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第135話 三龍仙

夜風が止まったかのように、空中庭園に静寂が広がっていた。


緋色の宝石像となった一条雷人は、最後まで笑みを浮かべたまま動かない。


その笑みは挑発ではなく、絶望に抗った者の誇りを宿していた。



紅龍は、その像の前に立ち尽くしていた。


手にする"緋蛟剪(ひこうせん)"からはまだ微かに血のような魔力が滴っていたが、彼の表情は勝者の昂揚からは遠い。


口元に笑みはなく、険しさだけが刻まれている。




「……井の中の蛙、か」




低く呟いた声は、夜気に溶けて消えた。


その言葉は雷人が遺した最後の矢であり、紅龍の胸に深く刺さっていた。



石像となった青年の瞳は、なおも未来を見ているように思えた。


敗北を認めながらも、希望を託し、次代に道を開こうとする眼差し──。


その真っ直ぐさが、紅龍の心に微かな軋みを生んでいた。




(儂が……蛙だと?)


(……閉ざされた井戸の中で、天を見上げるしかない矮小な存在だと……?)




怒りではない。むしろ、違和感に近かった。


勝者としての確信を揺るがすほどに、その言葉は重く残響していた。



紅龍の赤い瞳が、鋭く細められる。


彼の内には常に確信があった──自らこそが“最強”であると。


だが今、雷人の言葉はその確信の下にわずかな亀裂を刻んでいた。




(“彼”……か)


(奴が最後に叫んでいた、“彼に出会えば思い知る”という言葉……)




紅龍は顎に手を当て、深く考え込む。


その姿は戦場の将軍というよりも、謎を解く賢者のようにすら見えた。


夜風が彼の軍服を揺らすたび、冷たい星明かりが赤い双眸を照らした。



紅龍の思考の底に、別の記憶がよぎった。


ほんの少し前、フラムと共に得た情報──。




《逃走したマイネ・アグリッパの協力者の一人に、“色欲の魔王”ヴァレン・グランツが確認された》




その報せが、脳裏で再生される。




「……そうか」




呟きは確信へと変わっていく。


雷人が語った“彼”という存在。


井の中の蛙と言い放ち、自分を嘲笑う要因となった、その“彼”こそ──。




「……ヴァレン・グランツか」




赤い瞳が爛々と光を帯びる。


すべてが一本の線で繋がったかのように、紅龍の胸中に形が生まれていく。




(“色欲”の魔王……この世界に名を轟かせた七魔王の一角。確かに、その力は侮れぬ)


(だが──)




口元が、愉悦に歪む。


雷人の遺言は、紅龍にとって「脅威の存在を示す警告」ではなく、「自らが討ち果たすべき次の標的」へとすり替わっていく。




「良い……良いぞ。一条雷人よ。貴様の言葉、確かに受け取った」


「ヴァレン・グランツ……貴様こそ、儂に挑むに足る相手というわけだな」




夜風に乗って、低い嗤いが広がる。


その嗤いにはもはや迷いはなかった。紅龍の心は再び「最強」の確信へと収束し、雷人の言葉は誤解という形で歪められた。



だが、その"誤解"こそが──後に新たな嵐を呼ぶ種となるのだった。




 ◇◆◇




緋色の宝石像となった雷人を背に、紅龍は低く呟いた。




「“色欲”の魔王……確かに、奴の力は侮れぬ。だが──」




その双眸に紫電の残滓を映したまま、紅龍は片手を胸の前で(かざ)した。


指先に赤黒い紋様が浮かび上がり、空気がざらつく。




「……"分身(オルター・エゴ)"」




次の瞬間、紅龍の影が分かたれた。


赤黒い魔力が渦巻き、形を持ち、肉体となって立ち上がる。


庭園の床に響く靴音は三つ。そこには同じ姿をした紅龍が三人、並び立っていた。




「くっ……くくく……」




三人は同じ声音で笑う。嗤い声が重なり、不気味な和音となって夜風に混じった。




「召喚者どもの上質な魂を喰らった今──ヴァレン・グランツとて、儂の敵ではないわ」




声は三重に重なり、雷鳴の残響のように響いた。


紅龍(本体)は顎に手を当て、残る二人をじっと観察する。


すると分身の一人が肩をすくめ、もう一人が口角を吊り上げる。




「……どうやら、主人格は貴様にあるようだのう」


「であるなら、我ら分体には識別のための“別の姿”が必要であろう」




その提案に、三人は一瞬沈黙し──そして同時に、ニヤリと笑った。




「……我らは三人。ならば、取るべき姿は決まっておる」




二体の分身は目を閉じ、両の掌を合わせて印を結ぶ。


"変身(メタモルフォーゼ)"──その力が発動し、肉体の輪郭が波打つ。


紅龍の分身のひとりは、やがて金がかった茶髪の大男へと変貌した。


黄色を基調とした戦闘衣は豪奢でありながら武骨さを纏い、鍛え抜かれた体躯は岩壁のように堂々としている。



もう一人は、長い黒みがかった青髪を髪飾りでまとめた美女へと姿を変えた。


蒼を基調としたチャイナドレスは夜気にひらめき、その艶やかな肢体を際立たせる。



三人は顔を見合わせ──そして、くっくっく、と嗤った。




「まさか、“この世界”で我ら三人が顔を合わせることになろうとはな」




紅龍(本体)の言葉に、黄髪の大男が低く応じる。




「ガワだけだ。中身は全員“紅龍”よ」




青髪の美女は、ひらりと手を振って笑った。




「折角だ。仕草や口調も寄せるとしよう。」




そう言って目を閉じ、胸の前で印を結ぶ。


“自己暗示”──記憶や人格を一時的に改ざんする術。



黄髪の大男はゆっくりと目を開け、無表情に紅龍を見据えた。




「……久しいな、紅龍」




その声は淡々としていながら、威厳を帯びていた。


紅龍は目を細め──そして笑った。




「くっ……くくく……まるで本人そのものではないか。

……ああ、数百年ぶりだのう。“黄龍(ホァンロン)”の兄者」




青髪の美女が、気怠げに肩をすくめる。




「でもぉ〜、本当に不思議よねぇ。アタシたち“三龍仙(さんりゅうせん)”が、こんな異世界(・・・)でぇ……また再会するなんてさぁ〜」




紅龍はわずかに顔をしかめ、吐き捨てるように呟いた。




「……これの中身が自分の分身だと思うと、ゾッとせんわ……」



「んん? 何か言ったぁ〜? 紅龍ちゃん」




青髪の美女が頬を寄せて囁きかける。


紅龍はわずかに肩を竦め、苦笑しながら答えた。




「何でもないわ。“蒼龍(ツァンロン)”の姉者よ」




夜空に、三人の笑い声が重なり合った。


その音は懐かしさと不気味さを同時に孕み、星々を嘲笑うかのように響き渡った。




 ◇◆◇




紅龍は二人の分身体を見やった。


黄龍は腕を組み、石像のように微動だにしない。


瞳は冷たく、余計な言葉を発する気配すらなかった。


対して蒼龍は、腰をくねらせ、長い脚を組み替えながら足先で散った花弁を弄んでいる。


挑発的でありながら、どこか退屈そうな仕草。その眼差しだけは、妖しく紅龍を射抜いていた。



紅龍の口元に、ふっと嗤いが浮かんだ。




「……使ってみて分かったが、どうやら儂の分身体であるお主らには、"他者から奪ったスキル"は一部引き継がれぬらしい」




声は低く静か。だが、その奥には嗜虐にも似た愉悦が潜んでいた。


彼は二人をじっと見据え、口角を吊り上げる。




「なれば──今から兄者、姉者には……儂が蓄えてきたスキルの一部を譲渡してやろう」




黄龍は表情ひとつ動かさず、静かに頷く。沈黙の中にも、確かな承諾の気配が漂った。


蒼龍は、わざとらしく両手で大きな丸を作り、唇に艶やかな笑みを浮かべる。



「おっけぇ〜! やっぱり紅龍ちゃんなら、そう来ると思ってたぁ♪」



紅龍の眼光が鋭く光った瞬間、彼の手にあった二刀「緋蛟剪」がギィィと擦れ合い、鋏の形に組み合わされる。


そして、ためらいもなく二人の胸元へと突き立てられた。



──ドクン、ドクン。



血は一滴も流れない。


紅蓮に輝く刃を通じ、紅龍の体内に眠る膨大な魔力が、脈動とともに奔流のように流れ込んでいく。


黄龍は無言のまま、両手をゆっくりと開き、握り、また開いた。


指先に走る新たな感覚を確かめるように。


その無機質な表情の奥で、微かな光が芽吹いたのを紅龍は見逃さなかった。


蒼龍は逆に、心地良さそうに小さく口笛を鳴らし、腰を揺らしながら声を上げる。




「へぇ〜……これが奪ったスキルねぇ? クセが強いのもあるけど……うん、どれも面白い能力ばっかりじゃなぁい♪」




紅龍は二刀を引き抜いた。


刃にまとわりついた魔力の残滓を払う仕草は、まるで不要な塵を拭い去るかのように冷徹だった。


次の瞬間、彼の声音が高らかに響き渡る。




「──さて。我ら三仙の力をもって、大国ベルゼリアに仇なす“大罪魔王”マイネ・アグリッパ、そしてヴァレン・グランツ……この両名を落とすとしよう」




その言葉は、雷鳴のように堂々と、夜空に轟いた。

まるで天と地に布告するかのごとき力強さ。


紅龍の背に吹き付ける夜風すら、その宣言に畏れを抱いたかのように一瞬止んだ。



三人の影は庭園に伸び、重なり合いながら嗤いの気配を漂わせていく。




 ◇◆◇




蒼龍が片眉を上げ、気怠げに笑みを浮かべた。


それは遊び半分の調子に見えて、実際は鋭い刃のように紅龍の胸に突き刺さる。




「ん〜? ちょっと待ってよ、紅龍ちゃん」




声は甘く、伸びやか。けれどその響きの奥に、確かに潜む違和の色があった。




「アンタって、そんな“御国のため!”みたいなこと言うキャラだったっけぇ〜?」




挑発めいた言葉に、黄龍の瞳がわずかに細められる。


いつも無機質に沈黙を保つその表情に、かすかな揺らぎが走ったのを紅龍は感じた。



紅龍は歩みを止める。


足音が途絶えた空中庭園には、風と葉擦れの音だけが残る。



短い沈黙ののち、低く、かすれる声が吐き出された。




「……ベルゼリアには、“拾ってもらった恩”がある」




その一言に、空気が変わった。



黄龍の眉がピクリと動く。


蒼龍は笑みを引き、声を低めて囁いた。




「……“拾ってもらった恩”?」



「そんなもの、アナタが感じるワケないじゃない」




彼女の声音は甘美でありながら、はっきりと拒絶の棘を孕んでいた。



紅龍の胸中にざわめきが走る。


彼自身も言い放ったその言葉に、説明のつかぬ違和感があった。


何かが、奥底から囁いている──「その感情は、お前自身のものではない」と。



紅龍はハッとしたように目を見開き、黄龍へ視線を向ける。




「……兄者。先程渡したスキル、"天啓眼アナライズ・ヴィジョン"で……儂を診てくれぬか」




黄龍は無言のまま頷き、指先に淡い光を宿す。


その目は水晶のように澄み、真実を映し出す。


紅龍の魔力の流れを、そして魂の奥深くに絡みついた影を見通す。



やがて、低い声が放たれた。




「……間違いない」




黄龍の声は淡々としている。だが、その響きには確信の重さが宿っていた。




「魂に……何かが植え付けられている」




紅龍の唇がゆがむ。


笑みとも怒りともつかぬ感情が入り混じり、声が低く漏れた。




「くっ……くくく……己を俯瞰で見る、というのは……かくも大事であったか……」




次の瞬間、彼は一切の迷いを断ち切った。


緋蛟剪を鋏の形に組み替え、その切っ先を己の胸へ突き刺す。



──ズブリッ。



刃が肉体を通過した瞬間、血ではなく黒い靄が吹き出した。


ブチブチと音を立て、まるで根を引き裂くように引きずり出される。


やがて姿を現したのは、脈動し続ける黒い種子のような塊。




「ぬゥゥゥ……ッ!」




紅龍は歯を食いしばり、力を込めてそれを胸から引き抜いた。


握った種子は禍々しい熱を帯び、まるで生き物のように脈打っていた。



彼はそれを地面へ叩きつける。



──ドンッ!



種子が鈍い音を立てて転がる。


紅龍は二刀を分離し、目を爛々と燃やすと、一気に斬り刻んだ。



──ザシュッ! ザシュシュシュシュッ!!



黒い塊は無残に切り裂かれ、細かい欠片となって夜風に散った。


残滓は悲鳴のように一瞬だけ震え、やがて跡形もなく掻き消える。


紅龍は荒い息を吐き、背を反らせると、空中庭園の床をドンッッ!!と踏み鳴らした。




「許さん……許さんぞ、クレイドル一族……!! いや──ベルゼリア!!」




声は憤怒に震え、地の底から湧き上がる怨嗟のようだった。




「この儂にまで、首輪を着けておったとは……!!」




黄龍は黙したまま腕を組み、動かない。


その眼差しには冷たい光が宿っていた。



蒼龍は口元に指を当て、妖艶に微笑む。


その声は柔らかくも底知れぬものを含んでいた。




「じゃあ……これから、どうするのぉ? 紅龍ちゃん」




紅龍は振り返り、猛獣のような笑みを浮かべる。


怒りと狂気、そして確固たる決意を滲ませて。




「決まっておる」




緋色の瞳が爛々と輝き、空気そのものが震える。




「──喰らいつくしてやろう」




その声は咆哮となり、夜空を震わせた。




「召喚者の童どもも……咆哮竜も……大罪魔王も……そして、ベルゼリアも……!!」




三人の影が庭園に伸びる。


それぞれが異なる姿を持ちながら、中身は同じ紅龍。


嗤い声が重なり合い、冷たい夜を満たしていった。


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― 新着の感想 ―
 どれだけ紅龍が強いと思っていても、見ている側からすれば最終的に”龍”に食われてしまう”蛙”になる未来しか見えない(笑)
まさか紅龍も洗脳受けてたとは てっきり一番の黒幕だと思ってた
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