つ『Metamorphose』 後編
ドン、と大きな音がした。祭の太鼓、などというレベルのものではない。例えるなら、物凄く近くに落ちた雷の音のような――……
俺と瑠璃は抱き合った姿勢のまま巨大な音に気付いて、音源へと顔を向けた。
夜はまだ長い。空の向こう側に雲が見える。目立つ明かりは無いはずだった。――通常ならば、そうだった。
だが、そこには確かな光があった。
――姉さんの、マンション?
光の柱のようなものが、天井に向かって伸びている――爆発、したのか? まるでそれは、太い稲妻のようだ。
光が目に入るのは音よりも速く、遅れて音は俺達の耳に届いた。
キン、とマイクのハウリングのような音がした。その音量に、思わず耳を塞いだ。それは雄叫びか、あるいは絶叫か。
なんだ――何が起こっているんだ!?
「……な、何!? これは……」
耳を塞いでいたので分からなかったが、きっと瑠璃はそんな事を言った。
地響きがあった。立っていられなくなり、俺と瑠璃は公園の地面に膝をついた。天空へと伸びる巨大な光の柱は暗雲を裂き、宇宙へと向かっていく。
その光の柱の中に、一瞬だけ影のようなものを確認する事ができた。
一瞬だけ見えた影は、しかしその距離をみるみるうちに縮める。俺の目には、影がどんどんと大きくなっているように見えた。
――こちらに、向かって来る? 光の柱が逆光になっているんだ。
あれは――――
「――姉さん!?」
隕石のような速度で、公園に『落ちて』来た。その衝撃は凄まじく、俺と瑠璃は公園の地面を派手に転がる。頭を打たないように、両手で頭を抱えるのがやっとだった。
体勢を崩した俺は、目の前に広がる脅威に慌てて膝を付き、バランスを整えた。
長い黒髪。真っ白な肌。その身には何も纏ってはいない。人の顔をしているが、目つきはまるで昆虫か何かのようだ。
その恐ろしい表情に、俺は身を硬直させてしまった。
いつか見た黒い翼を広げ、姉さんは真っ赤な瞳を光らせて、俺を見ている。
口が開いた。
「ぐっ――――!?」
この音、姉さんから発されている音か!!
奇声どころではなく、最早それは超音波だ。鼓膜が破けそうな程に強く、耳を塞いでいても聞こえてくる。
堪らず、その場に突っ伏した。
こんな状況では、身動きなんて取れる筈がない。
「……ふーっ……ふーっ……」
奇声が止むと、俺は耳を塞いでいた両手を、ゆっくりと耳から離した。
荒い、息遣いが聞こえる。姉さんは四つん這いの姿勢のまま、俺に向かってゆっくりと、近付いて来た。
あまりに、普通じゃない。俺は喉を鳴らして、姉さんを見た。
「……姉さん? 姉さん、なのか?」
黒い髪、黒い翼と真っ白な肌のコントラストが、目に痛い。
姉さんは、真っ赤な涙を流している。這うように、近付いていた。その姿に、俺はあることに気付いた。
随分と、衰弱している。少し気を抜けばその場に倒れてしまうような、張り詰めた空気を感じる。
何がなんでも俺に触れなければならないと、必死でいるかのようだった。
――また、殺されるのか。
俺は、目を固く閉じた。
「そこまでです!!」
光の柱と同じ色の小さな球体がいくつか、どこからか飛んで来た。
それらは姉さんの周りを取り囲み、互いを線で結ぶように光の筋を放つ。電気が流れるような音がして、球体はやがて線に、そして図形を描いていく。
瞬く間に、三角形状の檻を形成した。丁度、中に姉さんが閉じ込められたような格好になっていた。
明らかに、人間的な能力ではなかった。姉さんは構わず、その檻に手を触れる――
「――――あがああああ!?」
絶叫して、姉さんは檻から手を離した。
電流……か?
姉さんは痺れを感じたようで、檻から手を離してその場に突っ伏した。……いや、それだけじゃない。姉さんの背中から伸びていた黒い翼は力を失い、ぐったりと地面に垂れた。
目を背けたくなるほどに悲痛な姿で、そして、目が離せない。
――その翼がやがて萎びるように潤いを失い、そして――もがれた。
もがれた翼の部分から、真っ赤な血が流れていく。それは姉さんの伏せている地面に、赤い水溜りを作っていった。
これは、何なんだ……?
俺は今、一体――何を、見ているんだ。
「純、くん……」
姉さんが、俺の名前を呼ぶ。
俺は指の一本でさえ動かす事が出来ず、その幻想的な光景に見入っていた。
巨大な黒い翼が、まるで花が散るかのように、無数の羽根になっていく。無数の羽根は宙を舞い、やがて光の粒になって消えていく。
吐き気を感じて、左手で口元を覆った。
鳥肌が立つ程にグロテスクで、気持ちが悪い。
――なのに。
どうしてこんなに、綺麗だと思うんだろう――――
「姉さん!! 大丈夫か!? 姉さん!!」
俺は、何を、喋っているのだろうか。
自分が何をしようとしているのか、自分にも分からない。
俺の声は今、届いているのか。
それとも、苦痛に喘ぐその内側では、何者の声も聞こえてはいないのだろうか。
「どうして……?」
姉さんが、俺に問い掛ける。
どうしてだろう。
姉さんが、元に戻っていく。黒い翼は消え、黒い髪はやがて亜麻色に。白い肌はボロボロに傷付き、乾燥し、血が垂れ、地面に突っ伏した姉さん。
幻想的な光景の筈なのに、それは驚異的なリアリティを持っていた。
ぞわりと、足の下から頭の天辺に向けて寒気を覚える。それは恐怖であり、そして悲しみに似ていた。
唯一つ、分かる事がある。
姉さんが死に逝く瞬間を、俺は今、見ているんだ。
「――結局、抵抗するのですね。……あなたは」
俺の目の前に、降りて来る人影があった。
姉さんとは対照的な白い翼を持ち、金色の髪を長く伸ばしていた。
シルク・ラシュタール・エレナ。
ちらりと見えた横顔は姉さんに険相な眼差しを向けていた。そこの光の檻も、彼女が作ったものだろうか。
悲しみと、覚悟を感じた。
「いや。――お願い、シルク。まだ、終わりたくない」
「卒業までに、あなた以外の恋人を見付けること。……皮肉なものですね。こんな、結末になるなんて」
――何かがおかしいとは、思っていた。
姉さんの呪縛が解ける方法が、俺と別の恋人を引き合わせる事だ、ということ。
何の事はない。初めから、全てはおかしかったんだ。
『俺と姉さんが幸せになるために現世へと引き合わされたなら、そんなルールが設けられる筈がない』ということに。
気付かなかったんだ。
提示された情報に従うしか、俺に出来ることは無かったから。
「今のあなたなら、私でも、どうとでもなる」
――シルク・ラシュタール・エレナは、嘘を吐いていたのか?
「いや……だって、これじゃあ何も解決してない。純くんを、助けられない……」
姉さんの悲痛な訴えに、シルク・ラシュタール・エレナが歯を食いしばった。
どうして、そこまで苦しい顔をして、姉さんを攻撃するのだろうか。
いや。違う。……シルク・ラシュタール・エレナは、嘘なんて言っていない。
彼女も苦しい。……純粋な想いを受け取らない事ほど、辛い事はない。
ならば、何故――……
――そうか。それは、因果か。
「幸せの形は……あなたが決めることではありません」
シルク・ラシュタール・エレナは光の檻を操作した。その中にいる姉さんが、やがて淡く光り、透明になっていく。
――まさか、消えるのか?
いや、ちょっと待ってくれよ。これで終わりには、できないよ。
まだ姉さんと、ちゃんと話してないんだよ。
「姉さん!!」
向かおうとする俺を、シルク・ラシュタール・エレナが制する。姉さんと同じように、光の檻の中に閉じ込められた。
姉さんは涙をいっぱいに溜めて、悲痛な表情で俺を見ている。
――そんな。
消えていく。
まるで、先程の光の粒と同じ末路を辿るかのように。
「おい!! 待てよ!! 俺も行く!!」
「……純さん。あなたには、現世を生きる役割があります。それは許されません」
俺はシルク・ラシュタール・エレナの創る、光の檻に手を掛けた。
「がっ――!?」
瞬間、とてつもない痛みに顔を顰めた。
焼けるように、熱い。痺れるような感覚もある。途切れるような感覚もある。まるで、現世の痛みを凝縮して閉じ込めているかのような――……
くそ。
俺は手を離し、叫んだ。
「知るかよ!! 俺が恋人を見付けたら、姉さんを助けてくれるんだろ!? 助けてくれよ!!」
――ああ。
姉さんが、消えてしまう。
元々、この世界に存在してはいけないモノだったとでも、言うのか?
掟破り。
分かってるさ。
だからって、こんな最後は。
許してなるものか――――!!
「――お姉さんは、今、救われていますよ?」
最後にシルク・ラシュタール・エレナがそんな事を言って――……
台風のような、あるいはノイズのような、耳障りな音が煩い。
ああ。
姉さんは完璧だ。
姉さんの良い所は、いくらでも思い付く。
髪の毛は爽やかさ重視で肩甲骨まであるストレートヘアを亜麻色に染めていて、清潔感がある。
派手すぎないメイクも、ちょっと若い雰囲気の童顔もいい。
会社からも人気で、交際希望者は結構居るらしい。
まだ、ある。
スポーツはバドミントンをずっとやっていて、激しく動く事にも慣れている。今でも日々の鍛錬は欠かさないし、二週間に一度は短大のサークルにOB兼講師として教えに行っている。
仕事もいい。大手企業の事務職で、ただのOLには出来ない仕事をいくつもやっている。まだ二十一とは思えないほどの仕事ぶりで、いくつも賞を貰っているらしい。
まだ、ある。
料理も得意だ。姉さんが作る晩飯はいつも最高級。外で食べるよりも美味いと遊びに来た誰もが言う。そのために遊びに来る男も居るくらいだ。
茶道もできるし、袴の着付けもできる。柔道の大会で優勝した事もある。短大では経営学部を卒業していて、金にも強い。
コンピュータも得意だ。プログラミング言語だかなんだか言うものを使って、なんとかっていうネットの機械? を複数管理していたこともある。
まだ、まだ、いくらでも。
姉さんは、ひとだ。極普通の、人間だ。
少なくとも、俺にとっては。
姉であり、理想の人間であり、俺の目標であり、そして――
――――姉さんは、消えた。
「……おい」
俺と姉さんを取り囲んでいたものが、音もなく消える。
ノイズのような音は消え、静寂が訪れた。
「嘘だろ?」
――もう、この場所には俺しかいない。
瑠璃は糸が切れたかのように、眠っていた。
シルク・ラシュタール・エレナは穏やかな笑みを浮かべて――俺を見ていた。
俺は立ち上がる。
立ち上がり、そして―ーシルク・ラシュタール・エレナと、向き合った。
こいつも、神なのだから。
「――姉さんを人間に戻す方法はないのか!!」
ありったけの力を込めて、叫んだ。
「ありません」
――吐き捨てるように、そう言われた。
「『徳』さえ無くなれば、人に戻るんだろ!? 蓄積されるなら、失う事だって可能なはずだ!!」
「それだけの問題ではありません」
「じゃあ、他に何が――――」
――因果か。
規則か。ルールか。それが、宿命だからか。カルマだからか。
それが、何だ。
「『ノーネーム』を、出せ!! このまま取り込まれるなんて、許さないからな!!」
「……あらら。誰が、そんな事まで教えてしまったんでしょう」
俺は、シルク・ラシュタール・エレナの胸倉を掴んだ。
これをどうにか出来るとしたら、こいつしか居ないんだ。
今ここでこいつを逃してしまったら、もう俺がこの件に関わる事は出来なくなってしまうかもしれない。
――絶対に、それは駄目だ。
「天界でもどこでもいい!! 俺を連れて行け!!」
シルク・ラシュタール・エレナは、ただ俺を見ている。
「――姉さんは、俺が助ける!!」
まるで、憐れだと言われているかのようだ。
「……生きとし生けるものには、全てその『存在』があります。『存在』がないものから、『存在』があるものへと変化する。ならば、『存在』があるものはいつか、『存在』がないものに変化しなければなりません」
「知るかよ!!」
「それが、『因果』です」
「んな難しいこと、分からねえよ!!」
シルク・ラシュタール・エレナは――神は、俺の頭を掴んだ。
何故か、今この瞬間に、俺がこれから何をされるのかということが、理解出来てしまった。
「……おい、やめろ」
目を見開いて、声を掛ける。
まるで聞こえなかったかのように、神はただ、従う。
――『因果』に。
「タイルズ・リッケルドゥイン・ブラックオニキス・ティアードメサイア・ラッツ・リチャード・レオナルド・ローウェン・ジュン。あなたがこの時間に得た事は、すべて夢、幻です。多少死期は早まってしまいましたが、因果は元に戻りました」
「やめろ!!」
――――ああ。
消えていく。俺の中から、『姉さん』が消えていく。
初めから、そんなものは居なかった。生まれてからずっと、俺は『姉さん』に出会うことはなかった。
記憶は、書き換わっていく。砂時計を逆回しにするように、俺の時間が戻っていく。そうして、新しいものに塗り替えられる。
因果を、修正する。
ルールを、確かに守られる、ルールへ。
あの時も、あの時も、あの時も――――
「やめろ――――――!!」
ここまでのご読了、ありがとうございます。第六章はこれで終了となります。
さて、ここまでは予定通り。ここからが難しい……
宜しければ、次章もお付き合い頂けると幸いです。
第七章は 4/25 25:00~より開始です。
何度も失敗して、ストックを持っておく事の大切さに気付いたらしい。