9 君、死にたもうことなかれ
誰かを自分よりも大切だと思う日が来るなんて、ハフティーは想像すらしていなかった。
出生率が低く死亡率が高く、先細るばかりの惨めな民族、放浪の民。ハフティーはその末裔として類稀な頭脳を授かり生まれた。
生後三カ月で喋り、一歳で読み書き算術を修得し、二歳になる頃には最早親から学ぶ事など無くなって。
賢しらに「まだまだ学ぶ事はたくさんある」「世の中は難しい」などと嘯き「可愛らしく物知りな女児」程度の枠に自分を押し込めようとする両親の底は知れ、頭の悪さに絶望する。
無知で、無能で、自分で物を考える脳も無いクセに、無駄に長く生きているだけで自分を賢いと思い込んでいる救いようの無いクズ共だ。
ハフティーは自分以外の全てを見下していた。事実、そうなるのも当然だ、という主張が一定の説得力を持つぐらい賢かった。
そして、賢いがゆえに、他者を見下しているのが露見すると不都合が起きると理解できていた。
馬鹿は馬鹿にされると怒り、馬鹿げた癇癪を起こす。無駄で不愉快で不利益な生態だ。
だからハフティーは人当たりの良い自分を演じた。気さくで、明るく、いつも前向き。頭が良さそうだがそれを鼻にかけない。そんな自分を。
いつしか体に染みつき自分の一部になるぐらい演じ続けた。
子供らしく可愛らしい愛嬌を振りまき、周囲の単純な人々をいいように操りながら、ハフティーは子供らしく将来について悩んだ。この愚者に溢れた世界で、ただ一人賢く生まれてしまった自分はどう生きるべきか?
どうすれば楽しく充実した人生を過ごせるのか?
そして見つけた。やりたい事を。
つまり、賭博を。
賭け事をしている時だけは、馬鹿共との会話もやり取りも楽しかった。
論理的にこの嗜好の成り立ちを自己分析するならば、不確定要素が良かったのだろう。
カードの中身やダイスの出目は読むのは、人の考えを読むよりも難しい。勝利の確率は計算できるけれど、賭博に確実は無い。その「分からない」が面白い。
……と思っていたのだが、イカサマを覚えてからは勝率100%の勝負にも愉悦を感じるようになったので、全ては後付けで、単純に生まれついて賭博行為が好きなだけだったのだと最終的には結論づけた。
両親は賭博にのめり込むハフティーを矯正しようとした。悪い大人になってしまうからやめなさい、いつか取返しのつかない失敗をしてしまう、と。
しかしハフティーは全て承知の上でやっていたので、両親の躾けの試みは全くの無駄だった。大好きな賭博を、生きがいを、制限し禁止し邪魔し、賭博をすれば罰さえ与えて来た両親を、ハフティーは躊躇なく賭けに使い、負けたので売り払った。
表面上は別れを悲しんで見せたが、内心は法的・慣習的に保護者という立場で自分を制限する邪魔物を処分できてスッキリしていた。
そうしてハフティーは独りになれた。
誰一人理解者は無く、理解者を求めもしない。
使い勝手の良い「友人」をいくつか旅先に確保しておけば、普通ならば一日経たず悲惨な結果になるだろう愛くるしくひ弱な少女の一人旅も成立した。
刹那的で楽しい賭博生活をしながらすくすく育ったハフティーは、ある時賭けに負けて荒野を彷徨うハメになった。
ハフティーをしてなかなか無い珍しい事態だったが、結果と比べればそのような事態に陥った経緯は些事だ。
その荒野で、ハフティーはヤオサカと遭った。
ヤオサカは一口のパンすら黄金に勝る価値を持つ荒涼の大地で、砂糖の塊ともいえる飴玉を持っていた。知性に欠ける暴力行為を見下しているハフティーは飴玉を求め平和的手段に訴えた。ヤオサカの持つ食料を賭けて賭博を仕掛けたのだ。
そして負けた。
イカサマまで使ったのに、ヤオサカは自分を上回る途轍もない頭脳で新戦法をその場で編み出し、完膚なきまでにハフティーを破ってのけた。
人生の根幹を揺るがす驚天動地の衝撃だった。
偶然ではあり得ない。賭けを始めた時は、明らかに説明したルールを全く初耳の様子で聞いていたのに、理解不能の速度で理解を深め、新理論を打ち立て、大胆にそして狡猾にハフティーを追い詰め、完勝した。イカサマは全て見破られた。
こと知性に関しては自らに並び立つ者無し、と至極真っ当な自負を持っていた放浪の民の末裔の少女は、生まれて初めて自分より頭の良い生き物に出会ったのだ。
ハフティーは感嘆し、予想外の結末を迎える事となった自らの生の終わりに納得した。
この優れた生き物のために敗北者たる自分が食料を供出し、彼が生き私が死ぬのなら、悪くない人生の幕引きだと思えたからだ。生きあがく気も起きなかった。
ところがヤオサカは勝ち取った飲み水と食べ物を二人で分ける決断をした。
ハフティーは混乱した。
君は、いったい、何を、言っているのだ?
二人分を一人で独占してはじめて延命が見込める程度のささやかな食料なのに。
二人で分けたら共倒れするだけだ。
自分より頭の良いヤオサカが、それを理解できていないはずがない。
自分が(彼と比べれば)馬鹿だから真意が分かっていないのか……?
食料を分かち合った二人はたいして腹も満ちないまま荒野を彷徨う。今は一滴の水でさえ喉から手が出るほど欲しい。
ヤオサカは餓死しかけの状況を理解しているはずなのに異常なほど能天気でよく喋り、あろうことかハフティーに友情を感じているようだった。
よろめき歩きながら奇妙な男と話すうちに、頭脳明晰なハフティーはすぐに気付いた。
このヤオサカという男は、生まれ持った優れた頭脳を生まれ持った気性ゆえに台無しにしている。
ヤオサカは人の悪意や愚かしさに対し、あまりにも寛容だった。
そのネジの外れた寛容さがあらゆる判断と思考を鈍らせている。
「イカサマ禁止」と言いながらイカサマを使ったハフティーを、ヤオサカは攻めなかった。面白い、と笑い、元の状態に戻すよう要求しただけだった。
恥知らずにも二回目・三回目のイカサマに手を出したハフティーを、ヤオサカはやはり柔らかくたしなめるだけだった。
親を売り払った話をしても、少し驚きを見せ「今からでも一緒に取り戻しに行こうか?」と気づかわしげに言うだけで、侮辱も軽蔑も飛んで来なかった。
それまでも見目麗しいハフティーの歓心を買うために同情して見せたり、親身になってみせたりする小賢しい輩はいた。
だがヤオサカは違う。
ヤオサカは紛れもない「本物」だった。
流浪の旅の中で様々な人間の剥き出しの本性に触れてきたハフティーには分かった。
きっと、ヤオサカはどれほど醜悪な悪人にも寄り添ってしまう。
もちろん、私にも。
彼は私を絶対に否定しない。
賭博をやめろだなんて言わない。どうやって賭博をやっていこうか、と考えてくれる。
悪人だから罰を受けろ、苦しみ悔い改めろ、だなんて言わない。悪人だって悪人のまま笑って生きて良いのだと勇気づけてくれる。
彼は、ちゃんと私がどうしようもないクズだと分かっている。その上で受け入れ認めてくれている。
ヤオサカの身の破滅を招く愚かしさが、ハフティーの心を打った。
魂が震える熱い感情がこみ上げる。体が乾ききっていなければ滂沱の涙を零しただろう。
何があっても彼だけは私を見捨てない。何をしても信じてくれる。
自分のように悪性を抱えて生きて行かざるを得ない者にとって、それがどれほど心の支えになる事か!
独りで良い、独りが良いと思って生きて来たハフティーだったが、ヤオサカとの出会いは方針転換には十分すぎた。
それはずっと暗闇で生きてきた者が篝火の明るさと温もりを知ったかのような激変だった。無くても生きて来られたが、いざ知ってしまうともう後には戻れない。
とはいえ。
心が満ちても、肉体は満ちない。
乾いた不毛の荒野は容赦なく二人に飢えと渇きを押しつけて、分け合った食料で回復した体力は瞬く間に奪われた。日差しは厳しく、一歩踏み出すだけでも全身全霊の意思を振り絞らなければならなかった。
足は疲れも痛みも通り越し感覚が無く、倒れて寝てしまいたかったが、そうすれば二度と起きる事はない。
進み続けるしかない、しかし進み続けたところで希望などあるだろうか? 奇跡はヤオサカとの出会いできっと使い果たした。
束の間交わした心と心もこのまま荒野の土埃に巻かれて朽ち果て消えていくのかと思われた。
が、再び救いの手が差し伸べられる。
そいつは荒野のただなかで、不自然に切り取られた影絵のように立っていた。
気が付いたらそこにいた。赤茶けた大地に、真っ黒な影法師が立っている。特別色濃い人の影が立ち上がり実体を持ったような、不気味な人影だ。
ハフティーは極限状態で鈍った頭を素早く働かせた。
アレはなんだ? 一体何の魔法だ? この魔法の使用者本人がこの影法師の姿をとっているのか? それともこの影法師を操る魔法使いが近くにいるのか? 敵か味方か? どちらにせよ情報か物資かを入手できる公算はある……
ハフティーは得体の知れない影法師に声をかけようとしたが、その前に影法師が動いた。
ゆるりと腕を上げ、少し離れた位置にある岩を指さしたのだ。
影法師はそのままじっとした後、忽然と消えた。まるで最初から何もいなかったかのように。
「なんだ? なんかあるのかな」
と、ヤオサカは不思議そうに言い、ノコノコ指差された岩へ向かった。
ハフティーも躊躇したが、ついていく。何者だとか、何用だとか、疑問はあったが、示された場所に何かがあるなら何でも良かった。今以上に状況が悪化する事は無いのだから。
そして、二人は示された岩の後ろに回り込み、岩と地面の間の窪みの影に小さな水たまりを見つけた。
二人が喜び、泥臭い水を分け合って飲むと、再び少し離れた場所に影法師が現れる。
また、少し離れた岩を指さし、今度は地面を触る仕草をする。
ハフティーは誰何しようとしたが、その前にまた影法師は消え去った。
二人が示された岩の周辺の地面を調べると、小動物の巣穴を発見した。
腕を巣穴に突っ込み、暴れる痩せっぽちネズミを捕まえ絞めると、みたび現れた影法師がまた方角を示す。
そうしてゾンビの方がまだ生気があるような酷い有様だった二人は、水を得て食料を得て、以前雷が落ちたらしい枯れ木から炭を得て、炭から火を熾し、崖から落下死したと思われる肉食獣の腐乱死体から皮と骨を手に入れた。
日が落ちて一気に気温が下がった寒々しい荒野で、風よけに丁度良い屏風岩を背に二人は焚火で温まる。かなり臭うが、風と夜露を凌ぐために体にかける動物の皮もある。
「はーっ、助かった。生き返る~」
「……ヤオサカはアレを何だと思う?」
焚火に手をかざし呑気に赤い鼻をすするヤオサカに、ハフティーは問いかけた。
屏風岩から少し離れ、焚火の灯りと夜の暗がりが溶けあう薄闇にまたしても影法師は立っていた。
ハフティーは影法師を怪しんでいた。
無論、命を救われたのは確かだが、ハフティーはそれだけで警戒を解けるような経験をしてこなかった。
男に騙され酷い目に遭っている女を別の男が救い、惚れた弱みに付け込んで一層酷い目に遭わせるのを見た事がある。
借金で首が回らなくなった貴族に商人が親切に金を貸し、膨らんだ利子と元金のカタとして貴族の全てを奪い去る現場にも居合わせた。
無料の親切ほど高くつくものはないのだ。
「あの人は命の恩人だ」
「それはそうなのだけど。ふむ……もし、そこの方! 親切をありがとう。是非お礼をしたいのだけど、お名前を教えてもらえないだろうか」
心から感謝して礼をしたがっているかのように装って探りを入れると、影法師は(たぶん)ハフティーの方を向いた。
かと思うと瞬きの間に消え、目の前に現れる。ハフティーは思わず軽くのけぞった。
近くで見る影法師はどうにも存在感が希薄だった。
間近で見てはっきりしたが、やはり黒い服を着こんだ人間などではない。影が人間の形になったとしか言いようがない、妙な存在だ。警戒は高まる。
「こんばんは。まあ座って下さいよ。座れます? というか言葉分かります?」
「…………」
「えーと、案内ありがとうございました。助かりました。本当に。お礼とか差し上げても大丈夫ですかね? あ、いや今持ち合わせがなくてこの動物の骨とか焚火の燃えさしとかしか出せないんですけど。俺に何かできる事があれば、」
警戒心の欠片もないヤオサカの言葉を聞いていた影法師は、そこで初めて音を返した。
それは確かに声だったのだろう。しかしあまりにも無個性で、あらゆる特徴を削ぎ落とされた声があるとすればこれだろうな、という平坦な連続した音のようだった。
「半知半能を完全存在に昇華できるか」
「……はい?」
一瞬、ヤオサカならば言葉の意味が分かるのかと横を見たが、自分と同じ感情が顔にも声にも出ていた。
「すみません、もう一度いいですか」
困惑したヤオサカに言われた影法師は、しばしの沈黙の後に別の表現を使った。
「不老不死を実現できるか」
「えーと……お礼の話ですよね? ちょっと、あのー、そういうのは厳しいかな、みたいな。流石に。何か別のできる事があれば、」
「お前は不老不死を実現できる。これは事実だ」
「なぜですか?」
「…………」
影法師はヤオサカの言葉に被せ、音を返す。
会話は完全にヤオサカと影法師の間で進んでいた。ハフティーが疑問を投げかけるが、少し顔(と思しき面)を向けられただけで無視される。
無視されるのは構わなかったが、正体不明で会話が怪しい影法師の興味がヤオサカに向いているというのは不安を煽った。
詳細は分からない。しかし明らかに何かしらの目的をもってヤオサカが狙われている。和やかに話ができている内は良いが、不穏な様子を見せたら無理にでも会話に割り込み注意を惹きつけなければ……瞬間移動ができるらしい相手から逃げるのは至難だろうから。
影法師の言葉に腕組みをして首を傾げていたヤオサカだったが、一つ頷いて尋ねた。
「確認したいんですけど、あなたは不老不死になりたいんですか?」
影法師はしばし停止した後、ゆっくり頷いた。
「どうしても?」
影法師はまた頷いた。
ヤオサカは仕方なさそうに頭を掻き、溜息を吐いた。
「じゃあ、まあ、はい。そういう事なら、なんか方法探してみますけど。21世紀でも実現の目途全然立ってない人類の大目標を叶えるのはだいぶ厳しいと思いますよ? できなくても怒らないで下さいね」
「お前は不老不死を実現できる。これは事実だ」
ヤオサカの話を聞いたのか聞いていないのか。影法師は同じ言葉を同じ調子で繰り返し、腕を挙げてある方角をビタリと指さし、言った。
「実現したならば、北へ来い。そこにいる」
その言葉を最後に、影法師は消えた。
ヤオサカが呼びかけても返事は無く、当然ハフティーの声にも応じなかった。
夜間、ハフティーは寝ずの番をしていたが、影法師は現れなかった。
朝になり、朝焼けの空の彼方に薄ぼんやりと尖塔が見え、人の暮らしの兆しに喜びあっても、影法師は影すらチラとも見えない。
結局それ以来、ハフティーとヤオサカは影法師に会っていない。
なんとか荒野を抜け出したハフティーとヤオサカは放浪の旅を始めた。
自分を本当の意味で理解してくれる親友との旅はあまりにも楽しく、充分楽しかったはずのそれまでの一人旅が色褪せて思えるほどだった。
旅の中で嫌と言うほど思い知らされたが、ヤオサカには厄介なクズを惹きつける天性の魔性があった。ゴミであるほど、クズであるほど、ヤオサカに強く惹きつけられる。
少し浪費癖があるとか、怠けがちだとか、その程度では何という事はない。しかし生まれついてのどうしようもない悪性を抱えた者は、ヤオサカに狂おしく惹きつけられた。
そういったクズがヤオサカに心救われ、魅了されてすり寄るのは、まあ良い。個人的に気に入らないのであの手この手でヤオサカから遠ざけたが、まだマシな輩だ。自分の悪癖を満たす過程で結果的にヤオサカを苦しめてしまう事はあれ、ヤオサカを陥れようとか、利用してやろうとか、そんな邪な考えは抱かないからだ。
問題は救われたのに救いようのないクズだ。この手の悪質な輩はヤオサカが旅の中で身に着けた霊薬調合術や、七年前の奇病以来めっきり見なくなった希少な天然の黒髪などに目をつけヤオサカを陥れ、苦しめ、不幸にしてしまう。
ヤオサカに許され救われながら、その慈悲に付け込み貪り肥え太る事を是とする汚らわしい害虫だ。許しがたい。万死に値する。
だからハフティーは有害なクズから全力でヤオサカを守護した。
ヤオサカに救われたクズは、ヤオサカを食い物にしようとするクズからヤオサカを護る義務がある。
ヤオサカが知れば性懲りも無く何度でも慈悲をかけようとするのが分かり切っているから、本人には秘密の処理作業だった。ヤオサカのおかげでこれほどまでに自分は救われている。だからヤオサカも当然救われなければならない。親友として当然の事だ。
ハフティーの水面下の努力の甲斐あり、ヤオサカは血生臭い裏側を知る事なく、純粋に自分との旅を楽しんでくれていた。ハフティーも楽しんでいるヤオサカと旅ができて楽しかった。
あまりにも楽し過ぎて、影法師の問題と向き合うのを後回しにしてしまったほどだ。
時を経るほどにハフティーの中で影法師への疑念は深まっていっていた。
あの影法師は何者だったのか? ヤオサカの霊薬調合の才能を知っていたのだろうか? どうやって? 当時は本人も知らなかった、隠された才覚なのに。
無論、ヤオサカの地頭の良さを知っていれば不老不死に辿り着くだけの理論や方法の構築に期待を持っても不自然ではないが。それにしては期待をかけるというより「できなければおかしい」という断定的な言葉を使っていた。
ヤオサカは旅をしながら律儀に影法師との約束を果たすため不老不死の霊薬の探求をしている。古今不老不死の探求は常に失敗に終わって来た。ヤオサカが失敗すれば問題はない、しかし成功してしまったら? ヤオサカは史上最も価値のある至宝を迷いなく影法師に引き渡すだろう、そうして無敵になった影法師は何をする?
何でも有り得る。それが良からぬ事を引き起こさなければいいが、影法師は善人らしい言動をしていなかった。信用ならない。
時間をかけじっくり情報を収集し熟慮したハフティーは、「あの影法師は魔王である」と結論付けた。
荒野で影法師に出会った日と、魔王が侵攻を開始した時期はほぼ一致する。
魔王は世界の果て、永遠の暗黒から生まれたと噂されており、遠目にその姿を見た者は恐れと共に「まるで立ち上がった影のようだった」と語った。
時期が一致し、容姿が一致する。これで関連性を疑わない方がおかしい。
魔王の侵攻目的は誰にも分からないが、全てを焼き尽くす苛烈な侵略は徹底した容赦の無い殲滅を指し示している。
放浪の民が入れ墨の形をとって先祖代々伝えてきた伝承には、
「我らが民の栄華は滅びた。しかし我らを滅ぼした彼らもまた、必ず滅びる。それが世の定めなれば。いずれ破壊神が誕生し、彼らを滅ぼし終焉をもたらすだろう」
とある。いつの世にもあるありふれた終末思想だが、実際に魔王が現れてみればなるほどこの事だったのかも知れないと思わされる。
魔王の侵略は止まらなかった。
軍が結集しても足止めがせいぜいで、局所的に押し返したかと思えば、数日で圧し潰される。
敗戦に次ぐ敗戦の報に、ハフティーは人の世は終わるのだと理解した。
人類は既に勝ち目を失っている。死者も失われた土地も多すぎる。今更魔王軍への有効打が見いだされたとて最早遅きに失する。
その終末を率いる魔王が影法師だとして。
ヤオサカは、魔王に不老不死を授けようとしている事になる。
由々しき事態だ。
魔王軍は人類を捕縛すると、何らかの施術を施し自らに忠実な兵士に仕立て上げ戦列に加えている。
かつての朋友が全く躊躇なく襲い掛かってくる光景は前線の士気に深刻な被害を与えているという。
そのような戦法を常用する魔王が、自らに不老不死を渡した霊薬師を厚遇するだろうか?
するわけがない。
自分なら、霊薬を受け取った後、霊薬を解除する霊薬を作られたり、別の者に不老不死を授けられたりする危険性を重く見る。
可能ならば飼い殺し、できなければ始末する。そうして自分の不老不死を盤石なものとする。
魔王がどれだけ殺戮の限りを尽くそうが知った事ではないが、その魔手がヤオサカや自分にまで伸びるとなれば話は別だ。
ヤオサカは純朴で、「影法師は恐らく魔王だ。危険だ」と説明しても、
「別人かも知れない」
「魔王のそっくりさんなだけで、悪人とよく見間違えられて困っているかも知れない」
「きっと北の方に住んでいる親切な人だ」
と言って聞かない。
本当は頭が良いのにどうしてこれほどまでに危機管理ができないのだ、と苛立つ事もあるけれど、そのおかげで自分は親友でいられるし、財布をスッても許されるし、借金の借受人にヤオサカの名前を勝手に使っても許される。
この度を越して善良な生き物を守りたい。何をおいても。そのためにはあらゆる手段を使おう。
そしてヤオサカは不老不死の霊薬を完成させてしまった。
もはや一刻の猶予も無かった。
魔王の脅威は重々承知だった。
早急に対策を取らなければならないと分かっていた。
ヤオサカと不老不死の霊薬の件が無かったとしても、魔王が世界全てを焼き尽くせば自分とヤオサカも必然的に死に果てる。自分達の身を守るためにも魔王の脅威を遠ざけるために動かなければならなかった。そしてそれは早ければ早い方が良かった。
どの道人の世が終わるとしても、素早く対策を立てれば長く延命できるからだ。
だがハフティーは非合理にもヤオサカとの刺激的な旅を優先してしまった。
楽しかったからだ。
ヤオサカとの日々はあまりにも幸せすぎて、ずっと二人で旅をしていたいという欲望を抑えられなかった。
今動かなければ後々自分達の首を絞めると分かっていても、愚かにも今の喜びを手放せなかった。
折に触れて影法師は危険だと警告はしたが、今の幸福な日々を壊してまでヤオサカを掣肘しようとはしてこなかった。
ハフティーは堅い意思で「不老不死の霊薬を影法師に届けるため、北(対魔王最前線)へ向かう」と言い出したヤオサカを説得できなかった。
ハフティーの過ちを受け入れ、一計を案じた。
「影法師から依頼中止の連絡が入ったと伝える虚報案」や「ヤダヤダ行っちゃヤダと全力でダダをこねる駄々っ子案」など十数案を吟味し、「軟禁案」を採用する。
手ひどく裏切り売り払い、自分を追いかけようとする気持ちを少しでも削り、魔王の脅威から最も離れた世界の中心ケンテレトネクの信用のおける「友人」に預ける。
友人ウルは殺人癖を抱えているが、だからこそヤオサカに容易く篭絡され、なんとしてでも守護しようとするだろう。全く信用できない性癖だからこそ、逆に信用できる。
そしてハフティーはヤオサカと離れ、魔王侵攻への徹底的な遅延作戦を開始した。
既に作戦開始が遅すぎるが、それでも試算によればあと二年で滅びる世界を十年は延命できる。
ヤオサカには少しでも長く幸せに生きていて欲しい。
そのために私は全ての艱難辛苦を背負おう。
世界が塗炭の苦しみに喘いでも、君が幸せであれるならば。
ハフティーは命を賭し、生涯を賭けて、魔王に遅延戦法をしかけ続ける。
ハフティーの武器はその頭脳で、特技は賭けだ。
特に城塞都市レダチクではそれが最大限に発揮された。
城塞都市レダチクを守る守備隊に複数ルートから虚報を流し、攻め込んでくる魔王軍にも虚報を流し、巧みに分散誘導する。
ハフティーの見立てでは、城塞都市レダチクは10日前後で陥落するはずだった。三万の守備隊はその八割が失われ魔王軍に吸収され、残り二割は逃げ延びて後方で態勢を立て直す。対して魔王軍は損害と兵力吸収が釣り合い、勢いを落とさず進軍する。
だからハフティーは賭けに出た。
ハフティーが人類軍に堅実な作戦を献策すれば、三万で十万の魔王軍を確実に削れただろう。
三万で五十万にもなると、不可能だ。
だから人類軍三万の皆殺しと引き換えに、魔王軍三十万を削る。これがギリギリ成功率一割に届く最大限。
かくして裏に表に策謀を巡らすハフティーに踊らされた人類軍と魔王軍は、作戦の上では人類軍の圧倒的有利、数の上では魔王軍圧倒的有利の凄惨な大衝突を起こし、見事に人類軍三万と魔王軍三十万が死に絶えた。
一部の市民が逃げ延び、ハフティーは人類の裏切り者だと声高に叫び出したが、織り込み済みだ。
一般市民は攻め込まれ自分の命が失われるかという恐怖の中で、津波のような魔王軍の数を正確に数えられはしない。「いっぱい攻めてきて、頑張って奮戦したけど、ハフティーというやつの甘言のせいで逃げられなくていっぱい死んだ」という程度の浅い理解が精々だ。
無知から来る悪評すらも利用し、ハフティーは独り魔王軍に抗う。
何万何十万という命を懸けたアツい賭けをしているのに、ハフティーは全く面白くなかった。隣にいつもいた親友がいないというだけで、心は冷え込み固まってしまう。
自分が上手くやればやるだけヤオサカのためになる。それだけが心の支えだった。
想定よりも魔王の動きが鈍いおかげで、ハフティーは短い間に激戦地を転戦し、悪評と大戦果を稼ぐ事ができた。
魔王は何かしらの問題あるいは不具合を抱えているようだった。
影法師は瞬間移動して自分達の前に現れたが、不老不死の霊薬が完成しても様子を見に来ないし受け取りにも来ない。瞬間移動能力を喪失したのか? それとも制約があるのか?
更に、あの荒野で色々な情報を知っている様子を見せたが、何もかもを知っているわけではないらしい。ハフティーの計略が読まれる事もあれば、読まれない事もある。
本人の言う通り全知全能ならぬ半知半能なのか。その欠点を埋めるために不老不死を求めているのか?
思考は冷徹に研ぎ澄まされ、効率だけを見て動く。
賭けを楽しむだけの余裕も失い、ただ、ただ、ヤオサカのために。
一生を負け戦に捧げる覚悟だった。
二度と会えないと思っていた。
だというのに、ある日ヤオサカは追ってきた。
私を追ってきた。
私を心配して、私のために!
こんな事が起きてはいけないのに、彼が私のために私のところへ来てくれた、それがたまらなく嬉しい。
そして親友の隣で親友にデカい乳を押しつけ彼女面をしている旧友に脳が破壊された。
ウワーッ!? 友人に親友を盗られた!!!!
「お、お、お前―ッ! 貴族の誇りに賭けて守り抜くと書いて寄こしただろう!? し、信じたのに! ヤオサカをそのいやらしい体で誑かすのが貴族の誇りだったのか!?」
許さないぞ、ウル!