第105話 父と子、神獣の咆哮
───遡ること数刻前。
霧がかった静寂の岩場に、ひときわ大きな銀の影が座していた。
それは、かつて“銀狼”の名で恐れられた王狼——マナガルム。
すでに群れの長を退き、今はひとり、フェンリルの里の最奥にて身を伏せていた。
大地に伏せた巨大な体躯は、かすかな風にも揺れることなく、まるで岩の一部のように沈黙している。
だがその瞳は、閉じられたままでもなお鋭さを孕み、内なる何かと向き合っていた。
『……貴方は、すでに“フェンリル・ロード”として、完成された強さを持ってる』
静かに、耳の奥で思い出される声。
かつて自分を打ち負かし、導いてくれた男、
"色欲の魔王" ヴァレン・グランツの言葉だった。
(完成された……か。聞こえは、良い。だが──)
マナガルムは、微かに眉間を寄せた。
風が頬の毛並みを撫でる。だが彼は動かない。体ではなく、今は“魂”を見つめていた。
(──つまり、我には“伸び代が無い”ということでもある……)
その認識が、かつての彼であれば怒りに変わっていたはずだった。
自らの成長が、限界を迎えたと告げられる屈辱。
だが今は、違う。
むしろ、その言葉の“裏”を見つめられるだけの目を、マナガルムはようやく持てるようになっていた。
(……我は、他者を踏みつけてでも強くあることこそが、フェンリルの王たる道と……そう信じていた)
その信念が、どれほどの血を流させ、どれほど多くの者を背中から遠ざけたか。
そしてなにより——
(その結果……最愛の息子である筈のフレキをも、傷つけることになるとも知らずに……)
目を閉じたまま、マナガルムはそっと牙を噛んだ。
口内でわずかに滲む血の味。かつて己が踏み躙ってきた“弱さ”の味だ。
思い出すのは、あの日の妻、アレクサの最期の笑顔。
『フレキと……グェルを……守ってあげてくださいね……あなた……』
(……あれは、我が魂への……最後の託宣だった)
かつては“戦い”こそが“守り”であると信じて疑わなかった。
咆哮を上げ、先頭に立ち、牙を振るえば、群れも、息子たちも守られると——
(だが今や、群れの長の座を退いた我が身では……それも、叶わぬ)
それでもなお、自分には“守るべき者”がある。
その想いが、今この瞬間、静かに形を変えていくのを感じた。
——いや。
形などではない。
魂そのものが、“質”を変えていく。
「──何ッ……!?」
マナガルムが息を呑む。
ふと、ヴァレン・グランツの言葉が頭をよぎる。
『完成されている者ほど、変わることで“次の地平”に辿り着ける。だからまずは、心と向き合ってみてほしい。そこに、きっと答えがあるはずだよ』
次の瞬間。
──カッ。
マナガルムの瞳が開かれた。
その目に宿ったのは、かつての王狼としての猛々しさではなく、
父として、守護者として生きるための、新たな“決意の光”。
「こ……これは……!?」
思わず口をついて出た声に、狼の響きとは思えぬ“動揺”が混じる。
体内の魔力が、まるで嵐のように渦巻き、変質しはじめていた。
重々しく、灰色の雲がマナガルムの周囲に立ち込めていく。
魔力が、まるで“霧”のように濃く、厚く、重く、包み込む。
雷鳴の前触れのような微かな電撃が、雲の中で弾けた。
「我が……魔力の“質”が……変わった、だと……!?」
理解が追いつかないまま、マナガルムはただ息を呑む。
だが確信はある。これは、鍛錬によって得た力ではない。
己の“魂”と向き合い、過去を受け入れ、未来を見据えた時——
魂そのものが、新たな“器”を求めて形を変えた。
「……我が魂が、答えを出したということか……」
そしてこの魔力は、攻撃のためにあるのではない。
──護るための力だ。
──王としてではなく、“父”としての。
マナガルムの口元が、わずかにほころぶ。
だがその微笑の奥には、決して消えぬ覚悟が宿っていた。
───────────────────
空に薄くたなびく灰雲。
それは、まるで大気ごと震わせるような重々しい気配を纏いながら、ゆっくりとマナガルムの四肢の周囲に広がっていった。
「……"灰狼飛雲"。」
銀狼が静かにその名を告げると、雲は一層濃くなり、やがて帯電する雷のように──バチッ、バチチッと青白い火花を弾き始めた。
「ま、マナガルム様!?」
「これは……一体〜!?」
チワワ型フェンリルのアイフルと、ボルゾイ型のゲキヤセが、雲の中で戸惑いの声を上げる。
その小さな身体が、灰色の霧に包まれながらも、不思議と怯えの気配を見せなかったのは、目の前に立つ巨躯の銀狼──元王マナガルムの存在感があまりにも雄々しかったからだ。
「ハッ、ふざけんなよ、クソデカ狼……!」
上空。サーフボード型の魔道具を自在に操り、空を滑るイガマサが、怒鳴り声と共に拳銃を構えた。
「そんな雲なんかで、俺の弾丸が防げっかよっ!!」
閃光。連続で発射された高速の弾丸が、地上のマナガルムと子狼たちを正確に狙い、一直線に降り注いでくる──
──が。
「……なっ!?」
イガマサの目の前で、奇妙な現象が起きた。
着弾するはずの弾丸が、灰雲に触れた瞬間──
バチンッ! という音を立て、空中で一つ、また一つと焼け落ちていく。
まるで雲そのものが帯電しているかのように、銃弾は雷撃に貫かれ、弾け飛んでいた。
「"灰狼飛雲"は、ただの雲に非ず……」
マナガルムが地を震わせるような声で言い放った。
「それは、我が宝を邪から守る──“雷雲”だ!」
その眼差しは、かつて“力こそがすべて”と謳われた覇王のものではなかった。
誰かを“守る”ために在る王の瞳だった。
雲に護られながら、アイフルが安心したように小さく鳴き、ゲキヤセが「マナガルム様〜!」と涙ぐむ。
そんな中、ミニチュアダックスサイズの小さなフェンリル──フレキが、一歩、前へと踏み出した。
(……父上……)
フレキは見つめる。
あの父が……かつて、強さだけを信じていた父が。
今、誰かの背に立ち、守りを引き受けている。
(以前の父上は、『強者は弱者の上に立つ』という考えだった……)
(そんな父上が、他者を守るスキルを……!)
胸の奥が、熱くなる。
「どうした!? 新王よ!」
マナガルムの咆哮のような声が、フレキの背中を押した。
「先頭に立ち、牙を振るうことこそ、王狼の務めぞ!」
「……後ろの守りは我に任せて、存分に力を振るえ! フレキ!!」
その言葉に──
「……はいっ!」
フレキは跳ねるように吠えた。
瞳に宿るのは、確かな“誇り”と“責任”。
その小さな身体の周囲に、黄金のオーラがふつふつと滾り始める。
新王の牙が、いま、閃く。
◇◆◇
「……何だよ。クソデカ狼、攻撃はしてこねぇのかよ」
イガマサは宙を滑るサーフボードの上で、軽く肩をすくめてつぶやいた。
眼下には雷雲に護られたマナガルムが、その巨体をどっしりと構えて立っている。
だがその眼差しは、何かを“守る”者のそれであり、もはや積極的に攻める意志はないと見て取れた。
「ビビって損したぜ……っと」
イガマサはくるりと空中で旋回しながら、再び小さな狼に視線を落とす。
その瞳には、少しの興奮と、そして挑発めいた笑みが浮かんでいた。
「じゃあ、俺の相手は引き続きフレキくんってことで確定ねー!」
「──でもさあ!」
風を切りながら、イガマサのボードが旋回する。
まるで円を描くように、徐々にフレキの周囲を包囲するような軌道を描き始める。
「そんな小さな身体で、自由に空を飛び回れる俺相手に”牙を振るう”って、ちょーっとムズくね?」
軽口を叩きながらも、イガマサの動きは一切無駄がなかった。
風を読み、流れを計り、己が加速度を自在に操る──それは、単なる技術ではなく、彼の生き様そのものだ。
「俺のスキル"加速度操作"はさぁ、“加速度”ってのを操るスキルなんだってよ!」
空を蹴るようにして、ボードが更に速度を上げる。
「……ま、俺はあんま理科は得意じゃねーし、理屈はダチの受け売りなんだけどな! 一条雷人ってんだけど!」
フレキは黙って見上げていた。
相手の口調に惑わされることなく、その動きを目で追い、気配を感じ、距離を測る。
イガマサはその沈黙を好都合と受け取ったのか、愉快そうに声を張る。
「目に見えねーもんの"加速度"をいじるのって、ぶっちゃけ激ムズなんだけどさぁ」
「……でも、俺サーファーだから! ボード越しなら、"空気の加速度"ってやつも感じ取れるんだわ!」
その瞬間だった。
イガマサのボードが、宙に向かって急激に上昇した。
彼の軌道に合わせて、風が渦を巻く。
シュオオオオォォッ──!
空気の流れが急変する。
上空に引き上げられた風は、イガマサの意思に呼応するようにねじれ、撹拌し、やがて巨大な竜巻となって地上へと吸い込まれていく。
「さあて……決めちまおうか」
ボードの上で、イガマサは拳銃を構えた。
彼の周囲で風が唸りを上げ、まるで意思を持った龍の如く暴れ狂う。
「“チューブライド・ハリケーン”!!」
彼が叫ぶと同時に、竜巻の中心──すなわちフレキに向けて、その身を滑らせながら突撃する。
巻き上がる風のトンネルの中を、彼はまるで海の波間を切り裂くように、しなやかに、そして速く滑っていく。
竜巻の中心に向けて、銃口が閃く。
ドウンッ! ドウンッ!
撃ち出された弾丸は、風の加速を受けて超高速で中心に吸い込まれていった。
それは単なる弾丸ではない。
暴風に乗り、速度の限界を超えた”風の槍”となって、フレキを穿つべく一直線に襲いかかる。
「悪いねフレキくん! これなら逃げ場、ないっしょ!」
その叫びと同時に、空間が歪むほどの風圧がフレキを包囲した。
上下左右すべてが、渦巻く暴風。足場も視界も奪われ、雷雲の援護も、この領域には届かない。
──だが、フレキの瞳は、揺らいでいなかった。
風にたなびく毛並み。その小さな身体が、確かな覚悟と共に、踏み締めた。
「……“神獣化”」
静かに、けれど芯のある声が、暴風の中に響いた。
「──発動。」
瞬間、閃光が走る。
フレキの全身を包んだ黄金の魔力が、一気に迸った。
その輝きは、風を切り裂くようにまばゆく、暴風の中に“確かな存在”として刻まれた。
彼は逃げない。
この一撃を、真正面から受け止める──“王”として。
◇◆◇
轟──と、空が鳴った。
まるで天地そのものが身構えたかのように、突如として雲が黒く染まり、戦場の光が遮られる。
その中心。
小さなミニチュアダックス型フェンリル――フレキの身体から、黄金の閃光が突き上げた。
「なっ……!?」
空をサーフィンしていたイガマサが、目を見開いて叫ぶ。
竜巻の暴風の中、渦巻く空気の動きとは無関係に、光だけが一直線に天へ昇っていく。
その光の中で、フレキの身体が膨張し、イガマサの弾丸を何事も無かったように弾く。巨大化した身体がうねり、変化していく。
四肢が巨大化し、胴体が無限に延び、鋼鉄のような毛並みに覆われた獣の姿。
空を泳ぐように浮かぶ──巨大な神獣、超胴長ダックスフンド。
「う、ウワーーーーッ!?!?!?!?!?!?」
サーフボードを操って逃げようとするイガマサが、情けない悲鳴を上げる。
目の前に広がるのは、竜巻の中心に現れた“神のごとき胴長フェンリル”。
ドラゴ◯ボールの神龍を思わせるような、金の毛皮と輝く目を持つ幻獣。
その顔が、ぐるんと旋回し、イガマサを真正面から睨んだ。
「……“遠距離攻撃は効かない”って仰ってましたよね。」
低く、しかし耳の奥まで響く、エコーのかかった声でフレキが言う。
「ヒィッ!?!?」
あまりの光景に、イガマサが小さく悲鳴を上げる。
「では……目に見えない“音”の加速度も……操作できますか?」
フレキの金の眼が一閃すると同時に、口を大きく開き──
「───ヴヴヴワンッッッ!!!」
吠えた。
その咆哮は、ただの鳴き声ではない。
魔力と加速が乗った“指向性の衝撃波”。
雷鳴を逆流させるかのような一撃が、空間を切り裂き、一直線にイガマサを撃ち抜いた。
「っぐ……ああ……っ!?」
イガマサの身体がビクンと跳ねる。
風圧で吹き飛ぶのではない。
耳の奥で炸裂した“音”の暴力が、彼の平衡感覚を
完全に破壊したのだ。
「な、なんだ……景色が……ぐにゃ……って……うわ、あ……ッ」
イガマサは空中でフラフラとよろめき──次の瞬間、墜落した。
逃げる間もない。
巨大フレキは蛇のように空をうねり、イガマサの落下位置を先読みし、全長数十メートルの身体をくねらせながら突っ込む。
そして、
「ぱくっ」
空中で、サーフボードごと彼を咥えた。
口の中でモゴモゴと何かを確かめるように弄んだあと──
「ぺっ」
ベトベトになったイガマサが地面に吐き出された。
白目を剥き、口を泡だらけにして、全身に犬のヨダレを滴らせながら、完全に気絶している。
静寂が訪れた。
そして次の瞬間、巨大フレキの身体がボンッと音を立てて収縮し、元のミニチュアダックスフンドサイズに戻る。
地面にちょこんと着地したその小さな身体が、ぴんと背筋を伸ばし、四本の足で堂々と踏ん張る。
「──ボクは、フォルティア荒野のフェンリル族を束ねる王狼、フレキですっ!」
小さな胸を張り、琥珀色の瞳が真っ直ぐに前を見据える。
「何人たりとも、ボクの仲間を傷付ける事は許しませんっ!」
その声に、アイフルとゲキヤセがハッと顔を上げた。
マ◯クラ風コンビニの屋上。そこから見下ろしていたマナガルムが、そっと目を細める。
「……アレクサ……」
誰にともなく呟いたその声は、もうこの世にはいない最愛の妻に向けられたものだった。
「我らの息子は、立派な王に育ったぞ……」
風が、誇らしげに、灰色の雲を撫でた。