Ⅰ
彼女と過ごす日々は、実に幸せである。彼女はすっごく大変そうだけど。
彼女はいつも忙しそうに動き回っていた。しかしそれでも、僕の為か長く家を空けることはなかった。感覚的には二、三時間くらいだろうか。時計がないからそのあたりは曖昧だが、無理してでも家に長くいるように思えた。そのため、僕も遠慮はせず彼女に迷惑を掛けている。腹が減れば泣きわめくし、生理的武者震いに襲われれば泣き叫ぶ。なにせこの世界は布おむつだ。汚したら処理が大変だろうという気づかいでもあるが、実際、糞尿が張り付くというのが気持ち悪く、それを避けているだけに過ぎない。
彼女は一生懸命に生きていた。僕の世話も大変だろうに、不慣れとわかる手つきでも手を抜くことは無かった。返答も無いのに、毎日僕に話しかけてくれてくれるそのお陰で、この世界に日本語が存在するという幸せを噛みしめることに繋がった。彼女が話しているのは、明らかに日本語なのだ。いや、僕の頭がどうこうどうにかなって日本語に聞こえるだけかもしれないが……そうとしか考えられなかった。未練たらたらの元の世界を少しでも感じようと、そう思いたいだけなのかもしれない。
時間は緩慢に過ぎていった。
泣き叫んで、食べて、泣き叫んで、下を世話してもらって、寝て、考えて―――苦しんで。そんな日々は緩慢に過ぎ、ある日、彼女はささやかに僕を祝ってくれた。
ロウソクのついたケーキや豪華な食べ物なんてなくて、僕たちたった二人だけの小さなバースデイパーティ。彼女は僕の一歳を祝ってくれたのだ。そして彼女は僕に名前をくれた。思えば、僕はその日まで、ただの一度たりとも彼女に名を呼ばれたことが無かった。
しかし、同時に不可解な……じっちゃんの遺言のようなことを言い出した。
「カナデ。あなたの真名は、絶対に人に知られてはいけないわ。絶対によ。だからあなたの名は、レイ。私もあなたのことをそう呼ぶわ。信頼した人にも、新たに家族ができても――あなたがカナデであることを明かしてはならないわ」
妙に心に刻まれた言葉。逆に忘れられなくなってしまった。「赤子に何言ってるのかしら……」なんて言った後に後悔している声は、僕に語り掛けた時のシリアスさは霧散していた。
残念ながら僕は、見た目は赤子、頭脳は高校生のため、もちろんしっかり記憶している。よかったね、無意味じゃないよ。
あれから一ヶ月ほどして、僕はまともに歩けるようになった。念願の四足歩行である。
彼女は始めはあわあわとしていたが、超理性的な僕の行動に落ち着いていき、一週間ほどで自由行動が許されるようになった。約束事は、外に出ない、刃物に近づかない、である。しかし依然おむつだ、畜生。
ごはんが無味の黄色液体から、乳白色系の液状個体に進化した。ほどよく塩味が入って、毎日味に変化があるから今までに比べ中々に好い。肉がいつから食えるようになるか楽しみだ。
そして僕も少しずつ、舌が回るようになってきた。平均よりもずいぶん遅い気がするが、この体は成長が緩慢なのだろうか。まぁ個人差だよ個人差。大丈夫、僕は身長はあった方だ。心配なんていらない。
舌が回るようになると、自然と会話が増えて言った。しかし僕らが話すのは日本語ではない。文法も用いる語も全然違う別言語。異世界で恐れるべきことベスト3が一つ、異世界語である。よって僕は転生者の利点を十分には発揮できず、会話と言っても反芻程度しかできないわけだ。しかし、僕とて元優等生……言語習得には自信があった。
彼女は僕を寝かしつけるためか、夜には僕に物語を聞かせてくれる。臨場感あふれる、まるで体験した場景を自分の言葉で物語化しているようだった。勧善懲悪の英雄譚、こわーい魔王様の悲劇、ほのぼのとした町娘の物語、凄腕商人の伝説……毎日語っているのに、彼女はまだ物語があるかのように、ためらいなく話してくれる。彼女の話で、僕は異世界の多くを知れた。毎日の楽しみは、異世界を知れる夜でのひとときだった。
少しずず変わっていく日々が、僕の二歳の誕生日に突入した。
根気強く日数を数えていた僕は、一年が三百六十日であることを知る。なんと約五日も違うのだ。こうなると、この世界の一秒の概念も怪しくなってくる。自転周期も違うのだろうか……まぁ、そのあたりは生活していれば勝手に身につくだろう。
もう僕は会話に不自由を感じていなかった。まぁ、あまり饒舌にしゃべる訳にはいかずちょっと拙い感じを演じているのだが。
どうやら一歳の誕生会は特別だったようで、二歳になっても大きなアクションは無かった。ただ「二年間よく頑張って生きたわね」と髪をぐしゃぐしゃにされながら褒められただけだ。なんだかそれは、家族に本来あるべき温かさのように感じて、小さなことながらも本当にうれしかった。
この世界は、話に聞くだけでも過酷である。死という言葉に対するリアリティが全然違うのだ。
魔人族、人族、魔族、龍族、神族。左から弱い順だ。この世界の意志ある者は、基本的にこの五つに分類されるらしい。五族は常にいがみ合っており、戦争で屍が積み上がる事なんてあたりまえだそうだ。平和至高としている僕からすれば、なるべく関わりたくない。
僕はおそらく人族に分類される、弱小種族だ。魔族はともかくとして、龍族や神族というのは人を呼吸するように殺せるらしい。ようするに、生まれながらの弱者である僕は、これらに向かって平社員よろしくぺこぺこ腰折って生きて行かなければならないわけだ。文字通り生きるため。
死が当たり前のように跋扈する世界で、僕が生きられる自信は正直皆無である。そう思う一方、一日一日の重みが増したことで、無駄にできないと言いう思いはさらに強まった。
今は大それたことはできない――だから僕は学ぶことに集中した。
丁度二歳になった日から、彼女は読み書きを僕に教えてくれた。日本語ではなく、異世界語だ。この家には紙はあるしペンとインクもあるのだが……高そうなので使わず、棒を砂利に刺して書いていた。もちろんそんな姿を見られるわけにはいかないので、隠れてこそこそやっている。二歳になってから自由は増え、昼間彼女が家を留守にする時間も増えたため都合がよかった。
彼女が家で家事やらなにやらをしている間は、基本的に読書タイムだ。速読には自信があるのだが、二歳の子供が速読していたら気持ち悪いだろうという配慮で、めっちゃゆっくり読んでいる。一ページめくるのに五分かけるくらい。お陰で全然進まない。因みに僕が今読んでいるのは、『世界はこんなに広かった』という名著らしい。二十年ほど前の本らしいが、そこまで細かく書いていないので今とあんまり変わらないだろう。
そうやって勉強に集中し、僕は二年かけて異世界語をマスターし、ニ十冊を超える本を読み漁り、夜に彼女と昔話で盛り上がったお陰で相当知識もついた。
地盤をしっかりと固め終えた四歳のある日、僕は彼女にこうお願いした。
「戦い方が知りたい、教えて下さい」
すると彼女は驚いたように尻尾をぴんと張らせ、それから頬を掻いた。どうにも迷っているようだった。いくら義母であるとはいえ、育てた子供からいきなり戦い方を知りたいなんて言われたら、そら誰でも反応には困るだろう。
「うーん……どうしても?」
こくりと頷く。剣でも魔法でも何でもいいから、僕はこの世界で生き抜くための術が一つでも多く欲しかった。知力は十二分に備わっている。あとは身を守るだけの武力があれば問題ない。
「そっか……まだ武術は難しいだろうし、魔法でいい?」
むしろそっちが望みです。そんな気持ちは露にせず、顔を頑張って残念そうにして頷いた。ぶちゅつだって後々習いたいのは確かなので、やる気だけは見せておきたいのである。
すると彼女はどこからともなく三つの指輪と杖を取り出した。指輪はどれも、生きているかのように深い光を含有した宝石が嵌まっており、何か力が籠っているのではと推測できた。恐らく魔法を使う上での補助役割でもあるのだろう。もしくは、この世界の魔法は力のある宝石やらなんやらを媒介として発動するものなのだろうか。杖は一見、ただの小枝のように思える華奢な姿だが、ちりばめるように埋まっている宝石から不思議な力を感じて、やはり宝石には補助役割があるのだと再確認する。
「といっても、私も人族の魔法はかじった程度で、上級までしか教えられないわ」
「魔法には位があるの?」
軽い口調で訊く。正直、母親に対してどのように接すればまともか知らないのだが、くだけた感じがいいだろうとの判断で基本的にはこれくらい適当だ。
「よく気づいたわね。初級から始まって、下級、中級、上級、勇級、龍級、神級の順に位は高くなるの。人族の技術による位分けは、大体この七段階になっているはずよ」
ほう。技術ってことは、料理や洗濯まで客観的評価が下されてしまうのだろうか。この世界の人間社会はどうやらとっても生きづらそうだ。
「本当は神級まで教えてあげたいのだけれど……勇級から上は国家機密なのよ」
申し訳なさそうに、彼女は目を逸らした。彼女のせいではあるまい。勇級以上の魔法がそれだけ強力だということだろう。どこの世界でも優良な技術は独占されるものであるらしい。一般市民が手を出せるのはどう頑張っても上級まで、ということは、上級まで習得すれば一般市民に敵なしという訳である。十分じゃないか。
「じゃあ、まずは魔術基礎からね。人族の魔法・魔術というのは基礎三大属性から更に大きく派生して、火・風・水・土・雷・聖・闇の七属性と無属性と言われる特徴を持たない属性から成り立っているわ。聖・闇は教会の関係者のみに伝わるものだから、これも私では教えられないの。ごめんなさい」
「気にしないでお母さん。教えらてもらえるだけで僕は嬉しいんだから」
「レイ……」
にこっ、と純粋そうな笑顔を浮かべれば、ひしっと彼女の抱擁を頂ける。あぁ、めっちゃいい匂い。シャンプーないのにどうやってこんな匂いになるんだろうか。
彼女に対して、お母さん⇒純粋な笑顔攻撃は効果が抜群で、だいたいこうして抱擁がいただける。転生前と合わせて二十年ほど生きている僕からすれば、頭の中で欲と言うものが溜まりに溜まっていくのだが、こうして彼女でくんかくんかすることで解消している。客観的に考えて、義母ながらも母親で解消するなどどうなのかとは思われるだろうが、彼女は見た目母親感皆無なのでなんら問題ない。
というわけでくんかくんかっ……ふむ、ちょっと汗臭いのもいいな。最近やけに暑いもんね、ありがとう太陽、ありがとう自然界。
因みにだが、この世界では魔法と魔術は別枠である。詳しくは知らんが、魔術では魔法陣を使うが魔法では使わない、という区別がされている。
十秒ほどの長い抱擁を終えると、こほんと一つ咳払いをして執り成す。
「えっとね、属性にはそれぞれ適性があって、親和性の高い事柄ほど適性があって、より効率的に魔法が行使できるようになるわ」
「親和性っていうと?」
「えぇっと、相性のことよ。過去にその事柄で嫌なことがあると、悪くなるわ。意識的に親和性を高める……えっと、相性を更に良くする方法はないと思っていいわ」
適性は先天的なところが大きいわけか。そこからトラウマやらなんやらで悪化するんだろうね……すると僕は、火属性は苦手なのかな? 闇の炎に抱かれて消えろ! とかやりたいんだけど。
「レイはどの魔法が学びたい?」
「とりあえず全部」
「と、とりあえずって、凄いこと言うわねこの子……そうね、じゃあ基礎三属性からにしましょう。風からでいいかしら」
良いね。風と言えば隠密性・汎用性共に高い。もしかしたら、独力で空とか飛べるようになるのではないだろうか。まぁ、グライダーとか、風を受ける物は必要になるけど。イメージはシークレットナンバー1412番のマジシャンだ。
「じゃあ、外に出ましょう。まずは魔力を知ることからよ」
魔力! 彼女の話の中で、当たり前のように出て来るものだから忘れていたが、最もファンタジーらしい要素じゃないか。興奮が舞い戻って来たぞ!
魔力というものはいまいち実体が掴めていないと、本に書いてあった。要約すると、物質という考え方もあったし、電気のような単なるエネルギーという説もあった。しかし、万物が保有しているという。何故かこれは立証済みらしく、万有魔力の法則と書いてあった。なんじゃそら。
「魔力は考えて把握しようとしても無駄よ、無駄なのよ。魔法を何度も見て、何度も受けて感じるしかないの。この世には魔力が見える魔眼持ちとか生まれながらに魔力を感じる人種がいるようだけれどね、そんなのごく一部の天才どもなのよ、恵まれた奴らなの。それなのにオーグルのアホ、私のことを何度も何度も馬鹿にして……」
あーうん、僕のお母さんは過去にいんろいろあったようだ。尻尾がビーンと立っている。恐らくそのオーグルさんとやらは、彼女のことが好きで好きで仕方なかったに違いない。あれだ、小学生が好きな女の子に構って欲しくてちょっかいかけているみたいなものだろう。
「……ハッ。思い出したら一発殴りたくなってきたわ」
「うわーん、おかーさんがこわいよー」
かっこ棒かっことじ。
「あ、え、ち、違うのよレイ? 怖くない、怖くない。ささ、魔力を感じるためのトレーニングをしましょう。ね?」
「うん、わかった」
「あ、あれ? んーまぁいっか。じゃあレイ、始めるわよ」
突然の変わりように若干混乱しているが、不機嫌そうに顔を歪めてみればすぐに気にしなくなる。ふっ、ちょろいな。子供に甘いのだよ、うれしいけど、
彼女は僕の目線の高さまでしゃがむと、両手をとって、こつんと額を合わせた。かつての僕ならばこの場面に鼻息荒くしていただろうが、今や彼女に対しては母親という意識が強い。くんすかすることはあっても、興奮して変に荒ぶることはなかった。
「抵抗することはないわ。びっくりするかもしれないけれど、貴方はこれを無意識的に知っているの。誰にでもあるものよ、怖がることはないの」
そこまで言われると怖くなるんだけど、一体何をしようとしているのだろうか……まさかいきなり体内から爆散したりはしないよな……ははっ。
考えたくないな、と笑っていると突然、背骨をねこじゃらしで撫でられたかのような寒気が走った。ついでやって来る不快感は、全身の血管をつついて回っているのかと思わせた。異物が血管内で暴れ回っている、カテーテルはもしかしてこんな感覚なのだろうかなんて懐かしの元の世界に思考を飛ばした。
彼女は言った、これを無意識的に感じていると。冗談じゃない。体内にこんなものがあってたまるかと正直不快極まりない。もしかするとこれは、魔力のない世界で生きていた弊害だろうか。比較対象があるからこうも不快を感じるのかもしれない。
なら比べちゃダメだ。分別をつけて受け入れることが大切なんだ。これがこの世界の当たり前、常識が少し変わっただけ。今感じているのは不快ではなく、魔力を司るいわば第六感。今彼女は、第六感に対応する感覚器官の覚醒を促進しているだけ。僕がすべきことは、この感覚に対して、意識的な信号を生み出せるようになることなのだ。それがつまり、魔力を感じるということなのだろう。
さて、考えるとめっちゃ難しいな。使わないことは簡単だ、意識をしなければいい。だが、使おうとする意識、というものが考えにくい。
「感じているかしら。新しく別のナニカが生まれれば、それがあなたの魔力への感覚よ。体の中にある魔力を私の魔力で刺激して活性化させているの。今は感じるだけでいいわ。少し続けるわよ」
彼女によれば生まれながらに魔力を感じられる人が居るらしいが、どうやらそれ以外の一般人はこうして強制的に覚醒させる必要があるらしい。平民が誰でも、というわけではないのか。これじゃあこの世界の身分差は酷そうだ。
魔力に対して未だ不快感を完全払拭するには至っていないが、不快感は我慢すればどうにでもなる。魔力がある、しかし魔力の存在という感覚が無くなってしまっては意味がない。必死に僕はその感覚を刻み込んだ。
やがて、体内で蠢くそれは勢いを弱め、何事も無かったように静かになった。しかし、僕の中には確かに魔力という存在が刻まれている。
「よし。魔力は感じられたみたいね。よかったわ、じゃあ早速、魔力を使って体に覚えさせましょう。人族の初級風魔法『誘風』はね、風向きを曲げる魔法よ」
流石初級、あんまり戦闘向きじゃないね。しかし結構使えそうだ。飛び道具があれば風向きを変えて軌道を逸らせるし、帆船なんてものがこの世界にあれば航海の自由度はかなり高くなるだろう。習得していて損はない魔法だな。
彼女は庭に挿してある風見鶏的な風向計を見るように言った。その矢印は北を向いている。背からわずかに風を感じていた。
「見ててね。――宣言、抗いを示す。『誘風』」
詠唱短いなぁと考えていると、ゆっくり風見鶏が動き出し、風見鶏は左90度に回転した。しかし僕は依然後ろから風を感じている。風見鶏周辺の風向のみ捻じ曲げたのだろう。原理がわからん。
「どうやったの?」
「うーんと、説明がちょっと難しいんだけど……」
「いいよ、別に。難しくてもいいから、詳しく教えて」
「……わかったわ。風って言うのはね、空気が移動することでおきるの。空気の移動は、自然現象の一つで、巨大な力がはたらいて起きている。その巨大な力の一端を歪めることで、空気の動きに差を生む。そうすると、風は曲がってくれるのよ」
ほぅ、要するにあんまり良く分かっていない、ということか。
風は気圧差によって生まれる空気の移動というのは中二で習う事だったか。高い方から低い方へ。巨大な力というのはその気圧差を生む太陽の力のことか。いや、もしかすると風は魔力的要素で、誰かが永遠作為的に起こしているものと考えられているのだろうか。ならば巨大な力の一端、というのは空気そのものにあるということになる。ならば歪めるというのは、気圧差を作っているのだろう。するとやっているのは空気の密度変化か。
……待てよ、それって風魔法ってより、単なる物質操作じゃね?
空気はざっくりいえば、多種の気体が混合した気体だ。極小の粒が目視不可能な速度で移動している。風向きを決めるのなら、進行方向の密度を小さくするべきだろう。進行方向の分子を散らして密度を減らせば……
いやいやいやいや待てぃ!
何故そんなまどろっこしいことしようとしているんじゃい! 風魔法が空気分子を操る魔法。この仮定が正しいのならば密度云々なんざ気にせず、始めっから空気分子を動かした方が圧倒的工程数が少ないはずなのだ。そりゃ、密度を小さくする方が楽だろうけど、発動速度やらなんやらを考えるなら、圧倒的こっちの方がいいはず。
「――ものは試しか」
「お、レイ、やってみるの?」
「うん」
「イメージよ、イメージが大事なの。風が曲がるイメージよ」
まずは魔力を使うということに慣れよう。次にこの仮定を検証するのだ。
北を向いている風見鶏に手を向けた。
「宣言、抗いを示す。『誘風』」
手から何かが飛びてていくように感じた。これが魔力を使う……保有した魔力を消費し、魔法を行使する感覚なのだろう。自分の魔力が飛んでいくのを感じた。それは風見鶏の近くで爆ぜたように一瞬膨らみ、力を分散する。すると風見鶏は北から向きを変えた。しかしまたすぐに戻る。維持ができなかったのだろう。
意識……イメージ力が足りないというのだろうか。なら、単純に考えてみよう。風が曲がるというイメージではない。そもそも風の軌道は、その部分だけ曲がるようになっているのだ。そう、思い込め。
流水のような風をイメージ……イメージ……イメージ……
「――! きったぁ……!」
よくわからんが魔力が体から抜けて行き、見事風は僕の想像通りの軌道で吹いた。正確には判らんが、風見鶏がその通り動いたから多分そうだろう。これが恐らく彼女が言っていた理論通りの風魔法の正しい使い方だ。じゃあ、次は検証と行こうじゃないか。
空気分子……試しに酸素でも動かしてみようか、見えないけど。
イメージはこうしよう。僕の指がコントローラーで、同種の分子を一纏めにした集合体を任意で動かせるとする。コントローラーからは魔力が直線的につながっていて、方向を命令できる。今は前後左右上下の六方向にしようかな。よし。
繋がれ……繋がれ……繋がれぇ……繋がれぇェ……
うっぉなんか出た。やっぱり気持ち悪いなこれ。さっきとは少し違った感覚だ。繋がるというイメージがしっかり具現化されている。まるで指が延長されている感じだ。うーむ、だが何と繋がっているのかわかない。触れている感覚のある所に何も見えないから空気中の成分ではあろうが。
まぁいい、分別は後回しだ。今はこれを動かしたき、風魔法と同現象を起こせることができれば仮定は証明される。
「うぃ……ん~ん?」
ナニコレビクトモシナイ。指の力だけじゃ足りないか……彼女には奇妙に思われるかもしれないけど、背負い投げの要領で引っ張れば……
「お、いけ―――んぎゃぁ!?」
確かに動かせたし、引っ張ることもできたのだが、それはあまりにも大きすぎたようだった。背中から暴風に襲われ、耐える余裕なんてなく軽々とハイジャンプ。木々を軽々と超えてしまう、恐ろしい力に三半規管がぐらんぐらんと揺らされた。
それに加えて襲ってきたのは虚脱感。筋弛緩剤を打たれたのではと疑いたくなるくらいに身体が動かない。久しぶりの無力感だ。懐かしすぎてこのまま現実から強制逃避させられちゃいそう。
何もできないことがわかると人間簡単に冷静に成れるものだ。冷静になり過ぎて目の前の光景がよく見える。切り裂くような紫の光が天から迸り、その光が束となるとぼわっと膨れ上がって翼を形成した。ふわりと僕を受け止めると、その翼は僕を緩やかに引き上げる。そしてふにゃりと圧倒的弾力性を誇る双丘に受け止められた。漸く僕は、今まで上下反転していて、地上に引っ張られたのだと気づいた。
「……レイ、魔力枯渇まで起こして、一体何をしたらこうなるのよ」
僕の頬を撫でる彼女の手つきは優しかった。僕を咎めているというよりは、本気で疑問に思っている感じだ。そういえば、こうして抱えられるのも随分と久しぶりだ。いろいろ想定外で散々だったが、このためだったと割り切れば万事解決。
いや違うよ、仮定の証明だよ。
分子を直接操作して疑似的な風――空気の移動を再現することには成功した。しかし、欠点は二つ。魔力枯渇とやらを起こすほどの魔力の消費が高いこと。意志による操作には大量の魔力が必要なのかもしれない、もしかすると、詠唱をしなかったことに原因があるのかもしれない。もう一つの欠点は、威力の調節ができなかったことだ。現段階で、零か百の二択しかないのだ。勝手に魔法を考えるのは、もう少しこの世界の魔法を学んでからの方がいいかもしれない。
その日から三日ほど、魔力枯渇が原因で僕は寝たきりとなってしまったらしい。
「らしい」というのは、ベットに寝かしてもらったあたりから、殆ど記憶がないからだ。魔力枯渇は滅多に起きるものではなく、回復もマジックポーションというちょっとお高めの薬がないとままならないらしい。一週間まるきり寝込むことも発症してしまえばあるそうだ。因みに、魔力枯渇は病気的扱いらしい。
勿論うちに薬なんてある訳も無く、放置するしかなかったそうだ。その間相当心配させてしまった。僕が起きた時、泣きつかれて叱られとっても大変だったからもう二度としない。多分。少なくとも薬を手に入れるまでは。
彼女はその日以降、魔法を僕に教えることを渋った。それはもう、一日無関心を貫いて敬語で突き放すように接する手に出るまで、魔法のまの字も出さなかった。何とも強靭な意思だ。
結局、人族の魔法を習得するのには一年もかかった。僕は今、五歳である。




