つ『穂苅杏月の人生すべて思いどおり』 後編
というわけで、昼休み。私はノートに黒板の内容を丁寧に写しながら、チャイムが鳴るのを待った。
特別指導教室では当然、特別指導の先生が居て、それはパパが個人的に指名した先生らしい。私にはよく分からないけれど、既にやっている内容は小学校のそれとは全く違う内容だということだ。
確かに、日経平均株価や各国のGDP、青色発光ダイオードの構造について話しても、誰も理解を示してくれない。
もしかしたら、日本標準で教えてもらえる内容ではないのかもしれない。
「それじゃあ内容について分かったところで、、メタンハイドレードの実用性について――」
「すいません、先生。私ちょっと用事があるので、今日はここまでにしてください」
「あ、そうなの? 分かりました。じゃあ今日はここまでね」
先生は教科書を閉じた。私も素早くまとめて、チャイムを待つ。
――――チャイムが鳴った。
私は校門側に向かって全力ダッシュ。最近、あいつの到着時間がみるみるうちに短くなってきているのだ。もしかしたら、教室からでも追い抜かれてしまう可能性がある。
道中、まだ教科書を弄っている純を見付けた。……あ、消しゴム落としてる。可愛いなあ。
どうか、あの身長が大人になっても伸びませんように。
私は校門前に辿り着いた。あいつが来るであろう方向を見る。
「――やば、もう走って来てるじゃん」
本当に、もしかしたら車よりも速くなるんじゃないの?
スペックが高いのは知っていたけど、あれで部活にも入っていなければ、大会に出ることもないというのが不思議だ。
私はそんな事を考えながら、モーションセンサーねずみ花火を仕掛けた。
あの位置なら、確実にこの場所を通るはず――……
くふふ。ねずみ花火の恐怖に怯えて、足止めされるがいいわ。
実は、ただのねずみ花火ではない。爆薬が仕掛けられていて、宙を舞って足止めをする花火なのだ。
あいつに背を向けて、私は純の下へと走った。
「待っててお兄ちゃん!! 今、杏月が行くからね!!」
あいつの包囲網をくぐり抜けて、私は純を教室以外の場所に連れ出すのだ。
ねずみ花火の有効期間は十分。チャイムが鳴ってすぐでは無理でも、それだけの時間があれば給食を手にした純を連れ出す事ができる。
気怠そうに給食当番をやる奴が居なければ、もしかしたらチャイムと同時にダッシュしても純を逃せたかもしれないけれど。
「――きゃっ!?」
さあ、ねずみ花火と一緒にダンスをしなさい!!
「――――ていっ!!」
瞬間的に地響きがして、私は思わず転んでしまった。……何、今の。地震……?
なんか、あいつの方からすごい音がしたような……
「あ、杏月!」
――あれ?
なんで、校門からあいつが顔を出すのだ?
校門から顔を出すためには、ねずみ花火を潜り抜けなければ不可能なはずで――……
「良かった、杏月も一緒にお昼ご飯食べようよ」
「……う、うん。お姉ちゃん、今日は随分早いね」
私がそう聞くと、あいつは女神のような微笑みを浮かべて言った。
「うん!! はやく、純くんに会いたいからね!!」
ちっ。
本当はヤリたいんだって、正直にぶちまけろよこのクソビッチが。お前の魂胆はとうの昔にこの私が把握してんだよ。
一足先に第二次性徴が来たからって、純を良いように丸め込もうとしやがって。このクソアマが。
「玉子焼き作ってきたの。杏月も食べてよ」
「うん!! ありがとう、お姉ちゃん!! 大好き!!」
クソアマはクソアマらしく、裏路地で股でも開いてりゃ良いんだよ。
などという想いは完璧に心の内側に抑え込んで、天使の頬笑みを浮かべる私である。
手を握られると、それとなく柑橘系のような香りがした。……香水、じゃないよね。これはあれか。メスの香りって奴か。
……乳臭い私との差が恨めしい。
私の心よ、あいつの身体を乗っ取れ。乗っ取るのだ。そうすれば、私は今日から純のお姉ちゃん……
それにしても、良い匂いだなあ。すーはーすーはー。
「ん? 杏月、どうしたの?」
「ううん、お姉ちゃんと歩けるのが嬉しいの!!」
「ふふふ、杏月は甘えん坊だなあ」
私にまで色目使うんじゃねえよ。
い、今に見てなさいよ。私だって、ちゃんと女らしく出来ることを証明してやるんだから……
胃の奥でぐるぐると渦巻く嫉妬心が、私の心を埋め尽くした。
純と合流すると、私達は三人で屋上へと向かった。学校の屋上って開放されていないのが普通だと思うんだけど、何故かあいつに掛かれば何でも許可されてしまう。
パパは私の味方だと思っていたんだけれど、もしかしたらただ単に楽しい方向に持って行っているだけなのかもしれないと、少しだけ気付いた。
「はい、純くん。あーん」
ああ、うざったい羨ましい殴りたい。
何なんだ、この女は。私の目の前で純に向かって「あーん」などと、一体誰の許可を取ってやっているというのだ。
ジェラシーの炎は見せないように注意しているけれど、私はどうしてもあいつの事を見てしまう。
――あ、私の視線に気付いた。
笑顔のまま、首を傾げる。なんだよ。そういう可愛い態度を取るから、純が夢中になっちゃうんじゃないか。
ふと、純を見た。
純は玉子焼きに夢中だ。
……あんまり、効果は出ていないのかもしれない。
「はい、杏月、あーん」
そういう意味じゃねえよ!!
「……うん、お姉ちゃん、お料理じょうずだね!」
「そう? ……へへへ」
……幸せそうだなあ。
悩みとか、あんまり無いのかもしれない。こんなに終始笑ってばっかりの人、あまり見た事がない。
私は語学に教育に恋にと、大忙しだというのに。この女は、どうやら初めから全てを手に入れているようだった。
……ぐうう。
そういえば、このお弁当、玉子焼きばっかだな。……何を考えているんだろう。流石に、口の中が甘ったるくなってきたんだけど。
「……お姉ちゃん、どうして玉子焼きばっかりなの?」
「それはね、純くんが玉子焼きが美味しいって、言ってくれたからだよ。ねー?」
「え?」
……純は玉子焼きを食べるのに夢中で、聞いちゃいなかった。
気にしないようにしてたけど、純ってトロいなあ。いつも問題起きてから慌てるタイプだよね。
「はい、純くん。あーん」
「も、もういいよ……自分で食べるから……」
しかし……そっかあ。純のためかあ。
……
なんか、腹の底からぐらぐらと沸騰するものが現れた。なんだろう、これは。これが嫉妬というやつなのだろうか。
何で、私だけ除け者にされてるんだ。
「純くん、大好きよー」
純は顔を赤くして――……コクン、と頷いた。あいつの表情が、だらしなく緩む。
瞬間、考えるよりも先に左腕が出ていた。
その時だけは、私もあいつに負けず劣らず素早い腕の動きをしていたかもしれない。
「――――げフゥッ!?」
思わぬ所から発生したイベントに、あいつが腹の底から根こそぎ息を吐きだして、青い顔をした。
私はポケットから取り出したイヤホンの音量を上げて、純の耳に掛ける。
「お兄ちゃん、ちょっとこれ聞いてー」
「……え? ……うん、いいよ」
満面の笑みでそう言った後、私は振り返った。
――あいつに、振り返った。
鬼も裸足で逃げ出すような顔で、眉根を寄せる。純に見えないように、中指を立てた。
「デレデレしてんじゃねえよ」
「――ひっ!?」
あいつの下顎を掴んで、ガタガタ言わせる。
思えば私が本心をさらけ出したのは、今回が初めてかもしれない。あいつは私のあまりの変貌ぶりに、なんだかよく分からない顔になっていた。
「私の前で二人の世界に入るのがそんなに楽しいのかよ。あ? 調子乗ってんじゃねえぞコラ」
「……あ、杏月? ……杏月、さん?」
「ああ!?」
「ひっ!?」
純がイヤホンを外して、私を見た。
瞬間、私は満面の笑みに戻って、純に差し出されたイヤホンを受け取る。
「……音が大きすぎて、よく分からなかったよ」
「あ、ほんと? ごめんね、お兄ちゃん」
「ううん、いいけど。……お姉ちゃん? どうしたの?」
あまりに衝撃的だったのか、あいつは口をぱくぱくさせて、蒼白になっていた。
……ちょっと、やり過ぎたかもしれない。
★
……さっきのは、何だったんだろう。
放課後になっても、私は考えていた。いつも純とあいつの間に入る事は私の目的だったけれど、あんな風になってしまったのは、初めての事だった。
別に、あいつと純が仲良くしている事は問題ではないのだ。私は三人で、仲良くしたかっただけで……
……あれ? でも、それじゃあ純と結婚できない。
違うよ。私はあいつと純を引き離したかったのだから、当然の結果なのだ。あれもまた、嫉妬の炎が成せる技なのだ。
むー……
私は溜め息を付いた。
「それじゃあ、今日はここまでねー……どうしたの? 穂苅さん」
「いいえ、何でもないです」
――乙女心は複雑だった。
私は自分の事がよく分からない。パパはいつも『真実は自分の中にある』だとか何とか、それっぽい事を言っているけれど。正直、自分の中にあったからといってどうすれば理解できるというのだ。ちゃんちゃらおかしいわ。
赤いランドセルを背負い、私は校門まで歩いた。
……どうせ、あいつと純はまた、手を繋いで帰るんだろうさ。
ああ、いいさ。私は一人で帰るから。
……ふん。
「――あ、杏月」
背後から、純の声が聞こえてくる。
やばっ!?
咄嗟に振り返った。もう来てたのか、チャイムとほとんど同時に帰った筈なのに。隣にはあいつの姿もある。
……手を繋いでいた。
急に、悲しい気持ちになった。そして、この場所に居たくないという強い思いが私を支配する。
あいつは――未だ、私に怯えている様子だった。
咄嗟に私がやったことは、
踵を返して、純から逃げる事だった。
「杏月!!」
逃げるだ!!
どうせ、わたしゃ一人なんさ!!
バネの入った運動靴が、私の速度を補佐する。純の全速力など圧倒的に凌駕し、私は荒野を駆けるチーターの如く大地を蹴った。
あっという間に学校の校門から出て、訳も分からず道を疾走する。
勝手にすればいいじゃないか。所詮義理のキョウダイなんてそんなものだ。
私は同じパパに育てられたというだけで、本家に行ける訳じゃない。『離れ』で大切に育てられているというだけで、結局二人とは別の生き物なのだ。
血が繋がってないのだ。
だから、究極のところ同じ人生など、歩める筈もないのだ。
私は、天涯孤独なのだ。
★
……どれだけ走っただろうか。
気が付くと私は、ここが何処だかも分からない場所にいた。見た事がない商店街。赤いランドセルを背負った私が、魚屋の渋いおっちゃんに見られている。
私は気まずくなって、そそくさとその場から離れた。
――どうしよう。
何も考えずに走って来ちゃったから、いつも行かない場所をぐにゃぐにゃと進んで、ここが何処だかも分からなくなってしまった。
「五時までには、家に帰らないと。パパに怒られちゃう……」
そんな事を口走っても、誰も助けてくれる人など現れない。
何だか世界に一人だけになったような気がして、急に寂しさが押し寄せてきた。
……ま、いいや。
どうせ私は、あの二人に必要とされていないのだから。
公園に入った。
ふと、近くにあったゴミ捨て場に気付く。
「……ねこだ」
ゴミ箱の上に居た野良猫が、とぼとぼと歩く私のそばに歩いてきた。
私は屈んで、その猫に触れる。
……やわらかい。
「……おまえ、どこからきたの」
猫はにゃあ、と鳴いて、私に擦り寄った。
「……なんも、持ってないよ」
給食のパンくらい持っておけば良かったと、今更後悔する私だった。
猫には首輪が付いてない。どうやら野良みたいだ。
お腹が空いているのか、ぺろぺろと私の指を舐めてくる。
……そういえば、私もお腹空いたな。
残念なことに、お財布の中には三十円しか入ってない。十円チョコくらいだったら買えるけど、駄菓子屋さんなんて近くにないし……
そもそも、ここが何処だか分からないのに。
「お前も、私と一緒だね」
猫は相槌を打つかのように、鳴いた。
……人生すべて、思いどおり。私がちゃんと計画して望む事をやれば、そのうち私はそうなれると言われてきた。なら、一体いつになったら思い通りな世の中というものは訪れるのだろう。
唇を噛み締めて、猫の背を撫でる。
「……さびしいよ」
一人は、寂しい。
ずっと一人だった。寂しかった。そんな時、パパが拾ってくれた。
……でも私は、やっぱり一人なんだ。
どこまで行っても、一人。家族はいない。友達だって。
ぽろぽろと、涙は頬を伝って落ちる。
「――杏月!!」
ふと、呼ばれた。私は顔を上げて、振り返った。
そこには、私の――……
「どうしたの? 急に逃げちゃったから、びっくりしたよ?」
私は目尻を拭って、涙を隠す。猫を背中に、立ち上がった。
「……ううん、なんでもない。……お姉ちゃんは?」
「別の場所、探してる。もうとっくに門限過ぎてるぞ、帰ろう」
純は私に向かって、手を伸ばす。
どうしていいものか迷ったが、私はその手を取る事にした。
――あたたかい。
不意に訪れた暖かさは、私の冷たく凍て付いた心を優しく溶かす。たったそれだけで、深い霧が晴れたように、私は歩みを進める事ができた。
ふと、後ろの猫を確認した。
もう私の事には興味がなくなったようで、どこかに歩いて行った。
「杏月、大丈夫?」
――そうだ。海外に行こう。
今の私は、まだまだ不安定だ。パパが言うような、『計画的な犯行』からは程遠い。行き当たりばったりにやって、失敗して、だから一人なのではないだろうか。
本当に、純もあいつも居ない所で、自分自身を鍛え直す必要があるのかもしれない。
そうしたら、今度こそ本当に、二人の『家族』に――……
「――うん。私は大丈夫だよ、お兄ちゃん」
純とも、『結婚』できるかな? 結婚したら、家族になれるって言うから。
私は二人の、家族になりたい。
そのためには、もっともっと自分を磨かなきゃ。
家族っていうのは、本当にピンチになった時に助け合うんだって、パパが言ってた。
「そういえば、お姉ちゃんがなんか杏月のこと、怖がってたんだけど……どうしたの?」
うん。そうだ。そうしよう。
もう一度戻って来たその時こそ、今度こそ本当に。
人生すべて、思いどおりだ。
「――ううん。なんでもないっ」
ついでに、あいつの好きにもさせない。
なんてね。