第132話 監視の眼、そして牙
魔法陣の光が消えると同時に、足元の感触が変わった。
硬質で平らな床──元"強欲の魔王"の居城、アグリッパ・スパイラル、中層階の「リビング・フロア」。
高い天井からは、薄く魔力を帯びた白い光が降り注いでいる。
壁際や天井の隅には、金属とも石ともつかない小型の球体が宙に浮かび、青い瞳孔のようなレンズをじっとこちらに向けていた。
……監視装置。
ベルゼリアが配備したと聞いた時は、ただの設備だと思っていたが、今は違う。
あれは「見張る目」だ。
広間中央のソファセットに、仲間たちが重く腰を下ろしている。
ギャルズ──高崎ミサキ、内田ミオ、佐倉サチコ。
オタク四天王──石田ユウマ、久賀レンジ、西条ケイスケ、藤野マコト。
7人とも、今の今まで戦場にいたとは思えないほど青ざめ、虚ろな目をしていた。
雷人は、一歩だけ距離をとってその様子を観察した。
「……」
誰も声を発しない。
目線は床に落ち、呼吸は浅く、肩がわずかに震えている。まるで全員が同じ悪夢から覚めた直後のようだ。
(……これは、間違いない)
胸の奥で冷たいものが形を成す。
さっきまでの戦闘で、全員が、あの規格外の力を持つ、銀色の少年の魔力を浴びた。
そして、その瞬間──魂に絡みついていた何かが剥がれ落ちた。
だが、本人たちはその事を知らない。
自分が、つい数時間前まで何の疑問も持たずに“魔竜討伐”や“魔王軍との戦い”に身を投じていたことすら、説明できないでいる。
理解できない。だから、怯えている。
雷人もまた、その恐怖の正体を知っていた。
(……やっぱり、僕たちは……)
(──最初から何らかの思考誘導を受けていた可能性が高い)
召喚された瞬間から──いや、この世界に立ったその時から。
まるで自分の意志など存在しないかのように、異世界での戦いを「当然のこと」と受け入れていた。
なのに。
地下遺跡で、あの銀髪の少年──名前も知らない、ただ恐ろしく強いと直感した存在──の放つオーラを浴びた時、急に視界が開けたように頭が冴えた。
世界の色が変わったかのような感覚。
そして、初めて自分が“異常”の中にいたと気づいた。
ミサキが小さく唇を噛む音が聞こえた。
ミオは両手を握りしめ、目を閉じて震えている。
ユウマやレンジたちも同じだ。彼らは、まだ整理がついていないのだ。
なぜ自分がこの戦場に来て、命を賭けていたのか。
──そして、それに疑問を持たなかった理由を。
雷人は一度だけ深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(……混乱しているのは、僕だけじゃない)
(ギャルズも、オタク四天王も、全員……"洗脳"が解けてる)
──だが。
広間を漂う視線。
天井に浮かぶ魔導デバイスの、無機質な青光。
……あれは確実に、僕たちを見ている。
この国家は“異世界から召喚した若者”を問答無用で思考誘導し、戦力として使い捨てる組織だ。
もし「洗脳が解けた」と悟られれば、どうなるか
──想像するのも危険だ。
雷人は、仲間たちに何も言わず、視線だけで天井を示した。
その意図を理解した者は……まだいないようだ。
(みんな……今は、何も漏らすな。余計なことは絶対に口にしないでくれよ……)
奥歯を噛み、雷人は意識を冷たく研ぎ澄ませた。
佐川や鬼塚の討伐チームが失敗して帰還したことを思い出す。
鬼塚玲司──あいつは、召喚直後から、フラムや紅龍に対し、敵意を剥き出しにしていた。
洗脳の影響を受けていなかった可能性がある。
もしそうなら、今の状況を打開できる鍵になるかもしれない。
(……何としてでも合流しなければ)
広間に重く、湿った沈黙が落ちていた。
それを破る音は、まだ訪れていない。
◇◆◇
不意に、リビング・フロア中央の昇降機が重々しい音を立てて降りてきた。
金属の扉が左右に滑るように開く──その瞬間、広間の空気が一変する。
現れたのは、将軍"紅龍"。
緋色の軍服に包まれた長身、背中で揺れる弁髪は獣の尾のようにしなやかで重い。
鋭い緋色の双眸は、一瞥しただけで肌を刺すような圧を放っていた。
右手には二つの健身球。彼の指の間で、カチリ、カチリと乾いた音を立てて回転している。
ギャルズも、オタク四天王も、反射的に背筋をこわばらせた。
「……っ」
ミサキの肩が小さく震え、ミオは視線を逸らし、サチコは両膝を抱えるようにして俯く。
男たちも同じだ。呼吸が浅くなり、顔色がさらに蒼白になる。
(……最悪のタイミングだ)
雷人は心の奥で呟いた。
思考誘導が解け、混乱しきっている今、紅龍のような人物に目をつけられるのは危険すぎる。
紅龍はゆっくりと広間を見回し、健身球を転がす指の動きを止めないまま言った。
「──任務に失敗したらしいな、童ども」
低く響く声は、広間の空気をさらに重くする。
雷人は、一瞬だけ呼吸を整え、落ち着いた声色で応えた。
「……申し訳ありません。正体不明の強大な魔獣に襲われ、撤退を余儀なくされました」
嘘だ。だが今は、事実よりも「納得させること」が重要だ。
紅龍は短く鼻を鳴らし、ゆっくりと歩み寄る。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
その視線が、一人ひとりの顔を舐めるように巡っていく。
雷人は内心で冷や汗をかいた。
(……余計なことを喋るな。頼むから)
仲間たちは顔を伏せたまま、小刻みに震えている。その様子が、逆に危うい。
紅龍の足が止まったのは──佐倉サチコの前だった。
その影が、彼女の小さな身体をすっぽりと覆う。
「……どうした? 小娘、何を怯えておる?」
低い問いが、氷のように冷たく突き刺さる。
サチコは唇を震わせ、声にならない音を漏らした。
雷人はすぐに間に入る。
「……将軍。佐倉は初めての任務失敗で、疲弊しています。どうかお許しを」
紅龍の目が、ゆっくりと雷人へ向けられる。刃物のような視線だ。
数秒の沈黙の後、「……まあ、よい」とだけ言い、視線をサチコへ戻した。
「……小娘。貴様、確か"封印呪法"のスキル持ちであったな」
「──レベルは、いくつになった?効果は?」
質問が、ナイフの様に突き刺さる。
サチコは震える声で、やっと答えを絞り出す。
「……れ、レベルは……10……です。……息を止めてる間は……“どんなスキル”でも、封じる事が、出来ます……」
か細い声。途切れ途切れの説明。
紅龍の唇が、ゆっくりと吊り上がる。
「──善哉。」
その一言に、雷人の背筋を冷たいものが走った。
次の瞬間、紅龍は雷人の正面に立つ。
「童。お主の"雷神の加護"はどうだ?」
本当はレベル10──だが雷人は即座に別の答えを用意する。
「……レベル9です」
紅龍は目を細めた。
「……そうか。あと少し、励むが良い」
口元に浮かんだ笑みは、ただの激励ではなかった。
意味を測りかねる笑みに、雷人は心の奥で警戒を強めた。
◇◆◇
重い靴音が遠ざかり、紅龍の背が昇降機の奥へと沈んでいった。
最後に紅の弁髪がひらりと揺れ、無機質な扉が滑るように閉じる。
機械音が上下のどちらへ向かうのかも分からぬまま消えていき、残された空間からは──
まるで締め上げられていた首の縄が緩むように、張り詰めた空気が一気に解け落ちた。
短く、誰かが息を吐く音がする。
それを皮切りに──
「……一条くん!!」
最初に声を上げたのはミサキだった。
その声は震えと安堵とが絡み合っている。
続けて、ミオが口を開き、サチコが続く。
「あ……あたしたち……どうして、今まで……」
「なんで……なんで、こんな事になってるのぉ……」
ソファに座っていたはずの石田や久賀も、吸い寄せられるように立ち上がってきた。
西条と藤野も、顔を青ざめさせたまま声を搾り出す。
「ど、どうすればいいんだよ……俺たち……!」
「こんなの……我々が望んでた"異世界転移"ではありませんぞ……!」
──七人分の視線が、一斉に雷人へと集まる。
焦燥、恐怖、困惑……そして、頼らざるを得ない相手にすがる色。
その重みは、雷人の胸の奥にずしりと沈んだ。
だが、彼は知っている。
今この場で何を言えばいいか、何を言ってはいけないか。
言葉一つで命運が変わる、そういう状況だ。
視線を僅かに上げる。
広間の壁際、天井近く──宙に浮かぶ球状の魔導デバイスが、規則正しく青い光を明滅させていた。
監視の目。音も記録も逃さぬ、冷たい観察者たち。
雷人は、感情を極力削ぎ落とした声で口を開く。
「任務失敗は……僕の責任だ。すまない」
深く、丁寧に頭を下げる。
その動きの中で、胸の前で軽く握った手の指先が、電気の魔力を帯びながら、小さな軌跡を描く。
──《余計なことを喋るな。監視がある》。
ギャルズもオタク四天王も、一瞬、ぽかんとした表情を浮かべる。
だが、雷人の指先が僅かに向けた先──壁際の青い光に気づいた瞬間、その目が理解と緊張に変わり、全員が唇を閉じた。
「……とにかく、今は待機だ」
雷人は静かに言う。
「体力を戻すことを優先しよう」
彼はソファを指し示し、一人ひとりに視線を送って座らせる。
まだ何か言いたげに肩を揺らす者もいたが、雷人の瞳が一瞬だけ鋭さを帯びると、全員が無言のまま従った。
数秒の沈黙の後、雷人はゆっくりと立ち上がる。
「僕は……次こそ失敗しないように、訓練室でスキルレベルを上げてくる」
わざと、監視の耳に届くように、明瞭で自信ある声を使う。
だが、その言葉の裏にある本当の目的──鬼塚との接触、そして現状打破の糸口を探る計画──は、誰にも明かさない。
彼の瞳は静かだった。
けれど、その奥底には、確かな決意の火が宿っていた。
◇◆◇
昇降機の扉が静かに閉まり、魔導駆動の軽い振動が足元から伝わってくる。
雷人は迷わず操作パネルに手を伸ばした。
指先が行き先の一覧をなぞり、「メディカル・フロア」の表示を探す──
だが、その枠は淡く灰色に沈み、横に小さな魔法文字で「停止不可」と表示されていた。
「……セキュリティが書き換えられている……」
小さな呟きは、昇降機の密閉された空間の中でも、自分にしか届かないほどの低さだった。
(討伐チームは今、メディカルで検査を受けているはず……鬼塚もそこにいる)
(あいつだけは……おそらく洗脳の影響を受けていなかった)
(今なら、何か手が打てるかもしれない。逃げ道を作ることだって……)
雷人はわずかな逡巡もなく決断を下した。
パネルを操作し、メディカル・フロアのひとつ下
──「第17業務区画」と表示された階層を選択する。
そこから階段を探して上がれば、直接接触できる可能性はある。
カチリと小さな音を立てて、昇降機が下降を始めた。
その数十秒間、雷人は背筋を壁に預け、呼吸を浅く整える。
今の自分は戦闘の準備ではなく、あくまで“接触”の準備をしているのだと自分に言い聞かせた。
やがて、軽い振動とともにドアが左右に開く。
目の前に広がったのは、無機質な白灰色の廊下。
壁には魔導灯が等間隔に浮かび、規則正しい光を落としている。
すれ違うのは、武器を携えた魔導機兵たちばかり。
大理石の床に、雷人の足音が乾いた反響を返す。その響きすらも、今は妙に耳障りに思えた。
廊下を進みながら、彼は周囲の様子を素早く観察する。
階段の標識はない。だが、この造りなら角を二つ曲がれば構造上の昇降通路にぶつかるはずだ──そう判断し、曲がり角に差し掛かった、その瞬間。
「……佐倉?」
視界に飛び込んできたのは、金髪をハーフアップにしたギャル少女──佐倉サチコだった。
だが、違和感は出会った瞬間から雷人の背筋を走った。
先ほどリビング・フロアで見たときの彼女は、失敗のショックと恐怖で蒼白になり、視線を落としていたはずだ。
しかし今、彼女の顔には感情の色がまるでない。石膏で作られた仮面のように、凍り付いた無表情。
足音もなく、ただ、真っ直ぐ雷人に向かって歩みを進めてくる。
靴底が床を叩く音すら聞こえないことが、不自然さを際立たせた。
「……どうしたんだ。何故、こんなところにいる?」
呼びかける声に、返事はない。
近づくたび、空気がわずかに冷えていくような感覚。背筋を薄氷が撫でる。
そして──残り一歩の距離まで迫ったとき。
佐倉の口角が、ぎこちなく、しかし確実に吊り上がった。
その笑みは喜びでも安堵でもない。獲物を前にした捕食者が、反射的に浮かべるものだった。
同時に、何も持っていなかったはずの両手に、緋色の光が走る。
光は瞬く間に形を成し──艶やかな血のような輝きを帯びた双剣が、そこにあった。
「っ──!」
雷人の身体が、思考よりも早く動く。
"雷神の加護"──紫電が皮膚を走り、筋肉を刺すような感覚と共に視界が白く弾ける。
雷鳴のような一閃。
次の瞬間、雷人の姿は横へと跳び、空間を裂く双剣の軌跡が彼のすぐ後ろをかすめた。
刃が空気を裂き、床に火花が散る。
「……お前は……誰だ……?」
問いかけながら構えを取る雷人。
その目の前で、佐倉の肌が──音もなく、剥がれ落ちていく。
ぽろ、ぽろ、と仮面が砕けるように崩れ、下から覗くのは、級友の少女のものではない顔。
緋色の瞳が妖しく光り、鋭い牙が覗く口元。
紅龍が、そこにいた。
嗜虐的な笑みを浮かべたまま、彼は双剣をゆるりと構え直す。
雷人のこめかみを、一筋の冷や汗が伝い落ちた




