つ『揺れる心はいつかの時に溺れるか』 前編
十月十日、水曜日。
瑠璃の提案した学園祭まで、後一週間。俺達は無事にほとんどのシーンを撮り終え、後は最後のシーンを残すのみとなっていた。
メインヒロインが告白をするシーン。何でも瑠璃の納得が行かないらしく、何度もリテイクをしていた。
自分がヒロインなんかやるからこういう事になる、と瑠璃は自分自身に散々文句を言っていたが。まあ、最も知識の多い越後谷の推薦なので仕方ない、といった所だろうか。
長い残暑が終わり、どことなくひんやりとした冷たい空気を感じられるようになった頃。俺は授業の最中、窓の外を見詰めていた。どんよりと曇る空は暗く、やがて雨が降るであろうとその身を持って主張していた。
退屈な講義が不評で生徒からはあまり好かれていない先生が、黒板で全く教える意志の感じられない授業をしていた。退屈だからか、眠っている生徒も何名か確認する事が出来る。
「では、五行目から――……杉浦」
「はい」
姉さんには、あれから会っていない。
「ここでいう『給え』は――……」
前世では、純さんとお姉さんはお互い愛する人同士だったんです。
シャープペンシルを無心のままに何度もノックし、何本もの芯を机の上に出す。全て出し切ってはまた戻す。
そんな意味も理由も無い事を繰り返しながら、俺はぼんやりと、最後に姉さんに電話した時のことを思い出した。
――言って、しまった。
瞬間、俺は机に頭を叩き付けた。
「……えっ!?」
遠くで、瑠璃の声がした。おそらく、俺の行動を見ていたからだと思う。
俺、たぶん、姉さんのこと、好きだったんだと思う。
言ってしまったあああ!!
いや、確かに姉さんから離れる必要はあったけど。あれは言う必要無かっただろ。うん無かった。絶対に無かった!! 姉さんの悲痛な声音に、なんとなく反動で言ってしまった。
やばいどうしよう。恥ずかしい。死にたい。
というわけで、俺から姉さんに連絡する事はどうしてもできないのだった。
あれから姉さんも、俺に連絡する事はないし……。そうこう言っている間に、一ヶ月近い月日が経ってしまったのだ。
俺はポケットの中の、携帯電話を探る。
今からでも、言えば良いじゃないか。ちょっと、一時の感情に心を奪われてしまったのだと。つい、反動で出てしまった言葉なのだと。
事情を説明すれば、姉さんだってきっと。俺が実家で暮らす事に同意してくれるんじゃないだろうか。
いやっ。でも。この場で連絡する訳にはいかない。
俺だって、姉さんの悲痛な声をもう一度聞いたら、また帰ってしまうかもしれない。
「次のページからー、穂苅」
……俺、姉さんのこと、好きなんだろうか。
何を焦っているんだろうか。家族として、好き。それで良いじゃないか。今まで再三そう言ってきたのだから、姉さんだって俺の言葉が恋人のそれであるということを認識していない可能性はある。
まるで何事も無かったかのように元に戻る事だって、可能なんだ。その上で、姉さんとの肉体的な距離を置くことも不可能ではない。
それでも、姉さんに連絡できないのは。
「穂苅ー。……穂苅休みか? ……まあいいや。じゃあ、安藤」
「先生、もう終わりっすよ」
自分の事が一番分かっている、等という言葉はハッタリだ。改めて、そう思う。他の誰より、自分の事が一番よく分からない。
まして、前世がどうだ、などという話になってからは。
自分を本当の意味で客観視する事は、誰にも出来ない。だからかもしれない。皆口を揃えて、『自分の事は自分が一番良く分かっている』と言うのだから。
もしも誰もが自分の事をはっきりと理解しているなら、こんな矛盾は発生しない筈なのだ。
昼休みを告げる、チャイムの音がした。俺は咄嗟に、窓から並木道を確認する。
……姉さんは来ない。
当たり前だ。この一ヶ月、何度もこの光景を見てきた。新鮮過ぎて、どうにも対応できないけれど。俺は立ち上がり、荷物をまとめた。
どうでもいいけど、時間管理くらいしろよあの先公。やる気無いにも程があるだろ。
俺も同じか。
飯、どうしようかな。屋上で食べるか。
屋上なら、誰も居ないし。
「おう、純。屋上?」
B組の教室から、君麻呂が顔を出した。俺が軽く頷くと、君麻呂は特に何を言うこともなく、まるでそれが当然であるかのように俺に付いて来た。
……ま、今や杏月を除くと事情を知っている唯一の人間だからな。居て悪い気分はしない。
「そういや、レイラはどうだ? 最近見ないけど」
「おー。最近、なんか話すようになってさ。今じゃクラスで一番仲の良い相手だぜ」
「良かったじゃん。ダウングレード作戦?」
君麻呂は落ち着いた雰囲気の茶髪になった。もう、ゼミには通っていないらしい。
つまり、そうする必要が無くなったのだろう。それが何を意味するのかは何となく分かっていたので、俺はあえて聞かない事にした。
人の生き方が変わる事なんて、そう沢山あるものではない。
「ま、俺ちゃんは元々スペック高えからな。そんなもんじゃね」
「はいはい。そうっすね」
「俺達の前に現れなくなったのは、最近どうも、経済学だかなんだかを先行するために別の塾? みたいなのに通ってるらしくて」
「へえ、そうなんだ?」
「学校終わったら、すぐに向かってるらしいんだ」
意外だな。あのお嬢様が、経済学。
まあ、思えばレイラは合宿場所を貸してくれただけであって、ドラマに参加していた訳ではないからな。そう考えると、異質なメンバーだったと言える。
屋上に上がり、扉を開いた。
銀色の柵に、だだっ広い空間。曇り空は広がっていたが、まだ雨は降らないだろうか。
まあ、降って来たら場所を変えればいい。どうせ、コンビニで買ってきたパン程度だ。
扉を開いた瞬間、何かが激突した。
「おわっ!?」
その人影は俺と君麻呂の間をすり抜けて、階段を一直線に降りて行く。
……美濃部?
少しだけ見えたオレンジ色の髪には、見覚えのある赤いリボンが覗いていた。
「……な、何だったんだ?」
「さあ……」
君麻呂も少し驚いた様子で、しかし何事も無かったかのように扉を閉めた。……まあ、考えても仕方ないだろうか。
ドラマ制作メンバーは、穏やかだが、簡素な付き合いになってしまった。勿論仲が悪い訳ではないのだが、これといって特別に遊んだりする事も無いような、さっぱりとした関係。
各々が卒業に向けて努力をしている時期でもあるので、これは仕方がない事なのかもしれないが。
……卒業か。
俺の卒業までの目標は彼女を見付ける事だったけど、それ以外にどうするというのは、これといって考えていなかったんだよなあ……。
特に何事も無ければ、大学に向かうんだろうけど。一般的に『なんとなく大学』は駄目だという話があるので、悩み所ではある。
「純よお」
君麻呂がサンドイッチの包装紙を開けながら、こちらには目もくれずに言った。
「お前、どういう状況なんだ?」
不意にそう言われて、戸惑った。どういう状況って、一体何を指してどういう状況、と聞いているのだろう。俺は至って普通だが――……
いや、姉さんが居ないという事を除いては、至って普通だが。
「……どうって?」
「やっぱ、聞かないと落ち着かなくてさ。聞かないつもりだったんだけど……あー、どうして時が戻るんだよ。どうしてお前が死ぬと時が戻るんだ」
……ああ、その話か。
ここまで来たら、話してしまった方が良いのだろうか。俺と姉さんの間に一体何があるのか。その方が、俺の気持ちもいくらか楽になるとは思う。
そこに何の解決も見出す事が出来なかったとしても。それは、俺の中で何かの救いになるのではないかと。
俯いて言った。
「ごめん。それは、言えない」
これは、俺と姉さんの問題だ。そこに、他の誰も介入する余地はない。
姉さんがこのような状態であり、それが前世から続く呪いのようなものであるということは、既に疑いようもない事実だ。それを広めてしまう事が、今後の姉さんにどのような影響を与えるのかということが気になった。
ある人は姉さんを恐怖の対象として見るかもしれないし、ある人は物珍しい顔で応対するかもしれない。
そのどちらも、俺にとっては居心地の悪いものだ。
「……そか」
「ほら、ケーキって名前の神の使いが居ただろ。その辺から、なんとなく想像して貰えると助かる。……でも、くれぐれも他人には言わないでくれよ」
「ケーキ?」
「ほら、俺の隣に、サッカーボールくらいの長さの―ー」
瞬間、気付いて目を見開いた。
――ケーキ?
俺は辺りを見回す。……今、何月何日だ? ……十月の、十日だ。
どうして、どこにも居ないんだ? まるで初めからここには居なかったかのように、忽然と消えた。一体、いつから?
……君麻呂と最後に時を戻してから、か?
「……犬か? 犬なんて飼ってたっけか」
俺はどうして、ケーキが居なくなった事に気付かなかったんだ?
「犬じゃない、妖精みたいなさあ! ……ほら、居ただろ? 肩より少し長い程度の桃色の髪で、デコにユニコーンの角みたいなの生えてて、耳尖ってて、空飛んでるやつだよ!!」
「え……ええ? そんな事、言われてもな……」
どうして? ……君麻呂は一番最初に、ケーキの存在に気付いた筈だろ。そんな、まさか、覚えていないなんてことは、ないはずで、
頭の中が混乱して、訳が分からなくなってきた。少しずつ大きくなっていった、『神の使い』ことケーキの存在。何故か記憶の中は朧げで、もうはっきりと顔を思い出す事が出来ない。
そんな筈は……
「覚えてるだろ!? なあ、しっかりしてくれよ!! ほら、ローマっぽい服着てる――」
君麻呂は困ったような表情になって、ふと苦笑した。
「……わ、分かんねえけど、もしかしたらお前には視えてたのかもしれないな。ほら、時間を戻したりとか、できたしさ」
――――何かが、おかしい。
「ご、ごめんな。……もしかして、その娘に何かあったのか?」
絶句して、ものも言えない。
君麻呂は完全に、ケーキの存在について何も覚えていないようだった。頭のてっぺんに、冷たいものが当たる。ぱらぱらと、雨は降り始めているようだった。
「……いや。なんでもない。……ごめん、取り乱して」
「純、大丈夫か?」
大丈夫なんかじゃ、ない。
「――そろそろ、授業始まっちゃうな。戻ろうぜ」
「あ、ああ……」
この世界の『記憶』は、天界の視点で言えば非常に不安定で、振り払えば消えてしまうような程度のモノでしかない。
時を戻した後、誰もがそれまでの記憶を朧げにしか思い出す事が出来ず、夢のようなものとして扱っていたように。俺や君麻呂の中にある記憶だって、信頼できる保証なんかどこにもないんだ。
……でも。そんな事を言ったって、納得なんかできない。
俺は無言で、教室に戻った。
◆
放課後になると、俺はすぐに学園を出た。
君麻呂はケーキの事を忘れている。それは確かで、俺の前にケーキは居なかった。
なら、誰かがケーキの存在を消したのだろうか。
一体、どうして? 何のために?
あるいは、勝手にケーキは消えた。何かのリスクと引き換えに? その可能性はある。ケーキは時を戻す瞬間、いつも苦しそうにしていた。
そもそも、どうして時が戻るんだ?
何を犠牲にして?
「……犠牲」
犠牲に、したのか? 何を? ……そうだ。時を戻す事はノーリスクではないと、シルク・ラシュタール・エレナは言っていた。
俺は犠牲にしたんだ。ケーキの、何かを。
何かって何だ。ケーキはどんどん、巨大化して――……
……巨大化?
ぞわりと、背筋から冷たいものが込み上げてきた。それは雨が降り続いている事による、冷たい風の影響なんかではない。
俺は立ち止まり、自身の両手を見詰めた。
「純!!」
後ろから杏月が追い掛けて来た。
君麻呂と二人で時を戻した。その時、俺は七十二時間前の朝に戻る事はなかった。中途半端に、君麻呂と出会っている最中に戻されたじゃないか。
それが、『限界』だったとしたら?
『……純さんには、本来は『やり直しのルール』しか説明することは許されていません。そこは、把握しておいてください』
俺の限界にまだ余裕があったとしても、同じように時を戻すケーキに余裕がないとは、一言も言わなかった。
シルク・ラシュタール・エレナは、俺に『やり直しのルール』しか説明する事が出来ない。
何を理解したような気になっていたんだ。『まだ大丈夫』なんて、それは俺の中での結論でしかないじゃないか。
「ねえ、今日は撮影でしょ? 何で帰ってんの?」
――『徳』。
ケーキは、時を戻すごとに『徳』を失っていた、と仮定する。『神の使い』であるケーキは、『徳』を蓄積させて神の使いに昇格しようとしていた姉さんと同じように、ある一定量の『徳』を保有しているはず。
時を戻すことで、それが失われていくとしたら。
初めてケーキと出会った時のことを、思い出した。
『……ちなみに、失敗したら?』
『私の首が飛んで、私の管轄の方々は別の使いに任され、当分は生き返らなくなります』
天界では、俺と姉さんを家族にしてしまったケーキは罪人だ。ケーキが神の使いで居られなくなることについて、誰かが手を差し伸べるとも思えない。
罪滅ぼしのために、自身の『徳』を使って時を戻す。
至極、真っ当な話なのではないだろうか。
――俺は、なんて間抜けな!!