第126話 拳は届かず、想いも届かず──けれども優しさは
地面に大の字に倒れた佐川颯太を見下ろしながら、鬼塚玲司は声もなく息を呑んだ。
──見た。確かに見た。
“勇者”が、ただのくしゃみで吹き飛ばされた。
地面には無残な体勢で転がる佐川。
その顔には血の気が引き、意識は完全に途絶えていた。
(……颯太を、ただのくしゃみ一発で……!?)
鬼塚の喉がゴクリと鳴った。
その目の前では、銀髪の少年が「やっべー……」と額に手を当てながら、申し訳なさそうに佐川の方を見ていた。
──アルド。あまりに無自覚な存在。
だが、今の一撃だけで、彼が“規格外の存在"であると、鬼塚の全神経が理解していた。
だが。
「──颯太くんっ!!」
天野唯の悲鳴に近い叫び声が、その場を切り裂いた。
彼女は震える足で佐川へ駆け寄る。心配に押し潰されそうな顔で。
その姿に、鬼塚の胸がズキリと痛んだ。
(……そうだよな。天野にとって、佐川は──)
彼の奥歯が軋む音を立てる。
逃げたくなるほどの圧倒的な強さを前に、胸の奥が悲鳴を上げていた。
けれど、もう逃げることはできない。
(──もう、俺たちは……あいつらと敵対しちまった)
(だから……どんな化け物相手でも……)
拳を強く握る。爪が掌に食い込む。
(俺が……佐川や天野を……クラスのヤツらを、“元の世界”に──!!)
覚悟を決めた。
鬼塚は吠えるように咆哮を上げながら、全速力でアルドに向かって駆け出す。
「うおおおおおおッッ!!」
魔装で補強された脚が、石畳を裂くように走り抜ける。
紫の魔装がギィンと駆動音を響かせ、背中の装甲から放たれた推進力が加速をかけた。
拳を振りかぶる。魂を込めて、すべてをかけて──。
しかし──
「おっ?」
アルドの瞳がギン、と光った。
次の瞬間だった。
鬼塚の視界からアルドが“消えた”。
直後。彼の身体の真ん前に、唐突に“現れた”アルドの顔。
いや、違う──“現れた”のではない。“瞬間移動”したかのように、一瞬で眼前にいた。
「えっ、な……」
喉が凍りつく。
全身が、金縛りにあったように固まった。
「……あー、なるほど。地下で見た“魔導機兵”の仲間ね。ツノもあるし、たぶん……"隊長機"かな?」
アルドの声は至って真面目だった。むしろ少し興味深そうですらある。
「……リュナちゃんの命を狙ってる、って言ってたし。 とりあえず、これも──ぶっ壊しておくか」
拳が引かれる。
その構えに、何の無駄もない。
無意識に鬼塚は、今まで自分が喰らってきたすべての暴力──
幼い身で受けた父親の鉄拳、
異世界で受けた紅龍の技、
それらを超える“死”を直感した。
(ああ──)
スローモーションのように迫る拳。
身体が動かない。
喉が震える。
思考が止まり、ただ──死を受け入れる準備を、していた。
が。
「──兄さんっっ!!ちょい待ったあああーーっっ!!」
森の奥から、甲高い叫び声が聞こえた。
「人間!! そいつ中身、人間っす!!」
アルドの拳がピタリと止まった。
鬼塚の顔の、ほんの数ミリ手前で。
「えっ……?」
寸止めの拳が、そっと鬼塚の額をかすめるように“コツン”と当たった。
その瞬間──
バシュッ!!
鬼塚を包む紫の魔装が、光の粒子となって霧散した。
装甲の一つ一つが塵のように砕け、夜風に消えていく。
「──……!」
鬼塚はそのまま腰を抜かすようにペタンと尻餅をつき、地面に手をついてガタガタと肩を震わせた。
額から冷や汗が止まらない。
拳を当てられたわけでもないのに、心臓がバクバクと跳ね上がっていた。
ただ、恐怖があった。
言葉では説明できない、“本能”が告げる絶対の力への恐怖。
目の前で、拳を止めた銀髪の少年──アルドが、ふぅーっと胸に手を当ててため息をつく。
「……あっっっっっぶねぇぇぇぇぇぇ!!」
今にもズボンの裾をつかんでガクガクしそうなほどの勢いで、額に冷や汗。
「完全にロボだと思ってた!!だってツノあるし!?"隊長機"かと思うじゃん!?いやほんと、マジ焦ったぁぁあ!!」
鬼塚は、ただ呆然と、少年の顔を見つめていた。
◇◆◇
紫の魔装が霧のように消えたあと、鬼塚玲司はその場に尻餅をついたまま、身動きが取れなかった。
両手は地面を掴んだまま。肩が、微かに震えていた。
前に立つのは、銀髪の少年──アルド。
少年の拳が自分の顔面の寸前で止まっていたことを、鬼塚の脳はまだ処理しきれていなかった。
視線を上げる。
あの透き通る様な双眸と再び目が合うと、全身がビクリと跳ねた。
(……こいつは……)
手が、膝が、唇が、勝手に震える。
戦う覚悟はあった。
どんな相手であっても、仲間を守るためなら命を懸ける覚悟は──あったはずだった。
(……なのに、動けねぇ……!)
それほどまでに、目の前の少年が纏う“圧”は異質だった。
怒りでも、殺気でもない。どこか掴みどころのない、けれど底知れない“力”の塊。
身体がその存在に怯えていた。
──父に殴られた日の記憶が蘇る。
怒鳴り声。鉄拳。理解も反抗もできないまま、ただ殴られた。
異世界に来てすぐ、紅龍に一撃をもらい壁に叩きつけられた。
あの圧倒的な“格”の違い。
──そして今、自分はまた、“それ”を前にしている。
(……やっちまった……! 俺は……また……!)
歯がガチガチと音を立てた。
敵意を向けるべきではなかった格上の存在に、牙を剥いてしまった。
自分の覚悟など、鼻息ひとつで吹き飛ばされる。
これは勝負にならない。戦いですらない。
──これは、“裁き”だ。
恐怖が喉を掴み、全身の血を凍らせていく。
(……また、殴られる……)
(違う……こいつと俺の差は、そんな生易しいもんじゃねぇ……)
(──殺される……!)
アルドの手が、ゆっくりと伸びてきた。
鬼塚は反射的に肩をすくめ、目をぎゅっと閉じた。
身体がビクリと跳ねる。
だが──
「ご、ごめんね!? 大丈夫だった!?」
その声は、驚くほどに焦っていて──優しかった。
「俺、てっきり君のこと……魔導機兵とかいうロボットだと思っててさ……! ツノとか装甲とか、完全に“それ”っぽかったし!」
戸惑いと恐縮が入り混じった声音。
拳ではなく、そっと頬に触れる指先は、恐ろしいほど柔らかかった。
「け、怪我はない? 痛いとこある? ごめんね、ほんと……!」
鬼塚の肩や腕、頭をアルドの手がペタペタと触れる。
確認するように。壊れ物を扱うかのように。
「立てるかな? あっ、気持ち悪くなってたら言ってね? 急に来たから、ビックリしたよね……」
──わけが、わからなかった。
鬼塚は目をパチパチと瞬かせた。
さっきまで、自分を一瞬で爆散させようとしていた相手が、今は自分の心配をしている。
(なんだ……?)
頭が混乱する。
(コイツ……俺の、心配……してるのか……?)
信じられなかった。
あれほどの力を持つ存在が、自分のような取るに足らない不良の安否を案じている。
謝っている。
優しく触れてくれている。
「……なん、で……」
喉から、かすれるような声が漏れた。
(あんな鬼みてぇに強ぇヤツが……俺なんかに……)
(喧嘩売って、敵だった……俺の事を……)
(謝って……心配してくれてる……?)
アルドは申し訳無さそうに、にこっと笑って──
「ほんと、ごめんね。俺、気づくの遅くてさ」
と、また素直に頭を下げた。
「ほら、立てる? 手、貸すよ」
すっと、手を差し出してきた。
まるで敵だったことなど一度もなかったかのような、柔らかい笑顔。
鬼塚は──反射的に、その手をじっと見つめた。
指は細く、小さく、傷も無い。
けれどその手は、不思議なほど“温かそう”だった。
(なんだ……コイツ……)
心の奥の、氷のような恐怖が、わずかに解けていくのを感じた。
鬼塚はおずおずと、差し出されたその手に──そっと、自分の手を伸ばした。
◇◆◇
──その瞬間だった。
「皆さんっ!! その銀髪ショタくんと戦ってはダメです!! 負けイベです!!逃げます!!」
鋭い叫び声が空気を裂いた。
草むらの陰から飛び出してきたのは、地味目の美少女──与田メグミ。
制服姿のまま、転びそうになりながらも必死に走り出し、その手には一つの光る石を握っていた。
「これ使います!! 今すぐ!!」
――カチン!
石を叩きつけた瞬間、鈍い光が瞬いた。
空気が振動し、空間が歪む。
そして──
鬼塚、天野、佐川、流星、タケル、イガマサ、そして与田──
全員の身体が、淡く輝く転移の光に包まれた。
「──っ!?」
突如として消えゆく彼らの姿に、誰もが息を飲む。
「っ……逃げられちまったか」
ヴァレンが眉間に皺を寄せ、小さく舌打ちするように言った。
その瞳には警戒とわずかな悔しさが滲んでいる。
「まさか……あんな魔導具を、隠し持ってたとはな……」
“帰還石”──本来なら転移系の魔導具は希少性が高く、そうそう世に出回ってはいないはずの代物だ。
「……終わった……の、かな……?」
ブリジットが小さく呟きながら、膝をついた。
その場に、へたり込むように座り込む。
張り詰めていた緊張が一気に解け、彼女の呼吸は少し荒くなっていた。
ポルメレフも、しっぽをバフンと床に落としながら息をつく。
フレキはグェルのそばに寄りかかり、ぐったりとしたまま空を見上げていた。
騒がしかった広場に、急に静寂が戻る。
アルドは、しばらくぽかんとしたまま、鬼塚が立っていた地面をじっと見つめていた。
「……結局、何だったんだろうな、あの子たち」
ふと漏らしたその声は、誰に向けたわけでもない。
ただ、その場の空気に問いかけるように、独りごちた。
──その背後。
「兄さ〜〜ん!!」
手をぶんぶん振りながら、森の奥からリュナが駆けてきた。
黒マスクの下の顔には、いつもの無邪気な笑み。
息も切らさず、どこか楽しそうに。
「戻ったんすね〜! ……も〜〜、帰るの遅いっすよ〜?」
「リュナちゃん……!」
アルドはくるりと振り向き、思わず笑顔になる。
「止めてくれてありがとね! ほんっとに危なかったよ!!」
胸を押さえて、心底ほっとしたように息を吐く。
「……もうちょっとで、スプラッタな事態になるとこだった……!」
──あの時、リュナの声がなかったら。
自分は、鬼塚を“魔導機兵”だと思い込んだまま、殴っていた。
冗談抜きで、身体が丸ごと吹き飛んでいたかもしれない。
「でもさ、なんで……俺があの子を“ロボット”だと勘違いしてるって、分かったの?」
リュナはきょとんとした顔で首を傾げ、それからくすっと笑った。
「え、そんなの……当たり前っすよ?」
「兄さん、人間相手にあんな強めのパンチ、絶っ対しないっしょ?」
「だから、何か勘違いしてんだろーなーって思って。」
その言葉に、アルドは一瞬だけ目を見開いた。
「……あ」
思わず口から零れた声。
リュナの目は、真っ直ぐだった。
笑ってはいるけど、それは“信頼”からくる笑顔だった。
(リュナちゃんは……)
(俺が、“優しくある”ってこと……当然みたいに、信じてくれてるんだ……)
心の奥に、じんわりとした温かさが灯った。
どんな力があっても、間違って使えばただの暴力だ。
その境目を、信じてくれている存在がいる。
それが、嬉しかった。
「……そっか」
静かに、けれど確かに微笑んで、アルドは答えた。
──少しだけ、胸を張って。
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