2.後輩を助け、抱き締め、懐かれて
後輩の姫川由衣は天才少女だ。
彼女の絵は多くの人々を魅了し、やがては美術界を背負う器と言われている。
けれど、その姫川自身は自分の絵に見切りをつけたらしい。
小柄な後輩は挫折の果てに、俺の目の前で海へと飛び込んだ。
俺はブレザーを脱ぎ捨て、その後を追って桟橋を蹴った。
水を掻いて一気に潜り、姫川の小さな背中を下から押し上げる。
「かは……っ、朝倉先輩、どうして……っ!?」
水を飲み、激しくせき込みながら、姫川は暴れた。
「わたしはここで終わりなんです……っ! わたしの絵は世界の本質に迫れなかった。もう生きてても意味がない……! だからここで死なせて……っ」
「うるせえ、馬鹿野郎ッ!」
「……っ!?」
姫川の体をしっかり固定し、岸へと向かう。
チャリで疲れた体には重労働だ。しかもどんどん沖へ流されていく。だとしても弱音なんか吐いてられるか。俺は問答無用で姫川を連れていく。
「どんなに挫折しようがどんなに苦悩しようが、お前の勝手だ。でも勝手に死ぬことは許さねえ。それだけは俺が絶対させない!」
「……っ、先輩には関係ないじゃないですか!」
「関係ならあるんだよ! 俺は……姫川が絵を描いてる姿が好きだった」
「え……」
俺は絵になんて興味ない。美術部に入ったのも気まぐれだった。ウチの中学は全員、部に入るのが決まりだから、楽そうな部を選んだんだ。
顔を出すのもたまにだけ。とくに仲のいい部員もいなかった。
そんなある日。
ふらっと立ち寄った部室にひとりの後輩がいた。
「それって……」
「姫川だよ」
カーテンが柔らかく揺れるなか、姫川由衣は真っ直ぐキャンパスに向かっていた。
見た目は大きなリボンが特徴的な可愛らしい女の子。それに反して、瞳は射貫くように自らの絵を見つめ、手は絶えず筆を動かしている。
「たぶんあの日、俺は初めて見たんだ。何かに本気になってる人間ってやつを。衝撃的だった。俺はいつもちゃらんぽらんに生きてるからさ、人間ってこんなに真剣な顔をするものなのかって、驚いて目を離せなくなった……」
「わたしは絵のために生きてきました。真剣になるのは当たり前です……」
「その当たり前ができない人間だっているんだ」
俺には姫川の気持ちは分からない。
姫川にも俺の気持ちなんて分からないだろう。でも――。
「そのちゃらんぽらんな俺も今だけは本気になるぞ! 何があってもお前に生きててほしいからな……っ!」
波が口に飛び込んでくる。水を吸った服が重い。姫川を抱えてるから重さは二人分だ。それでも必死に岸を目指す。
「わたしは……生きてていいんでしょうか?」
「あ!? なんだって!? 波音でかき消されて聞こえない!」
「わたしは生きてていいんでしょうか!? 絵を描けないわたしに価値なんてないのに……っ!」
「いいに決まってんだろうが!」
波をかき分けて俺は叫ぶ。
「俺は絵のことなんて分かんねえ! 世界の本質なんて言われてもさっぱりだ! でもこれだけは断言できる! 姫川には――生きててほしい! これが価値ってやつだろう!?」
「……っ! 先輩、う、う、うああああああっ」
姫川は大声で泣き、そして自分の力で泳ぎ始めた。
やがてどうにか二人で岸についた頃には、とうに陽が暮れていた。
砂浜に上がり、俺はたちはぐったりと横たわる。さすがに疲労困憊だ。見上げる先には一番星が輝いているが、きれいだと思えるような余力もない。
「ごめん、なさい……」
姫川が息切れをしながらつぶやいた。
髪は濡れて頬に張りつき、トレードマークのリボンも曲がってしまっている。
「……ごめんなさい、先輩。わたしが間違ってました……」
「分かればいいんだ」
答えながら視線を向ける。
姫川の小さな手はか細く震えていた。
「……今になって怖くなってきたのか?」
「いいえ……これは死のうとした過去じゃなくて、これからの未来に対する震えです」
「未来?」
「絵に挫折し、それでも生きていくこと……。これから送る、寄る辺のない日々を思うと……震えが止まらないです」
姫川は体を起こした。
そして縋るような眼差しで、こちらへ手を伸ばす。
「先輩、抱き締めてもらえませんか?」
「ん?」
「先輩が支えてくれたらこの先も頑張れる気がします。だから……」
美少女の後輩が精一杯の顔で甘えようとしてくる。
「お願い、わたしを……由衣を抱き締めて下さい」
いいんだろうか……。
正直、戸惑いもあるが、こうして助けた責任もある。俺はぎこちなく両手を広げた。
「おいで」
「先輩……っ」
小動物のように胸に飛び込んできた。
柔らかい。温かい。つまりは生きている。
「あの……」
「うん?」
「なでなでもお願いできますか?」
「注文の多い後輩だな……」
一応、口では文句を言いつつ……姫川の髪を撫でる。後輩は「気持ちいいです……」とうっとりしながら目を細めた。
だがこの時の俺は思いもよらなかった。
シリアスな空気はここまでで、翌日からはこの姫川由衣にすごい勢いで懐かれ、これまでの生活が一変してしまうということを。