つ『あなたはまだ、何も知らない』 後編
「……あら? ジュン、新年早々顔色が優れないですわね。調子が悪いなら、家に居た方が良いのではありませんの?」
そうだろうか。あまり、俺自身は意識している訳ではないのだが。レイラは少しだけ心配そうに、俺の前髪をかき上げた。
色々と、無意味な事を考えてしまっているのかもしれない。
「いや。大丈夫だよ」
肩をすくめて苦笑して誤魔化すと、先頭を切って歩き出した。
瑠璃が倒れてからの二○一二年は、とても早かった。風のように過ぎ去ってしまい、当時の自分が一体何をしていたのか、あまり思い出す事が出来ないほどだ。
きっと、あまり大した事は出来ていなかったのだろうと思う。
元気に跳ね回っていた黒のポニーテールも、すっかり見ることが無くなってしまった。
本当はこの場にもう一人、居た筈なのに――……。
「出店、賑わってるねー」
立ち並ぶたい焼き屋やたこ焼き屋を見て、杏月が穏やかな感想を述べた。横に並んで歩く事がどうにも難しく、俺達は少数のグループに別れて、バラバラに見て回る事になった。
まあ、まずは新年も明けたということで、お参りでもするべきだろうか。一月一日ともなれば、人は多い。俺と杏月は二人、行列に並んだ。
「げえ。これ待つの……」
「はは。やめとく?」
「まあ、せっかく来たし……」
杏月は唇を尖らせて、不満そうにしていた。まあ、確かにここで延々と並び続けるというのは、体力的にも疲れる――りんご飴か。懐かしい。
少し列から外れても、杏月が居る。俺は売店に向かい、手を伸ばして小銭を手渡した。
「二本」
「はい、二本ね」
並んでいる間に、買い物も楽しめるだろうか。
りんご飴を杏月に渡すと、杏月は嬉しそうに表情をほころばせた。まあ、こういう待ち時間なら然程苦痛ではないだろう。
嬉々として杏月は頬を染め、りんご飴に舌を伸ばし――……
「……んっ。……クチュ、あーん、垂れちゃう」
「普通に食え」
……あれ? 二本? ……しまった。
俺はふと、後ろを振り返った。列は少しずつ移動していて、既にりんご飴の店に戻る事は出来ない状況だ。
少し、申し訳なく思う――……
……どうしてだ?
まず、この場には俺と杏月しか居ないんだぞ。何のために、三本。反射的に後ろを振り返った自分に、疑問を覚えた。
「……純?」
「あ、いや。……何でもないよ」
やっぱり、疲れているのだろうか。最近、なんか肩が重いような気もするしな……。
程なくして、賽銭箱が見えてくる。少し遠くから投げ入れる者、落ちた小銭を眺める者。なんとも平和な光景である。食べ物を咥えながらお参りを……って、それはどうなんだ。良いのか。
しかし神様にお参りって、変な気分だな。別に何がどう、という訳でも無いのだけど、なんとなく。
何を願おうか。別に、何が叶う訳でもない。神様は願い事を叶えてくれる訳ではないのだ――……
杏月が賽銭を投げて、隣で力強く手を叩いた。
「今年こそは、純とエッチできますように……」
杏月を殴った。
「いたい!」
「何願ってんだお前!! 神様も苦笑だよ!!」
「私は欲望に忠実なの!!」
大体、願い事を口に出して言うなどと――口に出して?
ふと辺りを見回すと、杏月の台詞を聞いていた者が居たらしく、数名の若者がクスクスと笑いながらこちらを見ていた。不謹慎だと口に出して言わんばかりの表情で、俺を睨み付けている頑固そうなオッサンもいる。
は、恥ずかしい……
確かに、端から見ればただのカップルに見えるだろう。俺と杏月は似ていないし、まず義理のキョウダイだし。
そそくさと杏月の手を引いて、その場を離れた。
「それで、どうなのよ。私の今年の抱負を聞いた純の感想は」
「スーパードライ」
「生ビール!?」
適当な事を言って、誤魔化す事にした。まあ、杏月も半分くらいは冗談で言っているのだろうけど。
あ、賽銭投げるの忘れた……
杏月め。
「あ、見て見て。はみぐちゃティッシュだ。最近流行ってるんだよ」
「やっぱり流行ってるんだ、それ……」
……まあ、良いか。もしも願うとしたら、瑠璃が一刻も早く元気になるように、だとか、そんな事を願っただろうと思うから。
神様は、人の病気を助けてくれない。神様の仕事は、人を救う事ではない。いつか、誰かがそう言っていた。
相も変わらず人はごった返し、それぞれの目的に向かって所狭しと歩き回っている。その様子を端で眺めながら、俺は杏月の手を握った。
「……純?」
杏月の肩に、頭を預ける。
「ごめん。……やっぱ、調子悪いかも」
杏月は微笑んで、俺の手を握り返した。
「……ん。人が多くて、疲れちゃったかな。ちょっと、外に出ようか」
俺は頷いて、歩き出す。
出店の並びを離れれば、人混みは通行人に絞られるため、急に緩和される。杏月は黙って、俺に付いて来た。
人の運命は、残酷にできている。人事を尽くして天命を待つと言うが、天命を待たなければ解決出来ないようなことは、そもそも望みが薄い事なのだ。
だから、神様に願うということが、どうにも不自然に思える。
神様は人に、何もしてくれないじゃないか。
「はい、座って。もうすぐバス来るよ。私、みんなにメールしておくね」
そうして、停留所のベンチに座った。杏月は立ったままで、携帯電話からメールを送っている。
杏月が俺に気を遣ってくれる。俺は気を遣って貰っていると気付くことができる。だから、俺は救われているのだ。
……気を遣われても気付くことが出来ない瑠璃とは、違う。
「杏月」
知らず、杏月の名前を呼んでいた。杏月は俺の顔色を窺い、何も言わずに隣に腰掛けた。
「……どうしたの?」
「今日、瑠璃の所に、行こうと思うんだ」
杏月は微笑んだ。
「いいよ。一緒に行く?」
俺が首を振ると、杏月は笑みを浮かべたまま、頷いた。
頭の中がぐちゃぐちゃして、ちっとも思考を回転させる事ができない。つい最近まで、何かとてつもなく大切な――大切な事を忘れていたような、そんな気持ちの悪さを感じた。
もしかしたら、瑠璃の体調が悪化しているのかもしれない。
日ごと、忘れていく。そうして今日に至るまで、瑠璃はほとんどの事を忘れてきた。
まるで人が肉体だけ残して、魂をどこかに忘れてしまったような。
「神様はさ」
「うん?」
「神様はさ、人に何もしてくれないんだよ。神様がやらなければいけないことってさ、この世の理というか、そういうものを守る仕事なんだと思うんだ。だから、なんか、やっぱ、初詣とか――苦手なのかもしれない」
俺は疲れているのだろうか。
あんまり宗教みたいなものは、得意じゃなかった筈なんだけど。
「馬鹿みたいじゃないか。祈ったってさ、人の自己に関わるみたいなことは、何も叶えてはくれないんだ。まだ、サンタクロースなんかの方が可能性がある、とかさ。変な事を、考えるんだ」
杏月が俺の頭を抱いた。
「大丈夫」
もしも、死んで人生をやり直すような事が出来るのだったら、俺は今、時を戻しているだろうか。
「どうしようもないことは――どうしようも、ない」
二○一二年五月二十日の、あの日に。
戻りたい。
あの日に。
「大丈夫だから」
きっと、人は思う。時を戻す事が出来たら、あれもこれも救う事が出来るのに、と。
そうして何かを救う度に、今度は別の色々な問題が浮かび上がってきて、何度でもやり直したいと願うのかもしれない。
全てを助けたとしたら、いつかは終わりを迎えるのだろうか。
いや。
終わりはないのだと思う。
日ごと、秩序を乱していく。
秩序を乱すことで、また問題が生まれる。
そうだとしたら、救う事に意味なんかない。
「どうしようも、ないんだ」
意味も分からず、泣いていた。
愛は、人を救う事は出来ないのだろうか。この世は冷めたルールのもと、人の想いとは何の関係もなしに進んでいくものなのだろうか。
グロテスクで、リアルに。
そんなにも、誰かを救いたいと思う気持ちは、価値の無いものだろうか。
価値があるものだと、信じたい。
杏月は黙って、俺の頭を撫でる。
「私が、そばに居るからね」
いつか、誰かに教えて貰っただろうか。俺は、ピュラモスとティスベの話を思い出していた。二人はお互いを愛するあまり、後を追いかけ合って死んでしまったこと。
そこには、残酷な真実だけがあった。救いはなく、あくまでリアルで、悲しい話だった。
事実は小説よりも奇なりと言うなら、誰もが救われる未来があったっていい。
そう、思った。
◆
しかしながら、悪戯に時が戻るということなど、よもや神の力でもなければ起こる筈がない。一頻り泣くことで落ち着いた俺は、杏月と別れて一人、総合病院まで訪れていた。
冷えきった通りを寒そうに人が歩いて行く。病院へと向かう足が少ないのは、一般外来が休みだからだろう。
乾いた風に吹かれる、背の高い病院を眺めた。
「……花か何かでも、持ってくれば良かったかな」
白いトルコギキョウか何かを、君麻呂が好きだったように思う。
あれは、いつの話だったっけな。
病院の中へと入った。
面会時間は、まだ余裕がある。
自動扉をくぐると、数人の患者と思われる人と目が合った。特に気にしないことにして、俺は受付を目指した。
病院の中は、静かだ。
どうにも最近、静かな事には慣れない。
立花や越後谷を始めとする、やかましい連中が常に周りにいるからだろうか。
静か過ぎて、どうにも肩が凝るのだ。
「青木瑠璃さんの、面会に来たのですけど」
暫く待たされた後、軽く手続きを済ませると、バッヂを付けてリノリウムの床を歩く。コツコツと、自分の靴の音が反射した。
やっぱり、杏月を連れて来れば良かっただろうか。一人で会ってしまったら、俺は取り乱してしまうかもしれない。
――いや。取り乱さないために、一人で来たんだ。
自分に言い聞かせた。
杏月が居たら、俺はまた甘えてしまうかもしれない。結局、自分の気をしっかりと持っていなければ、どんな時だって取り乱してしまう可能性はあるんだ。
もう、あれから随分と時が経っているのだから。いい加減、俺も受け入れなければいけない。
「半年以上、か……」
少し、違和感を感じるほどだ。俺の知らない間に、そんなにも時間は経っていたのか。
俺ももうすぐ卒業になるのだから、やっぱりそうなのだろう。
まるで時間が大きく飛んでしまったような気分でさえある。
十月、十一月、十二月と、俺は一体何をしてきたんだったか。
学園祭がつい昨日の出来事のようだ。
程なくして、『青木』と名札の付いた個室が見えてきた。
俺は扉の前に立ち、喉を鳴らした。
右腕を前に出し、ノックの姿勢を取る。
中から、物音は聞こえてこない。
「……俺は、大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
そして――ノックをした。
「瑠璃? 純だよ。入るね」
中から返事は聞こえてこない。
いつもの、流れだ。
俺は特に気にしない事にして、扉を開いた。
「……あ」
扉を開けると、思わず声を出してしまった。
病室のベッドの上に膝立ちをした瑠璃は、丁度シャツを脱いでいる最中だった。緩やかにウエーブを描いた背骨のラインとくびれたウエストから、素肌のきめ細やかさが分かる。窓に向かっている瑠璃は、俺の目には背中しか見えない。
ぞっとするような、白い肌。夕暮れ時だが電気はついていない。西日が瑠璃の限りなく黒に近い髪を、茶色へと変化させる。
無造作におろした髪から、形の良い鼻が見えた。
瑠璃が首だけ、こちらを向いた瞬間だった。
「ご、ごめん。ちゃんとカーテン閉めないと、駄目だよ」
扉の鍵を閉めて、俺は背中を向けた。……瑠璃からの返事はない。着替えていたのだろうか。
じっと、待つ。
暫くして、カーテンの閉まる音が聞こえた。安堵するのと同時に、嫌な予感がして、俺はカーテンの向こう側を見る。
既に瑠璃は、ベッドの上に立っていなかった。徐ろにカーテンを開くと、既に着替え終えた瑠璃はベッドに正座をしていた。
そっと、カーテンを開く。
「いや、カーテン閉めてっていうのは、そういう意味じゃなくて」
瑠璃は無表情のまま、小首を傾げた。
……やっぱり、感情はないのか。俺は首を振って、瑠璃が閉めたカーテンを元に戻した。
あの黒いポニーテールは、もう見られる事はない。
俺は瑠璃の頭を撫でると、隣の丸椅子に座った。
「リンゴ買って来たんだ。……食べる?」
暫く、待った。
瑠璃からの返事はない。瑠璃はじっと俺を見詰めた後、窓の外に目を向けた。
……いらないのだろうか? 今はあまり、食べるような気分ではない?
如何せん、気分などというものはすっかり分からなくなってしまったから――……
「剥いておくから、食べたい時に食べなよ」
それだけ言って、ビニール袋からリンゴを取り出した。
相変わらず、こうだ。
話し掛けても、返事が返って来る事はない。瑠璃の意識はどこにも向いていなくて、ただ生活するための行動だけを忠実に取っている。
生きた人形のようで気味が悪いと言えば、そうだ。
俺は気味が悪いとは思わないけれど。
「今日は、初詣に行ってきたよ」
瑠璃が、俺の方を向いた。
それだけで、少し嬉しくなってしまう。
「やっぱり、元旦の神社は人が多いね」
だが、笑う事はない。既に笑う事を忘れてしまったかのようで、ただ瑠璃は俺の話を聞いている。
無性に、切ない気持ちになった。