呪いの指輪
それは俺がシリアに行った時のことだった。
その頃のシリアはまだ治安が保たれていて、観光に行くこともできた。お土産を買おうと思って、市場を歩いていたところ、一人で露店を出している女が目についた。俺は、何となく心ひかれて、そちらに足を向けた。
彼女は、黒地に、縁に白いギザギザ模様のついた、ガラビーヤと呼ばれるアラブの民族衣装を着て、やはり黒いスカーフを被っていた。彼女は、目を上げて俺を見ると、笑って言った。
「いらっしゃい」
そこで気づいたけれど、彼女は、見た目は若いのに、髪は白髪だった。
テーブルに並べられた、指輪や腕輪や首飾りを見ていると、端の方に、紐で吊るされた指輪が目についた。ラインが二本入っただけの、シンプルな銀の指輪だ。俺は言った。
「この指輪はいくら?」
「あら、お客さん、お目が高いわね。それはアッバース朝の時代から伝わってるって噂の指輪よ。
……でも、私だったら、その指輪は買わないわね」
「どうして?高いんですか?」
「いえ、そうじゃないわ。でもね、その指輪は曰く付きの指輪なのよ。“呪いの指輪”だと、そう言われているわ」
「へえ、どんな呪いなんですか?」
「さあ、私も前の持ち主から譲り受けたものだから、詳しくは知らないのだけど、何でも、捨てても捨てても、持ち主のもとに戻ってくる指輪らしいわ」
「面白そうじゃないですか。買いますよ」
「あらありがとう。じゃ、ついでにこの首飾りも買っていかない?」
「いや、それはいいです」
こうして、俺はその指輪を買ったのだけど、日本に帰って来て、机の引き出しに入れて置いたら、いつの間にか無くなっていた。何だ、捨てても戻ってくるどころか、自分からいなくなりやがったと思っていたが、そのうち、指輪のことなどは忘れてしまった。
それから、俺はあの男に出会ったのだった。
その日、俺は仕事帰りに、車を走らせていた。疲れていたし、眠かったが、もちろんよそ見したりはしない。運転者の義務を守っていた。
歩道のほうから、一人の女が歩いてくるのが見えた。俺が通りすぎてから、道路を横切ろうというのだろう。俺はそのまま車を走らせた。
突然、彼女は何かにつまづいて、倒れた。そして、歩道を越えて、俺の車の前に転がった。急ブレーキを踏んだが、間に合わなかった。
俺の車が、骨を砕き、肉を潰す感触が、車越しに伝わってきた。嫌な音がして、血が飛び跳ねた。
「嘘だろ……」
俺は車から降りて、呆然と、車の下の、手足のねじ曲がった死体と、広がっていく血を眺めていた。誰かの悲鳴が聞こえ、人々が集まって来た。
彼女の夫だという男と、俺は法廷で出会った。彼は、俺の運転が不注意だったと、俺を訴えたのだ。
彼は真面目で直情径行そうな、しかしどことなく、情緒不安定そうな男で、法廷でも時々取り乱しては涙を流し、彼女を返してくれ、と訴えた。
俺は彼に同情したけれど、俺の方でも人生が掛かっているのだから、負ける訳にはいかない。俺はちゃんと運転者の義務を果たしていたのだ。俺は弁護士と協力して法廷で闘い、無事に無罪を勝ち取った。
無罪になったとはいえ、人を轢き殺してしまったという意識は、その後も俺に重くのしかかって来た。あのねじ曲がった手足と、血だまりとが、目に焼き付いて離れなかった。
どうして俺は、あの時あの場所で、車を走らせていたいたのだろうか。そして彼女がつまづいて……あの完璧な、まるで狙ったかのようなタイミングで。
あと五秒、あと五秒でも時間がずれていたら、あんな事故は起こらなかったのに……。敗訴した後の、夫の姿を思い出した。彼は明らかに、納得してはいなかった。それもそうだろう。こんなによくできた事故が起こるなんて、俺だって、自分の事でなければ、信じないだろう。
玄関のチャイムが鳴った。
俺は考え事をやめて、玄関に出て、扉を開けた。しかし誰もいない。何だ、いたずらか?と思った時、突然扉の影から、一人の男が飛び出して来た。
それはあの、俺がその妻を轢き殺した男だった。彼は刃渡り15cmくらいのナイフを持っていて、真っ直ぐ俺に突きかかって来た。
「うおっ!」
俺はとっさにかわした。服が裂け、皮膚が切れた。
「待ってくれ!話を……」
俺は相手のナイフを握った手を掴んで、取っ組み合った。男はすごい力で、ナイフをねじ込もうとしてくる。ナイフが顔をかすめ、頬が切れて血が滲んだ。本気だ。本気で俺を殺そうとしている!
「うおおおお!」
俺は男の足を払った。男は仰向けに倒れ、力が緩んだ。俺はナイフを奪い取り、男の胸に突き刺した。
刃が、硬い心臓を貫く感触がした。男はかっと目を見開き、俺を見つめた。何か言おうとしたが、血が溢れ出して、言葉にはならなかった。男は、俺を見据えたまま、息絶えた。
血が溢れ出して、床に血だまりが広がって行った。俺は荒い息をついて、壁に寄りかかり、床にしゃがみ込んだ。
「どうして……どうしてこんな事に……」
死体を前にして、俺は途方にくれた。これをどうしたらいいのだろう。どうしてこんな事に……。ああ、あの日、あの時、あの場所で車を走らせてさえいなければ……。その時、どこからか声がした。
『困っているようだな』
俺は辺りを見回したが、誰もいなかった。
『見回しても無駄だ。俺の姿は人には見えないのだ』
何だこれは、俺は頭がおかしくなったのか?
『覚えていないか?お前が昔買ったあの指輪のことを。俺は、その指輪に封じ込められていた魔神だ』
「魔神……?」
『指輪を買ってくれたお礼に、お前に恩返しがしたい。お前は今、後悔しているのだろう?あの日からやり直せたらと、そう思っているのだろう?』
「そうだが……」
『ならば、やり直させてやろう。時を巻き戻して、あの日の前からやり直させてやる』
「そんなことができるのか?いや、その前に、何か代償を払えとか言うんじゃないだろうな?」
『代償などは無い。ただ願えばいいのだ』
「そんな馬鹿な……」
俺は混乱した。事故と、あの男と、ナイフと、死体と、魔神と……どこまで信用できる?これは現実なのか?俺はどうなってしまったんだ?
だがその時、下の方から、誰かが階段を上がって来る音が聞こえた。まずい。俺はとっさに言った。
「助けてくれ!」
気がつくと、俺は自分の部屋の、ベッドの上に横たわっていた。
目覚まし時計のアラームが鳴る音が聞こえた。朝のようだ。何だったんだ、さっきのは?夢?いや、まさか……。
目覚まし時計のアラームを止めて、俺は気づいた。目覚まし時計の表示は、○月×日。
まさに、あの呪わしい事故があった日の、1日前だった。
「おい、魔神?」
俺は呼んだが、答えはない。テレビをつけてみると、ニュースをやっていた。
『おはようございます。○月×日、今日のニュースをお伝えします……』
「これは……現実なのか……?」
俺は部屋を見回し、窓を開けて外の景色を見回し、それから実家に電話をかけた。
「もしもし、母さん?今日って、何年の何月何日だっけ?」
「あ?何言ってんだい。□年の、○月×日に決まってるだろ」
「本当に?」
「本当だよ。あんた、どうしたんだい?何か事件でもあったのかい?」
「い、いや何でもないよ。ありがとう」
俺は電話を切った。電話の表示も、やはり○月×日だ。
「本当だ……本当にやり直せるんだ」
俺はまだ信じきれないまま、嬉しくなった。呪いの指輪どころじゃない。祝福の指輪じゃないか。いやそれとも、あの事故自体が夢だったのだろうか?もしそうなら、どんなに良いことか!
さてその日になって、俺は車を使わず、電車で通勤した。無事に仕事を終え、無事に家に帰ってきた俺は、平穏さの有り難みを噛みしめながら、ベランダに出て、鉢植えに水をやった。
その時、俺が向こうを向いたはずみに、肘が鉢植えに当たった。そしてなんと、鉢植えをとめていた紐が、古くなっていたのか、ちぎれて、鉢植えは二階から、下に落ちていった。
下で、鉢植えが割れる音と、悲鳴が聞こえた。俺は身を乗り出して下を見た。
「嘘……だろ……?」
下では、鉢植えに頭を割られて、子供が頭から血を流して倒れていた。誰かの悲鳴が聞こえた。人々が集まって来た。
子供の父親らしき男が駆け寄ってきて、子供にとりすがり、何か呼び掛けていた。子供は答えない。死んでいるらしい。男はふと、顔を上げてこちらを見た。
俺は戦慄した。
それはあの、俺がその妻を轢き殺した男だった。
その後は、また同じことが起こった。俺は法廷で無罪を勝ち取った後、自宅に詰めていた。
俺はもしあの男がやって来ても、扉を開けないつもりだった。しかし、あの男は、バットを持って、窓を破って入って来た。俺は逃げて追い詰められ、台所に来たところで、置いてあった包丁が目に入った。俺は包丁を掴んで、投げた。包丁は吸い込まれるように、あの男の目に突き刺さり、男は倒れて、動かなくなった。
俺は、死体を前にして、思った。
「こんなはずじゃなかった。嫌だ…こんなはずでは…」
気がつくと、俺はまた自分の部屋のベッドに横たわっていた。
目覚まし時計のアラームが鳴った。表示を見る。○月×日。やはり、あの日の前だ。
俺は、その日、仮病を使って会社を休んだ。もちろん、鉢植えは処分して、ベランダに出ることもなかった。
しかし夕方になって、食料が無いことに気がついた。俺は少し迷ったが、歩いて行ける距離でもあるし、食料品を買い出しに、歩いて出掛けた。
食料品を買って、家に帰る道すがら、角を曲がると、急ブレーキの音がして、車が真っ直ぐこちらに突っ込んでくるのが見えた。
俺はかわすことができず、そのまま轢かれた。骨が砕け、手足がねじ曲がって、死にかけている俺の目に、車の運転手が降りてきて、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
「大丈夫ですか!?しっかりして下さい!
ああ……私は、何てことを!!」
聞き覚えのある声だった。まさか……と思って見ると、それはやはりあの、俺がその妻を轢き殺した男だった。
駄目だ……こんなはずじゃない……。
それから俺は、何度も時を巻き戻してやり直した。しかしどういうわけか、何度やっても、俺は必ずあの男とぶち当たって、殺したり、殺されたりするのだった。
あの男の子供を轢き殺してしまうこともあったし、駅で電車を待っている間に、あの男とぶつかって、線路に落としたり、落とされたりすることもあった。
一度などは、俺が路上で通り魔に襲われ、通りかかったあの男が、俺をかばって替わりに殺されることもあった。やはりあの男、情緒不安定ではあっても、根は良いやつらしい。
しかしいずれにせよ、どうしても、殺したり殺されたりする運命を変えることはできなかった。
一度は、もう殺される前に自殺しようかとも思ったが、それでは結局、あの男のために殺されていることには変わりないと思って、やめた。
またある時は、先手を打って相手を殺しに行こうかとも思ったが、それでは結局、最初の結末と変わらないのだ。
そんなある日、久しく聞いていなかった、あの声が聞こえてきた。
『おいお前、もう諦めたらどうだ?』
「お前……指輪の魔神か……」
『どうやらお前は、その運命を首に結びつけられているものと見える。
お前は、自分が努力すれば、その運命を回避できると思っているのだろうが、それは違う。
お前が努力したか、しなかったか。誠実だったか、不誠実だったか。善意を持っていたか、悪意を持っていたか。そういった事は一切関係なく、お前はあの男とぶち当たって、殺すか殺されるかするように決まっているんだよ。
始めから結末は決まっていて、どんな道をたどろうとも、結局はそこに行き着くようになってるんだ。予定調和ってやつさ。それはちょうど、輪のようなものだ。どこから始めても、結局は同じ道をたどり、同じところに行き着く』
「お前……まさか……」
俺はわなないた。
「始めから、何もかも分かった上で……」
『おいおい、俺のせいにしようってのか?こうなったのはな、始めからそれに気づかなかった、お前が悪いのだぞ。つまりは、お前が愚か者で、欲が深かったから、こういうことになったのだ。
ま、お前があの指輪を買わなかったら、あるいはこんなことにはならなかったかも知れないがな。だがそれこそ、どう足掻いても、今更取り返しのつかないことだがな』
そしてまた、その日がやって来た。
あの男は、ナイフを構えて、叫んで言った。
「親の仇だ!」
「ああ……今回は親だったっけ?まあ、覚えてないけど」
「な、何だと!?あれだけのことをやっておいて、覚えてないだと!?許さない!絶対に許さない!!」
男は激昂して、突きかかって来た。
「さて、殺すか」
俺はゴルフクラブを手に取って、呟いた。
問題は、計画性があったように見えてはならないことだ。そうでないと、正当防衛にならないかも知れないからな。
どのみち避けられない結末なら、一番マシな結末を選びたいものだ。でもそれなら、やっぱり前回か、前々回のほうが良かったかなあ。
そんなことを考えながら、俺は気だるい気持ちで、あの男の頭を叩き潰した。




