つ『混沌の呪縛から青木瑠璃を解き放て』 後編
廊下はほとんど一本道で、どこまでも続いている。古い旅館のようだ。屋敷はあまりに広いため、廊下の奥が見えなかった。
……それにしたって、外から見た時、こんなに長く続いている印象だっただろうか。少し気になったが、今は瑠璃奪還が先だ。
「居たぞ!!」
咄嗟に後ろを振り返ると、スーツ姿の男達は既に俺達を特定し、後ろから追い掛けて来ていた。レイラと君麻呂は入口付近で戦っている。ということは、当然中にも追っ手が来るか。
越後谷は分かっていたかのように、その場に立花を降ろした。
「よし、美濃部。お前の出番だ」
そう言って、そのまま走り出す。……いやいや。一体どうした。
立花が一瞬こちらを向いて――泣いていた。全力で。
「……越後谷、うらむ」
「後でな!!」
気にもしていない越後谷が、笑いながらその場から離れた。……ええ。いいのかよ。
スーツ姿の男達が、銃口を立花に向けた。立花は喉を鳴らして――遂に、その黒いコートの下を曝け出した――
――チャイナドレス?
「こっ、こっ、こ――こから先は、通しません!!」
越後谷はポケットから携帯電話を取り出して――チャイナドレス姿の立花を、何枚か撮影した。
「撮るな――!!」
すかさず、後ろから罵声が飛んで来る。何事も無かったかのように越後谷は携帯電話をポケットに戻すと、走る速度を上げた。
「立花も戦うのか」
「実は太腿の部分に手榴弾を仕込んである。胸元にはセミオートの拳銃を仕込んだ。戦いの準備は万端だ」
「……チャイナは?」
「趣味だ」
……もう、本当に祭どころの騒ぎではなかった。立花も可哀想に。
廊下の向こう側に、鋼鉄の扉が見えてきた――真ん中から開く形式で頑丈な見た目であり、まるで牢獄へと続く扉のようだった。少なくとも、和式の家には似合わない。いや、そもそも一般家庭には普通、無いものだ。
越後谷は腰に挿してあるナイフを取り出し、右手に構えた。鋭い眼光を扉に向け、姿勢を低くして更に走る速度を速める。
この先に、瑠璃が居るのだろうか。他の部屋の扉とは違い、ここだけが異質な空気を纏っていた。
そろそろ俺も、戦う準備をしなければならないか。青木善仁と戦うのか――前に一度試した時は、ボロボロにやられてしまったが。
今回は少し、作戦を考えなければならない。
「突っ込むぞ、穂苅!!」
「りょーかい」
俺は越後谷の後ろに陣取った。弾丸のように突っ込んでいく越後谷は廊下を右脚で強く蹴り、走る速度を飛距離に変えて低く跳躍した。
……あんなナイフで鉄の扉が斬れる訳ないじゃん。
「――――閃っ!!」
気合の入った掛け声と共に、越後谷が鋼鉄の扉にナイフを入れる――いやおかしいだろ!! 何でもアリか!!
砂埃と共に、越後谷は中へと侵入した。俺も続いて、穴の空いた鋼鉄の扉に突っ込む。
……レイラのバズーカもそうだったけど、最早これは『徳』なんかの領域ではなさそうだけど……一体、何がどうなっているんだ。
その煙のような砂埃に、思わず目を瞑った。
視界は暗い。――だが、明確な光の存在を感じて、俺はゆっくりと目を開いた。
「初めは、微かな共通点を持った『人間』だった。瑠璃は目的を持たず、興味を持たず、人と触れる事はない子供だった」
声が、聞こえる。
それは俺達に語り掛けるようにゆったりと眠た気で、重い言葉だった。耳の奥から脳の下部へと下りて行き、俺の本能を刺激する。
「……ちっ。現れやがったな」
越後谷が舌打ちをして、前を見た。俺も越後谷の視線に合わせて、その人物を確認した。
半透明で青白い光を放つ半円形のドームのようなものに、瑠璃が閉じ込められている。
その瞳に光は灯っていない。ただ決められた言葉に従うかのように、そのドームの中に瑠璃は座っていた。
ぴくりとも動くことはない。
辺りは洞窟であり、岩に囲まれていた。だが、不思議と地面の感覚はない。石の上に立っているにも関わらず、固くも柔らかくもないのだ。
……何かが、おかしい。
それに気付いた時、俺はとんでもない思い違いをしていた事に、気が付いた。
「その弱々しい『魂』の欠片を、さも普通の人間のように見えるまで、慎重に、時には大きなリスクを背負い、育ててきたのだ」
まだ、気付いていない。
越後谷も、立花も、レイラも君麻呂も、気付いていない。
半透明のドームの目の前に立つ青木善仁は柔道着によく似た服装で、帯を締めていた。
「その生命の重みが、お前達に分かるか?」
ここが何処なのかが朧気にだが、分かった。そして、目の前に居る青木善仁という人物が一体どういう存在なのかも、少しだけ把握できたような気がする。
確認がてら、俺は携帯電話を開いた。そして、目的のものを確認する。
――やっぱり。
携帯電話を閉じて、前を向いた。
いつからだろう。何かがおかしい事には、薄々感付いてはいた。
問題は、タイミングだ。
それさえ分かれば、先手が取れる。
「……瑠璃は、そこにいるのか」
俺が問い掛けると、青木善仁は首を振った。俺の目を見て、気付いたのだろう。ふと笑みを浮かべると、構えた。
「聡明な理解力だ。――やはり、恭一郎の息子なだけある」
俺と親父の何が似ているかと言われれば、似ている要素など一つも感じられないが。
「瑠璃はここにいるが、ここにはいない。元々、『此処』には居なかった。――そうだろう?」
そう言うと、青木善仁は笑みを浮かべた。
根拠はない。原因も分からない。だが、感覚だけがあった。
――だって、いつからか杏月が居なくなったんだ。
携帯電話はずっと、圏外になっていた。
だから。
「そこまでですわ!!」
後ろから、声が掛かる。俺と越後谷が振り返ると、そこにはバズーカを構えたレイラ、相変わらずマイクを片手にしている君麻呂、チャイナドレス姿の立花が現れた。
青木善仁の表情が、少しだけ険相な面構えに変わった。
「……モブは、それなりに用意したつもりだが?」
青木善仁の言葉に、レイラは余裕たっぷりの笑みで胸を張り、縦ロールを撫でた。
「事もあろうに、このわたくしに『たかが』モブの相手をさせるとは――二階堂財閥も舐められたものですわね」
君麻呂が青木善仁を指差して、慌ただしく叫んだ。
「なんかスーツの奴等、霧みたいに消えちまったぞ。一体ありゃ何なんだよ!」
立花は純粋に、ドームの内側に居る瑠璃を心配していた。
「瑠璃……」
越後谷は急に目を見開いて、後ろに居る三人を確認した。それぞれの格好を見て、越後谷は頬から汗を垂らした。そうして、自分の服装を確認する。
「……いや、待て。そうか」
――越後谷も、気付いた。相変わらず、事態の変化に対する観察眼が鋭い。
良かった。俺だけの違和感ではなかった、ということだ。
越後谷は俺に頷いてナイフを構えると、青木善仁に一直線に向かっていった。
拳を構えた青木善仁が、飛び掛かった越後谷に対応する。越後谷が何を考えているのか、手に取るように分かった。彼の言う通りというか、越後谷では青木善仁には敵わないのだろう。それは実際の世界でもそうであり、関係が逆転することは当分ない。
だから、俺はタイミングを待った。
「積年の恨み!! 晴らせて貰うぞ!!」
「やってみろ!!」
越後谷の台詞に合わせて、俺は駆け出した。青木善仁と越後谷の直線上に並び、青木善仁から俺が見えないように。
青木善仁の拳と、越後谷司のナイフが衝突する。
強い衝撃を感じて、俺は僅かにスピードを緩めた。だが、負けじと足を前に出す。
「行け!! 穂苅!!」
「むっ!?」
青木善仁の目には、越後谷の後ろから突然俺が現れたように見えただろう。
俺は青木善仁の横をすり抜け、青白く光るドームへと手を伸ばした。
瑠璃色に光る、ドームへと。
「――――瑠璃!!」
ドームに触れる。
ぴちゃん、と音を立てた。それは水のように鮮やかに形を変え、俺の右手を受け入れた。
波紋が広がる。
あるいはそれは、僅かな意識の欠片だった。時を止め、過去も現在も未来も遠く及ばない空間に、俺を誘う。
瑠璃は感情の無い瞳で、俺を見る。
「純!! こっち!!」
どこからか、杏月の声が聞こえた。
すう、と意識が遠のいた――……
◆
どこまでも続く地平線に、終わりは見えない。空も大地も白いのに、その空間が二つに分かれている事が確認できた。
いや。真っ白なように見えて、その世界は僅かに区切られているのだ。何もない空間に一つ、灰色の線が引かれた時のように。
ぼやけて、淡い。
意識は落ち着いている。水を掛けられた後のように無感情で、冷静だった。ふわりとした意識の中に、感覚を覚えることはない。
目の前に居る、ひどく懐かしい男が、俺を見ている。
「――よくここまで辿り着いたね、純くん」
ああ、まったく我ながら、大したもんだ。
何度も繰り返す時の中で、俺は自分の『徳』を向上させていった。自分の事に関する影響しかないのかと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしい。
俺はため息を付いて、目の前の男――ああ、相変わらずの茶髪で、歳を感じさせない異様な若さで、人を苛立たせる茶目っ気たっぷり、余裕綽々の笑顔でいる男――穂苅恭一郎を見据えた。
「さて、問題です。今のはなんでしょう?」
恭一郎は人差し指を立てて、俺に小首を傾げた。俺はため息を付いて、それに答える。
「……時を戻す事が可能なら、『今』ではない時空間を作ることだって、不可能じゃないはずだ」
「さすがだ、我が息子よ」
なんで、親父にそんな事ができる。
そもそも、こいつの存在は理解し難いものだった。何故か色々な権力を持っていて、知識に厚く、まるでいつもタイミングを測ったかのように現れ、色々な物事を見てもいないのに把握している男。
穂苅恭一郎。
青木善仁だって、親父の存在を知っていたから現れたのだろう。本当の青木善仁がどのような存在なのかは、俺には分からないけれど――もしかしたら、あの空間に居た青木善仁が本物だという可能性もあるけれど。
「ただし、『現在』という因果に触れないような空間というと、そこまで大きな事は出来ないんだけどね。さっきみたいなサイズのものが僕の限度かな」
「……杏月は」
「とっくに気付いて、青木善仁の家に到着する手前で離脱したよ。流石フィリシア、理解が早いね」
……それで、途中から唐突に居なくなったのか。
「どうして、こんな事ができるんだ。……というか、あんた一体何モンなんだよ」
「んー。その質問には、答えられないんだな。残念ながら僕も純くんと同じ、反逆を起こした側なもんでね」
……ちっ。楽しそうに言いやがって。
しかし、俺と同じ……って、どういうことだ?
恭一郎は両手を広げると、辺りを見回した。
「ここは、どこだと思う?」
「知るかよ」
「怒んない、怒んない。……ここは、時間に縛られない空間。名前のない空間とも言うかな。ここに純くんを連れて来たのは、因果に抗うためには、純くんにこの場所を知って貰わないといけなかったから」
「……因果に、抗う?」
「もうシルクちゃんから聞いてると思うけど、お姉ちゃんは前世では、純くんと結ばれる予定だったんだ。その意識を持ち続けたまま、現世に降臨したお姉ちゃん――と言えば、掟破りなのは分かるよね」
恭一郎の言葉に、俺は頷いた。にっこりと笑って、恭一郎は続ける。
「じゃあ、その因果、つまりルールとやらを作っているのは誰か、ということなんだけど――残念ながら、これは誰でもないんだな」
「親父。冗談言ってる場合じゃなくて」
「冗談じゃないよ。本当に、誰でもないんだ」
相変わらず、難し過ぎてちっとも頭に入って来ない。……何の説明なのだろうか。
恭一郎は俺を指差した。
「純くん。君は誰だい?」
……どういう質問だよ、それは。
「……穂苅、純」
「じゃあ、僕は?」
「……穂苅、恭一郎?」
「そうだね。じゃあ、神様には『神様』という固有名称がある、という認識でいいかな?」
……要領を得ないな。本当に一体、どういう質問だよ。
第一、時間に縛られない空間って言っても、外の世界では一体何が起きているのか――いや。時間に縛られないということは、外の世界ではまだ何も起きていない可能性だって、あるのか?
おいおい。もう、俺なんかが理解できる世界を超えているんだけど……。
俺が辺りを見回していると、恭一郎は口の端を吊り上げた。
いつもの、表情だ。
「――じゃあ、『神様』の上には、誰が居ると思う?」
……えっ?
シルク・ラシュタール・エレナの言葉から、神様は複数居るらしき事はなんとなく把握できていた。でも神様よりも上の存在なんて、考えたことはなかった。
「上……って言われても、そりゃあ、それこそルールとか、因果とか、そういうモンなんじゃ……」
「おお! 当ったりー。すごいね、純くん」
すごいと言われても。何も解決なんかしてないぞ。
俺が頭に疑問符を浮かべている事に気付いて、恭一郎が上を指さした。
釣られて、指の先を見上げる。
ただ、真っ白な空間が続いていた。
「名前があるものには、『存在』がある。純くん。君が戦わないといけない、抗わないといけないのは、それより上の存在。『名前がないもの』を捕まえることだよ」
「……名前が、ないもの?」
「あえて呼び名を付けるとするなら、『ノーネーム』って僕は呼んでる。あるいは、『大いなる意思』とかね」
恭一郎は今、俺に貴重なヒントを与えている。
――咄嗟に、そう思った。