つ『揺れる心はいつかの時に溺れるか』 後編
「……純?」
俺は振り返り、杏月の肩を掴んだ。反射的に握っていた傘が地面に落ちてしまったが、気にもならない。
「杏月!!」
「はっ!? ……ええっ!?」
戸惑う杏月に、俺は瞳を合わせた。杏月の本心を突き刺すような鋭い視線を送る。
喉を鳴らした。――杏月が覚えていなければ、ケーキの存在は今や、この世で俺しか覚えていないという事になる。
俺だって、いつ忘れてしまうか。
現に、今日君麻呂と話をするまで、俺はケーキの存在をすっかり忘れていた。
「……ケーキって名前の、『神の使い』、覚えてるか」
――雨は冷たく、俺の肩と背中を濡らした。
「……覚えてない」
――なんで。
俺が、おかしいのか? ……もしかして、初めから『ケーキ』などという存在は、どこにも居なかったのだろうか? 俺の幻想、それこそ夢のようなもので――……
だとしたら、時が戻る事に説明が付かない。……確かに、シルク・ラシュタール・エレナは俺の前に現れ、俺に恋人を作らせるという使命を与えたのだから。
ポンコツで、ヘタレで、ピンチになるとあまり役に立たないケーキ。
でも、これだけの時間を共に過ごした身として、それは――……
「……ごめん」
俺は杏月の肩を離し、地面に落ちた傘を拾った。
何れにしても、覚えていないなら仕方が無い。俺は一人で、どうにかケーキを見つけ出さなければ。
どこかに、居るのだろうか。もしかしたら、この人間界には居ない可能性だってある。そうしたら、俺の立場では世界中の何処を探したって、ケーキに辿り着く事は出来ないじゃないか。
事情を聞くことさえ、できない。
「今日、先に帰るわ。皆には体調が悪いって伝えておいて」
俺はそれだけ言って、踵を返した。
ふと振り向く前に、杏月の鋭い視線が突き刺さった。
それはまるで、俺の心の内を見透かしたかのような、対局を見る視線だった。
「――そいつが、居たのね?」
動きを止めた。
杏月は鞄から携帯電話を取り出して、操作した。程なくしてそれを耳に当てると、堰を切ったように話し出す。
「あ、もしもし、るりりん? ……ごめん、今日ちょっと撮影行けそうにない。……うん。純と二人で、パパに呼び出されちゃって。皆にもよろしく伝えておいて。……うん、ありがと。それじゃ」
……杏月、一体どうしたんだ?
俺が戸惑っている間に、手続きは終了した。杏月は唇を真一文字に結んで、携帯電話を鞄に戻した。
もしも杏月がケーキの事を覚えていないとしたら、俺の言っている事なんて単なるファンタジーだ。君麻呂や杏月のように事情を知っている者だったとしても、俺が世迷い言を口にしているとしか思えないだろう。
だが、杏月は俺を見ると微笑んで、歩き出した。
「行こ。探しに行くんでしょ?」
「……杏月、だってお前、ケーキは」
「もちろん、覚えてないよ?」
杏月は俺の手を取って、引っ張る。
「――私はもう、『自分の記憶』を信じない」
ただ、妙に印象的な白黒基調の傘が、杏月の存在を際立出せていた。
◆
ケーキの存在を最後に見た場所に戻りたい、という杏月の返答だったが。最後にケーキを見たのは、姉さんの家。寝室だった。俺達は電車に乗り、ひとまず姉さんの居場所を目指す事になった。
……俺はどうにもあの場所にもう一度戻るのは、気が引けていたのだけど。
姉さんと俺の因果についての問題が発覚してから、ずっと俺のそばにいたケーキ。居なくなったと分かると、それまで鬱陶しい程に視界にちらついていたケーキの存在が、急に恋しく思えた。
本当に、どうして忘れていたんだろうか。
「あいつの家に着いたら、純は外にいて。私はあいつと話してくる」
歩きながら、杏月はそんな事を言った。
依然として雨は降り続き、足元は濡れる。杏月は俺の事を庇ってくれたのか、事情を察してくれたのか。真剣にケーキの探索に集中しているようで、他の雑念は一切感じられない。そんな所に頼もしさを感じた。
「……ああ、サンキューな。助かるよ」
「純。私達は、同じ時間を生きているのかもしれない」
姉さんのマンションに到着すると、杏月は立ち止まった。そして、姉さんの部屋を見上げた。
その向こうに、姉さんの姿を想っているのだろうか。杏月の表情はどことなく寂しげで、そして悲しそうだった。この辺りは車通りも少ない。降りしきる雨の音だけが継続的に鳴り続く中、杏月の赤銅色の瞳は――透き通るように、感情を映す。
その瞳の奥に、姉さんと同じものを感じた。
「同じ、時間?」
「なんとなく、だけど。……私達は前世の因果に縛られて、ここまで一緒に来てしまったんだと思うの。あいつが純を、純が私を、……私はあいつを見て、前にも平和な時を過ごした気がする」
どうして、そう思うのだろうか。
何か、予感のようなモノだっただろうか。深遠とも取れるその言葉の向こう側に、メビウスの輪のように繋がる時間の存在を感じた。
杏月は俺に振り返る。瞬間、セミロングの茶髪は雨音と戯れるように、ふわりと広がる。凛々しいとも、雄々しいとも取れる表情は優雅で、艷やかだった。
その強い意志に、深い魅力を感じた。
「――私達は、同じ事を繰り返そうとしているような気がする」
その時、はっきりと感じた。
この途方も無い前世の話に関わっているのは、姉さんと俺だけではない。そこには、杏月の姿もあったのだと。何故だろうか、はっきりとそう感じる事ができた。
――フィリシア?
そう言ったのは、誰だっただろうか。
「……杏月」
「同じことにならないように食い止めるのは、きっと私の役目だから」
それだけ言って、杏月はマンションの階段を上がっていく。俺はぼんやりと、その後ろ姿を眺めていた。
……ここに、ケーキが居るのだろうか。あまり見付かるとも思えないが――……そもそも、杏月が意識していたとしても、見覚えの無くなってしまったケーキの姿をもう一度確認する事は、出来るのだろうか。
まあ、駄目で元々だ。時間が巻き戻った時の事を考えるなら、ここよりも駅前、君麻呂と出会った所の方が可能性は高い。それでも、見付からない可能性の方が高いように感じた。
本当に、何処に行ってしまったのだろうか。
ふと、携帯電話が鳴った。……瑠璃? 俺は携帯電話を開いて、それに応答する。
「はい、穂苅です」
『もしもし、純君? 今、電話大丈夫?』
「大丈夫だよ」
『ごめんね、おじさんに呼び出されたみたいなのに、電話しちゃって』
あー。
そういえば、そういう事になっていたんだった。
「あんまり大した事じゃなかったみたいで、今は外に居るよ」
『……そう、なんだ』
その声音は、どことなく重たかった。こんな時間に、俺宛の電話。何か、良くない予報でもあるのだろうか。本来ならば、まだドラマ制作を行っている時間ではないか。
俺が登場しないシーンも、まだいくつか残っていたはず。先にそっちを進めて貰えればと思ったのだけど――……
「ドラマ、止まってるの?」
『あ、うん。実はね、越後谷も今日、来なくて』
そうだったのか。俺は兎も角、越後谷が来ないなんて珍しいな。仮にも学生の行事だが、越後谷の熱意は端から見ている俺でも分かる程に伝わっていたが。
……それにしても、何だろう、この空気は。何を言われるのだろうか。電話越しだというのに、俺は怪訝な表情になってしまった。
「……それで?」
『あー、うん。……あのね、大した用事では、ないんだけどね』
何だよ。焦れったいな。何か話す事があるなら、もっと普通に話してくれよ。
それが出来ないような内容なんだろうけどさ。
「うん、何?」
『あーもう! ちょっと貸して! ……もしもし穂苅君?』
……美濃部?
『次の日曜日、空いてる?』
「ん、まあ……空いてるけど」
『ちょっと付き合って欲しいんだけど、良いかな!』
――なんだろう。随分ハキハキ喋るな、美濃部。まるで瑠璃と立場が逆転したみたいな雰囲気だ。
なんとも言えない状況に、俺は笑顔を浮かべたままで固まってしまった。
それに、なんだか分からないけど、キレてないか……?
「……いいけど、どういう用事なの?」
『すっごく大切な用事!!』
……あ、電話切れた。
呆然と、切断音の流れ続ける携帯電話を見詰めた。一体、何だったんだ……。ついこの間まで、妙に余所余所しい所があって話し辛いと思っていたけれど。
欠片も吃っていなかったな。むしろ、聞き取りやすいレベルだ。ドラマ制作の影響なんだろうか……。
考えても仕方のない事だけど、何とも言えない空気になってしまった気がするぞ。
今日、水曜日なんだぞ。明日明後日、俺はどんな顔をして美濃部と瑠璃に会えば良いんだ。
「純」
……いけない、唐突によく分からない電話が掛かってきたから、頭の中が真っ白になっていた。杏月に姉さんの部屋を探して貰っていたのだった。
階段を降りて来る杏月は、どことなく覇気を失っていた。
「おかえり、杏月。ケーキ、見付かった?」
杏月は首を振った。
やはり、見付からないか。ならば、この場所は速やかに離れた方が良いだろう。姉さんの具合はどんどん悪くなるばかりだ。俺が近くに居ない方がいい。
「……どうした?」
「あいつ、純が出て行った事に、結構、ショック受けてたみたいで」
……まあ、それは。そうなるだろうな。
「体調的には、どうだった?」
「……体調?」
「前回、杏月の知らない所で時を戻しただろ。……あれ、姉さんが倒れたからだったんだ。だから、俺は姉さんと一緒に暮らさない事にした」
杏月は驚いている様子だった。それはそうだろうと思う、あの姉さんが倒れるなどと、これまでから考えれば予想も出来ない事態だ。俺が風邪を引く事はあっても、姉さんが風邪を引く事は絶対に無かった。
さて、姉さんが来る前にこの場を離れないと。接触したら、また姉さんは自分の身体に異変を感じるだろう。
ケーキが居ない以上、もう時を戻す事は難しいと考えておいた方が、リスクがない。
「ちょっと、待ってよ。……どういう事?」
杏月が俺の後ろを追い掛けて来る。俺は杏月が横に並ぶのを待ち、言葉を続けた。
「姉さんが俺と居ると、ほとんど四六時中発情しっぱなしってのは、杏月もよく知ってるよな」
「……まあ」
いや、本当に俺の口からこんな事言うの、自分でもどうかと思ってるよ。頼むから変な顔しないでくれよ。
冷静なフリをしていないと、真面目な顔でこんな事は言えないってば。
「……ごほん。とにかく、アレはどうやら、悪化したりするタイプのモノだということが分かったんだ」
「悪化?」
「そう。姉さんは俺が近くに居ると発情していたけど、それはどんどんエスカレートしていくんだ。それで、自分自身もコントロール出来なくなって、倒れた」
「えっ……じゃあ、まさか……」
「いや、違う。それは勘違いだ。――いや、ほんと。してないから。してないから!!」
俺を変な目で見るな!! どうにか逃げたって!!
……いや、実の所は相当ヤバかったけどさ。後一歩で俺も暴走する所だったけども。そんな事は、勿論杏月には言えない。
大人には、言えない大人の事情というモノがあるのだ。
「と、とにかく。それのせいで、俺は実家に帰るしか無くなったんだって」
「……まあ、いいけど。じゃあ、純はこれからどうするつもりなの?」
俺は、予定通りに恋人を作るしか無いんだ。
それも、出来るだけ早く。
そうすれば、姉さんは長い呪縛から解放される。
「……俺が試練をクリアすると、神様が姉さんを助けてくれるんだ」
「何、それ。それが時が戻る理由ってこと?」
「……まあ、そんなところ。姉さんが俺を諦めないと、神様にもどうにも出来ないんだとさ」
「どんだけ強いのよ、あいつ……」
俺も、答えを出さなければならない。俺を好いてくれる人達の、誰を受け入れるべきなのか。
既に杏月は、俺の家族として隣に居てくれると言ってくれた。だから、決着は付いている。
青木瑠璃。
美濃部立花。
二階堂レイラ?
……俺だって、何も考えていなかった訳じゃない。ただ、ドラマの撮影が終わってから、俺はそれぞれに返事をしようかと思っていた。
学園祭が終わってからでないと、余計に拗れてしまう可能性もあるからだ。
「で、純の答えは出てるの?」
俺は杏月とは目を合わせずに、言った。
「――答えを、出そう」
降り続く雨の中、俺は方向性をそう定めた。だからといって何が変わった訳ではなかったけれど。
正直、俺が姉さんの隣に居ながらにして、ここまで誰かに好かれる事があるなんて、思ってもみなかった。お世辞にも俺に魅力があるとは思えないし、特別見た目が良いわけでもない。
少なくとも俺は、姉さんの代わりとして誰かを恋人にする気なんて無い。だから、好いてくれる人ではなく、俺が好きになれる人、で判断するべきだ。
例えそれが、どんなに相手を傷付ける事になっても。
俺が答えを出した時、どんなタイミングになっても、誰かは傷付く。
ならば、思い切りを良くしなければ。
「うん。応援、してる」
揺れる心はいつかのように流されるままにはならなかったけれど、
俺は一つの可能性に向かって、動き出そうとしていた。