つ『猫みたいな彼女』 前編
青木瑠璃の症状といえば、まるですっぽりと中身が抜けてしまったかのような雰囲気だった。何を思考しているのか分からず、また行動も酷く簡素で、一日の生活の中で、日常を送るために発生する問題を解決するだけの人形のようだった。
素肌を見られても、恥ずかしがる事さえしない。それは自分が一日を送るにあたって発生したノイズのようなもので、風に吹かれて消えてしまう程度のものだ。
それを虚しいとも思うし、また――……
「……ん? 欲しいの?」
剥き終わったリンゴを前にして、瑠璃が俺をじっと見詰める。頷く事も無いが、なんとなくその様子に感付いて、一切れのリンゴを口元に近付けてみた。
小さな唇が開き、リンゴにかぶりつく。
シャリシャリと、果物を咀嚼する音が聞こえた。
「美味しい?」
一応、飲み込むまで待ってみた。
だが、瑠璃は答えない。リンゴを食べ終わると、再び窓の外を見始めた。
その窓の向こうに、一体何を見ているのだろうか。何かを待っているようにも捉えられるし、死にゆく人間の末路のようで、なんとも物悲しい気持ちもある。
だが、肉体的に問題はないのだ。瑠璃が死ぬことはない。
ずっと、このまま、というだけだ。
「申し訳ない、少し世話をさせてしまったか」
声がして、振り返った。
枯れ葉色のコーデュロイジャケットを脱いで、部屋に入ってくる。鞄から眼鏡を取り出して、掛けて――老眼鏡の類だろうか。色素の抜けた髪が、初老の男性であることを示していた。
瑠璃の、おじさんだ。名前は確か、青木善仁と言っただろうか。
……なんだか、見覚えがある気がする。どうしてだろう。
その人は俺を見ると苦笑して、理知的な眉をくしゃりと歪めた。どうしようもなく口の端を吊り上げる様に、妙な親近感を覚える。
「いいえ。……初めまして、穂苅純と申します」
「話は聞いているよ。寧ろ、今までここで出会わなかった事の方が奇跡的なくらいだ――瑠璃がいつも、世話になっているな」
瑠璃のおじさんは、俺と瑠璃の様子を見ると軽く首を振って、近くのテーブルに鞄とジャケットを置いた。
「こんな格好で済まない」
「あ、いえ……」
俺は椅子を空けようと立ち上がったが、おじさんは立て掛けられていた別のパイプ椅子を広げ、座ってしまった。
厳格そうな雰囲気があるが、柔和な笑い方をする人だった。俺とは違うしっかりと筋肉のある体格ながら、すらりとフォーマルスタイルを着こなす紳士さもある。
文武両道、といった感じだ。
「……なんだか、君とは初めて会った気がしないな。苗字も、私のよく知る人間と同じだ」
「そう、なんですか」
「ああ。飄々としていて、捉え所のない男だった――穂苅恭一郎という名前でな」
「親父?」
おじさんはふと驚いたような顔をして、目を丸くした。俺も、きっと似たような顔をしていただろうと思う。
まさか、ここで親父の名前が出てくるとは思わなかった。あの親父に、こんなに頑固そうな知り合いが居たとは。
おじさんは吹き出すように少し笑うと、腕を組んだ。
「成る程、道理で。……妙な縁もあるものだな」
しかし、あの親父と知り合いとあれば、余程苦労を掛けたのだろうな。口には出さないが、心の中で謝罪の念を浮かべる俺だった。
こんな所で出会ってしまったから、話を振り辛い。一体何を話していいのかも良く分からないし……なんとなく、そそくさと帰ってしまいたくなった。
いや、そういう訳にもいかないんだけどさ。
「君は瑠璃のこういう所を見るのは、初めてかね?」
こういう、所?
瑠璃はその言葉に反応する訳でもなく、ただ座ったままでぼんやりと前を見ている。相変わらず、何を考えているのかは分からない――……以前にも、このような状態になったことが、ある?
でも、交通事故に遭ってこうなったんだぞ。以前も何も、今回初めての現象の筈だ。
「……初めてでは、ないんですか」
おじさんは、頷いた。
「随分昔――瑠璃がまだ、幼少の時のことだ。瑠璃は誰とも親しく喋る事なく、淡々と日々を過ごすだけの、あまり懐かない子供だった。今の瑠璃は、当時の瑠璃にそっくりだ」
立ち上がり、瑠璃の頭を撫でる。
……そうなのか。ということは、交通事故に遭うことで幼い頃に戻ってしまった、とも取れる訳だ。
「……でも、今の瑠璃は誰のことも思い出せないみたいで」
「昔は、そうだったよ。私のことも、名前すら呼んで貰えなかった。当時は衝撃を受けたものだ」
だが、過ぎ去った時間は人を愛おしくさせる。おじさんは瑠璃と目を合わせた。そこにどのようなやり取りが行われたのかは俺には分からないが、瑠璃の表情が幾らか和らいだように感じた。
言葉にしなくとも人と疎通することはできると言われているかのようで、なんとも言えない気持ちになる。
幼少の時はこうだった。ということは、おじさんはずっと、こんなやり取りを繰り返して来たのだろうか。
「それでも時間が経つにつれて、瑠璃は自分の人格を取り戻していったかのように――人と話す事が出来るようになった。少しずつ、回復していく予定だったのだが」
――だが、元に戻ってしまった。
果たして交通事故がどれだけ酷かったのか分からないが、瑠璃に外傷は見られない。ということは、事故のショックで戻ってしまったと考えるのが自然だ。今の瑠璃は昔のまま、生活をすることしかプログラムされていない機械のように、人生を過ごしている。
外傷のない交通事故で、そこまで行ってしまうのは少し驚きだが。
それでも、車と衝突するというのは、大きな出来事だ。場合によっては、人が死ぬ可能性もあるものだ。
だから、そんなこともあるのだろう。生きていた事が、瑠璃にとっての幸福だったのだろうと思う。
「あの時と同じ時間をこれから繰り返すのだと思うと、どうにも――辛くてな」
そう言うおじさんの表情は儚げで、しかしこうなってしまった事を素直に受け入れるかのような、覚悟を秘めていた。
……俺に、何ができるだろう。俺とて、瑠璃の恋人というポジションに当たる。思い出だって、沢山ある。役に立たない事はないはずだ。
既に今の瑠璃のイメージが強く、数あった筈の思い出はまるで初めから無かったかのように、ぼんやりと抽象的なものになってしまっていたが。
「瑠璃は、俺の話をしていましたか」
ふと、そんな事が気になってしまい、俺はおじさんに問い掛けた。瑠璃のおじさんはまたも苦笑して、少しだけ楽しそうに、懐かしそうにしていた。
「嬉しそうに、いつも話していたよ。姉と仲が良いんだと」
「――え?」
――――姉?
硬直してしまった。一体、瑠璃は何の話をしていたんだ……? 俺に姉は居ない。ともすれば、瑠璃は誰かを俺の姉だと間違えたのだ。
……杏月、だろうか。冷静に考えれば、そうなる。もしも俺が誰かと仲良く――まるでキョウダイのように歩いていたのだとすれば、それは杏月しか有り得ない。
しかし、杏月を恋人だと思うなら兎も角、よもや姉と間違えるとは……瑠璃も大分、ずれているな。
「すいません、それ、妹なんですよ」
「そうなのか? 瑠璃は姉だと言っていたが」
「妹のことだと思います。穂苅、杏月って名前で」
俺がそう言うと、おじさんは奇妙な顔をして、下顎を撫でた。
「……そうか。いや、恭一郎の最初の子供は長女だったような気がしてな。……私の気のせいか」
「俺、一人っ子なんですよ。杏月も義理の妹なので、おそらく勘違いではないかと」
おじさんは小首を傾げて、難しい顔をしていた――何をそんなに悩む事があるのだろうか。もしかして、親父が娘欲しさに嘘を付いていたのか。
どこからか杏月を連れて来て、娘にしてしまうような人間だからな……有り得なくはない。
「そうか。……まあ、君がそう言うのなら、そうなのだろうな。もしかしたら、私の聞いた瑠璃の話も妹のことだったのかもしれないな」
「俺、妹と妙に仲が良かったし――義理のキョウダイで顔が似ていなかったということもあって、恋人扱いされていましたから。瑠璃と会うまでは、あんまり友達とか居なかったんですよ」
「なら、それを姉と間違えて私に話していたのだろうな。……すまない、忘れてくれ」
「いえ」
杏月も今でこそフラットだが、一昔前、外では俺の事を『お兄ちゃん』と呼んでいたんだけどな。何かを聞き間違えたんだろうか。
……ま、いいや。
俺は立ち上がり、荷物を背負った。
「もう、行くのか」
「ええ。おじさんが見てくれているなら、俺が長く居る必要もないでしょうし」
「……本当に、申し訳ない。娘がこんな事になってしまって」
「おじさんのせいではないですよ」
――そう。本当に、誰のせいでもない。
誰かのせいだとするなら、それはこの世の因果とか、ルールとか、そういうものに当たるしかない。それ程に、どうしようもない出来事だったのだ。
交通事故も、瑠璃の不注意ではなかった。本当に、事故だったのだと聞いている。
「それじゃ」
軽く頭を下げて、俺は歩き出した――――
「……え?」
ふと、袖を引っ張られる感覚があった。
振り返ると、瑠璃がじっと俺の事を見据えていた。
「……瑠璃?」
純粋な瞳が、俺の方を向いている。その顔は何かを言いたいようにも思えるし、とりあえず引き止めただけのようにも思える――……どうしたのだろうか。何か、言葉を発してくれたら俺は嬉しいのだが。
……少しだけ、待ってみた。
「こら、瑠璃。やめなさい。彼は、もう帰るんだ」
少しの時間が経ち、おじさんがそう言って瑠璃を止めるまで、瑠璃はその体勢のままで俺を見ていた。
その異様な――今までとは違う行動に、俺は胸騒ぎを覚えた。
「……すいません。失礼します」
後退るように動いて、後ろ手に扉を開き、部屋を出る。その間、瑠璃はずっと何かに取り憑かれたかのように俺の事を見ていた。
扉を閉める――……
「……はっ、……はっ」
動悸がして、俺は胸を抑えた。息が上がっているのを感じる。瑠璃が、突飛な行動に出たからだ。
あんなこと、今までにはなかった。瑠璃はいつも、ただ窓の外を見詰めていて――あのような状態になって初めて、瑠璃が俺に向かって確かな意識を向けたような気がした。
それで、急に緊張してしまったのだ。
おじさんが止めなければ、瑠璃は何かを喋り出しそうだった。何かを訴えるような顔をしていた――気になる。もう一度扉を開けて、瑠璃の様子を観察してみようか。
ドアノブを握り、俺は喉を鳴らした――……
「……帰ろう」
自分に言い聞かせるようにして、俺はドアノブを手放した。
何も、今すぐに確認しなくてもいい。瑠璃がもし俺に何かを言うつもりだったのなら、きっと次回に話してくれるはずだ。
もしも今、冷静になっていないこの頭で瑠璃に話し掛けられたとしたら、俺は我を忘れて瑠璃を抱き締めてしまうかもしれない。
下手な行動に出れば、瑠璃の病状が悪化するかもしれない。
――俺は、冷静でいなければいけないんだ。
「面会の方ですか?」
「……あ、いえ。面会が終わったので、これから帰る所です」
ドアの前で立ち往生してしまったので、看護師に不思議そうな顔をされた。俺は軽く看護師に会釈をして、その場を誤魔化した。
踵を返して、歩き出す。
どうすればこの状況を解決出来るのか、今はまだはっきりしていない。
……そうだ。あの場所に行ってみようか。
不思議とそう思い立ち、俺は確たる足取りでリノリウムの廊下を歩いた。
あの場所に行ってみよう。もしかしたら、瑠璃を元に戻すためのきっかけが掴めるかもしれない。
今まではずっと、意識して避けていた。あの場所に帰ることは俺に辛い過去を思い出させるものでしかなく、見て見ぬふりをしていたのだ。
部屋はまだ、解約していない。残っているはずだ。
俺と瑠璃の、二人で生きていた場所が。
◆
高層マンションという程ではないが、それなりに高い背丈を持ち、上の階からは街並みを見下ろす事が出来る。俺は開かれたエレベーターの扉から出て、ポケットの中の鍵を握り締めた。
もう随分と時が経ってしまっているのに、まだ覚えている。帰り方も、部屋の番号も。
そう簡単には、忘れる事は出来ないものだ。
――いくつかの扉を通り過ぎ、俺はある部屋の前に立った。
鍵を回し、ドアノブを握る。
「ただいまー……」
玄関先には靴箱があるが、二人暮らしだったのであまり靴の種類はない。フローリングの廊下の向こう側にはリビングがあり、その手前に風呂と洗面台を構える。
二LDKの小奇麗なマンション。二部屋は居間と寝室に使っていた。
電気が消えている事に、俺は苦笑した。マンションに辿り着く頃には日は落ちていて、ただ暗闇が続いている。
廊下から、電気を点灯させた。靴を脱いで上がると、すぐにリビングは見えてくる。食卓も、昨日まで使っていたように感じられる食器も。
すべて、あの日のままだ。