第128話 タンスの中の竜と、泣き虫幽霊
──目が合った。
窓ガラスの向こう側、ぺたりと張りついた半透明の男子高校生。
その顔は、濡れた犬みたいに髪を額に貼りつけ、目だけがぎょろりとこちらを見開いていた。
「──っっっ!!?」
腰が抜けるって、こういうことか。
俺は情けない音を立てて椅子から滑り落ち、尻餅をついたまま後ずさる。
背中が壁に当たった瞬間、全身がカタカタと震えて止まらなくなった。
呼吸もやけに浅い。喉の奥から出てくるのは、掠れた声だけだ。
「アルドくん!? どうしたの、大丈夫!?」
ブリジットちゃんが椅子を蹴るように立ち上がり、俺の方へ駆け寄ってきた。
両手で俺の肩を支え、その瞳には本気の心配が浮かんでいる。
「ま……窓……窓に、ゆ、幽霊が……!」
震える指で窓を差す。全員がつられるように視線をそちらへ向ける。
──が。
「……何もいないじゃないか。ビックリさせるぜ、相棒」
ヴァレンは片眉を上げ、口元を緩めて笑った。
……は?
「い、いるじゃん!! ホラ!! そこに!!」
思わず声が裏返る。
「えっ!? マジでヴァレンにも見えてないの!? "魂視"スキルあるのに!?」
幽霊なんて、剥き出しの魂そのものみたいなもんなんじゃないの!?知らないけど!!
彼は笑いを引っ込め、逆に心配そうな顔を向けてくる。
「相棒……お前、疲れてるんじゃないか?」
隣でブリジットちゃんまでが眉を下げ、柔らかな声を出した。
「本当、大丈夫? 無理しないで、今日はもう寝てもいいんだよ?」
いやいやいや、そういう方向じゃ解決しないのよ! 寝たら寝たで枕元に立たれるやつでしょこれ!
「……あ、わかった!」
空気を読まない明るめな声が響く。
リュナちゃんだ。
「あれっしょ!? 大声でビビらすタイプの怖い話的なやつ!」
カリカリと菓子をかじりながら、呑気に言ってのけた。違うよ!?何も分かってなかった!!
マイネさんもベルザリオンくんもフレキくんも、ただ首をかしげて窓を見るだけ。
俺は血の気が引くのをはっきり感じた。
(マジか……!? 本気で俺しか見えてないの……!?)
窓の向こうの“それ”が、スッと姿勢を変えた。
張り付いていた顔が離れ、音もなく視界から消える。……玄関の方へ、動いた。
(ああああああっ!?)
俺は咄嗟に立ち上がり、皆に向き直った。
「みんな!! ゆ、幽霊が家に入って来ようとしてるかもしれない!! 一旦!! 一旦、隠れよう!! ね!? ね!?」
全員、同じ表情だった。
……「何言ってんだコイツ」ってやつ。
(だ、ダメだ……! 多分、幽霊の狙いは、自分の姿が見えてる俺のはず!)
(皆には申し訳ないけど……ちょっと一旦俺だけ隠れます!!)
心の中で必死に言い訳しながら、バタバタとリビングの隅へ駆ける。
勢いよくタンスの扉を開け、靴も脱がずに中へ飛び込み、ぴしゃりと扉を閉めた。
胸の鼓動がやたらとうるさい。薄い隙間から、リビングを覗く。
──その俺を、残された全員が呆気にとられた顔で見ていた。
数秒後、ヒソヒソ声が聞こえ始める。
「……あ、アルドくん、ホントに大丈夫かな……? 何か、本気で怯えてたみたいだったけど……」
ブリジットちゃんの声は心底心配そうだ。
相変わらずの天使っぷり!幽霊も浄化しちゃって欲しい!
「お主らがコキ使い過ぎたせいで、頭がおかしくなってしもうたのではないのか?」
マイネさんは口元に手を添えて、半ば本気っぽく言う。俺、あたおか疑惑をかけられてる。
「いや〜、兄さん、ちょいちょいイミフなムーブする時もあるし、まあ大丈夫っしょ」
リュナちゃんはまるで他人事。
全然心配してないな!
信頼の裏返しと言えば、そうなんだろうけども!
「しかし……あの無敵に思えた道三郎殿にも、お化けを怖がる様な可愛らしい一面もあるのですね……流石は道三郎殿!」
ベルザリオンくんは何やら感動している。
何でもかんでも肯定的に捉えすぎじゃない!?
(……いやいやいや!! 違うから!! これマジだから!!)
タンスの中で、俺は声にならないツッコミを繰り返すしかなかった。
◇◆◇
──ギィィィィ……。
聞き慣れたカクカクハウスの玄関の音が、妙に長く軋んだ。
俺の背筋が、タンスの中でゾワッと波打つ。
(……今、開いたよな!? 絶対、今、玄関開いたよな!?)
息を潜めたまま、視線だけでリビングの様子を確認する。
しかし、ヴァレンもブリジットちゃんも、リュナちゃんもフレキくんも、マイネさんもベルザリオンくんも──全員、玄関の音には完全に無反応。
(ええええええ!? 今、ドアの音鳴ったじゃん!!? なんで誰も気づかないの!!?)
次の瞬間、視界の隙間に“それ”が入ってきた。
半透明の男子高校生。やっぱり窓のやつだ。
靴も履いたまま、きょろきょろと首を振って周囲を伺いながら、ずかずかとリビングに入ってくる。
(やっぱり!! 俺を探してるぅぅ!!)
喉がカラカラに乾く音が、自分でも聞こえる。
タンスの扉の隙間から、その一挙手一投足をガン見しながら、膝を抱えて震えた。
男子はゆっくりとテーブルへ近づく。
その視線の先には──ヴァレンとブリジットちゃんの間に置かれた皿。
黄金色のキャラメルが輝くフロランタンだ。
奴は皿の前で立ち止まり、しばらくジッとそれを見つめ……ごくりと喉を鳴らした。
そしてヒョイと手を伸ばし、一枚つまみ上げると──パクッ。
(ゆ、幽霊が……お菓子を盗み食いしてるぅぅ!?)
(しかも、誰も気付いてねぇ!!?)
ブリジットちゃんもヴァレンも、目の前でお菓子を失敬されてるのに、全くのノーリアクション。普通に会話を続けている。
……これは、マジで怖い。
……というか、意味が分からない。
……なにこの現象!?
だがその幽霊、食べ終わるや否やヴァレンの後頭部に手を伸ばし、掛けていたサングラスをカクカクと上下させ始めた。
本人はお構いなしに話を続けているが、そのシュールさに俺は思わず鼻を押さえる。
続けてフレキくん(ミニチュアダックスモード)の頭を、わしゃわしゃと撫でる。
フレキくんは目を細め、気持ちよさそうに尻尾を振っているが──絶対、誰が撫でてるか分かってない。
さらにベルザリオンくんに近づくと、その執事服のシャツの胸元のボタンを一つ、二つと外し……やたらセクシーな開き具合に整えてから、満足そうにうなずく。
そして「はぁ〜……」と溜め息をついて、肩を落とした。
落ち込んでる……? 気づいてもらえなくて……?
……いやいや、同情するな俺。
だが、半透明男子の視線がブリジットちゃん、リュナちゃん、マイネさんの方へ移った瞬間──俺の全神経が総立ちになる。
美少女三人組をじっと見つめたかと思うと……ゴクリ、と唾を飲み込んだような仕草。
(まさか……来るか!? 女性陣に手を出す気か……!?それは流石に……!!)
恐怖をねじ伏せ、今すぐ飛び出す準備をする。
が──
幽霊は、突如グーで自分の頬をボゴォ!!と殴った。
そのまま頭をブンブンと振り、まるで「女性にイタズラするなんて、ダメだ!」と自分に言い聞かせているかのようだ。
(……あの幽霊、自制心強いな……)
素直に、ちょっと感心してしまった。
◇◆◇
(……いや、待てよ。これ、本当に幽霊か……?)
タンスの中で膝を抱えたまま、俺は眉をひそめる。
いくら異世界だからって、幽霊が物理的にモノ触ったり、人間にイタズラ出来て、しかも全員が気づかないなんて……そんな都合のいいホラー、あり得るのか?
と、その半透明男子がぴたりと動きを止め、鼻をひくひくさせた。
次の瞬間、パタパタと音もなく(俺には聞こえるけど)キッチンの方へ走っていく。
(……匂いの元を嗅ぎつけた?)
恐る恐る隙間から覗くと──鍋の中のカレーを見つけた瞬間、奴の顔がパァァっと輝いた。
そして迷いなくご飯をよそい、カレーをたっぷりかけて、両手で抱えるように持ち上げるとリビングへ戻ってくる。
ヴァレンの隣の空席に腰を下ろし、小さな声で呟いた。
《……ごめんなさい。勝手にですけど、いただきます……!》
ぺこりと頭を下げ、両手を合わせてからスプーンを動かし始める。
一口食べた途端──ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
肩を震わせ、夢中で頬張るその表情は……幽霊っていうより、ただの腹ペコ男子高校生だ。
……が、その勢いでルーが跳ね、ヴァレンの頬にベチャッと派手にルーがついた。
《あっ……す、すいません!》
小声で謝ってるけど、当のヴァレンは顔面カレーまみれのまま、ブリジットちゃんとマイネさんに話しかけている。全く気づいてない。
いや、そんな事ある!?
我慢できず、俺はバターンッ!!とタンスの扉を開けた。
「いや、流石にそれに気付かないのはおかしいだろ!!?」
「「!?」」
ヴァレンもブリジットちゃんもマイネさんも、何のことか分からない顔で俺を見て固まる。
完全に頭がおかしくなったと思われた気もするけど、今はそれどころじゃない。
そのとき──半透明男子が椅子をがたんと引き、驚いたように立ち上がった。
ゆらり、とこちらに歩み寄ってくる。
(し、しまった〜〜っ!? やっべぇ、目ぇ合わせちまった!!)
……でも、違った。
彼の瞳が俺の視線を捉えた瞬間、そこから涙が溢れ出したのだ。
《やっぱり……俺のこと……見えてるんですね……》
《よ……よかった……ホントに……お、俺、このまま……この世界で、ずっと1人なんじゃないかって……不安で……》
膝から力が抜けるように、彼は床に崩れ落ちた。
俺は反射的に駆け寄って、肩を支える。
「ちょ、ちょっと幽霊くん!? 大丈夫!?」
すると、その身体の輪郭から、淡い銀色の光がじわじわと漏れ始めた。
(……この光……ベルザリオンくんが、カレー食べて若返った時と同じ……?)
その時、背後からリュナちゃんの声。
「ん……? ヒカル先生、顔面えらい事になってるっすよ?」
「え? 本当!? ヴァレンさん、お顔どうしたの!」
とブリジットちゃん。
「おわっ!? な、何だこりゃあ!?」
ヴァレンが自分の顔とサングラスがカレーまみれになっていることに気づき、慌てて布巾で拭く。
さらにマイネさんの声が跳ねる。
「べ、ベル!? な、何じゃ、その破廉恥な装いは!? ま、まさか妾を誘惑しようという目論見か!?」
「はぁぁっ!? い、いつの間に!? し、失礼しました!!」
ベルザリオンくんは真っ赤になって胸元を押さえた。
(……幽霊くんのイタズラ、ついに皆が気付き始めた!? でも、まだ幽霊くん自身は俺以外には見えてないっぽい……)
涙をこぼしながら、半透明男子が俺に縋りつく。
《……お願いです。どうか……どうか、僕のクラスメイト達を……》
《僕の友達を、助けてください……!》
その声の震えに、俺は真剣な顔になる。
「……詳しく聞かせて、幽霊くん」
そっと半透明な肩を抱き寄せ、その涙を受け止めた。