大丈夫だよ!完璧じゃなくてもいいんだよ。自分にとって最高のものを創ろうと思えばいいんだよ
まずさ、
完璧なものを創ろうとする、しない、の考え方そのものに、
壮大な勘違いがあること。
完璧なものを創ろうとする、のではなく
「自分にとって最高のものを創ろう」と思うて。
いやさ、
日本人ってさ
「しなきゃいけないの?」
「やらなきゃ作れないの?」
「こなさなきゃいけないの?」
と
「しなきゃいけないの?」思考が強いよね。
でもそもそも、
そう言われてることは、
どう見てもどう考えても
自分がしたいことを実現するためのモノじゃない?
私は、チョー下手くそ絵描きますが
それでも基礎やる前よりはずっとましになった
見てくれが、じゃなくて
「自分がこう描きたい、と思う願望が何とか形に出来るようになった」
でもこれさ
「やらなきゃいけない?」思考の人はこう考えないのよ。
イラストエッセイでも何度も言ったけど
「人から褒められたら上手くなった」と思ってんのよ。
自分がやりやすくなったかどうかは、二の次なんだよ。
でもそれおかしくないか?
でさ、そんな状態で
完璧目指すか目指さないか
完璧なもの目指してたらいつまでたっても投稿できませんよねとか
言ってるわけで、
まてまてまてまてまて
貴方自身はどうなのと。
今の、そのやり方で
自分が描きたいものが形になってんの?と。
自分が満足できる形になっとんの?と
描けないからと諦めてるところないですかと。
もしあるのなら、なんのために、なんの楽しみのためにモノ創ってんの?と。
シンプルなんですよ。簡単なんですよ。
これが創りたいと思ったら
そのために沢山の事を習得したらいいだけでしょ?
創りたいことが作れたらそれだけで楽しいよね?
創りたいことがすらすら思い通りに創れるようになったら楽しいよね?
と、前置きはここまでにして(なっが)
本題に……
小説でもそーですやん
文章作法?
基礎ちゅうの基礎です
でもそれ、
守らなきゃいけないと考えてしまうから
そうゆうの守るのが当たり前の場になったら
窮屈になるから
みんなわーわー言い出すんだよね?
でもさ、
守らなきゃいけないと考えるから窮屈に思うんじゃないの?
自分が書きたいものを書くために、必要なことだと思えばいいんじゃないの?
それが使いこなせるようになったら、
使えない時よりは
少しは、自分が書きたいのが書きやすくなるんじゃないの?
だってさ、まったくなんにも知らない状態で書くのと
少しは知ってる状態で書くのとは
書きやすさはかなり違うと思うが?
基礎は、完璧なものを創るためにあるんじゃない
自分にとって最高のものを創りたい。それをかなえるためにある心強い味方
と思えば
なんでそんなこと守らなきゃいけないんだよって
そんな理不尽なことで頭悩ますこと、ないんじゃないの?と思うよ。
てーか、
字は、書けない人はそんなにいないから、みんな文章作法なんて、ルールなんてと思っちゃう。
でもそれ、
たとえばさ、
絵描くのも、線引けない人はそんなにいないから、デッサンなんて、色彩構成なんてと
言ってるのと同じなんじゃない?
いくら壮大なビジョンを持ってても
文字は書けてもそこからさき知らないんじゃ、書きようがないでしょうよ。
線引けてもそれから先知らんのじゃ、絵描けないのと同じように。
ルールじゃない。課題でもない
「道具」と思えばいいんでないの?
使い方が旨けりゃうまいほど、
楽に自分の思い描いたことが創れるようになる。
そう考えたらいいと思いますよ。
あのさ、どんなことでもさ
愛情を持って創ろうよ。
て、コンナこと言うたらさ、
とにかく愛情込めて創りました→字面だけ取ってる人多いんだよな(ノД`)・゜・。
そーじゃーねーって!
そんな
家庭料理じゃないんだから
趣味なんだから
家庭料理で愛情込める、てのと
趣味で愛情込めるのと
言葉同じだけど中身違うじゃん!
でもほとんどの人が
愛情込めるのを
家庭料理に母が愛を込めたのと同じ定義で解釈してるから
だから
そこに
作法とか
基礎知識とか、基礎訓練という話になると
「守らなきいけないのぉ?」と反発がくるわけですよ
てーか
母親の手料理は
責任と義務でしょ。家族のための。
でも趣味は?
自分の楽しみのためだよね?
だったら愛を込めるのは誰?
自分じゃないの?
だったら
何をしたら
自分の趣味にとって得なのか損なのか
考えたら分かる話ですよね?と言うことだと思いますよ。