第131話 まあ、ギリいけるんじゃない?
影山くんが、最後の一画をゆっくりと引き、ペン先を紙から離した。
インクが紙面にじわりと滲み、その小さな黒が広がるのを、全員が息を呑んで見つめていた。
静かすぎる。耳の奥で自分の鼓動だけが妙に響く。
俺の胸の奥で、じわじわと熱がこもっていく。
怒りだ──だが、炎みたいに爆ぜるものじゃない。
もっと深く、鉛のように重く、静かに積もっていく怒り。
……紅龍。そいつが、そんな酷いことをしてる悪党。
視線を横にやると、ブリジットちゃんが両手で口元を覆い、震える瞳で紙を凝視していた。
その青色は、いつもの澄んだ輝きを失い、波打つ湖面のように揺れている。
指先がわずかに震え、その小刻みな動きが、彼女の衝撃の深さを物語っていた。
リュナちゃんは、細めた瞳でじっと文字を追っている。
表情は無。喜びも怒りも押し殺したような静けさ──けれど、その奥で研ぎ澄まされた刃のような感情が光っているのが、なぜか分かる。
机の向こう側。
ヴァレンが、低く唸るように「……バカな……!」と吐き出し、分厚い掌を机に叩きつけた。
鈍く響く衝撃音が室内の空気を震わせ、紙面のインクが小さく波打つ。
影山くんは、そんな空気を切り裂くように、震える指で新たな文字を走らせた。
《これが、俺が見た紅龍の真の目的です》
ペンの動きは速くも力強くもない。だが、その筆圧は、迷いなく紙を押し込んでいた。
低い唸り声が、俺の足元の方から聞こえた。
フレキくん──今はミニチュアダックスの姿──が、耳を伏せ、歯を剥き出しにしている。
小さな体なのに、その声音は鋭く苦い。
「スキルを奪うために……スキルを育てさせるなんて……っ!」
牙の間から漏れる吐息が、床に落ちるほど熱を帯びていた。
ベルザリオンくんも、重々しい仕草で腕を組み、顎に手をやる。
「それでは……あの戦士達……影山殿の友人がたは……」
続きを口にする前に、視線を落とし、言葉を飲み込んだ。
そして、静かに腕を組んだまま、マイネさんが口を開く。
「妾の《我欲制縄》の効果が及ばぬ手駒として利用し、機が熟せば育ったスキルを奪い取る……まさに、一石二鳥という訳じゃな」
声は淡々。表情はほとんど動かない。
その冷ややかな現実主義が、逆に底知れない怖さを感じさせた。
「マイネさん……! そんな言い方……!」
ブリジットが、震えを抑えられないまま声を荒げる。
しかし影山くんは、彼女を制するようにすぐにペンをカカカッと音を立てて動かした。
《いや、いいんです! ブリジットさん!》
《洗脳されてたとは言え、あいつらがマイネさんのスレヴェルドを襲撃したのは事実ですし……》
《……あいつらのせいで、マイネさんの配下のま…》
何かを書きかけた影山くんの手が止まり、ぐしゃぐしゃと書き直す。
《……配下の方々の生命も失われたんです》
──"魔物"と書きそうになって、思い止まったんだね。影山くん、いい子だな。
《……それでも、俺は、あいつらを助けたい》
ペンを置いたその手は、微かに汗ばんでいるように見えた。
俺もブリジットちゃんも、フレキくんまでもが、自然とマイネへ視線を向けていた。
無言の「頼む」という眼差し──重みのある沈黙が、その場を支配する。
マイネさんは、しばし表情を動かさずにその視線を受け止め……ムッと唇を結び、視線を逸らした。
そして、はーっと長い息を吐き出す。
「……分かっておる。妾とて、こんな話を聞いた上で、こやつらを一方的に責めようとは思わぬ」
「……ベルゼリアと妾の間には浅からぬ因縁もある。いい機会じゃ。決着をつけるとしよう」
ふふんと鼻を鳴らす声は、どこか愉悦すら混じっていた。
「失われた配下の生命も、なぁに、気にするな。」
貸していた本に汚れを付けられた程度の口調であっけらかんと言うマイネさん。
いや、さすがに気にするでしょそれは。
マイネさんは得意げな口調で続ける。
「"我欲制縄さえ取り戻せば、いくらでも“取り立てて”やるわ」
意味深な笑み。俺と影山くんは、同時に「?」と首を傾げる。
その横で、ヴァレンが、姿の見えない影山くんの方に向かって口を開いた。
「影山クン。この女、“強欲の魔王”マイネ・アグリッパは、キミが思うより遥かに強かだ。コイツが大丈夫って言うなら、大丈夫だと思っていい」
……その言葉に、影山くんの指先から、ほんのわずかに緊張が抜けた。
◇◆◇
ヴァレンが椅子の背にもたれ、長い脚を組み替えながら、低く落とすように言葉を吐き出した。
「……問題は、“紅龍”だ」
いつもは軽薄そうな色を帯びた声に、今日はわずかな鋼の響きが混じっている。
「ヤツが“分身”や“変身”のスキルを得たとなると、相当厄介だな」
節の太い指先が、机の縁を一定のリズムでコツコツと叩く。その音がやけに耳につく。
「ただでさえ俺ら“大罪魔王”と同格の力を持つ紅龍が、“分身”で三人に増えたとなると……」
そこで言葉を切り、こちらを見据えた。
わざわざ首を動かさず、視線だけを送ってくる──それだけで、何を言いたいのかは十分伝わる。
……あー、そう来るよな。
視線を横にずらせば、リュナちゃんもベルザリオンくんも同じ目をしていた。
期待、そして「お前しかいない」という無言の圧。
まあ、分かってたけどさ。
「……ブリジットちゃん。話があるんだけど、いいかな?」
声をかけると、彼女は小さく瞬きをしてから、すっと背筋を伸ばした。
その青い瞳が真っ直ぐに俺を射抜く。
「今まで黙っててごめんなんだけど……薄々気づいてたかもしれないけど……」
「うん、アルドくん。ちゃんと聞くから、話して」
真剣さと信頼が混じった声色に、思わず喉がつまる。
……うわ、これ、想像以上に言いにくい。
いざとなると、土壇場で、ビビってしまうわ!
横を見ると、リュナちゃんが「おっ!? ついに正体明かすっすか!?」とでも言いたげな顔で前のめりになっている。
が──直前で、俺の口は違う言葉を選んだ。
「じ、実は、俺……テイマーで錬金術師なだけじゃなくて……ケンカもめっちゃ強いんだ……!!」
声は妙に裏返り気味。
嘘じゃない。けど、本当に大事な部分は、まだ伏せた。
リュナちゃんの視線が、一瞬で冷ややかなジト目に変わる。
ヴァレンは苦笑を隠しもせず「はは……」と肩を揺らした。
対してブリジットちゃんは──口元に微笑を浮かべ、穏やかに言った。
「うん、何となくだけど、知ってたよ」
「いつも魔獣のお肉を狩ってきてくれるし、さっきも佐川くんと鬼塚くん、あっさり倒しちゃってたもんね」
……そりゃそうだよな。冷静に考えればバレバレだよね。
「……アルドくんは、どうして強いことを隠したかったの?」
少し首を傾げながらの問いかけ。
俺は数秒考え、言葉を選ぶ。
「……“強い”なんて、ただの個性の一つでしかないよ。強いやつが偉いなんて思ってないし」
「それに、俺、戦うこと自体あんまり好きじゃないんだ」
弱い者いじめみたいになっちゃうからね──心の中でそう付け足す。
そしてもう一つ、ずっと胸の奥に引っかかっていたことを吐き出す。
「……それに……ビビってたんだと思う」
「ビビってた? 何に?」
ブリジットちゃんの声は、驚きよりもむしろ優しさを増していた。
「自分を見せることを。強すぎる姿を見せたら、みんなに怖がられたり……ブリジットちゃんに、嫌われちゃうんじゃないかって」
これも、嘘偽り無い本心だ。
俺は、怖いんだと思う。自分が、他の皆とは違う存在だって事を、知られることが。
俯いたまま言葉を終えると、椅子がきしむ音がして、彼女が立ち上がった。
次の瞬間、両頬を両手で包み込まれる。温かい掌の感触と、意外なほどの力強さ。
ぐいっと顔を引き寄せられ、視界いっぱいにブリジットちゃんの瞳が映る。
「もうっ! 怒るよ!」
「……アルドくんがどんな姿を見せたって、あたしがアルドくんを怖がったり、嫌いになったりするわけないでしょ!!」
その瞳は真剣で、少し潤んでいて――けれど、芯は揺らがない。
「……あたしは、どんなアルドくんでも、信じるよ。だから、自分の思う通りに力を使って! アルドくん!」
笑顔と共に投げかけられた言葉が、胸の奥を熱く染める。
(ブリジットちゃん……もしかして、俺の正体にも気づいてる?)
そんな考えがよぎるが、今は口にしない。
代わりに、自分の頬をパンと叩いて気合を入れる。
「ありがとう、ブリジットちゃん!」
ニカっと笑い、深く息を吸う。
「よし、腹決まった。影山くん、マイネさん、安心して。」
「その“紅龍”とかいうクソ野郎は──俺が、ぶちのめすから」
◇◆◇
影山くんが、驚きと焦りをないまぜにした表情でペンを握り直す。紙の上を、細かく震える筆先が走った。
《で、でも……紅龍の強さは本物です。アルドさんが強いのは分かってますけど…!》
書き終えると同時に、こちらを見上げる。その目には、警告と心配の色が濃く滲んでいた。
俺は肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
「ああ、地下道での魔導機兵戦も、さっきの佐川くんと鬼塚くんの件も見てたんだよね」
口調は軽いが、視線は真っ直ぐだ。
「安心して。こんなこと言うとイキってるみたいで嫌なんだけど……」
「──あれ、全然本気出してないから」
その言葉に、影山くんの瞳が見開かれる。ペン先が紙から離れ、力なく宙を彷徨った。
その横で、マイネが組んでいた腕をほどき、椅子から少し身を乗り出す。
「道三郎よ。紅龍の力は本物じゃぞ」
低く落ちる声に、場の空気がわずかに重くなる。
「それが分身体を作り襲いかかってくるとなると……そうじゃな……」
赤い瞳が鋭く細められた。
「そこなヴァレン・グランツが三人に増えて襲いかかってくるも同然ぞ。お主、勝算はあるのかえ?」
俺は視線をヴァレンに向ける。
長身の魔王は薄ら笑いを浮かべ、顎をわずかにしゃくってうんうんと頷いてみせた。
"遠慮はいらねぇ、正直に言え"
──そんな無言のジェスチャー。
「ヴァレンが三人か……」
「まあ、ギリいけるんじゃない?」
口角を上げてそう答えると、ヴァレンは喉の奥で笑った。
「ククク……言ってくれるぜ」
「いや、兄さんなら楽勝っしょ。ヴァレンの三匹や四匹くらい」
リュナちゃんが当然のように割り込み、場の緊張を軽く吹き飛ばす。
「おい!?」とヴァレンがすかさずツッコみ、数秒だけ笑いが広がった。
だが、マイネさんはにやりと唇を吊り上げ、俺の方へ身体を寄せてくる。
「豪気なことじゃ。やはり、妾の元に欲しいぞ、道三郎」
間近で感じる香と熱。距離が近すぎて、思わず背筋がこわばる。
すると、隣からぐいっと手首を引かれた。
「ダメっ! いくらマイネさんでも、アルドくんはあげられないからねっ!」
ブリジットちゃんの顔は真剣そのもの。
……これ、絶対ヤキモチじゃない!?
胸の奥で密かにガッツポーズ。
だが、マイネさんはふと視線を感じた様子で、ベルザリオンくんがじっと二人のやり取りを見つめていることに気づく。
「ち、違うぞベル!? 欲しいというのは人材としてであって、決して男としてという意味では……!」
慌てて両手を振るマイネさんに、ベルザリオンくんは目を輝かせて告げた。
「いえ……私も、スレヴェルドに道三郎殿が来てくださるというのなら、異存はありません!」
「えっ!?」と固まるマイネさん。
こっちは全然ヤキモチ妬いてなさそう!
その様子を、ヴァレンは腕を組んで満足げに頷きながら眺めている――完全にラブコメ観戦モードだ。
影山くんはその流れを呆然と見ていたが、俺は軽く笑みを浮かべ、彼の方へ向き直った。
拳を軽く握り、真っ直ぐ言い放つ。
「大丈夫! 俺、絶対負けないから!」
「食べられちゃったお友達の魂ってヤツも、吐き出させてみせるよ。腹パンで!」
その言葉に、影山くんの目がじわりと潤む。ペンを置き、ゆっくりと深く頭を下げた。
その背中から、言葉以上の感謝と決意が、確かに伝わってきた。
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魔都スレヴェルドの中心。
その心臓部に突き立つかのように、黒曜石と黄金を編み上げた螺旋の塔がそびえていた。
アグリッパ・スパイラル。
幾重にも巻き上がる外壁は龍の鱗を思わせ、夜の帳に包まれた今も、魔力の灯が無数の星のように瞬いている。
重厚な扉が音もなく開くと、外気を押しのけるようにして、将軍"紅龍"がゆっくりと中へ踏み入った。
硬質な靴音が、白大理石の床に鋭く響く。
その背後には濃い緋色のマントが揺れ、彼の歩みに合わせてまるで生き物のようにうねった。
エントランスの中央で待っていたのは、銀糸のような髪を波打たせる一人の女。
白磁の肌、氷を思わせる紫紺の瞳──魔導帝国の上級魔導官、フラム・クレイドル。
背後に立つ数体の魔導機兵が、無言の威圧を空間に満たしていた。
「……オルディノスの五人、“喰って”しまわれたそうですね」
フラムの声は冷ややかだったが、その奥には抑えきれぬ苛立ちが潜む。
「本国からの指示があるまで待てと、あれほど申し上げたのに……」
紅龍は口角をゆっくりと吊り上げ、低く笑う。
「……飢えた獣が、馳走を前に座して待つと思うか?」
その言葉は、飢餓を愉しむ獰猛な捕食者のものだった。
フラムは一つ、深い吐息を漏らす。
だが紅龍はすぐに笑みを引き、表情を鋭く引き締めた。
「“門の確保”組も、“討伐組”も、共に失敗したそうだのう」
「ええ……」
フラムの声は苦味を含む。
「先程、帰還石による帰還が確認されました。召喚者達は皆、今はリビング・フロアで待機しています」
紅龍は顎に指を添え、ゆっくりと考え込む仕草を見せた。
「……童達の中には“神器”に至る者もおったというに。取り逃がした魔王の側近の男が相当の使い手だったか…… フォルティアの魔竜の力が想定以上だったか…… はたまた──」
「……大丈夫なのでしょうか?」
フラムの眉がわずかに寄る。
「召喚者達、特に佐川・鬼塚の二名は相当な強さまで育っていました。また、一条率いるチームの連携もかなりの練度に達していたはず。」
「……その両チームとも任務に失敗したとなると、何か想定外の要素があったのかも……」
その瞬間、背後の魔導機兵の一体が機械音声で告げた。
『報告。“強欲の魔王”マイネ・アグリッパの協力者の一人に、別の大罪魔王――“色欲の魔王”ヴァレン・グランツの姿が確認されたとの情報があります』
「何ですって!?」
フラムの声が鋭く跳ねる。
だが紅龍の反応は別種のものだった。
目をギンと見開き、唇に獰猛な笑みを刻む。
「ヴァレン・グランツ……! あやつが関与しておったか……!」
「──好都合よ。」
低く響くその声には、狩人の歓喜が混じっていた。
「何時ぞやは決着が有耶無耶のままに終わってしもうたが……今度こそ、儂が喰ろうてやるわ……!」
そして心の奥底で、彼は別の算段を巡らせる。
(……奴を相手にするとなれば、念には念を入れておくとするか)
(幸い、果実も実りつつある様だからのう)
(そろそろ、ハサミを入れる頃合いだろうて)
緋色の瞳に、ぞっとするほど冷たい光が灯った。