった。
彼は道路にうつ伏せのまま、左手でガードレールの柱を握り、右手一本で鬼塚を必死に支えていた。
「!? そこに……誰かいるのか!?」
鬼塚は驚愕し、かすれた声をあげる。
「……ひょっとして、お前……“守り神”か?」
影山は顔を歪め、必死に声なき声を吐き出した。
《……ああ!?何言ってんだ、こんな時に……!? いいから、早く上がってこい……ッ!!》
しかし鬼塚には、その声は届かない。
ただ、握られた手の震えと必死さだけが伝わっていた。
影山は腕の筋肉を引き絞り、全身で鬼塚を引き上げようとする。
だが──。
グワァン、と地鳴りが走った。
二人がいた道路の部分が、大きくひび割れ……次の瞬間、崩落した。
「なッ……!?」
「クソッ……!」
鬼塚と影山、二人の姿が瓦礫と共に夜の闇へと消えていく。
「ねぇ!」
ブリジットが、瓦礫の隙間を見下ろして青ざめた顔を上げる。
「ひょっとして今……影山くん、落ちたんじゃ……っ!?」
彼女の声に、アルドの心臓が大きく跳ねた。
影山の姿は、他の誰にも見えないはず──だがブリジットには「確信」があった。
少女の直感は鋭く、仲間を想う心が見えぬ存在の落下すら察していたのだ。
「アルドくんっ!!影山くん達を助けに行って!」
振り返ったブリジットの瞳は涙で潤み、それでも強い光を宿していた。
アルドは飛び散る瓦礫の破片から皆を”竜泡”で守りながら、言葉を詰まらせる。
「えっ!? で、でも……!」
目の前に立ちはだかるのは、三人と白鯨。恐らく敵の首魁と言える存在。
ここを離れていいのか──。一瞬の躊躇が彼を縛った。
しかしリュナが声を張り上げる。
「影山っちの事見えんの、兄さんだけっしょ!? とりあえず助けてやった方がいっすよ!!」
その真剣な瞳は、仲間を信じる強さに満ちていた。
フレキも、小さな身体で前に出て吠える。
「こっちはボク達に任せてくださいっ!! 心配なら、なるべく早く戻って来てくださいねっ!」
アルドの胸に、強烈な葛藤が去来する。
(……今すぐ本気でブレスを吐いて、鯨とあの三人をまとめて消し飛ばしちゃうか……?)
物騒な衝動が頭をかすめる。だが──思い出した。
修学旅行バス内でのヴァレンの言葉。
『紅龍は影山クンのお友達の魂を喰ってる。取り戻すつもりなら、軽々しく始末はできねぇ。』
『戦闘になったら、まずは俺が”魂視”で、お友達の魂がどういう状態で紅龍に取り込まれているか調べる。』
『最終的な処理には、恐らくお前の力が必要になる。頼むぜ、相棒。』
アルドはハッとしてヴァレンを見る。
彼は鋭い視線を白鯨へ向けたまま、横目でコクンと小さく頷いた。
アルドは息を吸い込み、迷いを断ち切るように叫ぶ。
「……任せた!すぐ戻るよ!」
そう言い残し、瓦礫の隙間から黒い深淵へと飛び込んだ。
影山と鬼塚を救うために──。
ヴァレンは、飛び去るアルドの背を見送りながらニヤリと笑う。
「なるべく早く帰って来てくれよ……相棒!」
そして、声を潜めるように続けた。
「……でないと、俺が全部片付けちまうぜ?」
その目は既に白鯨と、背に立つ三龍仙を鋭く射抜いていた。
夜の空気が、嵐の前のように静かに震えていた。
◇◆◇
夜空を割るように姿を現した白鯨は、都市スレヴェルドの灯りを映し、巨大な影を地上に落としていた。
その鱗は冷たい銀光を帯び、羽ばたくでもなく宙を漂う。
まるで空そのものが鯨を孕んだかのような、不自然な存在感。
その異形を見上げ、マイネはぎり、と奥歯を噛みしめた。
「……ヴァルフィス! お主、今も尚ベルゼリアの支配下にあろうとは……!」
いまだ洗脳下にある、かつての同胞を呼ぶ声は、悔恨と怒りで震えていた。
ヴァレンが驚いたように眉を跳ね上げ、横目でマイネを見た。
「なんだぁ!? あの鯨クン、お前の知り合いかよ!?」
問いに答えたのはベルザリオンだった。
彼は剣を引き抜き、刃先を鯨へと向ける。その声音には苦渋がにじんでいた。
「“白鯨”ヴァルフィス先輩……。私やピッジョーネ先輩と同じ、“強欲四天王”の一人です……!」
その名を呼ばれ、白鯨は悠然と口を開いた。
「……ええ、今は──このお方達の下僕ですけどね。私は。ええ。」
重低音の響きは、海底から泡が弾けるように鈍く、ぞわりと聴く者の背筋を震わせた。
そして、その背に立つ三つの影。
紅き男が一歩前に進み出ると、周囲の空気が張り詰めた。
「久しいな──ヴァレン・グランツ。マイネ・アグリッパ……!」
紅龍。
邪悪な笑みが、夜風にひらめく紅の衣を一層妖しく見せた。
ヴァレンはふっと笑い、胸に手を当てて一礼する。
「よお、紅龍将軍殿。久しく見ないうちに……信号機みたいなカラーリングのトリオを結成された様で」
軽口を叩きつつも、心の奥では鋭く分析していた。
(影山クンの話では、紅龍は分身能力を得た。横の二人は、紅龍の分身体……か。)
(だが──何だ、この異様な“存在感”は……? ただの分身にしちゃ、あまりにも濃い……)
白鯨の背で、蒼龍が艶めかしく腰を揺らし、ヴァレンに目を細めた。
「……貴方が、“色欲”のヴァレン・グランツ? いい男だけどぉ……礼儀がなってないわねぇ〜」
舌先で唇をなぞり、不満げに笑う。
隣の黄龍は言葉ひとつ発さず、腕を組んでただ眼下を見下ろしていた。
その黄金の瞳には冷え切った理性と、揺るがぬ力の自信が宿っている。
マイネは一歩前に出て、紅龍を睨みつけた。
その小柄な体から発される覇気は、威厳と怒りを帯びていた。
「紅龍……! 貴様らベルゼリアの狼藉もここまでじゃ!」
ビシィ、と紅龍を指差す。
その仕草に紅龍の眉がかすかに動き――次いで、鼻で笑った。
「……今の儂は、最早ベルゼリアの駒に非」
低く呟いた声は、聞く者をざわりと不安にさせる。
「なんじゃと……?」
マイネは眉を寄せ、首を傾げた。
紅龍は答えず、ただ冷酷に続ける。
「貴様には、かつて力を封じられた借りがある。だがそれは──貴様の力を奪うことで雪辱を果たした。」
その口調は、まるで出汁を取り終えた鍋を捨てるかのような侮蔑に満ちていた。
「力を失った出汁ガラの貴様に、もはや興味は無い」
吐き捨てる言葉が、マイネの胸を鋭く抉った。
彼女の瞳に宿るのは怒りか、それとも悔しさか。
ぎゅっと拳を握りしめ、唇を震わせるマイネの姿に、場の空気はさらに張り詰めていった。
張り詰めた空気の中で、リュナは小さく肩を竦めてため息をついた。
「ハァー……。とりま、こいつらの動き止めてみるっすかね」
黒いマスクを指で下げ、顎までずらす。
彼女の瞳は、普段の飄々とした色合いを消し、暗く研ぎ澄まされた刃のように光を帯びていた。
「──『動くな』。」
低く呟いた瞬間、空気が凍りつくような重圧が放たれる。
しかし、次の刹那。
……沈黙。
力は発動せず、世界は何事もなかったかのように動いている。
「……!?」
リュナの目が驚愕に見開かれる。
(咆哮が、"効かない"んじゃなく……"発動もしない"……?)
(……へぇ。こりゃーちと、油断ならない相手っすね……)
彼女の背筋に冷たい汗が伝う。
ブリジットが
「えっ……リュナちゃんの咆哮が……!」
と目を丸くし、腕に抱えたフレキも尻尾を膨らませて震えた。
「そ、そんな……発動しなかった……!?」
白鯨の背、蒼龍がゆらりと前に出る。
長い睫毛の下で光る瞳が、リュナを真っすぐ射抜いた。
「……あらぁ〜? ひょっとして、貴女が“咆哮竜”ザグリュナちゃん、なのかしらぁ?」
リュナは挑発的に顎を上げ、素っ気なく吐き捨てる。
「だったら何なんすか?」
蒼龍は唇の端を歪め、楽しげに舌を鳴らした。
「そう……やっぱりそうなのねぇ。……あたし、“竜”って──大嫌いなの。トカゲ臭くて」
「……はぁ? うっざ。」
冷たい言葉に、リュナの瞳が鋭く細められる。
彼女の奥底で、怒りがじわりと灯るのが誰の目にも見えた。
だが蒼龍の視線はすぐにリュナから逸れ、隣のブリジットへと滑る。
「……それにしても、そっちの可愛らしいお嬢さんも……匂うわねぇ〜」
鼻を抑える仕草で、わざとらしく顔をしかめる。
「とっても濃厚な竜の匂い……鼻が曲がりそう」
「えっ!? あ、あたし!?」
ブリジットは思わず自分の腕を嗅ぎ、慌てて体を確認し始めた。
「そんな……臭かったかなぁ……!? ちゃんとお風呂入ってるのに……!」
「だ、大丈夫ですっ!!」
足元のフレキが、必死に小さな声で吠える。
「ブリジットさんはいつもフローラルないい香りがしてますっ!!」
ブリジットは顔を赤くし、「フ、フローラル……?」と呟くが、耳まで真っ赤にして下を向いた。
蒼龍はにやりと口角を上げ、決断を告げる。
「決めた! 紅龍ちゃん、この子達はぁ──あたしがいただくわねぇ〜」
胸元から取り出されたのは、不気味に光る結晶石。
蒼龍が力を込めると、石はまばゆい光を放ち、空気が裂けるような異音が響く。
「なにっ……!?」
リュナが咄嗟に身構えた瞬間、光が彼女とブリジット、さらにフレキを包み込む。
ヴァレンの目が見開かれた。
「これは……勇者クン達が撤退した時の魔導具……!?」
「──なるほど。ただの魔導具じゃねぇ……誰かから奪った“道具型スキル”か……!」
光が弾ける。
次の瞬間、蒼龍とリュナ、ブリジット、そしてフレキの姿は──夜空から掻き消えていた。
残された空間には、焦げつくような光の残滓だけが漂っていた。
◇◆◇
「……強欲の魔王とその付き人の相手は、俺がしよう」
黄龍の声は、雷鳴にも似た低さを孕んでいた。
腕を組んだままの姿から一歩も動かぬというのに、その言葉だけで周囲の空気が震える。
無表情のまま、彼はさらに告げる。
「ついでに──下に逃げた小僧共も、喰らってくるとする」
その無慈悲な宣告に、マイネがギリリと歯を食いしばった。
紅龍は一歩退き、愉悦を帯びた笑みを浮かべながら淡々と口を開く。
「構わん……が。くれぐれも、マイネ・アグリッパは“殺してくれるな”よ?」
その声音には、ただの命令以上のもの――どこか含みを持った響きが宿っていた。
マイネの瞳が一瞬鋭く揺れる。
「……何を企んでおる」
だが紅龍は答えない。ただ、目の奥で炎のような光を躍らせていた。
──刹那。
黄龍の手に、雷を帯びた剣が「いつの間にか」握られていた。
誰もその瞬間を見ていない。まるで世界そのものが、彼に剣を差し出したかのような自然さだった。
「ッ――!」
空気が弾けた。
次の瞬間には、黄龍は稲妻の如き速度でマイネに迫っていた。
「お嬢様!!」
ベルザリオンの絶叫が響く。
彼は迷うことなくマイネの前へ飛び込み、"真竜剣アポクリフィス"を抜き放つ。
刃と刃が激突する音が、耳を裂くほどの轟音となって夜を震わせた。
「くッ――!?」
ベルザリオンの瞳が見開かれる。
(何という膂力……ッ!? アポクリフィスの力をもってしても……押し負ける……!)
凄まじい衝撃がベルザリオンとマイネを包み込み、二人は斜め下方へ吹き飛ばされる。
「くっ……!」
マイネが思わず声を漏らす間もなく、二人の身体はハイエスト・ウェイの端を突き抜け、近くの高層建築の窓へと叩き込まれた。
──ガシャァンッ!
分厚い強化ガラスが粉々に砕け散り、内部のフロアに二人の姿が消えていく。
その後を、雷光を纏った黄龍が無言で追った。
ヴァレンはわずかに目を細め、冷静に状況を見据えていた。
(……分断か。紅龍達のスキルは未知数。三人同時に掛かられるよりは、まだマシだな)
思考は研ぎ澄まされ、表情に迷いはない。
(とはいえ……マイネは足を引っ張る。ベルザリオンくんが守り切れるかどうか……だが、相棒が落ちた先の近くに飛ばされたのは幸いだ。何とかなるだろ)
小さく息を吐くと、ヴァレンは口角を吊り上げる。
白鯨の上で紅龍が、ゆっくりと歩みを進める。
「やっと……二人になれたのう、ヴァレン・グランツ」
唇を吊り上げ、獰猛な笑みを覗かせた。
ヴァレンは軽く胸に手を当て、一礼の形を取りながらも、その眼差しには鋭い光が宿っていた。
「お前さんと二人きりになっても、ときめかないんだがな」
二人の間に走るのは、ただの敵意だけではない。
過去の因縁と、互いを認めるがゆえの苛烈な火花が散っていた。
紅龍は低く唸る。
「……以前は取り逃したが、今回は逃がしはせん。貴様ら“大罪魔王”をも喰らい──儂の“最強”を証明してみせよう!」
彼の身体が白鯨からふわりと舞い上がり、重力を嘲笑うように着地する。
──ストン、と音もなくハイエスト・ウェイに立つその姿は、夜の闇を裂く紅蓮のようだった。
ヴァレンは、短く笑う。
「……最強なんかじゃねぇよ」
その声は誰にも届かぬほど小さかった。
「お前も……大罪魔王も、な」
紅龍の眼光が爛々と燃え、ヴァレンの瞳が鋭く細められる。
決戦の幕は、静かに上がった。
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