桜
ザァ——
突如吹いた風に、舞い上がる無数の花弁。
桜吹雪の真っただ中で、僕は一人の女性の姿を頭の中に描き出していた。
初めてのときは、ひどく緊張して唇を青くして。
二度目には、恥ずかしさに真っ赤な顔で。
三度目は、真剣に大きな目をさらに開いてみせて。
四度目になると、諦めたように哀しげな表情で。
——私じゃ、ダメかな……?
消え入りそうにか細い声が耳元に届いた気がして、風から顔を背けた。そのまま、視界に飛び込んできた景色をぼんやり眺める。
小さな丘の中腹に並ぶ桜の木々。それを彩る花々は、重苦しい空模様の下でも見事に咲き誇っていた。風にその身を揺さぶられながらも、凛として佇んでいた。
まるで、彼女だ。
顔を背けた先にも、彼女が存在していたのだ。
もう、こんなことばかりだ。
——また、逃げるのね。
ぽつりと漏れた、あのつぶやきは、僕の耳にも届いていた。きっと聞こえないだろうと思って零したのだろうが、はっきりとこの胸にまで届いて、心をじっとりと湿らせた。
(逃げてなどいない……)
乱暴にパーカーのポケットへ両手を突っ込むと、唇を噛んだ。痛みを感じるまで噛み締めた。そうしなくては、桜の花びらがなす波に呑まれてしまうような気がしていた。君が巻き起こす、壮大な波に。
呑みこまれたら最後、僕は自分自身を制御できる自信がなかった。今は、風から目を背けるがごとく、自分の感情を無視することなど容易にできる。うなずき、君をこの腕に抱きしめたいと願う気持ち……そこから、ほんの少し顔を横へ向けるだけだ。
(僕は……君が、すきだ)
もうずっと前から、好きでたまらなかった。君はきっと知らないだろうけれど。本当に、いつの間にか、恋に落ちてしまっていたのだ。
気がついたら君を目で追っていて、ふと我にかえると君のことを考えている。君がどこにいるのか、何をしているのか、何を考えて、何を感じて、どんなときに笑うのか、はたまた泣くのか。過去にどんなことをして、どんな空気を吸って、今のように成長したのか。もっと些細なこと、なんだって気になって、知りたくて、君の近くにいつもいた。ずっと見ていればわかるかななんて、単純すぎるのだけれど。
(君が、すきだ)
頭の中、繰り返せば繰り返すほどに、どんどん狭まってゆく心。はたと気づいたときにはもう、身動きが取れないほどにまで狭くなっていて、身の回りに起こるちっぽけなことにも腹を立てた。母親や、先生たちに八つ当たりをした。それでも収まらず、そのせいで君を傷つけたこともある。それでも——
(——僕は、君が……すきだ)
君が僕に想いを伝えてくれたとき、どんなに驚き、喜んだか知っているかい? 僕もだよ、そう応えて、腕の中に閉じ込めたかった。強く、きつく、抱きしめてそのまま、一生捕まえておこうかとさえ考えた。
できなかった。
臆病な僕には、それができなかった。
(あいつの、せいだ……)
くらり、と世界が揺れ、視界が歪む。こめかみを押さえて遠くを見つめると、大きく息を吐いた。ゆっくりと、何度も、呼吸を繰り返しながら、桜の木々を見つめた。
脳内に棲まう魔物が、また、暴れ出した。
こいつが理由で、君を抱きしめたかったのに、臆病な僕は抱きしめられなかった。
(もう、あとどれほど、保つだろうか……)
桜のうす紅に君の微笑みを重ねると、自然と頬がゆるんだ。激しく脈打つ痛みなど、君の笑顔の前では、遠い世界へと投げやってしまえる。
しかし、今は……あとほんの少し、想像の力が足りないようだ。
本物の笑顔が今、目の前にあったなら。僕は、目尻を下げてだらしなく笑えるだろう。本物の君が今、目の前にあったなら……
遠くから、よく世話を焼いてくれる看護師さんの声がする。無断で外出したことを、怒るだろうか。
——それでもいい。
今ここで少しばかり、君を感じられたから。
ふっと体が軽くなって、柔らかな芝が僕を受け止める。
遠のいてゆく意識。その中で春の香りに抱きとめられると、途方もなくしあわせだった。
まるで、君の愛に抱かれているかのようだった。




