第110話 銀竜の祝福
どこにでもあるような、普通の郊外の町。
乾流星は、そこで“普通じゃない”少年だった。
物心がついた頃から、体がやたらと動いた。
走れば大人にすら追いつけたし、跳べば鉄棒の上に頭をぶつけた。
縄跳びは三重跳びが初歩で、逆上がりは幼稚園の年中で成功していた。
「流星くん、すごいね!」
「また一等賞だ!」
「乾、またかよ〜〜!」
笑顔と羨望と、称賛と──時々、嫉妬。
けれど、誰に何を言われても、彼の胸に熱はなかった。
「ふーん、俺ってすごいんだ」
それが、乾流星の本音だった。
──でも、だからって何?
彼は、どこかいつも“冷めていた”。
中学に入って、野球部に入った。
特別な理由なんて、なかった。
ただ、プロになれば金が稼げる。
なら野球が一番手っ取り早い──それだけだ。
「乾くん、マジで速いな。入って1週間でエースかよ……」
「球速やべえ……。何キロ出てんの?」
誰かの感嘆が、また耳に届く。
でも流星は、笑いながら自分のボールを眺めていた。
「まあ、なんか……向いてんだろ、俺。才能ってやつ?」
自分の才能が怖かったわけじゃない。
ただ、先が見えすぎて──そのことに、飽きていた。
努力なんて、したことがない。
ただ勝って、また勝って、それで……なにが変わる?
──このまま死ぬまで、勝っていくだけ?
──誰かに褒められて、金もらって、家建てて、子ども作って、老いて、死ぬ?
想像すると、どうしようもなく──“つまらなかった”。
高校ではスポーツ推薦で入学した。
同じく特待生だった榊タケルや五十嵐マサキとは気が合い、すぐに仲良くなった。女子にもよくモテた。
「お前、イケメンで運動できて、しかも性格まで明るいとかズルくね?」
「そーそー。もうちょい欠点見せてくれよ〜〜」
「え、でも流星くんって天然だよね、そこがギャップ萌え!」
笑い声と、からかいと、恋心と──でもその中心で、乾流星だけが“どこか空っぽ”だった。
──なんでみんな、そんなに楽しそうなんだ?
そんなある日。
彼の、いや──クラス全員の"普通の人生"が、突然終わりを告げた。
強い光。地鳴りのような音。
意識が飛ぶ直前、彼はふと思った。
(──あ、これは今までの人生で一番“特別な瞬間”かもな)
目を覚ました時、そこはもう異世界だった。
近未来的な施設。輝く壁面。
機械仕掛けの兵士たち、そして──神秘的な女性指揮官。
フラム・クレイドル。
「あなた方は、世界を救う存在なのよ」
そう告げるその声が、まるで胸に直接届くようで──乾流星は、自分の心が震えているのを感じた。
なんだこれ……この感覚。
初めて野球で勝った時とも違う。誰かに告白された時とも違う。
それよりずっと、“燃える”ような何か。
(……俺、今──生きてる?)
気づけば、拳が震えていた。
口元が、勝手に笑っていた。
「……マジで、燃えるじゃん」
彼の意思に介入する"スキル"の影響はあったのかもしれない。
だが、この時の感情は、確かに彼自身のものだった。
魔王を討つ? 竜を斃す?
──最高じゃねえか。
やっと、“やる理由”ができた。
それからの乾流星は、まるで火がついたように強くなった。
炎を纏うスキル"火球乱舞"。
魔力と運動能力を組み合わせ、斬撃を強化する”火之型”の戦闘スタイル。
どれも彼の適性と合致していた。
“強さ”で言えば、トップは佐川颯太と鬼塚玲司。
圧倒的なSS級スキルを持つ二人には敵わない。
だが──その次に名前が挙がるのは、いつだって乾流星だった。
「また乾かよ。あいつ、どこまで伸びんだ……」
「マジで、スレヴェルド戦で炎の壁作って軍団止めたって噂、本当?」
誰よりも派手に、燃えるように。
そしてその瞳は、ずっと何かを求め続けていた。
──もっとだ。もっとだ。
──この命を、心から“燃やせる”ような戦いを、くれ。
乾流星は、今日も炎の剣を握る。
──退屈を、焼き尽くすために。
───────────────────
焔が、残光のように地を焦がしていた。
戦場の空気は、灼熱に歪み、赤く染まる空に黒煙がたなびいている。
向かい合う二人の影だけが、まるで世界の中心に据えられたように孤独だった。
乾流星の視線の先には、剣を鞘に納めたまま動かぬ男──至高剣・ベルザリオン。
居合い抜きの構え。
その意味を知る者であればあるほど、迂闊には動けないはずだ。
だが──
「……ハッタリだろ、どうせ」
風に乗って、流星の唇が歪む。
燃えるような褐色の瞳が細められ、獣のような笑みが浮かんでいた。
("焔大蛇"を斬ったさっきの一撃、あれは確かに速かった。斬撃の軌道が見えねぇくらいにはな)
(でもよ──)
(居合いなんて、所詮は初撃限定。打ち合いじゃ不利に決まってる)
乾流星は、スッと深く息を吐いた。
灼けるように熱い空気が、肺の奥まで満ちる。
(抜き身の俺の方が、速い──)
(“居合いが抜き身より速い”なんて、フィクションの中だけの話なんだよ)
火花が、足元で爆ぜる。
流星の足の、踵。
そこに赤黒い炎球が浮かび上がる。
──スキル"火球乱舞"。
咆哮のような熱圧と共に、ジェットのような炎が迸った。
流星の身体が、弾丸のように地を滑る。
「ッラァアアアアア!!」
雄叫びが轟く。
視界が焼け、風が裂ける。
空を蹴ったその瞬間──乾流星の姿は、戦場から消えていた。
ベルザリオンの視線が、僅かに動く。
ほんの一瞬。ほんの、ひとまばたき分。
──そのときにはもう、流星はベルザリオンの眼前にいた。
「食らえッ!!」
握られた剣が、紅蓮に包まれる。
炎を圧縮して作られた魔剣、"気炎万丈"。
剣の片側に、また火球が複数現れる。
それはただの爆発物ではない。
斬撃の軌道に沿って、燃焼圧を一点集中させることで、剣速そのものを加速させる“推進器”だ。
──剣が、加速する。
炎が、尾を引く。
流星の腕が、全身が、叫びとともに振り抜かれる。
「"火之夜藝速"────ッ!!!」
それは、乾流星の全てを乗せた一撃だった。
──炎。
──筋力。
──速度。
──本能。
“速さ”という概念そのものを、力ずくで捻じ伏せるような暴力的なまでの加速。
剣の軌道は炎を引き、まるで火龍の咆哮のような幻影すら帯びていた。
斬る。絶対に斬る。
避けられるはずがない。鞘に納めた剣で、この速度に反応できる訳がない。
(──勝った!!)
その瞬間だった。
乾流星の動体視力が、焼け焦げるような速度の中で“それ”を捉える。
ベルザリオンの──腰の剣。
まだ、鞘の中にあった。
「──っ!?」
刹那、脳がフル回転する。
(こっちの剣が、もう目の前まで来てんだぞ!?)
(なのに、アンタはまだ……抜いてすら──!?)
しかし──止まらない。
止まれるわけがない。
このまま斬る。斬り伏せる。
焼き尽くす。勝つ。それしかない。
「もらったァァァッ!!!」
乾流星が、燃えるような剣を振り下ろす。
◇◆◇
ズゥン……と低く、空気を震わせるような音がした。
音の正体は、ベルザリオンの腰に収まる剣──
"真竜剣アポクリフィス"の鞘の内で、何かが“走った”音だった。
瞬間。
世界が、乾流星の視界から、ベルザリオンの姿を奪った。
「──なっ!?」
流星の振るった必殺剣・"火之夜藝速"は、虚空を裂くだけに終わった。
振り下ろされた剣が、地を焦がすと同時に、空気が逆巻く。
(消え──た!? 目の前にいたのに!?)
炎の残滓が、虚しく舞う。
だが、その風に混じって──気配が、背後に立っていた。
「……っ!?」
流星が、首をゆっくりと後ろに向ける。
そこには確かにいた。ベルザリオン。
その手には、すでにアポクリフィスを納め終える寸前の姿。
キィィ……という音と共に、刃が鞘口を滑る。
「…………っが、は──」
流星の腹部から、何かが抜けていくような感覚。
身体の芯を、熱が通り抜けた気がした。
数歩、よろけてから、流星は地に膝をついた。
指先が痺れる。視界が霞む。
「……おかしい、だろ……」
喉を震わせるように、乾いた声が漏れる。
「なんで……抜いてないアンタの方が……速ぇんだよ……」
歯を噛みしめながら、震える腕で地面を支える。
彼はまだ立とうとするが、体が追いつかない。
ベルザリオンは静かに振り返った。
その瞳に、驚きも、優越感も、戦いの余韻すらもなかった。
ただ、真実だけを淡々と語る眼差しだった。
「……一つ、教えて差し上げましょう」
低く、穏やかな声が、敗者の耳へと届く。
「我ら魔剣士にとって“鞘”とは、ただ剣を収めるための入れ物ではありません」
ベルザリオンは、鞘の口元に軽く手を添えながら、淡々と続けた。
「それは、剣に魔力を込め、加速を与える“発射台”。
“居合いが抜き身より遅い”などという認識は……
魔法剣が発達していない時代の昔話にすぎません」
流星は、呻くように肩を揺らす。
「……くっ……あー……そういや……」
彼の視界はもうほとんど霞んでいた。
だが、その中で──ふと、友人のある言葉を思い出していた。
「……一条……も、同じようなこと……言ってた、かも……な……」
その声に、ベルザリオンは目を伏せる。
ほんの一瞬、感情を押し殺すような表情を浮かべた後、
彼は静かに──アポクリフィスを鞘に「完全に」収める。
キィン──と、透き通る金属音が空気を切り裂いた。
「"銀竜ノ祝福"──」
秘剣の名が囁かれた瞬間、流星の胸元から──
ブシュウウウゥッ──!!
噴き出したのは、血ではなかった。
それは黒い“煙”のような魔力の飛沫。
ねっとりと空気に絡みつく、禍々しい気配の混じった瘴気。
それが、剣閃とともに一気に弾け、空へと昇っていく。
流星は、その場にがくりと膝を折った。
そのまま、地面に倒れ込む。
だが──呼吸はある。脈もある。
死には至っていない。
ベルザリオンは、その様子を静かに見下ろしていた。
「──道三郎殿の手によって、真の姿を取り戻した我が相棒・アポクリフィスは、相手の“悪しき魂”のみを斬り、喰らう事も出来る神剣」
その言葉に、流星の身体に絡みついていた黒煙は、やがて完全に霧散した。
「貴方の魂に巣食っていた“邪”を斬りました。……しばらくは動けないでしょうが、命に別状はありません」
ベルザリオンは視線を上げる。
沈みゆく夕日が、戦場の彼方を照らしていた。
血ではなく、罪を洗い流すかのように──その光は、どこまでも静かで。
「──これが、私が選んだ、新たな“道”であり……“欲”です」
柔らかな笑みが、彼の口元に浮かんだ。
戦うためではない。
滅ぼすためでもない。
──救うために、剣を振るう。
それが、新たな生を得た男の、誓いだった。