つ『虚言と真実は未来を見通すか』 前編
どこか遠くで、鐘の音が聞こえる。
全身を軋むような痛みが蝕み、少しだけ酸っぱいような香りが鼻をついた。
指は一本も動かす事ができない。少しでも首を動かせば締まる位置で何かが俺の首を拘束し、呼吸もままならずにいる。
「一ヶ月。飲まず食わずで、この中で生き延びる事が出来たら――ここから、出してやっても良いぜ」
人間は七日も水分を取らなければ、たちまち水分不足で死んでしまう。
だから、男の言っている事はでたらめだ。どのみち俺は、後七日もしないうちに磔にされ、その間に死んでいてもその首を飛ばされる。
焼け付くような焦げた臭いは、あちこちから香ってくる。ふわふわと浮いているような、あるいは魂がここにはないような感覚を覚えた。
やがて、下卑た笑みを浮かべた男が、俺の前から離れていく。
遠い光は、やがて少しずつ、その量を減らしていく。
そして――真っ暗になった。
待ってくれ。
言葉は言葉にならず、想いだけが消えていく。声を出すことが出来ない――……
いや、口が、ない、のか?
指もない。……ああ、足もない。視界が役に立たないのではなく、目がないのか?
俺は、死んでしまったのか?
「……純。……純」
目を覚ますと、見慣れた天井があった。俺は青い掛け布団を持ち上げ、起き上がる。隣には杏月が居て、俺の事を不安そうな眼差しで見詰めていた。
「大丈夫? ……随分、うなされていたみたいだけど」
「ああ……大丈夫。ありがとう」
――最近よく、この夢を見る。
一体それがどのような状況だったのかは、夢の中からは確認する事ができない。でも、何度も夢を見る度に少しずつ、俺は時間を遡っていた。暗闇をただ耐え忍ぶばかりの夢が続いていたが、今回は男が現れた――……
俺は、閉じ込められていた。両手足を縛られ、どこかの暗闇に。
まさかこれは、前世の記憶――……?
「まさか、純も体調悪いの……?」
――ああ、やめやめ。考えないようにしよう。
そもそも、自分の見ている夢と現実を結び付けるなんて、するべき事ではない。考えたって確証が出るような事ではないし。確かに自分が見ている夢というものは、もしかすると今までに体験してきた前世の記憶かもしれない。
だが、仮に前世の記憶だったとして、だ。それが姉さんの呟く『ローウェン』の記憶かどうかなんて、誰にも分からない。
だから、考えるだけ無駄だ。
「何でもないよ。大丈夫だから」
「うん……パパ、当分戻って来られないって。だから、純が帰って来てる事はまだ、誰も言ってない」
「ありがとう。助かるよ」
親父には、今回の件について何も報告していない。
勿論問い掛けられれば答えるけれど、戻って来るまではあえて俺の方から連絡しなくても良いのではないかという結論に達した。俺が戻って来る事で、また姉さんを売り飛ばすとか、面倒な話になったら嫌だし……言い出し兼ねないしな。
まあ、姉さんが危険に晒されるような事が、もしあるようなら――杏月と二人、全面戦争だ。
「純、ちょっと聞いてもいい?」
俺は服を着替えながら、杏月の方を向いた。……当然のように、俺の着替えに反応して出て行く様子など欠片も見当たらない。まあ、最早俺も特に気にしないけどさ。
ちょっとくらい、恥じらいを持ってくれても良いんだよ。
「……ん、何?」
「あいつ、背中に羽根が生えたりしてたのは――……やっぱり、なんかそういう、呪いみたいなもんなの?」
どうなんだろう。
正直な所、俺にだってよく分からないさ。俺は姉さんの変化に対応してきただけであって、姉さんの前世の記憶やしがらみの事を知っている訳ではない。
でも、様子を見ている限りでは。姉さんはやっぱり、前世から引き継いだ呪いのようなものを、抱えているように感じる。
「……たぶん」
だから、俺はそう答えた。
「俺にもよく分からないんだけど。……でも、姉さんが俺を諦める事で解決するって言うんだから、多分そう――なんだと思うよ」
その言葉には、実を言うとあまり自信はなかった。
これだけ苦しんでいる姉さんの事を、俺は受け入れてあげたいという気持ちがある。それは疑いようもない事実だ。
姉さんが暴走する原因も、ある程度分かっている。前とは違う、今なら姉さんを狂わせる事なく、上手くやっていく事も可能なのではないか。
あまりに危険過ぎるので、実情は出来ることではないが。心の内側では、そう感じている自分がいた。
「……そっか。じゃあ、純は頑張らないとね」
そう。
俺は、頑張らないといけないのだ。
◆
というわけで、十月十一日、木曜日。雨は止み、曇り空から太陽が顔を覗かせていた。
特に今までと変わらない、普通の一日になる予定だった。君麻呂も昨日の一件以降、特にケーキについて問い掛けてくる事も無かった。もしかしたら、もう俺が聞いた事さえ覚えていないかもしれない。
一応時が戻った瞬間、君麻呂と居た通りの周辺も帰り際に確認してみたが、ケーキはどこにも居なかった。よって、俺はケーキを見付ける手段というものを、既に無くしていたのだった。
ところで。
「……なに、この状況」
放課後。俺は眉をひそめて、臨時ドラマ作成委員会の教室へと入った。
入ったら、既に事は起こっていた。
「あ、純くん。お疲れ」
「お疲れ、瑠璃」
瑠璃は滝のように汗を流して、俺に微笑みかけた。……そんなに無理しなくても良いんだ、瑠璃。この異常な光景の中だったら、慌てても誰も責めやしないさ。
さて、教室にはいつもの作戦会議用の長いテーブルに、パイプ椅子が数個並んでいる。既に一同は集まっていて、俺が最後だったらしい。
「はなせ――!!」
……なんか、美濃部が越後谷に押さえ付けられていた。
「バカ!! セクハラ!! 死ね!!」
「どう、どう」
いや、何で越後谷が美濃部を冷静にさせているんだ。おかしいのは明らかに越後谷の方だろ。
瑠璃が何も出来ていないのは、相手が越後谷だからだろうか。何だかんだ、こいつの影響力が非常に強いということは、長い時間の中で思い知らされたからな……
「おう、来たか、穂苅」
「……来たけど。何やってんだよ」
「まあ、見てろ」
見てろ、って言われても。普通ならこれ、明らかに先生を呼ぶ状況だぞ。
無許可に女の子を床に組み伏せて、抵抗されているのに無理矢理押さえ付けているこの状況が許されるほど、イケメンに権力があるわけでもなし。
……いや、あるのか? わからん。
越後谷はいつもの無表情で、美濃部をじっと見据えた。
暴れていた美濃部が、その無垢な瞳にたじろいだ。
「……うっ……」
「いいか、美濃部。お前は俺に逆らえない」
な……何だと!? 美濃部の怒りが、段々と静まっていく……!!
「……さ、逆らえ、ない?」
「そうだ。美濃部、お前は俺に逆らえない」
「そ、そんなはずは……」
「いや。逆らえない」
まるで催眠術だ……!! まさか、越後谷にこんな能力があったとは……!!
美濃部は蕩けた瞳で、段々と焦点が定まらなくなっていく。ぐったりとした身体が完全に脱力した事を確認すると、越後谷は美濃部の頭を撫で――……
「――って、んなわけあるかー!!」
ですよねー。
「ごぅっ!?」
越後谷の鳩尾に突き上げるような鋭い拳がめり込んだ後、美濃部は越後谷の拘束から脱出して、瑠璃の背後に回った。
瑠璃が少しだけ慌てて、それを受け入れる。
「い、いきっ、いきっ、いきっ――なり、なんなのよ――!!」
これは吃っても仕方ない。
越後谷はすぐに復活して、立ち上がり……あれ、殴られたの鳩尾だろ。こいつも大概タフな……
口元を拭うと、美濃部を見下ろしながら言った。
「作戦、失敗か……」
いや、当たり前だろ。お前、どうした。
美濃部はそのまま、教室を出て行ってしまった。……何で? ついこの間まで、越後谷と美濃部の間には何も起きていなかったのに。
「越後谷? しっかりしろ、お前そんなキャラじゃないだろ」
俺はどんな顔をして良いのか分からず、苦笑して越後谷に手を振った。越後谷は俺を一瞥すると、何事も無かったかのように服を払い、そして―ー
え、追い掛けるの? この状況で?
すれ違い様に、越後谷は扉に手を掛けて、言った。
「いや。――美濃部に、瑠璃の真似を止めさせようと思ってな」
――えっ。
瑠璃の、真似?
意味深な台詞を残して、越後谷は去って行った。瑠璃が目尻に涙を浮かべて、苦笑してそれを見送る――ああ、もうあと一週間も無いのに。撮り残したシーン、後どれくらいあったっけ……
ああ、でも一応は、最後のシーン以外は撮り終えているんだっけ。瑠璃が管理しているから、よく覚えていないけど。
最悪の場合でも、リテイクを止めれば学園祭には間に合うのか。
……最後のシーンさえ撮れれば。
「今日も撮影、出来ないかなあ……」
瑠璃がため息を付いた。
「……どうしたの、アレ」
「分かんない。私にも、何がなんだか……」
そりゃあ、そうか。しかし、越後谷の奇行なんて。ドラマの制作が始まってから、初めて見る光景だ。
あれ、よく見たら君麻呂が教室の中に居る。何故か箒を持っていた。……何故、箒。
固まっている。君麻呂の周囲一メートル程の空間だけ、白黒になっているように見えた。
「……もろともにー、あはれとおもへー、やまざくらー」
花よりほかに知る人もなし……って、しっかりしろ。あまりの衝撃に石化するんじゃない。
俺はぶつぶつと短歌を呟く君麻呂の目の前で手を振ったが、反応しなかった。
美濃部の様子がおかしいと思っていたら、今度は越後谷の様子がおかしくなるとは……。
「……まったく。りっちゃんの事が好きなら、素直にそう言えば良いのに」
「えっ!?」「えっ!?」
俺と君麻呂の声が、奇妙なハーモニーを奏でた。
越後谷が美濃部の事を好き……? そんな馬鹿な。越後谷が美濃部と話す事なんて、このドラマ制作期間の中でもほとんど見てはいなくて……
……いや、待てよ。よく考えたら、それはおかしいんじゃないか? 瑠璃と越後谷は幼馴染。即ち、越後谷と美濃部も結構――少なくとも俺よりは、昔に出会っている筈で。
会話する事を避けているようにも見えたしな。そういえば、合宿で美濃部に越後谷から告白されたと報告した時、尋常じゃない慌てぶりだった。
『穂苅、お前はそういう事をしない奴だと思っていたよ……』
『悪いけど、お前の体裁とか俺にはどうでもいいんで』
ごめん、越後谷。心の中で合掌する俺だった。
いやー、しかし越後谷が美濃部をねえ。
……越後谷が美濃部をねえ……。
……さっぱり状況が想像できない。
「待て待て待てよ、越後谷は瑠璃ちゃんの事が好きだったんじゃないの?」
「ええ? あはは、それはないよー。幼馴染が恋愛に発展するとか、幻想だから」
ちなみに、君麻呂の事情はドラマ制作チームには既に伝わっている。春子ちゃんの葬儀の関係で、ドラマ制作に関わる事が出来ない時期があったためだ。
瑠璃は大層驚いていたが、君麻呂の態度が作られたものだったと分かり、いくらか警戒を緩めたように思える。
「でも越後谷と美濃部は、言ってしまえば幼馴染じゃね……?」
「え? ……あれ。ほんとだ。……えっ? 私に魅力がないだけ……? あれ? おかしいな……」
二人して、頭に疑問符を浮かべる――って、どうでもいいだろ。早く二人を探しに行こうよ。
「ジュン!!」
不意に、背中から何かが俺の腕を取った。振り返ると、縦ロールの金髪娘が俺の右腕をしっかりと抱いて、花のような笑みを浮かべていた。
「おー。……久しいな、レイラ」
「聞いてくださいまし、わたくし、卒業したら海外の会社に行くことになりましたわ」
……おう?
唐突な告白に、俺は頭の中が真っ白になってしまった。レイラは微笑みを浮かべたまま、俺の反応を待っているようだった。
そういえば、経済学がどうのとか言ってたっけ。
「……あー、おめでとう。急な話だな」
「賞賛が足りませんわ」
「おおお!! すっげええ!! マジレイラすげー!!」
「ふふん。撫で撫でしてくださいまし」
「……ああ、えらいえらい」
「えへへ」
って、兄と妹か。
いや、何だよこれは。レイラの方が背が高いというのに――……あれ? そうでもない。そういえば、いつの間にか俺とレイラの身長は同じくらいになっていた。
ヒールがないからか……? いや、俺の背が伸びたのかな……
背が伸びた、だって!? それは嬉しすぎるだろ!!
全く関係のない所で喜ぶ俺だった。
「……いいな……」
ぽつりと、瑠璃の呟きが漏れた。
やや上目遣いに俺とレイラの様子を眺める瑠璃は、なんだか妙に可愛い。