第129話 絶対不可視と紅き龍の影
カレー皿が──動いていた。
……持ち主の姿も、スプーンを握る手もないのに。
スプーンは勝手にすくい、勝手に口元(のはずの空間)へ運ばれ、カレーがみるみる減っていく。
俺には、そのスプーンを操っている張本人……影山くんが薄ら見えている。
でも他のみんなには、ただ皿が意思を持って食事しているようにしか見えていない。
ブリジットちゃんが、ぽつりと呟いた。
「……本当に、ここに、人がいるんだね」
その表情は、信じたい気持ちと信じきれない気持ちがせめぎ合っているみたいで……少し切なげだ。
ヴァレンは腕を組み、眉間に皺を寄せたまま低く唸る。
「……信じられん。俺の"魂視"でも視認できないステルスなんて……恐らく前代未聞だぞ」
大罪魔王でも見えないとか、影山くん、まさにチートだね。
……コントロール不能っていう致命的欠陥つきだけど。
リュナちゃんは、のほほんとした声で言った。
「さっきまでは、その透明人間クンがやってたイタズラの痕跡すら、あーしら認識できてなかったんすね〜」
──が、次の瞬間、はっと目を見開き、自分の胸元を押さえる。
「……まさか、あーしらに気付かれないのをいいことに……」
視線の先は、動くカレー皿。
いやいや、影山くん、そんなことしてないから!
ブリジットちゃんは「?」と首をかしげるだけだったが、マイネさんは一瞬で顔を真っ赤にし、同じく胸元を押さえた。
「なんじゃと!? き、貴様……!?」
さらにベルザリオンくんが無言で腰の剣に手をかけ──完全に臨戦態勢。
やめろ死ぬぞ影山くんが!
影山くんはカレー皿を置き、俺にしか聞こえない声で慌てて叫ぶ。
《ちょ、ちょっと……誤解!! 何もしてないです俺!!》
俺は両手を前に出し、みんなを制止。
「いや、この透明人間くん……影山くんは紳士だ! 女性陣には指一本触れてない! 俺が保証する!」
女性陣は渋々腰を下ろす。
やれやれ……と思ったら──
「え、俺の顔にカレーつけたのはなんでなの……?」
ヴァレンが素朴な疑問を口にする。
ま、気になるよね。それは。
「見てたけど、それは偶然っぽいから許してあげて」
「偶然であんなベッチョリいくか?」
ヴァレンは首をかしげる。
そこへベルザリオンくんが遠慮がちに手を上げた。
「あの……私のシャツの胸元が開いていたのは……?」
「あ、それはワザとだと思う」
即答したら影山くんが《アルドさん!?》と真っ青に。
マイネさんは腕を組み──
「なるほど! それはお主の仕業じゃったか! ……よし! 許す! というか、よくやった!!」
……褒めた。しかも満面の笑みで。
「お嬢様!?」
ベルザリオンくんの悲鳴は、やっぱり誰にも届かない。
◇◆◇
ヴァレンが腕を組み、ゆっくりと顎を引いた。
その目は、見えないはずの影山くんの方に向けられている。
声は低く、けれどそこには滅多に見せない色が混じっていた。
「……とにかくだ。
その"絶対不可視"とかいう、コントロール不能のスキルのせいで……
キミは今まで、誰にも気付かれずに、ずっとひとりで過ごしてきた、って訳だ」
「……で、相棒のカレーを食べたら、何故か部分的にコントロールが可能になった、と。」
普段なら皮肉や軽口で終わらせそうな男の、珍しい同情の響き。
その声を聞いた影山くんは、ほんの一瞬まばたきしてから、俺の方へ視線を向ける。
俺は無言で紙とペンを差し出した。
彼はそれを両手で受け取り、テーブルの上でそっと整えると、ゆっくりとペン先を走らせる。
《そうです。》
《この世界に召喚されてから、俺の存在に気づいてくれたのは、アルドさんが初めてです。》
滑らかな筆跡が紙面を埋めていくのを、ブリジットちゃんが隣から覗き込み……小さく息をのんだ。
「……そうだったんだ」
震える吐息のような声。
「スキルのせいで、誰にも気付かれずに……一ヶ月以上もひとりぼっちだったなんて……辛かったよね」
その声音は、指先で触れたら砕けてしまいそうなほど柔らかい。
影山くんは、その優しさに突き動かされたように顔を上げ、目を瞬かせ──そして、不意に涙がこぼれ落ちた。
透明な雫が、まだ書き終えていない紙に落ち、小さな円を描いてじわりと広がっていく。
俺はその様子を見て、胸の奥がきゅっと締め付けられる感覚を覚えた。
静かに息を吸い込み、俺は皆の方へ向き直る。
「……うん。さっき話した通り、影山くん達は、にほ……」
思わず舌を噛んで言葉を飲み込み、少し間を置いてから言い直す。
「……別の世界の学生さん達で、ある日突然、この世界に召喚されちゃったんだって」
マイネさんが、腕を組んだまま顎を引き、ふむ、と重く頷いた。
「異世界からの召喚者は、世界の壁を越える際に、超常的なスキルを得る例も珍しくないからのう」
「妾のスレヴェルドを落としたのも……其奴らが召喚された際に得たスキルの恩恵によるものが大きいじゃろうな」
その言葉が落ちた瞬間、影山くんの肩がびくりと震えた。
……そりゃそうだ。自分のクラスメイトが、彼女の街を奪った主戦力だったんだから。
「ま、マイネさん……ヴァレンも言ってた通り、彼らは、何か洗脳的なものを受けてたみたいで……」
俺は、できる限り穏やかで真剣な声を選び、言葉を挟む。
マイネさんは、しばし黙り……はーっと長く息を吐いた。
「……分かっておるわ。そやつらも、ベルゼリアの被害者だ、と言いたいのじゃろ?」
「妾も世話になっておる身じゃ。道三郎とブリジットの顔に免じて、矛先はベルゼリアにのみ向けると約束しよう」
「! 影山くん、良かったねぇ!」
振り返ると、影山くんは驚いたように目を丸くし、慌てて紙に走り書きする。
《は、はい!アルドさん、ありがとうございます!》
──その文字の端が、ほんのわずかに震えて見えた。
後ろの方でリュナちゃんが
「あーしは?あーしの顔には免じないの?」
とマイネさんに尋ね、
「お主は家で食って寝てしてるだけのクソじゃろ」「ああん!?んだと地雷バカ女!?」「おおん…!?」
とメンチを切りあっているのは、全力でスルーした。
一通りの事情を共有し終え、場の空気がわずかに沈黙を帯びたその時、ヴァレンが腕をほどき、低く口を開いた。
「……さて。影山くんの話も聞いた上で、俺たちがどう動くか、だが……」
その言葉が落ちた瞬間、影山くんはためらうことなくペンを取り、紙面に視線を落とす。
ペン先が小さく走り出し、白い紙の上に黒い文字が次々と刻まれていった。
《俺は、皆と一緒に元の世界に帰りたいんです。》
《地下道の時も、さっきの広場でも、アルドさんは物凄く強いのに、襲いかかってくる一条たちや鬼塚たちをなるべく傷付けない様に気遣ってくれてた……》
《だから、勇気を出して、この人にお願いしてみようって思ったんです。》
筆圧はしっかりとしているのに、どこかに震えが混じっている。
その一文字一文字に、ずっと溜め込んできた想いが滲んでいた。
(……広場での事も、見てたのか……)
読み終えた紙をそっと置きながら、胸の奥に静かに響く感情があった。
自然と視線がブリジットちゃんへ向かう。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、まっすぐに俺の目を見返し──こくりと、小さくも確かな頷きをくれた。
──その頷きが、不思議と重くも温かく、俺の背中をしっかりと押す。
「……任せて、影山くん」
言葉が自然に口からこぼれる。
「キミも、キミのクラスメイトの皆も、俺たち"フォルティア開拓団"が、どうにかしてあげるから」
ニッと笑いかけると、影山くんはぐっと唇を噛み、視線を伏せた。
その目尻には、光を受けて揺れる雫が溜まり──次の瞬間、彼は深く、深く頭を下げた。
背中越しに、その震えがわずかに伝わってくるほどの、切実な礼だった。
◇◆◇
重たくなりかけた空気を、ころんと転がすような声が切り裂いた。
ソファの下から、ミニチュアダックスの姿をしたフレキくんが、ちょこんと前足を揃えて顔を上げる。
小さな瞳は、妙に真剣だった。
「でも、影山さんのお友達って、ベルゼリアに“戦力”として召喚されたんですよね?」
小首をかしげ、耳がひょいと揺れる。
「なら、そんなに焦る必要は無いんじゃないですか?」
「フレキっち、それどゆことっすか?」
リュナちゃんがソファの背にもたれたまま、片眉を上げて半目で問い返す。
フレキくんは尻尾を軽く振り、言葉を継いだ。
「だって、話を聞く限り、ベルゼリアの狙いはマイネさんとリュナさんでしょ? それなら、ここで待ち構えて、また彼らが攻めてきたら捕まえちゃえばいいのでは?」
「アルドさん、ヴァレンさん、リュナさんが揃ってれば、出来ないことなんて無いと思うんですけど」
「……それはどうだろうね」
ヴァレンがテーブルに片肘をつき、低く唸るように反論した。
「俺が見た限り、戦闘中に何人かは“洗脳の種”を失っていた。つまり──透明人間クンのお友達には、“洗脳が解けた人間”と“まだ洗脳中の人間”が混在している」
「洗脳が解けた面々がどう動くか、予想がつかないのが、ちと厄介だな」
その声の硬さに、俺も心の中で小さく頷く。
確かに、洗脳された子達と正気に戻った子達が混在してるとなると、それが一番面倒くさい気はする。
「ちといいっすか?」
リュナが手を挙げる。声は軽いが、その視線は鋭い。
「さっきあーしと戦った、赤髪のガキんちょ。アイツ、洗脳受けてなかったっすよね?」
「アイツ、あーしとそれなりにやり合えるくらいには、なかなかやるやつだったし、アイツさえいりゃ、お仲間達と脱出するくらいは出来んじゃないっすか?」
影山くんは、少しも迷わずペンを握った。
白い紙の上に、走るような筆跡が浮かんでいく。
《鬼塚ですね。確かに、アイツと俺だけは、この世界に来て“洗脳”の影響を受けずに済みました。》
《鬼塚は、周りの皆の思考がコントロールされている中、皆を守る様に必死に上手く立ち回ってくれてました。》
《でも、ダメなんです。ベルゼリアには“紅龍”っていう、とんでもなく強い将軍がいて……SS級の3人でも歯が立たないくらいの強さで……》
「やはり、“紅龍”か……!」
ヴァレンの目がわずかに細まり、その奥に苦い色が差す。
「知ってるの?」
俺が尋ねると、ヴァレンは短く「ああ……昔、ちょっとな」とだけ答えた。
マイネさんも「紅龍……」と低く呟き、その表情は剣呑さを帯びる。
「そ、そんなに強いの……? その、紅龍って人……!」
ブリジットちゃんの声が、驚きと不安でわずかに震える。
「ああ。単純な戦力だけなら、俺ら──大罪魔王と互角か、それ以上だ」
ヴァレンの声は、鉛のように重い。
「“ベルゼリアの紅き応龍”。世界最強の一角と呼ばれている男だ。ヤツがいる以上、透明人間クンのお友達は首根っこを押さえられたも同然。逆らうのは難しいだろうね」
ブリジットちゃんとフレキは、同時に小さく喉を鳴らした。
リュナちゃんは何も言わず、爪を磨く指先だけを止め、細めた瞳で遠くを見る。
そして──影山くんが、また筆を走らせた。
インクの匂いがわずかに漂い、紙に刻まれた文字が、皆の心を刺す。
《違うんです。紅龍の恐ろしさは、強さだけじゃ無い》
《俺、見ちゃったんです。ベルゼリアの……紅龍の“本当の目的”は、召喚した俺たちを戦いのコマとして使う事なんかじゃ無かった……!》
《だからこそ、一刻の猶予も無いんです……!》
その最後の一文が置かれた瞬間、部屋の空気が変わった。
誰も口を開かない。
ただ、重く張りつめた緊張だけが、リビングの隅々にまで沁み渡っていった。