第13話 約束の始まり
静かだった。
風の音すら、どこか遠慮がちに吹き抜けていく。
草の海がさらさらと揺れて、三人の間に小さな沈黙を残していた。
淡い夕日が傾きかけた空を茜に染め、少し冷たい風が頬を撫でていく。
フォルティア荒野。
この広大な未開の地の真ん中で、俺たちはぽつんと立っていた。
ブリジットが、一歩前に出た。
「……アルドくん。リュナちゃん」
静かな声。けれど、その瞳は強く、まっすぐだった。
「あたし、この場所に……皆が安心して笑って暮らせる場所を作りたいの。人も、魔物も、誰でも関係なく……一緒にいられる、そんな領地を」
俺とリュナは自然と彼女に視線を向けた。
ブリジットは少しだけ胸元に手を添え、続ける。
「まだ何もないし、今はただの夢かもしれない。だけど……誰かが始めなきゃ、ずっと夢のままだと思うから」
その顔は、少し震えていた。
けれど、それでも決して俯かない。
「だから……お願い。あたしと一緒に、この場所を変えていくのを、手伝ってくれないかな……?」
その言葉が落ちた瞬間、俺の胸にひとつ、石が落ちた気がした。
重い問いだった。
いや、願い、か。
ブリジットちゃんが俺たちを頼ってくれたのは嬉しい。
それに……真祖竜の加護を与えたのは、紛れもなく俺だ。ある意味、人生を大きく変えてしまった責任もある。
(そりゃ、手を貸してやりたいよ。だけど……)
心の奥で、もう一つの声が囁く。
せっかく世界を巡る旅を始めたばかり。
未知の国々を巡って、色んな人や景色に出会って。
そういう“冒険”を、俺は夢見てたはずなんだ。
……ここに留まるって、そういう自由を手放すってことだ。
正直、悩んだ。
言葉に詰まったまま、ふと視線をずらすと——
リュナが、ちらりと俺を見て、にやっと口元を緩めた。
「兄さん、もしかして悩んでるっすか?」
「……あー……まあ、ちょっとね」
「わかるっす、旅の途中でいきなり“定住して手伝って”ってのは、なかなかすごいオファーっすよね。」
言いながら、リュナは足元の草をぽんと踏みつけ、ぱたりとしゃがみこんだ。
そして、空を見上げて、俺にだけ聞こえる声で、ぽつりと言った。
「でも兄さん、あーしら竜にとって“時間”ってのは、無限にあるもんなんすよ」
俺は、自然と彼女の顔を見る。
「無限……?」
「そっす。百年や二百年くらい、あっという間に過ぎるっすから。だから大事なのは、“時間”じゃないっすよ」
リュナは、褐色の指で自分の胸をぽんと叩いて、目を細めた。
「無駄にしちゃいけないのは、"時間"じゃなくて——"機会”っすよ。」
風が吹いた。
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
機会。
たしかに、旅はいつでもできる。
でも——この“誰かの人生を変える機会”は、今この瞬間しかない。
俺の中の何かが、すっと整理されていくのを感じた。
「……そうだね。ありがと、リュナちゃん」
リュナは目を細めて、にっこりと笑った。
「どういたしましてっす、兄さん」
再び、ブリジットのもとへと足を運んだ。
彼女は、まだ同じ場所に立っていた。
俺たちの返事を、じっと待ち続けてくれていた。
その健気さに、少しだけ胸が痛む。
「……ブリジットちゃん」
呼びかけると、彼女が振り向く。
俺は、一歩前に出た。
そして——迷いなく、手を差し出した。
「分かった。俺で良ければ、手伝うよ」
その瞬間。
彼女の目に、涙が滲んだ。
「……ほんとに……?」
「本気だよ。君の夢を、一緒に叶えたいって思ったから」
小さな手が、震えながら俺の手を取った。
そのぬくもりが、俺の掌に、まっすぐに届く。
「……ありがとう、アルドくん……!」
はにかんだように笑って、ぽろりと涙をこぼすブリジットに、
俺は静かに頷いた。
「さ〜て。じゃ、あーしは兄さんの決定に従うっす!」
リュナが元気よく手を挙げて、言葉を繋いだ。
「……ただ、ひとつだけお願いあるっす」
「ん?」
「できれば、あーしのくつろぎ空間は作ってほしいっす。こう……マイ・洞窟みたいな?」
「今から共に開拓するのに、洞窟暮らし前提なの!?」
突っ込まずにはいられなかった。
もっと快適な空間作ってあげるからね!ギャルに洞窟は似合わないよ!
だけどそのやりとりのあと、ブリジットちゃんの笑い声がふわっと漏れて、
空気は少しだけ、あたたかくなった気がした。
——こうして、俺たちの新しい旅が始まった。
このフォルティア荒野という、何もない世界の隅っこで。
けれどその先に、きっと誰かが羨むような“何か”がある気がして。
俺はそっと空を仰いだ。
茜色の雲の向こうに、新しい未来が、確かに見えた気がした。
◇◆◇
陽が沈みきり、あたりに夜の帳が下りる頃。
俺たちは、ブリジットが使っていた仮設のテントに戻っていた。
内部は思ったより整っていた。
旅人用の頑丈なキャンバス生地に、毛布と道具が無駄なく収められている。
簡素なランタンが、薄ぼんやりとした光を照らしていた。
俺とリュナは簡易チェアに腰を下ろし、
ブリジットちゃんが淹れてくれた熱いハーブティーを、ゆっくりと口に含んだ。
香ばしくて、少しだけ甘い香りが鼻に抜ける。
しばしの沈黙のあと、ブリジットが口を開いた。
「……あのね、ふたりにちゃんと話しておきたいことがあるの」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
「……あたし、エルディナ王国って国の貴族の家に生まれたんだ」
俺はハーブティーの湯気越しに、彼女の横顔を見つめる。
ブリジットの表情は、どこか遠くを見つめているようだった。
「15歳になった年、女神様の祝福で“スキル”を授かったの。“毒無効”っていう、ただそれだけの……地味なスキル」
声の中に、少し笑いが混じっていた。
でもその笑いは、少しだけ痛かった。
「でも、うちの家は……貴族として、ずっと戦いや功績を重んじる家系だったから」
「“そんなスキルで、何ができる?”って……家族に言われた」
ぽつり、ぽつりと語られる言葉。
俺もリュナも、息をのむように聞いていた。
「……それでね。あたし、フォルティア荒野の開拓任務を任されたの」
「名誉ある任務」だって、家の人たちは言った。
でも、わかっていた。
それが“追い出すため”の建前だってことくらい——
ブリジットは小さく息を吐いて、それでも笑ってみせた。
「……でも、あたし、家族を恨んではいないんだ」
それは、少し驚きだった。
「だって、家族はあたしに“可能性”をくれたんだと思うから」
「ここで結果を出して、皆が羨むような領地にして……もう一度、ちゃんと胸を張って帰れるようになりたい。そう思ってるの」
まっすぐだった。
彼女の言葉には、偽りがひとつもなかった。
それが、どれだけ……すごいことか。
(……なんて、健気で、強い子なんだ)
“弱さを見せられる強さ”って、こういうことなんだろう。
誰かを責めるでもなく、自分の無力さに嘆くでもなく。
そのうえで、未来を見つめて、手を伸ばしている。
そんな彼女の姿は、"真祖竜"である俺なんかよりも、ずっと強く見えた。
俺は……ただ、静かに心の中で思った。
(この子のために、何ができる?)
ブリジットちゃんの手を取ったとき、たしかに決めたはずだった。
でも、今、改めて確信する。
(——やるなら、本気でやるか)
俺はこの荒野を変える。
ただの荒地を、人が、魔物が、誰もが安心して生きていける“楽園”にする。
そしてこの子の夢を、叶えるために。
(最終的には、国家間の流通が集中する、巨大な交易都市を築いてやるさ!ブリジットちゃんのためにな!)
俺の中に、ひとつのビジョンが灯った。
その火は、小さいけれど、誰にも消せない——
そんな強い炎だった。
それから少しして。
テントの外に出ると、夜風がひんやりと肌を撫でた。
空には、満天の星。
ブリジットが少し遅れて出てきて、リュナも後ろからひょこっと顔を覗かせる。
「ふふ、夜風が気持ちいいね」
そう言って微笑むブリジットちゃんの顔は、どこか晴れやかだった。
リュナは肩を回しながら、言った。
「兄さん、こうなったら、このフォルティア荒野を最強にイケてる街にしちゃいましょ。あ、あーしは風呂さえあれば文句ないっすよ?」
「キミの基準そこなのね……」
「くつろぎこそが竜の活力っす」
俺が額を押さえると、リュナがフフッと笑った。
その笑いにつられるように、ブリジットもくすくすと笑い出す。
……なんだかんだで、悪くない夜だった。
けれどそのとき。
ふと、風向きが変わった。
遠く、荒野の地平の向こう。
どこかで、焚き火の煙のような匂いが、風に乗って流れてきた。
俺は、少しだけ顔をしかめた。
「……ん?」
「どしたっすか、兄さん?」
「いや……なんでもない」
それは、まだ始まりに過ぎなかった。
新たな命が集まり始めるこの荒野に——
遠くから、静かに、鋭く、別の“視線”が向けられようとしていた。
その視線が何を意味するのかを、俺たちはまだ知らなかったけれど。
でも、ここから物語は大きく動き出す。
きっとそれだけは、どこかで分かっていた。