第120話 決死、そして決着
「オラァァァッッ!!」
鬼塚が咆哮した。
それは全身の怒りと恐怖と焦燥をまとめて吐き出すような、魂の咆哮だった。
その声に呼応するように──
鬼塚の両拳と、宙に浮かぶ魔力製の二つの巨大アーマー拳が、一斉に疾駆する。
四本の拳が同時に放たれる様は、まるで機関銃のような連撃。
紫電を帯びた拳が空間を裂き、前方にいるリュナへと殺到していく。
「へぇ……いいパンチ、してるじゃないっすか──ッ!」
リュナは楽しげに笑いながら、黒銀の鱗に覆われた4本の竜腕を振るう。
全方位からの拳に対し、正面からぶつけるという選択。
回避も、受け流しも、後退も──しない。
リュナもまた、拳で応じる。
パァン! バキン! ゴッ、ゴッ、ガンッ!!
轟音と衝撃波が夜の森を揺らす。
竜の腕と、鬼塚の拳が火花を散らすたび、空気が震え、木の葉が舞い上がる。
それはまるで、拳による会話。暴力の言語による、本能同士の対話だった。
「ぐっ……! がっ……!」
鬼塚の腕がじわじわと押し戻される。
両腕は痺れ、骨の芯にまで震動が届いているのが分かる。
浮遊するアーマー拳も、制御が僅かに乱れはじめていた。
(負けられねぇ……っ!!)
(俺が負けたら──この化け物は、天野と佐川の所に行っちまう……!)
(あのチャラ男魔王と、この化け物女がまた組んじまったら……俺らは、全員、殺される……っ!!)
激痛に歯を食いしばりながら、鬼塚は睨み続ける。
目の前にいるのは少女の姿をした“災厄”。
見下せば見誤る。怯めば殺される。
“自分が立ちはだかるしかない”──それだけが、彼を支えていた。
リュナの表情が、ほんのわずか揺れた。
真っ直ぐに向けられる鬼塚の視線。その泥臭くて、不器用で、絶望的なまでの“覚悟”に、彼女はなにか一瞬、心を動かされたようだった。
だが、拳の速度はむしろ加速する。
竜の拳が唸りを上げ、容赦なく鬼塚を押し潰さんと迫る。
「──ッ……!」
そんな中で、鬼塚は一瞬の“隙”を見抜いた。
(……このままじゃ、ジリ貧だ……!)
(だが……! まだ、大技一発分──それだけの魔力は、残ってる……!)
(だったら──)
(ここで一気に、終わらせる!!)
瞬間、鬼塚の瞳が、燃えるように光を帯びた。
空中のアーマー拳が同時に降下。
リュナの前腕を、がっしりと挟み込むように拘束する。
「──っ、やった……!」
その手応えに、鬼塚は思わず声を漏らした。
だが──
「……残念」
リュナが冷たく言い放つ。
「腕は──4本あるんすよ?」
拘束されていない竜腕2本が、獣のように動いた。
黒銀の爪が宙を切り裂き、アーマー拳の関節部を的確に撃ち抜く。
ギギギギ……ッ! ガキィィン!!
鋭い金属音と共に、魔力製の拳が砕け散り、空中で煙のように消えていった。
「──いいや、それで十分だ!!」
鬼塚は叫んだ。眼光は死んでいない。
腰のベルト“獏羅天盤”に魔力を集中させる。
「"特攻疾風"ッ!!」
直後──紫の閃光が森を貫いた。
紫の雷のような光が一気に鬼塚の背後に集束し、そこから出現したのは一台の魔力バイク。
低くうねるような咆哮と共に、無骨で獣じみたマシンが、その姿を夜に浮かび上がらせる。
族車を思わせるボディに、マフラーから吹き上がる魔力の炎。
それを見たリュナは、ふいに口を開く。
「おおっ……」
驚き半分、ワクワク半分の声だった。
その表情は、拳を交える興奮を心から楽しむ格闘者のそれだ。
「それもなかなかカッコいいじゃないっすか!」
鬼塚は無言でバイクに跨り、フルスロットルで天を駆ける。
夜空を、疾風のように走る黒紫の光跡。
その軌道は月を背に描かれる流星のようだった。
「──終わりだァァァッ!!」
鬼塚は親指を"獏羅天盤"の歯車へ──強く、勢いよく、叩き込むように回す。
『必殺!!──特攻!速攻!超特急!!』
轟くような音声と共に、バイクが変形する。
車体が折り畳まれ、まるで背部装甲のように鬼塚の身体へ融合。
脚部には衝撃吸収パーツ、背中には巨大なスラスター。
紫の爆炎が噴き上がり、重力を無視した加速。
そのまま鬼塚は、キックポーズのまま流星のように突進した。
「──くらいやがれぇぇぇッッッ!!!」
空すらも裂く一撃。
森が唸り、木々が震える。
それは──すべてを終わらせる“覚悟”のキックだった。
◇◆◇
──それは、本来なら“決着”の一撃になるはずだった。
空を割るように駆ける紫の流星。
鬼塚玲司が放つ、命を削る渾身の飛び蹴り。
全身の魔力を燃焼させ、魂すら突撃させる覚悟の“特攻”。
だが──
プス……ッ
突如、鋭い火花とともに背中のブースターが急停止した。
ゴォォ……という爆音が、突然、掻き消える。
紫の炎が縮まり、推進力がみるみるうちに弱まっていく。
「──な、なにぃっ……!? 魔力が──切れっ……た……だと……!?」
絶叫にも似た叫びが、夜空を震わせる。
飛び蹴りの姿勢のまま、推力を失った鬼塚の身体は、まるで滑空するしかない投擲武器のように──無防備に宙を漂っていた。
残像の軌跡が消え、ただの“人間”として空を飛んでいる姿に成り下がる。
その様子を、リュナは静かに、冷ややかに見つめていた。
感情の揺れも、焦りもない。
──まるで“最初から知っていた”かのように。
「……あーしの番、っすね」
その声は、夜風よりも静かだった。
ゆっくりと、しかし確実に、リュナは両脚を地にめり込むほど強く踏みしめる。
そして──
4本の黒銀の竜腕が、交差し、広がり、“卍”の形を描くように構えられた。
「──"黒阿修羅"ッ!!」
リュナの叫びと同時に、竜腕が旋風を生むように回転を始める。
ドウッ!! ドウウウウン!!
空気が巻き込まれ、魔力の竜巻が渦を巻き上げる。
風が吠え、木々がうねり、雷鳴のような唸りが大地を震わせた。
空中を滑る鬼塚は、その回転の中心へと一直線に突入していく。
逃げる術も、止まる術も──もはや残されてはいない。
「──っあああああああッッ!!!」
爆音。
衝突の瞬間、激しい閃光と衝撃波が周囲の木々を弾き飛ばし、地面がえぐれる。
竜巻の内側で──鬼塚の魔装が砕けていく。
バキィッ、バキバキバキィィィン!!
魔力の装甲が一枚、また一枚と剥がれ、鉄が裂けるような音を立てて空中を舞う。
その破片は火花となって空に散り、鬼塚の生身の身体があらわになっていった。
ブースターが爆ぜ、背から吹き出した炎が消え失せ、残るは無力な肉体ひとつ。
──そして。
ドガァンッッ!!!
大地に叩きつけられた。
地面が沈み込み、粉塵と土煙が数メートルも舞い上がる。
木々がざわめきを止め、森の一角が、静寂の檻に包まれた。
しばらくして、塵の向こうから、ぐらり……と倒れ伏す鬼塚の身体が姿を現す。
全身の変身アーマーは完全に砕け、今の彼にまとわりつくのは破れた服と血のにじむ傷痕だけだった。
無数の裂傷と打撲が肌を染め、片目は腫れ、口元から血が垂れていた。
それでも──まだ、目を開いていた。
薄く、かすかに、片目を開き、夜空を睨む。
「……っくそ……が……」
途切れ途切れの声。
それは怒りとも、無念ともつかぬ、感情の坩堝だった。
敗北を、屈辱を、絶望を飲み込むように、言葉にならない呻きが喉から漏れる。
リュナは、その姿を見下ろしていた。
近づくでもなく、攻撃を続けるでもなく。
ただ無言で、じっと、立ち尽くす。
竜腕の回転は止まり、風が静まり返った今──彼女の顔に浮かぶのは、勝者の笑みではなかった。
瞳が、わずかに揺れている。
憐れみか。
躊躇いか。
それとも、過去の何かを重ねてしまったか。
けれど、その理由を彼女自身、まだ言葉にはできない。
ただひとつ、確かなのは──
“鬼塚玲司の特攻は、届かなかった”という事実だけだった。
◇◆◇
──夜の森が、静かに呼吸していた。
木々はざわめきをやめ、虫の音も凪いでいた。
まるで、この地に存在するすべてが、今しがたの戦いの終結を悟り、沈黙を選んだかのように。
土煙がゆっくりと晴れていく中、倒れ伏した鬼塚玲司の身体の周囲には、冷えた空気だけが取り巻いていた。
ボロボロになった装甲は、すでに役目を終えて砕け散り、その下の肉体は無惨なほどに傷ついていた。
拳を握る力も残っていない。
吐息すら痛みに満ちて、音にならない。
──だが、それでも。
鬼塚の目は、まだ閉じていなかった。
「……な……んで……だ……?」
かすれた声が喉から漏れる。
それは敗北の理由を、どうしても理解できないという、苦しげな問いだった。
「……まだ……魔力は……残ってた……はずなのに……」
搾り出すようにそう呟きながら、鬼塚は重たい視線をゆっくりと胸元へ落とした。
確かに、あの時──全力を振り絞った飛び蹴りを放つ寸前までは、魔力は残っていた。
残っていると、感じていた。
それだけは、自信があった。
なのに──なぜあの瞬間、あれほどあっけなく出力が落ちた?
なぜ、こんなにも無様に叩き落とされた?
その答えは、すぐに、ひょいと近づいてきた足音によってもたらされた。
「ふんふふ〜ん♪」
鼻歌まじりに響く、軽やかで気の抜ける足音。
鬼塚の横にぺたぺたと足を運んできたのは──リュナだった。
変身を解いているのか、今は黒銀の竜腕も翼も消え、元の“本体”の姿に戻っていた。
モデル体型の、黒のボディコンスーツに身を包んだ、黒ギャル。
だが、ついさっきまで鬼塚を粉砕した、圧倒的な力の持ち主であることは変わらない。
そのリュナが、鬼塚の隣にしゃがみこみ、なぜか楽しげな笑みを浮かべながら右手をぴょこりと動かす。
「ちょん、ちょん」
と、リズムよく、鬼塚の左肩と左足を指差す。
「……は……?」
鬼塚は反応が遅れた。
だが、意味を察した瞬間、重たい首をどうにか動かし、言われた部位へと視線を落とした。
──そして、凍りついた。
「……っ……!!?」
見た。
いや、“気づかされた”。
左肩、左足のあたりに──
黒い羽虫が、無数に、群がっていた。
小さく、細かく、ねばつくように。
肌に張りついた羽根。皮膚に食い込む針。
ぞろぞろと這うその感触が、遅れて脳に届く。
虫たちは、まるで生きた吸血器官のように鬼塚の魔力を吸い上げていた。
ぞわぞわと肌を這う感触に、全身が粟立つ。
「ぐ、あ……っ……!」
声にならない声が喉から漏れる。
自分の中から、確かに──魔力が“吸い出されていた”。
しかも、さっきまで気づかないほど巧妙に。
(……くそ……ッ)
思い出す。
あの時──リュナにアーマーを砕かれた、あの瞬間。
肩と脚の装甲が剥がれ、わずかに素肌が露出したタイミング。
(……まさか……あの時……!!)
(……“魔力を吸う虫”どもを……アーマーの隙間から──俺の身体に……!!)
理解した瞬間、全身から力が抜けた。
もう、何もできない。
何も──抗えない。
「……虫まで操れるなんて……アリかよ……」
呻くように、鬼塚が漏らすと、リュナはひょいと指を立てて言った。
「言ったっしょ? あーし、この辺りの森をシメてたって」
腰に手を当て、ニカッと得意げに笑う。
「森だろーが、虫だろーが、ぜ〜んぶ、あーしの“舎弟”なんすよ」
サラッと、世紀末の不良みたいな発言をしてのけた。
鬼塚は、微かに眉をしかめる。
(……どこまで……化け物なんだ……こいつは……)
だが、怒る力すらも残っていなかった。
痛みと虚脱感に浸されたまま、鬼塚はただ、敗北を、静かに噛みしめていた。
◇◆◇
静かに、目を伏せかけた──その時だった。
鬼塚の脳裏に、ふとよぎった。
あの姿。
あの、少女のような容姿。
獣のような腕を持ち、竜の力を秘めた化け物が、なぜ“その姿”で戦っていたのか。
──人間の姿で。
「……それに……さっきの姿……」
呟くように、問いを口にした瞬間──
リュナの眉が、わずかに動いた。
ぴくり、と反応したのが分かった。
軽口でもなく、皮肉でもない。
鬼塚の言葉に、本気で“何か”を感じ取ったような反応だった。
鬼塚は、痛みを堪えながら続ける。
「てめぇ……人間の姿になると……力が抑えられてんじゃねぇのか……?」
リュナは何も言わない。
表情の変化もない。
ただ、視線を逸らさずにじっとこちらを見ている。
「なんで……本当の姿で来なかった……? 竜のままで戦ってりゃ……もっと楽に、勝てたはずだろ……」
声が、かすれていた。
怒りというよりも、諦めと、理解したいという想いの混じった声だった。
「……なんで……その姿に……人間の姿に、そんなに拘ってんだ……?」
「……」
「俺を、舐めてたのか……? “人間の姿で充分”って……そう思ってたのかよ……」
問い詰める声に、リュナは──しばし、黙り込んだ。
いつものように茶化すこともなく、見下ろすような態度もとらず、ただ、ほんの一瞬……何かを飲み込むように、ゆっくりと息を吐いた。
そして。
「……だって……」
か細い声が、夜風に乗って零れ落ちる。
「この姿……兄さんが、“可愛い”って言ってくれたから……」
鬼塚は、まばたきすら忘れて、その言葉を聴いていた。
「……は?」
思わず漏らしたその声に、リュナは顔をかっと赤らめた。
頬を染め、耳の先まで朱に染めて、全身で怒りにも似た照れを爆発させる。
「だーかーらぁ!!」
「あーしの"憧れの人”が!! この姿、可愛いって言ってくれたから!!」
「だから! なるべくこの姿でいるようにしてんの!!!」
「文句あるかコラッ!! 悪ぃかよ!!」
地団駄を踏み、腕をばたばたと振りながら叫ぶその姿は──
さっきまで鬼塚を地に叩き伏せた“竜の化身”とは、似ても似つかなかった。
そこにいたのは、ただ。
──ただ、“好きな人に褒められたくて張り切ってる”恋する女の子だった。
鬼塚は、呆然とその姿を見つめていた。
怒鳴るリュナの声は、もはや剣にも矢にも聞こえなかった。
ただ、まっすぐで。
真剣で。
そして、あまりにも人間らしかった。
(……なんだよ、それ……)
(……こいつは、“血も涙も無い化け物”なんかじゃ──)
(──ねぇじゃねぇかよ)
(そんなの……まるで、ただの、恋してる女じゃねぇか……)
何かが、胸の奥で崩れる音がした。
今まで積み上げていた恐怖。偏見。
そして、“こいつは化け物だ”と信じてきた、自分なりの正義。
──俺はまた、間違ったんじゃねぇのか。
鬼塚は、静かに目を閉じた。
冷たい夜風が、頬を撫でた。
その風の向こうで、リュナはまだ顔を赤くしたまま、口を尖らせていた。
上空には、変わらぬ光。
──月だけは、何も知らない顔で、森を見下ろしていた。