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1.泣いてる女は助けてやれ、と漁師の親父が言っていた。


 潮風が頬を撫でていた。

 夕暮れの海はまだ夜のヴェールを感じさせず、鮮やかなオレンジ色に輝いている。


 俺は荒く息を吐きながら、通学用チャリのペダルを漕いでいた。

 汗の玉が次々に国道の向こうへ散っていく。ずっと呼び出し続けていたスマホがスピーカーモードで繋がった。


「……朝倉(あさくら)先輩?」

姫川(ひめかわ)! 今どこにいる!?」

「え? え? なんで朝倉先輩が……?」

「部室の絵! あんなもん見たら誰でも心配するわ! これでも一応、先輩だからな!」


 数十分前のこと。

 幽霊部員の俺は気まぐれで部室に顔を出し、無残に切り裂かれたキャンバスを発見した。

 中学2年生にして美術界から天才の呼び名を得ている神童、姫川由衣(ゆい)の絵だ。


 教師や部員たちは全員、彼女を崇拝している。その絵を切り裂くような奴がいるとすれば、それは――姫川由衣本人以外にありえない。

 気づいた瞬間、俺はチャリを漕ぎだしていた。


「もっかい聞くぞ!? 姫川、今お前、どこにいる!?」

「港の先にある……桟橋のところです」

「あの絵に描かれた場所のことか!?」

「……はい」

「――だと思ったよ」


 ブレーキが錆びついた音を立て、自転車が止まった。

 俺の視線の先――海を見つめていた姫川は驚いて振り返る。

 その目は大きく見開かれた。


「朝倉先輩……っ!?」

「美術部だけどさ、体力には自信あるんだよ。夏は部活サボって、海に泳ぎにきてるからな」

「汗、やばいですよ……?」

「ペース考えずに全力で漕いできたからな。体力に自信あってもさすがにしんどい」

「なんで、そこまでしてわたしのところに……」


 姫川由衣は俺の一個下の後輩だ。

 体は小柄で小動物のような雰囲気。なのに顔立ちがお人形さんのように整っていて、皆、そのギャップにやられてしまう。天性の美少女というやつだ。

 トレードマークはロングの髪につけた、大きなリボン。おかげで廊下の先にいても一目で分かる。


 そんな姫川を見据え、俺は桟橋へ足を踏み入れた。あくまで何気ない足取りで近づいていく。


「ここにきた理由はもう言ったはずだぞ。美術部の絵を見た。お前が自分で切り裂いた絵をな。……なんであんなことした? あれって次のコンテストに出す作品だろ?」

「描けないんです……」

「描けない? 天才のお前が?」


 姫川はスケッチブックを抱えていた。足元には道具も置いてある。切り裂いた絵と同じ風景をここでまた描いていたのだろう。

 スケッチブックが俺へ向けられた。

 

 海から輝きを放つ、神々しい夕焼けの絵。

 ちょうど今、姫川の後ろにある風景そのものだ。いや……実際の夕焼けよりも美しいかもしれない。ほとんど素人の俺にまでそう思わせるような、凄まじい迫力の絵だった。


「先輩、この絵をどう思いますか……?」

「間違いなくグランプリを取れる作品だと思う」

「違う! 賞なんてどうでもいいんです! こんなのぜんぜん駄目! 世界の本質を何一つ表現できていない……っ!」


 夕焼けの光のなか、天才少女は苦悩をにじませた。


「何度やっても届かないの! わたし、この作品に懸けてたんです! わたしの全身全霊を賭して、世界を描かききってみせるんだって誓ってた! でも届かない、わたしなんかじゃ、どんなに頑張ったって世界には歯が立たないんだ……っ」


 恐ろしいほど、何一つ共感できない苦悩だった。

 姫川由衣は多くの人に実力を認められている。今後の美術界を牽引していくのは彼女だと、誰もが信じて疑わない。


 だが姫川本人は絵を通して、世界……そのものに挑戦していたらしい。たぶん海の美しさとか夕焼けの壮大さとか、そういうものを表現しようとしていたのだと思う。

 けれど敗れた。

 世界に敵わなかった。

 なんだそれは? 凡人の幽霊部員の俺には何一つ理解できない。


「絵で敗北したわたしに価値なんてありません。わたしは……今日、ここで死にます」

「……は? え、ちょ……待て、姫川!」

「ごめんなさい……!」


 スケッチブックを投げ出して、姫川は走り出した。

 桟橋の突端へ真っ直ぐ向かっていく。

 小柄な体はためらいなく飛び込んだ。大きな水柱が上がり、水滴が夕焼けのなかで輝く。


「あの馬鹿……っ!」

 

 水を吸うと、服は手足に絡まって自由を奪う。このままでは本当に――死にかねない!

 俺は全速力で駆け出した。

 姫川と俺は別段、仲が良かったわけじゃない。なんせ将来有望な天才少女と幽霊部員だ。

 直接話したことなんて、数回あったかどうかという程度だろう。だとしても。


「天才様がどんな挫折したか知らねえけどさ……っ! 今生きてる奴が死んでいい理由なんてねえんだよ――ッ!」


 着ていたブレザーを放り投げ、俺は姫川を追って海へと飛び込んだ。


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